伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

『笑っていいとも!』終演に寄せて

2014年04月02日 | エッセー

 『笑っていいとも!』が終わった。同番組やタモリについては、何度か禿筆を呵してきた。佶屈聱牙な駄文の数々に赤面のいったり来たりだが、臆面もなく再録しつつ本ブログとしてもピリオドを打っておきたい。

 先ずは本ブログ開始直後、“警句”に触れた。
〓タモリ、時として警句を発する。徹夜で飲んでいたといって、「笑っていいとも」に出てきた。番組が始まって、1・2年のころだ。ほとんどヘベレケ状態、呂律も回らない。案の定、抗議が殺到した。そして明くる日。開口一場、史上最高の『警句』が発せられた。 
  ―― 『お前ら、白面でテレビなんか見るな!!』
 我が意を得たり! 立ち上がって快哉を叫んだ。よくぞ言ってくれた。くすぶっていた鬱憤が一気に晴れた瞬間だった。以来、より深く、さらに強く氏を敬愛するようになった。
 そうなのだ。たかがテレビなのだ。所詮バラエティーだ。大仰に目くじら立てるほうがおかしい。ワイドショーなるものが最盛期を迎えようとしていたころだった。頼みもしないのに、河原乞食風情が国民の代弁者のようなツラをして得意然と講釈をたれていることに辟易していた。テレビがうとましくなりはじめていた当方にとって、それは痛快この上もない一言だった。〓(06年5月「白面はいけません!」から抄録)
 他にも、「嫌いな言葉は“努力”」などがある。このピカレスクを昼の帯に載せたところに当番組の肝があった。案の定、早速ショートしたのが件の警句だった。

 爾来6年後、当時感じつつあった“変調”を取り上げた。
〓中居なんという小僧はどうでもいいが、まさかタモリまでとは、あきれけーって二の句が継げない。
 フジテレビ『タモリ・中居のコンビニでイイのに…!』──ドラマチック・アウトドア。4月9日(月)夜9時から11時18分まで放送された。
 筆者はスポンサーではないから文句を付ける筋合いはない。だが、6000万タックスペイヤーの1人として、電波という公共財の無駄遣いには異を唱えてもよかろう。
 だらだらと延々2時間余。とてもじゃないが、番組の名には値しない。2時間余とは、筆者がその長丁場見ていたわけではない。それならボケの始まりか終わりだ。番組表から知ったのであり、アタマだけを見てすぐにリモコンを床に叩きつけた。……といえばカッコいいが、その振りだけをしてそっと赤い電源ボタンを押した。
 番組の宣伝、美食、飽食、饒舌、およそ無意味な与太話、楽屋落ちのネタ、裏話、当たり障りのない相関図、生放送によるドタバタや失言、芸人たちの上下関係などが、軽い多幸症的雰囲気の中でズルズルと送り続けられる。与太番組の典型である。といって、番宣を軸に視聴率を稼げるアイテムをてんこ盛りにしたしたたかな計算も窺える。
 かつてタモリは「白面でテレビなんか見るな!」と名言をはいた。あの開き直りと挑発、本質の諧謔は、どこへいったのか。銘酒を遣りながらにせよ、こんなモノではほろ酔いどころか悪酔い、二日酔いは必定だ。『白面で見てはならないテレビ』の旗手だったタモリは、もはや消えたのであろうか。歳を食っただけ、好々爺に成り下がったのだろうか。
 穿っていえば、年老いてなお老練な『白面で見てはならないテレビ』を送っているのかもしれない。新手のそれだ。ならば納得だが、アバタもえくぼに過ぎるか。
 タモリがデビューしたてのころ、大橋巨泉は「あんな座敷芸がテレビで通用するわけがない!」とこき下ろした。巨泉はテレビがすでに「座敷」にあることに気づいていなかった。巨泉の不明であった。今や座敷どころか所構わず、である。夕餉を覗きに、本当に座敷に上がり込んでくる野放図な落語家崩れまでいる。テレビのフレームワークそのものが座敷化しているのだ。となれば、お笑い芸人の跳梁、跋扈は得心がいく。だって、テレビは「お座敷」なのだから。ということは、お座敷に御酒は付き物である。白面でなんか見るのは野暮、下衆の極みになる。やっぱり「白面でテレビなんか見るな!」だ。蓋し名言は時代を超える。〓(12年4月「タモリよ、どうした!?」から抄録)
 『いいとも』は、当初ちょいの間のつもりだったそうだ。そういえば、タイトルもテーマソングもいかにもブリコラージュの風(フウ)がある。ところが案に相違して“お昼の顔”になってしまった。それも30年。むしろ変調しない方がおかしいともいえる。ピカレスクは「お座敷」の日常性に絡め取られるほど退潮した。「タモリよ、どうした!?」──稿者は変調に、終焉の予兆を捕らえたのかも知れない。

 1年半後、ヒット中の「タモリ論」(樋口毅宏著、新潮新書)に触発されて“心性”を綴ってみた。
〓同書になかった点について愚慮、私見を書きなぐっておきたい。
 『坂』についてだ。
 「日本坂道学会」、おふざけの会ではない。真面目な研究会だが、自称の学会で会員は二人。タモリは副会長である。「タモリの坂道美学入門」という著書もある。NHKの『ブラタモリ』でも、坂の話題になると異様に元気だったのが記憶に新しい。なぜ『坂』にアディクトするのか。
 上掲書が指摘するタモリの「孤独」と「狂気」。そのバランサーが『坂』ではないか。
 いうまでもなく「孤独」はタモリの芸を裏打ちしている。諸説あるが、“グラサン”はお笑いの裏に隠し持った「孤独」ないしはシニシズムを気取られないためのペルソナにちがいない。「狂気」は希釈し小出しにするとタモリの持ちネタになる。イグアナだ。たけしのような出し方はしない。たけしの亜流は本人を含め、誰も望まない。
 しかし当人の中では二つのモチベーションは常に拮抗しているのではないか。有り体にいえば、股裂き状態だ。そこに登場するのがオタクだ。坂である以上、上りと下りがある。どちらに立ってどちらに向かうかは別にして、上位と下位を結ぶものとして坂はある。「孤独」と「狂気」をいずれに配するかはさておき、心性における位階差を地上に落とすと坂になるといえなくもない。そう措定すると、あのアディクションには合点がいく。幻想における血みどろの果たし合いをピットに落としてスポーツにしてみたり、ディスプレイに落としてゲームにしてみたり、そのようにして人はただならぬ心性を包(クル)んできた。それをタモリはより知的に昇華している。そう視たい。一ファンの舞文曲筆ではあるが。〓(13年8月「舞文 三題」から抄録)

 そして昨年12月である。終演の“理由”についてドクサを述べた。
〓来年3月、タモリが『笑っていいとも』を降りる。半年も前からえらい騒ぎである。それほどタモリの存在は大きい。稿者は初回から観ている。まあ半年も続かないな、という印象であった。それがなんと31年にも及ぶ長寿番組となった。降りることより、それ自体が事件だともいえる。
 博覧強記、万般に造詣が深くなんでもこなす。エロくもあるがエラくもあって、笑いにかけては当代随一。私生活は堅実で、ヘマはこかない。巨泉をすっかりオーバーライトしてしまったのがタモリであった。座敷芸は見事にメジャーとなり、タモリ自身もエスタブリッシュメントとなった。降板の真因とは、実はそれではないか。酒宴の座敷が日常化すると、褻にも晴にもとはいかなくなる。「晴」が異を唱える。
 褻に居着くテレビメディアは容易に「晴にも」浸潤する膂力を持っていた。まさに褻にも晴にも、である。「晴」に位置する(とされる)NHKにも(さらにはEテレにまで)お笑い芸人が頻出するのはその好個の例だ(お笑い番組ではなく)。先鞭はタモリがつけた(こればかりは巨泉もなし得なかった)。
 当たり前の話だが、芸人にも意外な側面や能力がある。如上の「巨泉をすっかりオーバーライトしてしまった」『タモリ』が量産されるに至った。何とかオタク、タレント擬き、歌手擬き、俳優擬き、アンカーマン擬き、コメンテーター擬きなど、芸を売らない芸人の(あるいは元芸人の)独壇場である。果ては、芸人による芸人のための芸人の隠し芸大会や、のど自慢、物まね大会、楽屋話、与太話の類いが際限もなく繰り返される破目となった。中には家族まで闖入して馬鹿騒ぎするものまである。オーディエンスとの敷居は無きに等しく、芸能界の内もボーダレスになっている。挙句、笑いの芸は果てもなく劣化しつつある。繰り返すが先鞭はタモリがつけ、『笑っていいとも』がゲートウェイとなった。
 言うまでもないが、職業の選択は自由である。貴賤もない。しかし自らの生業に対する自覚は不断に必要ではないか。吉本隆明の以下の言は、依然として重い。
◇芸能者の発生した基盤は、わが国では、支配王権に征服され、妥協し、契約した異族の悲哀と、不安定な土着の遊行芸人のなかにあった。また、帰化人種の的な<芸>の奉仕者の悲哀に発していることもあった。しかし、いま、この連中には、じぶんが遊治郎にすぎぬという自覚も、あぶくのような河原乞食にすぎぬという自覚も、いつ主人から捨てられるかもしれぬという的な不安もみうけられないようにおもわれる。あるのは大衆に支持されている自己が、じつはテレビの<映像>や、舞台のうえの<虚像>の自己であるのに、<現実>の社会のなかで生活している実像の自己であると錯覚している姿だけである。◇(「情況」より)
 かつての島田紳助は「錯覚」の典型であったろうし、みのもんたも同類である。似たり寄ったりの手合は後続しつつあるし、芸能界に「錯覚」は瀰漫しているともいえる。今や「自覚」をもつ者は希少種となっている。
 ここからが欲目である。
 「座敷芸は見事にメジャーとなり、タモリ自身もエスタブリッシュメントとなった」事況を、彼はリセットしようとしているのではないか。いや、「リセット」は正しくないかもしれない。自らが領導した芸能シーンがあらぬランナウェイを始めた。もう彼には止められない。超えることはなおできない。となれば、ごめんなさいとドロップアウトするほかはない。『タモリ』を脱するに如くはない。看板番組を畳むのはそのためだ。〓(13年12月「脱タモリ論」より抄録)
 まったくの臆見である。ラストのパッセージは面面の楊貴妃でもある(カマではない。念のため)。

 最終回特番は瞬間で33パーセント強の生特番最高視聴率を記録した。稿者は昼も夜も、義理を立ててすべて見た(何の義理だか判らぬが)。夜の部では、最後の週間レギュラー陣が感謝の言葉を述べるという企画があった。ステージに立つタモリに向かい合って語りかける。まるで生きながらの弔辞だ。まあ、タモリもよく耐えたものだ。一番らしくないシチュエーションで、一番らしくない応対をする。ピカレスクにとって最も残忍な仕打ちだ。その中で唯一光ったのが太田 光ではなく、その相方の田中裕二だった。彼は、約めると「32年間もやってて、タモリさんは毎回テレてましたね。これだけやってて、慣れないところがすごい! だから長続きできたんですね」と語った。これは達見である。慣れないからこそ長続きできた。茶の間に闖入したピカレスクがテレないわけがあるまい。場違いもいいところだ。居心地が悪いから慣れようにも土台ムリだ。だから番度新鮮だったともいえる。タモリの本性をこれほど適確に捉えた寸評を知らない。田中裕二に喝采だ。
 テレといえば、吉永小百合からのプレゼントを受け取った際のあられもない赤面。第1回のテレフォンショッキングは桜田淳子だった。その時以来、稿者は最終回は吉永小百合にちがいないと睨んでいた。タモリが熱狂的なサユリストであることはつとに有名だ。ところが予想は外れ、たけしだった。夜の出演予定も映画撮影のためテレビ中継となった。それでも、画面越しでさえテレまくる。「タモリよ、どうした!?」ではなく、「タモリよ、やっぱり!?」である。
 ともあれ、番組終了に何の感慨も抱いていないのはタモリ自身であることは確かだ。逆説めくが、でなければ32年間も続くはずがない。
 かくなる上は、
  〽頭につまった
   昨日までのガラクタを 処分処分〽
 した『脱タモリ』を俟つとしよう。 □