伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

富岡製糸場 世界遺産へ

2014年04月30日 | エッセー

 「富岡製糸場 世界遺産へ」のニュースに接した時、「女工哀史」はどうするんだと、疑念が湧いた。
 富岡製糸場は維新直後に当時の花形産業のパイオニアとして官立された。フランス人が指導し、労務面でも時代に先駆けて充実していた。1日8時間労働、夏冬の長期休暇などを定めた就業規則があり、病院も備えていた。福沢諭吉の書翰に「富岡行の工女一同 無事一昨十八日 着京」とある女工たちも元武家や官吏の処子で、全国への技術伝播を託されたエリートであった。だから、「女工哀史」とはまったく趣を異にする。
 「哀史」の女工は貧農層の子女であり、労働は劣悪を極めた。戸主が受け取った約定金という名の借金を返すために働いた。貧困対策を逆手に取り、富国強兵に駆り出された消耗品としての労働力であった。『あゝ野麦峠』の世界である。今でいうブラック企業の走りかもしれない。富岡と岡谷では、雲泥の差があった。
 世界遺産にケチをつけるつもりはない。ただ、日向にだけ目を向けていては片手落ちではないかといいたいのだ。日陰にも時代を生き抜いてきた息遣いがあり、魂の刻印がある。両両相俟って人類の遺産は成るはずだ。少なくとも、そう想像や知見を及ぼすことは先人への礼節ではなかろうか。
 社会学者の濱野智史氏が、先日24日の朝日新聞で次のように語っていた。
◇政治家、特に安倍首相とその側近たちの妄言が相次いでいる。その多くが歴史認識問題や憲法解釈をめぐるものだが、筆者が特に気になったのは、首相が観桜会で詠んだという次の句である。「給料の 上がりし春は 八重桜」。確かにこの首相の句がまずいのは「日本人の大半が正規雇用者であり、春闘を通じて給料が上がった」と考えているようにしか見えないことだ。この句を見たら、例えば非正規雇用の立場にある多くの人がどう思うのか、どうやら全く視野に入っていないのである。これは由々しき事態だ。
 政治家の妄言は今に始まったことではないが、あまりに知的レベルが低いとしか思えない発言が連鎖する現状を、どう考えたらいいのだろうか。(略)それは彼らが「世界」を失っているからなのだ。◇(政治家の妄言と「世界」喪失)
 その「世界」とは、
「ポリスのような小規模な地域の『現場』、自分の言動が人々に常に見られ、記憶され、後世に受け継がれていくと実感できる『世界』に関わること」
 と述べている。ひょっとして作為かもしれないという留保はつけつつも、「あまりに知的レベルが低い」首相の駄句は如上の「片手落ち」と軌を一にするような気がしてならぬ。「例えば非正規雇用の立場にある多くの人がどう思うのか」などという想像力はすっぽりと欠落してる。『現場』を見失った、『世界』の喪失だ。
 「『世界』遺産」に「世界」が欠損しては元も子もない。「女工哀史」も忘れない世界遺産であってほしい。そう切に願いたい。
 下げてばかりでは「片手落ち」だ。上げてもおこう。以下、毎日新聞から。
〓富岡製糸場が創業当時の姿をほぼそのまま残して保存されてきたのは、民間に払い下げられた後、1939年に経営を引き継いだ繊維会社「片倉工業」の存在がある。87年の操業停止後も当時の経営者は「売らない、貸さない、壊さない」の3原則を掲げ、2005年に富岡市に移管するまで、億単位の維持費を毎年負担してきた。世界遺産登録勧告を受けて、岩井賢太郎市長は「製糸場をしっかり守ってくれた片倉工業に心から感謝とお礼を申し上げたい」と述べた。〓
 片倉工業株式会社。今は蚕糸事業から撤退し、不動産運営・賃貸、機械製造販売、繊維製品の製造販売を業としている。創業100年に及ぶ老舗企業である。自腹を切って遺産の維持に努めた。立派な会社ではないか。企業メセナの鑑ともいえる。
 実は、わが街にその名を冠した「片倉通り」がある。かつて片倉工業が富岡以外に全国展開した紡績工場の一つがあった。猛烈な工場誘致が実り、戦争の数年前に操業を始めた。最新式の設備を揃え広大な規模を誇ったが、戦時中に軍部に接収され造兵廠にされてしまう。大砲などの薬莢を造っていたらしい。戦後復活し、多くのうら若き女性たちが寮生活を送る賑わいが戻った。だがやがて産業構造の変遷に伴い斜陽し、ついに昭和60年代に撤退。今は面影の一つとてない街衢に生まれ変わっている。残っているのは、その昔工場を取り巻いていた冠道路だけだ。工場と道路とを一対にして記憶に留めているのは、もはや団塊の世代が下限かもしれない。しかし、名は残った。
 作家のカズオ・イシグロ氏が生物学者の福岡伸一氏との対談で、こんな言葉を投げかけている。
◇(アメリカの作曲家のある作品を取り上げ・引用者註)物語の終わり近く、キャシーはこういいます。「私はルースを失い、トミーを失いました。でも、二人の記憶を失うことは絶対にありません」。記憶とはそのような作用をするものだと思います。つまり記憶とは、死に対する部分的な勝利なのです。私たちは、とても大切な人々を死によって失います。それでも、彼らの記憶を保ち続けることはできる。これこそが記憶のもつ大きな力です。それは、死に対する慰めなのです。◇(木楽舎「動的平衡」から)  
 「記憶とは、死に対する部分的な勝利」とは、実に味わい深い。人が亡くなり、事物が失せる。ひとつとして無常ならざるものはない。万物の流転に抗い得るものがあるとすれば、それは「記憶」にちがいない。その有力な便(ヨスガ)こそ、名を冠することではあるまいか。名は体を表すという。かつ、名は体を残すといえなくもない。
 もとより遺構もなく富岡とは歴史が格段に違うとはいえ、ふと足許の遺産に立ち止まり往事を偲んでみたくなった。 □