伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

再度 小保方、ガンバレ!

2014年04月11日 | エッセー

 欲目ではなく、実に堂々とした立派な会見であった。NHKは夕方のニュースで、「冒頭、原稿を読み上げて・・・・」とアナウンスしたが、それは明らかな間違いだ。何度かテーブルに目は落としたものの、ノー原稿で正面を見据えての発言であった。もちろんプロンプターなどありはしない。おそらくNHKは事前に用意したニュース原稿をそのまま使ったのだろう。不用心にも程がある。衆人環視の中、妙齢ゆえに臆する余り言葉に詰まるのを警戒するにちがいないという先入主があったのか。それが、「原稿を読み上げて」と筆を曲げさせたものであろう。アタマにへんてこりんなのが座ると、末までおかしくなるか。
 あっちでもこっちでも訳知り顔のコメンテーターなるものが、『誰かが代わりに言いそうなこと』を捲し立てている。『優しさや度量』のある発言など皆無だ。本邦はいつからこんな窮屈な按配になったのだろう。3日の本稿で語った通りだ。
 それにしても、頭がくるんくるん回転して言葉を賢明に選び分けながらの見事な応答であった。肚が据わった、まことに高高とした応戦であったといえる。
 ある情報番組でアンカーが「理研がせっついた研究発表だったのに、なんだか可哀相だった」と発言したのを受けた解説の先生が、「それは次元が違う。科学的証明とは話を分けて考えなければいけない」と宣っていた。これには呆れた。学会の発表会でもあるまいに、超最先端の専門的知見が記者会見ごときで披露できるはずはない。専門用語を繰り出せば、煙に巻くなの怒号が浴びせられるのは必定だ。会見は、事の成り行きを説明するために開かれたものだ(会場費は小保方女史の自腹だそうだ)。学者同士の、学問上の質疑応答ではない。件の先生は一見正論に聞こえて、実は会見の意味を『分けて考え』られない無思慮を晒している。木に縁りて魚を求む。駄々っ子にちかい。この程度の知的レベルが世をミスリードする。やはり、テレビは怖い。
 会見で、耳を欹てた『典型的な』遣り取りがあった。以下の通りである。(毎日新聞から)

Q これより強い証拠がある? これでアカデミアは納得する?
弁護士 証拠に関しては、不服申し立ての準備を始めたのは3月31日以降。それまで準備をしてきたかというと、してません。わずか1週間で準備しました。・・・・
Q アカデミアの常識に照らしてどうか、小保方さんに伺いたい。
小保方 証拠が用意できるかどうかに関してでしょうか?
Q この証拠が、アカデミアの人間にとって納得いくかということ。
小保方 室谷先生との相談で、今回は調査が不十分と示すための不服申立書になっていると思います。これから実験的な証拠に関しては、私としては用意できると考えていますが、第三者が見て納得できるものでないといけないので、それに向けての準備を進めていければと思います。

 若い記者だった。詰問調で早口、嫌に居丈高だった。この記者クン、何か勘違いをしてないか。まずは、内田 樹氏の高説を徴したい。
◇「とりあえず『弱者』の味方」をする、というのはメディアの態度としては正しい。けれども、それは結論ではなくて、一時的な「方便」にすぎないということを忘れてはいけない。何が起きたかを吟味する仕事は、そこから始まらなければならない。僕はメディアはそのことを忘れているのではないかと思います。
 社会的責務を基礎づけるロジックをメディア自身がきちんと把握していない。そこが問題なのです。なぜ、メディアはとりあえず弱者の味方をしなければいけないのか。メディアはその問いをたぶん自分に向けたことがない。そうするのが当たり前だと思っていて、惰性でそうしている。そういう種類の思考停止のことを僕は先に「知的な劣化」と呼んだのです。裁判では「推定無罪」という法理があります。同じように、メディアは弱者と強者の利害対立に際しては、弱者に「推定正義」を適用する。これがメディアのルールです。「同じ負荷をかけた場合に先に壊れるほう」を、ことの理非が決するまでは、優先的に保護する。でも、「推定無罪」が無罪そのものではないように、「推定正義」も正義そのものではありません。弱者に「推定正義」を認めるのは、あくまで「とりあえず」という限定を付けての話です。個人が学校や病院と対立したときに、メディアがとりあえず個人の側に肩入れすることは適切な判断です。けれども、それは理非が決したということを意味しない。理非を決するための中立的でフェアな「裁定の場」を確保したというだけのことです。しかし、メディアはいったんある立場を「推定正義」として仮定すると、それが「推定」にすぎないということをすぐに忘れてしまう。「とりあえず」という限定を付した暫定的判断であることを忘れてしまう。
 検証の過程で「正義ではなかった」ということが起きる可能性はつねにある。「よく調べたら、この『弱者』の言い分には無理があります」と後になって認めたにしても、それは少しもメディアの公正さや洞察力を傷つけるものではないと僕は思います。ぜんぜん構わない。「推定正義」を適用して、とりあえず弱者に肩入れするのはメディアの本務の一部なんですから。でも、メディアは「つねに正しいことだけを選択的に報道している」というありえない夢を追います。この態度は病的だと僕は思います。◇(「街場のメディア論」から)
 医療事故やいじめ問題の報道に関する論攷である。援引の肝は『弱者』である。いつもながらのマスコミによるマッチポンプの側面を割り引いても、『弱者』は誰か、明白だ。
──「同じ負荷をかけた場合に先に壊れるほう」──
 は子供だって解る。
 件の記者クンは、
──「とりあえず『弱者』の味方」をする、というのはメディアの態度としては正しい──
 という基本の「き」を踏んでいない。したがって、
──弱者に「推定正義」を適用する──
 という「メディアのルール」に反している。さらに、この論究が奥深いのは後段である。
──検証の過程で「正義ではなかった」ということが起きる可能性はつねにある──
 のだから、「推定正義」は「暫定的判断」である。だから撤回しても、
──少しもメディアの公正さや洞察力を傷つけるものではない──
 ことに理解が及んでいない。つまりは、彼(カ)の記者クンは
──メディアは「つねに正しいことだけを選択的に報道している」というありえない夢を追い──
 続ける、絵に描いたような「知的な劣化」を地で行く凡庸な記者である。頼まれてもいないのに(きっと)、「アカデミア」を連発する彼の『正義感』にこそ、稿者はまっさきに「推定正義」を適用してあげたい。
 余談だが、彼女のペーパーで気になるところがある。ワープロ打ちした文書の、読点がカンマになっている。以前のコメントもそうだった。理系だからそのあたりにはぞんざいなのかもしれない。最近はネットでもよく見かける。世の大勢ともいえるが、稿者などは生理的に違和を感じる。才媛のご愛敬ととれば一興かもしれぬが、いかな才女とて『万能』ではないらしい。
 今日の朝日はトップに、次のように報じた。
〓STAP(スタップ)細胞の論文問題で、理化学研究所の小保方(おぼかた)晴子ユニットリーダーの指導役の笹井芳樹氏(52)が朝日新聞の取材に「STAPはreal phenomenon(本物の現象)だと考えている」とこたえた。小保方氏の現状については「こうした事態を迎えた責任は私の指導不足にあり、大変心を痛めた」と心境を説明した。来週中に会見を開く方針。〓
 デビ夫人以外にも、強力な助っ人が現れたやもしれぬ。改めて、エールを送りたい。
 小保方、ガンバレ! □