級友にして旧友との談偶々、日本史上お決まりのアポリアに話柄が及んだ。「天皇はなぜ存続し得たのか。覇者がその地位を奪取しなかった理由はなにか?」と、彼は詰め寄った。経緯ではない。ドラスティックな要因を知りたいと──。
内田 樹氏はこういう。
◇歴史には無数の分岐点、転轍点があって、わずかな入力の変化で歴史はどう変わったかわからない。「『起きてもよかったこと』はどうして起きなかったのか?」というふうに問題を立ててみることも必要ではないかと思うのです。(「街場の中国論」から)
歴史に「もしも」を入れるのは大切な頭の訓練法です。そのときに「起こったかもしれないのに起こらなかったこと」は「なぜ起こらなかったのか?」を考えるのはできあいの「物語」の風通しをよくするためにはとても有効な方法です。(「街場のアメリカ論」から)
現在から過去に向かって遡行しながら、そのつどの「分岐点」をチェックして、「どうしてこの出来事は起きなかったのだろう?」というふうに考えてみる。そういう「選ばれなかったオプション」について歴史の教科書は決して言及しません。(同上)◇
彼は「歴史の教科書は決して言及」しない問いを発している。アポリアはお決まりだが、正答はお決まりではない。だが、話の穂は継いでおきたい。糸口に、気鋭の歴史学者の言説を徴してみたい。與那覇 潤氏。12年2月の拙稿「平成の『大鏡』?」をはじめ、何度か触れた。その折、
〓「中国化する日本 日中『「文明の衝突』一千年史」(文藝春秋)──「宋朝型社会」と「江戸時代型社会」との対比から日本近現代史を俯瞰するものだ。怖ろしく斬新で知的カタルシスに満ちる。私はこれを、『鷲づかみ日本史』と名づけたい。〓
と、オマージュを呈した。先学である東島 誠氏との対談集『日本の起源』(太田出版、昨年9月刊)から引く。
東島氏が「王権あるいは統治システムの二重性についてですが、それ自体は別段、特殊日本的というわけでもないように思うのですが」と提起したのを受けて、次のように語る。
◇なるほど。たとえば中世ヨーロッパにおける教皇と皇帝のように、むしろ分かれているほうが普通だと考えてみるわけですね。単なる聖俗の役割分担なら、天皇制以外にもいくらでも事例は探せる。逆に、中国のようにどちらも独占してしまう人が出てくるほうが、じつは特殊なケースなのだと。◇
中国が特殊で日本が普通とは、前者が宏大な国土と多民族を麾下に束ねた特異性を勘案すれば納得がいく。むしろ後者が「いくらでも事例」のある一般則だとすると、旧友が措定した『起きてもよかったこと』と「選ばれなかったオプション」とは特別にレアなケースというほかない。問題の立て方が逆になる。極めて稀な『こと』と『オプション』がごく普通に起きなかっただけ、といえなくもない。
続いて、「バッファー(=緩衝帯)」をキー・コンセプトに論攷が進む。
◇武家政権の成立過程を見ると、こういう父(先代)と息子(当代)のように時間軸を重ね合わせてバッファー期間を作るのではなく、頼朝や尊氏のように、同世代の二人の有力者(兄弟)で役割分担をすることがある。これはむしろ、天皇(大王)さえ最初は有力豪族の輪番制だったと見られるとおり、人間が権力集中を嫌うことの表れかもしれない。いきなりひとりがぜんぶ独占すると反発が来るので、二人で分掌して相互に牽制しているから大丈夫ですよというかたちでごまかして、だましだまし統合しつつ最後は片方を切り捨てる。そういうタイプのバッファー機能もあるように思います。◇
「人間が権力集中を嫌うことの表れ」とは、一つの有意なアンサーかもしれない。いかな独裁政権であろうとも服わせるためには、自らのオーソドキシーを開示せねばならない。「アカウンタビリティ」である。どこかの国が十八番にするど派手なパフォーマンスや巨大な銅像、繰り返される“将軍”神話の数々も、すべてアカウンタビリティの構築である。蓋し、抜き差しならぬ問題だ。
◇中国であれば、儒教の理念と科挙の競争原理で徹底的なアカウンタビリティを構築しているから、皇帝単独支配でも問題ないのですが、日本ではそうはいかなかった。「なぜ武家政権ができても天皇家は滅ぼされないのか」という定番の疑問も、同様の角度(前段を受けて、バッファー機能・引用者註)から考えられるのではないでしょうか。いわば天皇そのものが、ずっと日本の社会制度のなかでバッファー状態になっていると。
最初はわりと実力次第なところがあったのに、あとから血統によるアカウンタビリティを作って、系譜づけすることで起源の神話が創作される。儒教の本場である中国は、科挙を導入して道徳によるアカウンタビリティを人工的に構築する官僚制に帰着したけれども、日本の場合は系譜に沿った世襲、という一見自然らしく見えるアカウンタビリティのみに依存してきた。そういう古代以来の文脈が効いているのではないでしょうか。◇
與那覇氏は「定番の疑問」に対し件のキー・コンセプトを挙げる。「天皇そのものが、ずっと日本の社会制度のなかでバッファー状態になっている」という。そのオーソドキシーは「系譜に沿った世襲」であり、その「一見自然らしく見えるアカウンタビリティのみに依存してきた」という。『日本の起源』に纏わる核心部分だ。深遠でスリリングな考究が展開されていく。中身は同書に当たっていただくほかないが、「血統によるアカウンタビリティ」が王権の常道ではあっても、永きに亘って崩れなかった史実は極めて特異ではある。
着目すべきは、「古代以来の文脈が効いている」というところだ。なぜ、効くのか。「古代以来の文脈」とは昨年5月拙稿『メルヘン?』で、「人は小さな嘘には欺されるが、大きな嘘には酔う」と述べた神話を泉源とする「文脈」であろう。さて、「効く」、だ。別の著作で、與那覇氏は社会学の視点として「再帰性」について語っている。
◇認識と現実のあいだでループ現象が生じることを、社会学の用語で「再帰性」と言います。
「当初の誤った考え」がリアルになる。最初は間違った認識であっても、その認識を前提に人々が行動すれば、その誤った認識に合わせて現実の方が書き換えられてしまうのです。
人間の社会はそもそも、再帰性を活用しなければ成り立たないものであることがわかります。再帰性は貨幣経済のような利便性も、人種偏見のような罪悪も、どちらももたらす両義的な存在ですが、しかしなくすことはできない。それは、複数名で集合的に行為しながら生きていかざるをえない人間の、いわば宿命のようなものなのです。この「社会のあらゆる現象は再帰的に作り上げられるものであり、最初から実体として存在するわけではない」という前提に立つ視点が、社会学の基本的な方法論です。
「伝統」は、たしかに再帰的な現象ですね。みんながある行為を「昔からの伝統だ」と認識することによって、それが本当に伝統として継承される。そのように、現状を固定するかたちでのみ再帰性が機能している状態を、社会学では「前近代」とみなします。◇(集英社「日本人はなぜ存在するか」より)
再帰性の不活性をもって「前近代」との分水嶺とする。達識ではあるまいか。ならば「瑞穂の国」「神の国」と宣うて憚らない面々は、未だ分水嶺の彼方に止(トド)まっていると断じてよかろう。
『日本の起源』で、與那覇氏はこう括っている。
◇もし後醍醐のギラギラ路線が主流で、中世の天皇家が衰微してなかったら、天皇という制度はとっくになくなっていたでしょうね。平安京が早々と荒廃して以来、天皇制は衰微しているからこそ生き残れる王権だった。これは、中国皇帝との決定的な違いですよね。圧倒的な富と権威があるから、みんながしたがうわけではない。その点でまさに、紫禁城(明・清朝の王宮。現在は故宮博物院)と皇居は宿命の対比ですね。共産党が勝った中国では、毛沢東が紫禁城を博物館にして使ってしまう。対して日本では幕末の内戦以来、江戸城の焼け跡に天皇家が住んでいて、だからこそ太平洋戦争後も生き残った。◇
「衰微してなかったら、天皇という制度はとっくになくなっていた」「衰微しているからこそ生き残れる王権だった」 このパラドキシカルな理路はアポリアの肝を見事に抉っているのではないだろうか。
これで旧友への回答になったであろうか。はなはだ自信がない。エドワード・ローレンツが気象研究から導出した「バタフライ効果」を援用すれば、始原での極小のインプットが歴程をドラマティックに変えるといえよう。それにしても、蝶はなぜ羽搏いたか。蝶の属性に来由したにちがいはないが、「いつ、どこで」とはドラマだったといわない限りトートロジーに落ち込むほかない。
かつて小林秀雄は湯川秀樹との対談で、「偶然」についてこう語った。
◇たとえば、屋根から石が偶然に落っこちてきてある男が死んだ。そういうときに使われている偶然という考え方でも、石という物理学的な物性の運動だけを考えているわけじゃないので、石にある人間的な意味を持たして考えているのです。持たすから偶然という一つの感じ……一つの生活感情が生じます。石が落ちて怪我をしたか死んで了ったかという問題は、物理学的には同じ偶然性の問題だが、人間の偶然感にとっては大きな違いが出て来る。落ちて来た石は、その人の運命の象徴なのです。だから偶然という言葉が出てくるのじゃないか。◇(新潮文庫「直感を磨くもの」から)
「物性の運動」にも「人間的な意味を持た」せる。つまり、「物理学的」偶然が「人間の偶然感」に変位する。「劇」はそこから生まれるのではなかろうか。というより、劇にしなければすべてが「物理学的な物性の運動だけ」に帰一され人間は立つ瀬を失う。寸土も生きていく地面がなくなるではないか。
持つべきは友。「定番の疑問」が恰好の「頭の訓練法」に誘(イザナ)ってくれた。 □