伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

アウトソーシング

2014年04月22日 | エッセー

 先日、親戚の葬儀に馳せ参じた。大都市近郊の壮麗で宮殿のような葬祭場であった。
 驚いた。
 正面祭壇は溢れんばかりの花々で飾られ、中央に大風な遺影が置かれている。棺はフロアに、祭壇に頭を向けて横たえられている。Tの字の縦の棒に当たる配置だ。それを取り囲むように遺族が腰掛ける。他の会葬者は一段下のフロアに、近親者から順に横に数十列並ぶ。焼香台は棺のこちら側、足下側にある。仏像と僧侶は祭壇上手を少し離れた脇に位置する。
 はじめて見た。このレイアウトはなんだろう。無宗教ではあるまいが、極力宗教色を薄める狙いであろうか。家族葬を基調にしたのかもしれないが、それにしても宗教は見るからに『脇』役になっている。だからであろうか、厳かなBGMに誘(イザナ)われて入場してきた僧侶は淡々と読経のみして説法なしで再び荘重なBGMに送られて退場していった。
 辟易するほど過剰に丁寧な言葉遣い。辞儀は背筋を伸ばして深々と、焼香の案内も膝をついて。制服に身を包んだ何人ものスタッフが粛々と儀式を進めていく。場面場面でBGMが変わり、ライティングまで加わる。星をかたどった天井の照明が点滅しつつ流れる。時に祭壇が色を変えてライトアップされる。
 「人生は……」に始まる、司会による開式前の定番の挨拶。加えて、故人の略歴まで織り込んでいく。更には最終盤で「喪主は気持ちの整理がつきませんので」と、司会が遺族代表の謝辞を代行する(代読ではなく、ステロタイプなもの)。ならば兄弟でも子供でもいるだろうにと腑に落ちぬまま、閉式。喪葬の肝心要は抜け落ちたままとなった。
 出棺に先立って皆で棺に花を入れる。蓋を覆った後、司会の誘導で亡夫が大きな花束を載せる。「皆さま、いよいよご出棺でございます」と司会。ドアがさっと開かれストレッチャーが移動する。なんだかショー化しすぎではないか。スムーズに流れすぎて、気持ちが残らない。そういえば「別れ花」に参列者を漏れなく誘導したっぷり時間を掛けたのは、ショー化して希釈された心情を即物的に補完しようとしたといえなくもない。辻褄合わせだ。
 養老孟司氏の伝でいけば、都市化の先端的な一現象ではないか。都市は自然を駆逐していく。生まれるのは病院。病んだら病院。老いては施設。死ぬのも病院。人生の最重要局面が四つとも日常から隔離される。アウトソーシングである。遂には死した後、葬送儀礼までがアウトソーシングされた。つまりは、そういうことではないか。葬儀業者が簇生して、近隣が関わらなくなって久しい。そして遂には、「悲しみ」までもがアウトソーシングされる。
 小林秀雄は儀礼についてこう述べている。
◇禮は人々の実情を導く、その導き方なのであって、内容を欠いた知的形式ではなかった。もろこしの聖人の智慧を軽蔑しないほうがよい。喪を哭するに禮があるとは、形式を守って泣けといふのではない。秩序なく泣いては、人と悲しみを分つ事が出来ない。人に悲しみをよく感じて貰う事が出来ないからだ。人は悲しみのうちにゐて、喜びを求める事は出来ないが、悲しみをととのえる事は出来る。悲しみのうちにあって、悲しみを救う工夫が禮である。◇(「考へるヒント」~『言葉』から)
 「悲しみをととのえ」、「悲しみを救う工夫」である儀礼が「内容を欠いた知的形式」に堕しつつある。それが「都市化の先端的な一現象」との謂だ。その中で、確かに何かが失われつつある。それは何だろう。喪葬の意味について、内田 樹氏の洞見を徴したい。
◇人間だけがして、他の霊長類がしないことは一つしかない。それは「墓を作る」ことである。今から数万年前の旧石器時代に、私たちの遠い祖先は「死者を葬る」という習慣を持つことで、他の霊長類と分岐した。これは「生きている人間」と「死んでいる人間」は「違う」ということを知ったという意味ではない(動物だって「生きている動物」と「死んだ動物」は「違う」ということくらい知っている)。そうではなくて、「死んでいる人間」を「生きている」ようにありありと感じた最初の生物が人間だ、ということである。「死んだ人間」がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると「感じる」ことのできるものだけが「葬礼」をする。死んだ瞬間にきれいさっぱり死者の「痕跡」が生活から消えてしまうのであれば、葬儀など誰がするであろうか。人間が墓を作ったのは、「墓を作って、遠ざけないと、死者が戻ってくる」ということを「知っていた」からである(フランス語では「幽霊」のことを「戻ってくる者」という意味の言葉で表す)。旧石器時代の墳墓にはしばしば死体の上に巨大な石を載せ、死者が土から出られないようにしたものがある。おそらくは、「戻ってこないように重しを載せる」というのが墓の本義なのだ。人間の人類学的定義とは「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。そして、人間性にかかわるすべてはこの本性から派生している。◇(「街場の現代思想」から)
 都市化の中で、人は「死者の声が聞こえる動物」から次第に遠ざかりつつあるのではないだろうか。疑念が抑え難い。

 鬱懐を抱えたまま会場を後にした帰りの電車の中、ドアの横に貼ってある広告に目が行った。大きく『○○○美容外科』とあり、およそ半分が院長の温和な顔写真。あと半分は住所、電話、診療項目が並ぶ。釘付けになったのは写真の下にあるキャッチコピーだ。
──勇気があれば道は開ける──
 確かにそう書いてある。美容と「勇気」のギャップに堪らず吹き出しそうになった。ひょっとしたら、猪木の「元気があれば何でもできる!」の捩りであろうか。それにしても、このミスマッチはどうしたことか。もしや、勇気は「外科」に係るのか。痛いのをがまんすれば、といっているのだろうか。それも違う。やはり、「勇気」を奮って「美容」の門を叩けと呼びかけている。とすると、「道」とは何か。美人への道か、モデルへの道か。人生逆転劇への道か。百田尚樹が書いた嘔吐を催すほど醜悪な小説『モンスター』がふと連想されて、気が滅入ってくる。それにしても大仰な。むしろ有り体で勝負することこそ「勇気」のような気もするのだが。ともあれ、美容のための『外』科、これこそアウトソーシングそのものではないか。
 ただしこのCMは厚労省が医療機関の広告緩和に際して示したガイドラインの内、「広告を行うものが客観的事実であると証明できない広告」に抵触する恐れは充分にある。勇気を出して受けた美容外科施術が道を開いた「客観的事実」は立証困難であろうからだ。
 傍らの荊妻に「この広告、おかしいよな。なんで、勇気なんだよ」と話すと、「お金のことでしょ」と即答した。「金があれば」といわずに「勇気」と置き換えた、と。身も蓋もないパラフレーズである。やはり、おばさんは即物性の権化だ。生き延びるわけだ。 □