伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

年末のお片付け 2/2

2014年12月09日 | エッセー

 <承前> 

 ⑨ 8月 「下流」から「劣化」へ ── 笠井 潔&白井 聡『日本劣化論』/香山リカ『劣化する日本』
 顕著に劣化が進んでいるのは永田町だ。かといって、越す先はない。みんなで変える? いや、みんなが変わるほかあるまい。

⑩ 8月 「利休にたずね」てみた ── 山本兼一「利休にたずねよ」
 今や名著となった内田 樹氏の『日本辺境論』を徴したい。
◇今、ここがあなたの霊的成熟の現場である。導き手はどこからも来ない。誰もあなたに進むべき道を指示しない。あなたの霊的成熟は誰の手も借りずあなた自身がななし遂げなければならない。「ここがロドスだ。ここで跳べ」。そういう切迫が辺境人には乏しい。日本人はどんな技術でも「道」にしてしまうと言われます。柔道、剣道、華道、茶道、香道……なんにでも「道」が付きます。このような社会は日本の他にはあまり存在しません。この「道」の繁昌は実は「切迫していない」という日本人の辺境的宗教性と深いつながりがあると私は思っています。「日暮れて道遠し」「少年老い易く学成り難し」というようなことがのんびり言えるということは、「日が没する前に道を踏破できなくても、別に構わない」、「学成らぬままに死んでも、特段悔いはない」という諦念と裏表です。「道」という概念は実は「成就」という概念とうまく整合しないのです。私たちはパフォーマンスを上げようとするとき、遠い彼方にわれわれの度量衡では推し量ることのできない卓絶した境位がある、それをめざすという構えをとります。自分の「遅れ」を痛感するときに、私たちはすぐれた仕事をなし、自分が何かを達成したと思い上がるとたちまち不調になる。この特性を勘定に入れて、さまざまな人間的資質の開発プログラムを本邦では「道」として体系化している。「道」はまことにすぐれたプログラミングではあるのです。けれども、それは(誰も見たことのない)「目的地」を絶対化するあまり、「日暮れて道遠し」という述懐に託されるようなおのれの未熟・未完成を正当化している。これはいくつかの「道」を試みてきた私自身の反省を踏まえた実感でもあります。なるほど、「道」は教育プログラムとしてはまことにすぐれたものですけれど、「私自身が今ここで」というきびしい条件は巧妙に回避されている。◇
 これは通念への洪大なオブジェクションである。「『道』は教育プログラムとしてはまことにすぐれたもの」である反面、常に「『私自身が今ここで』というきびしい条件は巧妙に回避され」るモラトリアムにある。辺境ゆえの宿痾か。司馬遼太郎が確か、日本では文化は創れても文明は興せないと何かに書いていた。その背景的事情はたぶんここにある。

⑪ 8月 今これを読まないで、どうする ── 内田 樹「憲法の『空語』を充たすために」
 特定秘密保護法が施行されるのは明日(12月10日)からだ。空腹を充たすためなら、人は万策を講じる。問題の根は空腹感がないことだ。空きっ腹に慣れてしまったのか、病ゆえの不感か。後者だとしたら、危機的状況ではないか。

⑫ 11月 源の在処 ── 浅田次郎「神坐す山の物語」
 『げんのざいしょ』ではない。『みなもとのありか』と力んでみた。“水源の場所”である。浅田文学の因って来る淵源が垣間見られる作品である。

⑬ 11月 腑に落ちない話 ── 富岡幸雄『税金を払わない巨大企業』
 これ以外に財源はどこにもない、というプロパガンダがどれほど刷り込まれていることか。消費増税を呼ばわる前に、その前提に鋭い斬り込みを掛けねばならない。一刀は何か、大きなサジェッションに満ちた一書だ。
 増税延期に内田 樹氏は「国民は猿か?!」と噛み付いた。それでは朝三暮四の逆パターンで、“朝四暮三”ではないかと。流石、論客の快刀は鮮やかに乱麻を絶つ。

 以上13冊、性格は素直なのに、本のチョイスは偏る。支離滅裂でもある。だから、区切りにお片付けをしてみた。 □