伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

「郵便」を考える

2014年12月05日 | エッセー

 先日のこと、荊妻が「ケンベンをトーカンしに、ちょっと出てくる」と言い残して出掛けた。聞き流して数秒後、「えぇー、なんだそれは!」と椅子からずり落ちそうになった。
 仕事の関係で月に一度は検便をしている。それは知っている。だが、それと郵便ポストはどうにも結びつかない。聞き違えか、でなければ世には奇妙な組み合わせがあるものだと思案するうち帰ってきた。訊けば、本当に検査機関に郵送するようにシステムが変わったという。郵便事業の低迷に追い詰められて、日本郵便はついにヤケクソ(失礼)になったのか。勿論極々小さい専用容器に“厳重に梱包”されてのことだが、手間とコストを省いていけばこうなるのかもしれない。「それじゃあ、本当の郵“便”だな」と駄洒落を飛ばしておいて、おもしろそうなので調べてみた。
 「郵」の字源は、旁が村や集落を意味する「阝」、偏の「垂」が辺境を意味する会意文字である。だから「郵」とは国境に置いた伝令の中継所のことであり、そこから伝令や文書を逓伝していく仕組みをそう呼んだ。
 「便」の字源は、「人」と「更」の会意。旁の「更」はぴんと伸ばすという意味の「丙」と動詞の記号である「攴」に分解される。つまり、人および人々がフラットで障害のない様(サマ)を「便」と解してよかろう。だから人びとの場合は「便り」となり、個人においては「便通」となる。
 してみると便りと便通は同類、同根ではないか。さらに逓伝の謂である「郵」が加われば、「ケンベンをトーカン」するになんら不都合はないといえる。むしろ常態かもしれない(それは言い過ぎか)。ともあれ尾籠な話でも、ルーツを辿ればいろいろ判る。
 そこで、もう一っ飛びしてみる。
 養老孟司御大が今年6月刊の『「自分」の壁』(新潮新書)でこう語っている。
◇子どもがよく発する、こんな素朴な疑問について考えてみてください。「口の中にあるツバは汚くないのに、どうして外に出すと汚いの?」なかなか鋭い疑問です。たしかに、口の中にツバがあることは気になりません。でも、ツバをコップに溜めていって、一杯分飲めと言われたら、いかに自分のものでもふつうの人は嫌がります。私も嫌です。どうしてさっきまで平気だったものが嫌になるのか。これにどう答えればいいのでしょう。なかなか、うまい答えが思いつかないのではないでしょうか。
 この答えは、人間は自分を「えこひいき」しているのだ、と考えればわかってきます。人間の脳、つまり意識は、「ここからここまでが自分だ」という自己の範囲を決めています。その範囲内のものは「えこひいき」する。ところが、それがいったん外に出ると、それまでの「えこひいき」分はなくなり、マイナスに転じてしまう。だから「ツバは汚い」と感じるようになるのです。もうお前は「自分」ではない、だから「えこひいき」はできない、ということです。大便や小便についても同じことがいえます。いかに自分の体から出たものとはいえ、便を汚いと思うのがふつうです。しかし、体内にあるうちはその汚さを気にしないのもまた事実です。「あんな汚いものが体内にいつもあるなんて耐えられない」という人は、ちょっと問題があります。水洗トイレが普及したことも、この「えこひいき」とかかわっていると私は考えています。くみ取り式はなぜ消えたのか。経済の成長も要因の一つでしょう。でも、私は、多くの人が「自分」「個性」と言い出したのと、水洗トイレの増加は並行していると思っています。
 「えこひいき」すればするほど、出て行ったものは強いマイナスの価値を持つようになるのです。さっきまで便はお腹の中にあった「自分」の一部だった。その時には別に汚いなんて思いません。でも、出て行った途端に、とんでもなく汚いものに感じられる。早く目の届かないところにやってしまいたい。だからサーッと流してしまえる水洗トイレがいいのです。◇(抄録)
 もう、養老節の大グルーヴである。「意識」偏重の世のありように警鐘を鳴らした件(クダリ)である。「『自分』というものを確固としたもの、世界と切り離されたものとして、立てれば立てるほど、そこから出て行ったものに対しては、マイナスの感情を抱くようになる」とは重く、深い。大きく括れば、西洋流二元論の隘路、ピットホールか。それにしても、「多くの人が『自分』『個性』と言い出したのと、水洗トイレの増加は並行している」とはすげぇー展開、荒技ブレーンバスターの爆裂だ。
 これで話は通っただろうか。例の郵送は、いま一般の健康診断でも使われるそうだ。“便”利といえば、そうかもしれない。しかしどこまでいっても人間の体は不“便”なままの、時として制御不能の自然であることに変わりはあるまい。 □