伽 草 子

<とぎそうし>
団塊の世代が綴る随感録

町“残し”

2014年12月01日 | エッセー

 藻谷浩介氏が対談集『しなやかな日本列島のつくりかた』(新潮社、本年3月刊)で、町の再生に情熱的に取り組む若者たちに触れている。(以下、抄録)
◇「この町をなんとかしたい」と動きだすのは、大抵若い男女です。町が栄えていた頃を知らず、ノスタルジーも抱かない世代なのに、一体何をもって、そう思うのか。
 深い動機として、自分が後世に残すべきものがこのままでは何もない、せめて町を残すことに参加したい、という思いもあるんじゃないか。残すだけの価値のある町を作りたい。
 ただ困ったことに、地方政治のイニシアチブを取っている六〇代以上の男性の多くには、驚くほどそういう感覚が欠けているんです。「自分」の「今」が大事で、未来や子孫に向けた思いなんてない。
 イケイケの兄ちゃんたちの、妙に熱い地元愛。資産保有層の保守ではなく、カネもないけと地域を受け継いで残していこうという保守的なマインドを持っている。近代家族が崩壊しても人間にはやはり何か拠って立つものが必要で、だけど今時、多くの人は、家族や会社か続いていくことを期待できない。国では余りに大きすぎて実感が乏しい。そこで、地域だと思うんです。 自分か死んだ後にも残る、自分の町の歴史の一ページに少しでも手を貸したという実感は、他では得がたいものだと思うんです。だって、身近にありながら自分を超えていく存在って、企業も家族も先行き怪しい今、他にないんですよ。◇
 過疎化が進むわが片田舎にも、「妙に熱い地元愛」をもった「イケイケの兄ちゃんたち」がいる。近年とみに増えた。
 確かにモチベーションに郷愁はない。やはり、町“残し”なのであろうか。「六〇代以上の男性の多くには、驚くほどそういう感覚が欠けている」との指摘は身につまされ、忸怩たらざるを得ない。戦後復興の歩みが挙げて「そういう感覚」とはまったく逆のベクトルの元に駆動されてきた(都鄙を格付けし、鄙から都へあらゆるリソースを収斂して成長がなされた)ことを以て敢えないエクスキューズとしたい。悲しいことに、刷り込まれた価値観は容易に拭えない。
 対談相手の社会学者である新 雅史氏が、「今、徐々に増えている地域にかかわろうとしている若い人たちに対して、一緒に地域の中でアントレプレナーシップをつくっていこうよというふうに提示することは可能だろうし、それを生かせる空間を保持していくのが、上の世代の責任のような気がしています」と締め括っている。これもまた頂門の一針。恐懼するばかりだ。
 同書で、藻谷氏はこうも述べている。
◇日本人は、一神教を生み育てた砂漠の民に比べて、場所というものに対する感度が高い。だから、自分の住んでいる町、地域というものこそ、自分の生を超えて続いていくものだという考え方を、共有しやすいと思うんです。◇
 町“残し”の奥に土着への指向性があるというわけだ。農耕民族のゆえであろうか。このままの出生率で推移すれば3000年代初頭には日本人は消える、つまりゼロ人なるという試算がある。そのような民族的クライシスを予兆して父祖伝来の祖型に範を求め始めたのだろうか。だとすればリニアに農業へいくはずなのだが、「イケイケの兄ちゃんたち」の動きは実に多彩だ。飲食、リフォーム、造園、観光、地誌、芸術、芸能、小規模エンターテイメント、SOHO、村おこしプランナー、行政とのタイアップなど多岐にわたる。それらが「妙に熱い地元愛」から導出されている。小なりといえども、大きな変化を孕んだ動きではないか。
 実は農本的なものに回帰せず、多面、重層的な町“残し”アクションに及んでいるところに「上の世代」の冷淡は起因しているように見える。浅慮に恥じ入るばかりだが、稿者なども当初は彼らの動きを“超ミニ・トーキョー”作りだと等閑視していた。実はそうではない。
 かつて教科書は狩猟採集から農耕へ移行し、定住が始まったと教えた。狩猟採集民は移動、農耕民は定住という図式である。しかし、最新の知見は違う。その逆だ。定住の必要に迫られて農耕が始まったという。また、狩猟採集をしつつ定住していた史実も明らかになっている。
 では、定住の必要とは何だったのか。一つは、間氷期を抜けて極めて住みやすく稔りに恵まれた自然環境になったことだ。人類は初めて生き残りを賭けた移動、移住から解放された。二つ目には、交易の利便のために定住が適していたこと。三つ目には、コミュニティが拡大したことだ。大きな社会を統べ維持するために宗教が生まれ、宗教を維持し祭儀のために農耕が始まったとの有力な仮説もある。供物の食材こそが小麦であり米であったという。ここが面白い(同時に、勘違いしている)ところだが、原初において農耕は決して安定した食料供給源ではなかった。むしろ狩猟や採集がよほど安定していたはずだ。農耕は植物の突然変異という天恵に偶会しなければ実現しなかった食料獲得の術であり、文字通りの自然栽培に等しかった始原において明示的なメリットがあったはずはない。種から収穫までのタイムラグを考えれば、賭けにも等しかったのではないか。試行錯誤の末に定着するまで数千年を要した。いずれにせよ、農耕よりも定住が先だ。土着するために耕作を始めた。しかも農耕に必然性は薄く、偶然に近い選択だった。してみると「イケイケの兄ちゃんたち」が農耕に直帰せず、それも含めて多面で重層的な起動を見せていることは合点が行く。“超ミニ・トーキョー”は管見に過ぎる。
 移動から定住、土着へ。翻って刻下はどうか。如上の要件を満たしているであろうか。大括りすると、世はノマド化している。大はグローバル企業の跋扈(国家に定住せず地球規模で移動)から小はノマドワーカーの誕生まで、モビリティーを格段に増している。特に若者のライフスタイルは定住性を逸して著しくノマド化した。太古の人類が生き残るために、つまりは狩猟し採集するために移動を繰り返した歴程に大きく先祖返りしているといえなくもない。
 だが今、地球規模で自然環境は悪化している。コミュニティは分断され極小化しつつある。ロジスティックの長足の進歩は交易の利便を思慮の外に措いている。一見、振古の定住の三要件から外れる。しかし本当にそうだろうか、愚慮を廻らしてみる。
 日本の都鄙を比すると、鄙には圧倒的に自然があふれている。内田 樹氏は「日本が誇れる国民資源は何よりも豊かなこの『山河』です」と語る。山河は鄙にある。都でのノマドが行き詰まり、急迫する定住の要を受け入れる鄙が相対的にプレゼンスを大きく増したのではないか。都市化の裏をかいて鄙の自然が復権したともいえる。
 コミュニティについては、今「顔の見える共同体」が模索されている。喫緊でかつ持続的な課題である医療、介護、教育(換言すれば、少子高齢化)はコミュニティの規模に関わるアポリアだ。成長を終えた日本が曙光を見出せるとすれば、貨幣経済とは次元を異にする「顔の見える共同体」をいかに構築するかだ。コミュニティ規模の適正化が定住を緊要としているともいえる。
 現今目覚ましく向上した交易の利便性は都鄙の別を無化した。ネット社会の到来と驚異的に進んだロジスティックは全国どこにでも土着できる時代を招来した。
 要するに、ヒトは移動から定住へ、さらにノマドへと向かい再び土着へ。その壮大なうねりの中で、「イケイケの兄ちゃんたち」が奮闘している。人類史といえば大袈裟だろうか、少なくとも本邦史上においては類稀なトライアルではないか。
 振り返ると、07年8月「しもた屋の風景」と題してわが町の衰退を取り上げた。あれから7年、何軒かのしもた屋でシャッターが開き、明かりが点り、店構えが変わり、人が出入りを始めた。「上の世代」がギャラリーであっていい風景ではない。 □