今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

岡崎城に行く

2024年04月04日 | 名古屋周辺

名古屋に来て30有余年。
その間に名古屋城・犬山城・清洲城・小牧城・岐阜城には訪れた。
ところが申し訳ないことに、岡崎城は行かずじまいだった。
しかも岡崎市内の他の名所には行ったのに→岡崎に行く

誰に対して申し訳ないかというと、もちろん神君家康公に対して。

岡崎城は松平氏の本拠地で、家康が生まれた城なのだ(産湯の井戸、胞衣を埋めた跡もある)

ということでまずは岡崎城にと、新年度の授業が始まる1日前で、昨日来の雨も止んで好天でちょうど桜も咲いている今日、
満を持して岡崎城公園だけを目指して、名鉄東岡崎駅に降り立った。


市内の真ん中を東西に流れる乙川(菅生川)の橋を渡って、川べりの道を岡崎城公園まで進む。
公園前の広い河川敷では、ちょうど「桜まつり」の最中で、出店が繰り出している。
考えてみれば平日の昼なのだが、随分と人出が多い(子供は春休み中)。
せっかくなので、薫製フランクフルト(300円)を食べた。

さて、岡崎城公園に入って、石段を登ると城の鎮守である龍城神社があり、その奥に岡崎城の復元天守閣がある(写真)。
桜まつりの一環なのか、周囲の広場では、曲芸やサル回しなどの出し物をやっている。

「三河武士のやかた」との共通券(650円)を買って、まずは岡崎城天守閣に入る。
中では岡崎城の説明だけでなく、岡崎市の歴史や産物の説明・展示もあり、
春休み中の小中学生がたくさん来ている。
最上階に上がると、岡崎市が一望。


ここから園内(城内)を北上し、リニューアルした三河武士のやかた家康館」に入る。
※:実はこの再開を待っていた。
こちらは三河武士と家康に特化した展示で、この館所蔵のオリジナルな歴史的資料なども展示している。
まず強調されているのは、江戸幕府だけでなく、鎌倉幕府・室町幕府も三河武士がバックアップして成立したということ。
まず源頼朝の母がこの地出身で、そのおかげで頼朝はこの地からの支援を受けていたという。
その証拠となるのが、前回訪れた岡崎郊外の瀧山寺

室町幕府を開いた足利氏の一門はこすでにこの三河に展開していて、
この地の今川・細川・吉良・一色・仁木氏らが将軍家を支えた。


そして徳川氏だが、松平家の元康(後の家康)が、なぜ松平をやめて新たに”徳川”と名乗ったのか。
推測するに、松平氏は西三河の土豪(国衆)レベルで、流れは藤原氏。
元康になるまでは三河の一部の支配者レベルだったが、元康になって三河一国を統一した。
すなわち、尾張の織田や駿河の今川らと並ぶ戦国大名になった。
そこで、大名として配下の国衆たちに君臨するには、武家としての正統性が必要。

実は、松平氏の祖・親氏(ちかうじ)は上州新田郡徳川郷(群馬県太田市尾島町)出身の入婿で、
清和源氏(新田氏の分家?)の流れだった。
それを根拠に、入婿の先祖側に立って清和源氏(武家の棟梁家系)としての徳川氏を名乗ったのだろう。
以上は、館内の展示を見ての私の推測。


それにしても家康の半生は壮絶な苦難の連続で、3歳の時実母が離縁されて去り、
その後、6歳から19歳まで織田そして今川氏の人質生活を送り、晴れて一国の大名となってからも、
長年連れ添った(出会いは人質時代)正妻と一番大事な後継・嫡男に死を与えざるを得なかった。
普通だったら感情的に破綻する人生。
後半生(伊賀越え、関ヶ原、大坂夏の陣)も決して安泰でなく、まさに「どうする家康」という試練の連続の人生。
その家康が、270年の安定した江戸時代を作り、東京と名古屋という大都市を作った。
日本史上最もタフで、その部分も含めて、私が最も尊敬する歴史人物だ。

その人物のゆかりの地を、やっと訪れることができた。



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