今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

川越の城館巡り

2018年02月25日 | 城巡り

今年度最大の仕事のヤマである公認心理師資格対応のための申請書類が昨日でほぼ整ったので(東京から勤務先に書類原稿を添付で送信)、今日の日曜は気分転換に久々の武州の城巡りをする。

前回は、源氏の木曽義仲関連(武蔵嵐山)だったこともあり、今回はその同時代の平氏側の河越氏関連にしよう。
平氏といっても坂東の(秩父系)平氏は、多くが頼朝側に与し、この地の領主・河越重頼も娘を頼朝の弟義経に嫁がせた(源氏は坂東武者の棟梁家とみなされていた)。

その河越氏の居館跡(川越市内にある)が国の史跡として公園化されている。

源平・鎌倉の頃の居館の地は、今の川越の市街地、すなわち江戸時代の川越城の城下町からは離れている。
でもせっかく川越に行くのだから、過去の川越訪問では訪れていなかった(改築工事のため)川越城本丸御殿も行きたい。
その間の3kmほどは歩かねばなるまい。

居館跡に最も近い駅は、東武東上線の川越の2つ先の「霞が関」。
ここは便利な快速小川町行きは止まらないので、一つ手前の「川越市」駅で、鈍行の森林公園行きに乗り換える。

霞が関駅に降りたら、歩く前の腹ごしらえに昼食を取ろうと思っていたのだが、居館跡がある側の北口は店らしきものが何もない。
南口に廻ると埼玉ではおなじみの「餃子の満州」があったので、 そこに入り、かた焼そばと餃子を食べる(まぁ日高屋レベル)。
南口からは、東に向って歩行者用のアンダーパスを通ると居館跡までの近道につながる。

居館跡は公園状に整備されて、所々に説明盤が設置してある(写真)。
河越氏は室町初期には没落し、歴史から消え去った。
その後戦国初期、この地は関東管領系の山内上杉氏が、河越(川越)城の扇谷上杉氏を攻めるための陣所になったという。
なので、遺跡は両者が混在している。 
居館跡の外郭には明瞭な土塁も残っており、その上は木々が茂っている。
敷地は平らなので、公園化された続きの広場では家族連れがボール遊びに興じ、地元の人たちが通路として横断していく(夜間は閉鎖される)。
昔から隣接している常楽寺(時宗)には、河越重頼とその娘(京姫)それにその夫の義経の(最近建てられた)供養塔がある(この地には京姫の伝説がある)。

ここから入間川の橋を渡り、川越市街地に向う(小学生の時、地図帳でこの地「入間」を「人間」と読み違え、すごい地名があるものだと感心した)。
道は結構な幹線道路だが、残念ながら路線バスはない。
市街地を画する、そして川越の発展を支えた新河岸川(隅田川の上流)の橋を渡ると、にわかに観光客で賑わいだす。
菓子屋横丁に目をやると、観光客でぎっしり。
実際、川越は観光都市として成功している。 

私は横丁には寄り道をせず、道を直進し、中ノ門の堀跡には立ち寄り、まずは市立博物館に入る。
ここで川越の歴史をざっとおさらいする。
川越城は、あの太田道灌(とその父道真)が造った。
なので道灌関連の展示が充実している。
戦国前期の関東のヒーローである太田道灌は、江戸だけでなく川越の生みの親でもあったわけだ(もちろん河越重頼も忘れてはならない)。
ここにはさきほどの河越館からの出土品(中国の青磁や尾張の瀬戸物)もあった。
市の南、大塚という所に国内最大級の円墳があるのを知った。

こういう博物館では、地元の歴史情報に満ちた冊子を買い求めることにしている。
今回は、「川越の伝説」を購入。

さて、道路の向い側の本丸御殿に入る(靴を脱いで)。
この一帯が川越城の跡地なのだが、残っているのはこの御殿の一部だけ(写真)。
残念ながら、中は狭く、往時の規模をしのぶほどではないが、唯一庭園の眺めが現在を忘れさせてくれる。
向いの三芳野神社も由緒があり、あの不気味な童べ歌「とおりゃんせ」の発祥の地という。  

後は帰途につくだけ(喜多院など他の観光地は訪問済み)。
巡回バスの便が合わないので、駅まで歩く事にした。
川越は観光スポットである旧市街が駅から離れているのが難点。

途中、中央通りの中原町で、お面のミニチュアを買った(前回はおかめとひょっとこで、今回は小面と翁)。
そして前回同様、川越駅の1つ先の「川越市」駅に着く。
ここの方が、中心街に近く、しかも帰りは座れるから(西武新宿線の「本川越」の方が近いが、都心へは遠回り)。 

やっぱりずいぶんと歩いた(12km以上、1万6千歩)。


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