今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

日本人は無宗教ではない:スピリチュルな心の持ち主

2021年12月25日 | パワー・スピリチュアル

「日本人は無宗教だ」、という言説は正しくない。

なにしろその論拠が、クリスマスを祝った一週間後には初詣に神社と寺をハシゴするという
(あるいは、七五三は神社、結婚式は教会、葬式はお寺という通過儀礼における)”無節操さ”におかれている点が間違っている。

無宗教(例えば共産主義)なら、そもそもクリスマスも初詣も宗教的行事は一切拒否するはずだ。

上を論拠(無節操=無宗教)にする発想は、行動も思考も特定の一神教にがんじがらめにされた西洋的な偏ったものだ。

そもそも”八百万”の神という、密教の”三千仏”をはるかに凌ぐ超多神教の神道を宗教心の根源とする日本人は、
特定の宗教・神に拘泥しない寛容さ(無節操さ)こそが宗教心の発現にほかならない。

たとえば、自分が目にしたところでは、青森のキリストの墓※1(墳墓には大きな十字架)の祭りも(→記事)、
岐阜のウェストン(明治期に日本に滞在した英国教会の牧師で登山家)※2祭も、ともに神主による神道式でなされた。
これも”無節操”といえよう。
※1:もちろんキリスト教はここをイエスの墓と認めていない。あくまで日本のトンデモ系の言説に地元の村が観光資源として飛びついた例。
※2:ウェストン自身は、日本での教会活動にさして熱心でなく、日本の山に魅せられて登山ばかりしていた。南アルプスの地蔵岳に初登頂したら、地元民から”神主”になれと勧められたという。それを知った私は、外国人(しかも異教の宣教師)を神主にするのに抵抗感のない"無節操さ”に感心した(地蔵岳の直下には賽の河原があり地蔵尊が祀ってるように明らかに仏教信仰の山なのに、神主というのも民間神道らしいメンタリティ。しかも民族性をも超越して、神道の普遍宗教性を表現している。神道において山それ自体が神(の依代)である)。ただし北アルプスの笠ケ岳では、外国人が登ると山が穢れるとして地元で妨害された。

神道は、特定の唱道者(教祖)や聖典(教義)に依らない、その意味では宗教としては自然(原始)的段階にありながら、
(原始的な自然宗教にありがちな)迷信的呪術という非科学方向に流れることなく
超越的なもの(山や巨樹の自然物を含む)に対する敬意という、宗教の本質を実現している貴重な宗教である
(ただし「国家神道」は敬意の対象を皇祖神に収斂したので含まない)。

そのような特定の神も教義(教典)も必要としない、純粋な心で感じる超越的な存在者への敬意、
これこそ現代のスピリチュアリティ(霊性)にふさわしいアプローチである
目の前の巨樹に自然に手を合わせることができる、頭ではなく、心で超越者に向き合えるという意味では、
日本人は最もスビリチュアルな人々といえる。

スビリチュアリティは、超自然的な超能力の世界ではない。
”現に在る者”に対する、それに名称を付与し、存在理由を思考する以前の、素直な感動の心が出発点である。

ただし、ここで終ってしまうのが、神道の限界でもある。
神道の視界は「在る者(存在者)」(不可視であっても)にとどまり、在る者を在らしめている「在ること」(存在)への深い眼差しがない(死をケガレとして忌避するのみ)。

その限界を補っているのが仏教だ。
仏教は、創造神を措定せずに存在の問題を解いている(なので神道とも量子力学とも共存できる)。

話を戻すと、特定の宗教神話(国家神道的記紀神話を含む)に束縛されない現代日本人にこそ、
既成宗教や一神教的”神”概念に束縛されないスピリチュアリティ(霊性)の扉が開かれている。

なのでスピリチュアリティ儀式としての初詣では、神社と仏閣をハシゴしてかまわない(神仏習合の方が日本人の宗教心にとっては自然)。
その際、神社の祭神は、維新後に無理矢理皇祖神に統合されたケースが多いので、こだわる必要はない。
ハシゴ巡りの典型である”七福神巡り”は、恵比寿様以外は神道の神様でも仏様でもなく(布袋様は単なる坊さん)、
ヒンズー教や道教の神様たちなので、まさに世界の多神教(ヒンズー教、仏教、道教、神道)巡りだ。

多神教こそ、互いに他を認め合い、他と共存できる多様性を実現できる!
(多神教は一神教を容認できるが、一神教は多神教はもちろん、他の一神教も容認しない)

ちなみに、この記事を、クリスマスの日にバッハのカンタータを聴きながら書いている。