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今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

佐倉の山城巡り:臼井城、本佐倉城

2016年02月11日 | 城巡り

歴史の町としての観光に成功しているのは,埼玉では川越。
対する千葉では佐倉が充実している。

いや、佐倉はすごい。
まず佐倉の町には日本最大の歴史博物館である国立歴史民俗博物館があり、ここだけでも半日すごせる。
他に佐倉城に武家屋敷、それに義民・佐倉宗五郎(惣五郎)、幕末の順天堂、昭和の長嶋茂雄まで事欠かない。
これらを巡るだけで一日はつぶれる。いやきちんと観るなら一日では回りきれない。

さらに、京成佐倉の1駅前には、戦国時代の臼井城、一駅先には千葉県の主・千葉氏の本佐倉城が控えている。
こうなると3日は必要かもしれない(川越は1日で充分)。 

佐倉の町の史跡巡り(ただし宗五郎関連以外)は2009年に訪れたので、今回は臼井城と本佐倉城の山城をはしごする。

佐倉の1駅前の臼井で降り、北口に出る。
訪問先で昼食をと思ったが、こちらの口には店がない。
仕方ないのでコンビニでおにぎりを買って、城跡で食べることにする。

城の大手口への道が今でも住宅街の細道として残っているのでそれを辿る。
途中、右に寄り道して、江戸時代最強の力士・雷電為右衛門の墓を詣でる。
雷電の墓と称するものは全国に幾つかあるが、ここのは夫妻と一女の組合せ。
元の道に戻り左に寄り道すると、和太鼓の激しいリズムが聞こえてきた。
そこは雷電の等身大(195cm)の碑がある妙覚寺という日蓮宗の寺で、なんと今日は「雷電祭」。
佐倉市民による奉納太鼓だったのだ。

思いがけず雷電を堪能して、いよいよ臼井城に向う。
その手前に太田図書助の墓がある。太田道灌の弟で、道潅による臼井城攻めの際、戦死したのだ。
臼井城の本郭に達すると、目の前に印旛沼が広がる(写真はズーム)。
今は干拓されてしまっているが、戦国の頃は霞ヶ浦ともつながって海の入り江状態だったらしい。

この臼井城、戦国前期の雄・全戦全勝の太田道灌に攻め落される。
そして約1世紀後、今度は戦国後期の雄・戦国最強と謳われる上杉謙信に攻められる。
長駆遠征を厭わない謙信にとっては、ここ臼井城は関東進出の最東端ともいえる。
しかし本郭を目前に、謙信ともあろうことか敗退してしまう。
謙信にとって関東支配の目論見が挫折するターニングポイントとなった(道潅は謙信より強かったかも)。

印旛沼方向に下ると円応寺という城主臼井氏の菩提寺がある。
荒れ気味の累代の墓を巡って、印旛沼干拓地に沿って進むと、「阿多津の墓」がある。
おたつという城主子息の乳母が、子息の命を守るためにこの地で落命した跡だ。 
ここから長源寺を経て駅に戻る(駅から一周したことになる )。

ここで再び京成に乗って2駅目の「大佐倉」という(名に反した)小さな駅に降りる。
ここから東に進み、村社・麻賀多神社を裏階段から往復し、勝胤寺にちょこっと寄り道して、本佐倉城の広い城跡を目ざして田園地帯を進む(写真)。
千葉氏の居城のここは、臼井城のような華々しい歴史をもっていないが、国史跡ということもあってきちんと発掘が進められ、門や建物、庭園跡などがかなりわかってきている。
ただ、それらは復元されておらず、草の生い茂った平面に立って頭の中でそれらを想像するだけ。
そう、山城巡りは、城内を頭の中で復元し、守り手か攻め手のつもりになって当時の縄張りを歩きまわるのだ。 

駅に戻るのに往路をとらず(また一周するつもり)、城跡の南西側に出る。
この付近の地名はなんと「将門」(マサカド)
そう、ここは坂東武者の心の拠り所・平将門の出生地とも云われているのだ。

将門の地に本佐倉城主千葉氏が建てた将門口ノ宮神社に詣でる。
さらにその奥の平原に、将門の愛妾(あるいは間者)という桔梗の塚が大木の傍らある(写真:ここを訪れるなら新緑~紅葉の時期の方がよさそうだ)。 

かように佐倉(本佐倉は行政的には佐倉市ではなく酒酒井町)は、千葉・臼井氏だけでなく、将門と雷電のゆかりの地でもあった。
私は前回と今回の2日を要したが、まだ佐倉をわまりきれていない。
次回は佐倉宗五郎関連だ。