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今日こんなことが

山根一郎の極私的近況・雑感です。職場と実家以外はたいていソロ活です。

読書の情報効率

2015年03月15日 | 雑感

またまた私の読書行動論(理論化されてはないけど)。

さて、あなたの手もとにある読み終わった本を、どれでもいいから手に取ってみて、
パラパラめくって、後ろの参考文献欄を眺めながら、
その本を書き上げるまでに執筆者が要した時間と労力を想像してみてほしい。
そして、その時間とあなたがその本を読むのに要した時間とを比べてほしい。 

執筆者の立場からすれば、著作に盛られた情報は最大限の圧縮効率の結果なのだ。
つまり執筆にかかるまでの膨大な情報収集とその執筆・編集作業、
たとえばその本を書くために読んだ膨大な資料や、あちこちの取材記録を、
あれこれ試行錯誤しながら削りに削ってなんとか数百ページに凝縮したわけで、
それがわずか2,3時間の読書行動にあっけなく置き換わってしまうのだ。

読者はものすごく効率良く情報を入手していることになる。

さらに読者の読書行動自体も効率化されてきた(これは前の記事で述べた)。

昔の人の読書は音読だった。
”読む”速度は口で”読み上げる”速度と等しかった。
そのため、読み上げやすく、耳に残りやすい韻文の比率が高かった。 

それが、印刷技術の発達にともない(これはマクルーハンの受け売り)、
近代人は黙読できるようになり、”読む”速度は倍速化され、”見る”速度に近づいた。
そのため、感覚的な韻文より、論理的な散文が主流となった。 

すなわち、人類の読書行動そのものが数百年前に革命的進化をとげたのだ
(「個体発生は系統発生を繰り返す」というヘッケルの法則どおり、
個人の発達過程でも音読→黙読の進化を繰り返す)。
なので現代人の読書行動は、すでに能力(脳力)の限界にまで効率化されているといっていい。
だからこそ、その行動の不自然さ=読書の辛さが露呈されているともいえる。
読書行動をこれ以上効率化しようとするのは無理かもしれない。

もちろん、速読術という”読む”速度を可能な限り高速化し、
”見る”速度に到達させるための技術が存在する。

速読術を少々トレーニングした個人的印象だが、
実は速読しやすい本ほど、文章を味わうに値しない駄文の小説か、
常識の範囲内の自己啓発書のような本であり、
結局それらはあえて読むに値しない、元来読書時間0でも済むものだったりする
(これは次の話題につながる)。

もっとも、完全な黙読ができていない人、
すなわち心の中で無自覚に音読しながら読んでいる(読む時自分の舌が動いている)人には、速読のトレーニングは意味がある。

ただし学術書など読むに値する=きちんと理解するに値する本は、
解釈作業を並行する必要があるので、見るのではなく読まざるをえない。
また、文章の巧みさ、美しさに酔いたい本も速読はもったいない。

 さて、次の話題。
本をどう読むかの前に、どの本を選ぶかが重要だ。

読書の効率化の第一歩は、読むに値しない本は読まないこと
せっかく買ったから読まないと損だと思うなかれ。
金銭的損失より時間的損失の方が損失として深刻だから。
なにしろ(本代ていどの)失った金額を回復することはたやすいが、
失った時間は決して取り戻せない。
そもそも読書を効率化したいのは、時間を有効に使いたいからのはず。

こういってもいい。
読んで面白くなければ(読む意味を感じなければ)、
我慢せずに即座に他の本に移るべきだ。
読むに値する本は、読むに値しない本よりもずっと多い。

学術書に限っていえば、できるだけオリジナル(原書)に近い本をよむべきで、
その解説書を3冊読むより絶対効率的。
たとえばフロイトの精神分析を知りたければ、
まずは彼自身による『精神分析学入門』を読むべき。
もっとも、精神分析そのものがもはや知るに値しないかもしれないが。

もちろん他の人によるすぐれた解説書というのは確かにあり、
それに当たればすこぶる効率的だが(数十冊の本が一冊に凝縮されている)、
あまたの類書からそれを選ぶのが実に難しい(図書館に行ってみなされ)。
章立てがきちんと構造化されているかどうかがポイントか。
今ではネットの読者コメントが参考になろう。

逆に「マンガで分かる」シリーズなど、一見バカにされそうだが、
解説部分は結構優れている。
しきいを低くするためのマンガ部分に非効率性(本筋とは関係ないストーリー展開)
があるのは致し方ないが、むしろ文字テキストの情報効率の良さが実感できるというもの。

ついでに関心をもった特定領域について、
解説書→専門書→学術論文の順で合わせて10冊(編)ほど
読書ノートを取りながら(以前紹介したワードのアウトラインモード推奨)
続けて読んでみなされ。
2冊目から情報がダブりはじめ、
冊数が進むと、やがてほとんど新しい情報が得られなくなる(=飽和する)はず。

そうなった段階で、あなたはその領域について人に解説できるほどの知識を得たことになる(読書ノートがあなたの知的財産)。 

その域に達すれば、その領域の新しい本は、全部を読む必要はなくなり、
新たな知識の所だけを読めば済む(もちろん、読書ノートに追加)。
こういう読み方(拾い読み)も効率化に貢献する。

ちなみに、ネットで情報を検索すると、ヒットしたサイトのほとんどが同一の情報源に頼っている場合がある(すぐに飽和する)。
情報の探求が浅いのだ。
やはり専門書の方が情報源として信頼性がある。


電子書籍と読書行動

2015年02月27日 | 雑感

私の日々の読字行動の半分以上は紙でははなく、電子化された画面だ。
電子化は、書籍の脱物質化(脱空間化)という本としての在り方を劇的に変えている。
ただ今話題にしたいのは、本の在り方ではなく、”読書”という行動の方。
電子化が読書行動(電子書籍に限定)をどう変えるか。

まず、読書空間の拡大、読書ストレスの軽減。
電子化によって携帯性が拡大し、Retina化などで画面の精度が上がっているので、小さい字もだいぶ読みやすくなった。
むしろわれら老眼世代にとっては画面の文字が拡大できるのがありがたい。

縦長横長を切り替えられるし、バックライトも調整できるので 可読性を向上できる。
すなわちどんな空間でも(暗闇でも)読書ができる。
iPadなどのタブレットであれば、1つの装置で音楽を聴きながらの読書もできる。 

ただ、文字を読むという本質的行動は変わっていない。

あえて変化を求めるなら、音声化という手がある。
これはネット記事など、最初からテキストデータ(文字コード)であるのが前提だが、
読み上げ機能によってテキストを聴くことができる。
もちろん漢字の読みの不正確さは解消できないが、ニュースのように単に読み流すものなら、そのまま聞き流せる。
ただし、聴く速度は読む速度より概して遅いし、読む場合はその速度を自由に変更できるし、不要な部分は読み飛ばしたり、分かりにくいところはいつでも繰りかえせる。

聴くより読む方が自由度が高く、効率的だと痛感する。
なのできちんと理解したいテキストはやはり”読む”しかない。

結局、文字を読むという行動は、人類が獲得した最も洗練された情報行動であるようだ
(イメージ情報より記号情報の方が伝達効率が雲泥の差で高い)。

だからこそ、見る・聴くという生物学的に獲得してきた自然な行動と比べて、不自然さがあるわけだ。
文字を自ら発明した人類は、側頭葉に文字・記号処理の部位をあてがい、不自然な読書に耐える脳に作り替えた(文明が脳を変えたのだ)。

ならばわれわれはさらに情報処理の効率化ができるのではないか。

ここまで書いて気づいたことがある。
この記事シリーズの始めに「読書は不自然な行動だ」と述べたが、その読書の不自然さが開いた可能性を正当に評価すべきだ。
この記事シリーズは電子書籍のインパクトを論じたかったので始めたのだが、電子化によっても変わらない「読む」という行動の意味を正しく捉えることからやり直したい。

へんな流れになって申し訳ない。 


二度読みを避ける読書法

2015年02月23日 | 雑感

小説というのは、たいてい1度読んだらおしまいが多い。
テキストというのは、情報的に冗長でない(マクルーハン的にいうと”クール”)ので一度で情報はすべて得てしまうから。

それに対し、映画は情報量が一度の観賞では処理しきれないほど多い(”ホット”)ため、観るたびに発見がある。 

実際、映画は何度観ても感動できるが、1度感動した小説をもう1度読んだらちっとも感動しなかった。

ところが学術的な専門書となると、頭に蓄積すべき情報に満ちているから、1度読んだだけでは、頭に入りきれない(逆に1度の流し読みで済んでしまう本は、そもそも読む価値に乏しい)。

かといって、同じ本を幾度も読むのは時間が無駄になる。

なので私は、頭に入れるべき専門書に限ってだが、次のようにしている。

まず、シャーペン片手に読む。自分の判断で頭に入れるべき箇所にうすく線を引く(借りた本などで線を引けない場合は付箋をつける)。

読み終えたら、他の本に移る前に(ここが肝心)、
その本を前の記事で紹介した書見台に載せ、パソコンのワードを「アウトライン」モードにして、線を引いた箇所とその周辺を打込む。
要するに読書ノート作りだ。
この作業が終わったら、本に引いた線を消しゴムで消して、原状復帰する。 

ポイントは、ワードのアウトライン画面にする点。
アウトライン画面だと、文章を構造化しやすい(この話はここでは深入りしない)。
線を引いた箇所を箇条書きで入れていけばいい。

そして、本ごとにそれぞれファイルにしてもいいし、同じテーマの複数の本を1つのアウトラインにつぎ足してもいい(こうした方がテーマの理解が深まる)。

このファイルを作っておけば、2度読みとか、あるいは引用したい箇所を探す必要がなくなる。

ワードのファイルにしておくことで、どんどん情報を蓄積できる。もちろん単語検索も簡単。

私は、論文原稿も講義ノートもそして読書ノートを含めた研究ノートもすべてワードのアウトラインで作成してある。

私にとっての読書とは、アウトライン画面の研究ノートを作成・追加することですらある。

これだと思う箇所に線を引き、つぎにその箇所をパソコンに打込むという2度の作業をすることで、大事な箇所の理解が進み、そのまま頭に入ってしまう。

1冊の読書時間は多少増えるが、逆に2度読みする必要がなく、頭にもより多く入るので結果的には効率的だと思っている。

唯一の余計な作業を引いた線を全部消すこと。

もちろん、最初から線を引かずに、読みながらアウトライン作成してもよい。
図書館で作業する時はもっぱらこうしている。
つまり、読書=大学の講義として、ノート作成するわけだ。
その分野の世界的権威の講義を、熱心にノートを取りながら聴いているのに等しい。

 


読書のジレンマ

2015年02月17日 | 雑感

私にとって読書は、仕事である。
研究者としての生産的仕事は論文執筆であり、大学教員としての職務的仕事は授業と学生指導であるが、これらの情報処理行動を続けるためには、この読書という情報入力の膨大な蓄積が大前提となる。

だから、研究と授業以外の空き時間は、ひたすら読書に明け暮れるべきで、温泉や城跡など行っている暇はないはず。

それなのに、休日は読書三昧していないということは、私には読書を避ける力が働いているらしい。

断っておくが、読書は仕事だけでなく、楽しみでもある。
その私にも作用している読書を避ける力とは何か。

これは誰にでも働いていると思う。
なぜなら、読書という行動は、人間の行動としてすこぶる不自然だからだ。

一切の社会関係を遮断して、誰とも口をきかず、しかも身体の活動も極力抑えてじっと座っていなくてはならない。
すなわち”動物”としての、さらには”社会的動物”としての人間の本来的なあり方を否定することが読書行動には求められるからだ。

目だけを使ってひたすら文字を追うだけの作業を延々と続ける。
これほど不自然な行動(動作)があろうか。
そして睡魔とも闘わねばならない。

充分にリラックスできる体勢でありながら、すなわち身体だけでなく目や頭脳も休息を誘われる体勢を保ちながら、目と頭脳は最高度の明晰さを維持し続けなくてはならない矛盾。

そう、読書とは、心理的身体的にすこぶる矛盾した行動なのだ。
この矛盾は読書行動そのものが要求してくるのだから、仕方がない。
すなわち他者と楽しく談笑したり、激しい身体運動をしながらは読書できない。
一人で沈黙の行を続けながらも、瞑想の世界には入ってはならない。 

さらに休日とあらば日ごろの運動不足をこそ解消したい機会だ。
これがまた読書と矛盾する。 

しかも、私は仕事上も趣味上も読みたい本が目白押しで大行列をなしている。
速読法も(自己流ではなく)トレーニングを受けたが、専門書の精読には向かないようだ(哲学書や数式が多い科学書を速読できれば最高なんだが)。

ドラえもんの「暗記パン」があればいいとも思ったが、自分が求める読書量では食べきれない量となり、これなら読書行動の方がましだ。

このように必要でありながら、辛い思いから逃れられない読書との、
自分なりの苦闘(工夫)の有り様を次に紹介したい。


昔の歌謡曲の凄み

2015年02月12日 | 雑感

温泉からの帰り、車内で昔の歌謡曲をかけて運転していた。

私は歌謡曲の歌詞の時代変遷などの研究はしていないが、昔の歌詞は凄いなと、聞き入りながら感心した(最近のJPOPの歌詞に聴き入ることはない)。

何より大人が対象であるため、性的な内容が示されていること。
そしてモラルに反するほどの本音が語られていること。
この2点とも厳しく言えば「公序良俗に反する」。
それを平気で歌っていたのが凄い。 

でもそこに人々の本心が込められていた。
その意味では文学的ですらあった(心理学的と言えないところが口惜しい)。

今どきの毒にも薬にもならないポジティブwな”メッセージ”ソングとは違う。

そもそも、今どきの”アイドル”では処女性が期待されているため、セックスを暗示することも女の心の闇を表現することも不可能。

私を含む当時の子どもはそういう歌謡曲を親と一緒にテレビで聴いていたのだ(そういえば『時間ですよ』の女湯のシーンも)。

青江三奈の「伊勢佐木町ブルース」(1968)の冒頭のあえぎ声はさすがに当時の幼い私は理解できなかったが(紅白ではこの部分は別の音に置き換えられた)、
ピンキーとキラーズの「恋の季節」(1968)で”夜明けのコーヒー”を飲む男女の存在を知った。
小川知子の「ゆうべの秘密」(1968)も今から思えばいかにもあの事だし(それにしても1968年は豊作!)。 

そして由紀さおりの「夜明けのスキャット」(1969,これは日本歌謡曲の金字塔)は、どういう場面を歌っているかがわかり、とてもHな歌だと思った(彼女は童謡歌手出身!)。
でもそのメロディの美しさによって、親と一緒に聴いていても恥ずかしさがなかった。音楽とはそういうものだ。

奥村チヨの「恋の奴隷」(1969)は男のサディスティックな願望(DVも容認)にすぎないが、
あみんの「待つわ」(1982)が男が他の女に振られるのを期待したり、
シュガーの「ウエディング・ベル」(1981,今聴いても面白い)で男の花嫁の不幸を秘かに期待するのも、それが心から出る歌であるゆえ許容される(歌詞のつながり具合で、キリスト教会を冒涜しているとまで誤解された)。

このようなセックスを表現したり、善でない本音を語ることがなくなったのは、すなわち歌謡曲が文学的共感とは無縁の単なる消耗品になったのはいつごろからだろう。

たとえばピンク・レディの歌詞になると、(対象が低年齢化したためか)キワモノ的ではあるが、もう消耗品的で心に残らない。

セックス場面を表現した最後の歌は、私の記憶では山口百恵※の「イミテーション・ゴールド」(1977)かな(この曲にもあえぎ声が音楽的に入っている)。

※:同世代アイドルだった山口百恵は、彼女固有のストーリーで論じるべき対象。

ここまで書いて気づいたのことは、紹介した歌はすべて女性歌手だ(作詞は男性だったりするが)。
当時、男性歌手は何を歌っていたのか、GS(グループサウンズ)とかフォークだったかな…


ラーメンを食べる前に胡椒をふりかけて何が悪い

2014年03月30日 | 雑感

まったくどうでもいい話だが、ラーメンを店で食べるたびに頭にこびりつくので、ここで発散してすっきりしたい。

ラーメン通の間では、ラーメンに最初に胡椒を振りかけるのはド素人の振舞いとして軽蔑の対象になっているらしい(本で読んだし、ラジオでも聴いた)。
私自身は胡椒大好きという訳ではないが、ここではあえて”胡椒派”の立場を代弁したい。

なぜ、食べる前に胡椒を入れるのか。
それは、そのラーメンに胡椒が入っていないと分っているから。

このラーメンには追加の調味料は不要だというのは作り手の論理にすぎず、
胡椒が好きな食べ手にとっては明らかに大好きな胡椒が不足していることが食べる前にわかっているのだ。
なぜなら、胡椒の風味は胡椒以外では出せないから。
だから、食べる直前に胡椒を加えることで、自分好みのラーメンを完成させているのだ。

どうせ胡椒を入れるのに、その前に胡椒のない状態で一口食べるのは、その一口が食べ手としてはまったくの無駄になる。

パスタに粉チーズやバジルを、食べる前に最初にかけないのか?
寿司は一口食べてから、サビをつけてもらうのか?

ラーメンがいつのまにか特別に有り難いものに成り上がってしまった、あの風潮こそ気味悪い。
ラーメンは庶民に愛される食べ物であることを、最初に胡椒を振りかけることで主張したい。


美術展でいつも困惑すること

2014年01月22日 | 雑感
上野の西洋美術館で開催している「モネ:風景をみる眼」展(3/9まで)に行った。
美術作品は、生のオリジナルを肉眼で接することに、体験としての意味があると思うから。
でもそれって具体的に何だろう。

視覚刺激として、紙の図版で観るのと異なるのは、
まずは、その物理的大きさであり、画材の材質感と立体性だ。
ただ、前者は、視野角的には、実は差がない。
後者は、絵画としては逆にノイズ的な要素ともなりうる。
もちろん、色彩そのものの差もあろうが、正直、私の弁別閾を越えているかどうか疑わしい。

ある人は、生の作品には固有の”気”を発しているというが、
それは図版中の1枚ではなく、額に入れられた”固形物”として自立している効果の気がする。

結局、絵画は、単なる視覚情報ではなく、固有の”物”という客観的な対象として体験することに意味があるのかもしれない。
だから、気に入った作品を、人は”所有”したがるのだ。
それは”物”に対する、基本的な愛情表現だから。

さて、それら絵画を所有できないわれわれ庶民は、こうして美術館に足を向けるしかない。
そこで、ある困惑を体験する。
私にとって、展示されている絵画との出会いは、制限された距離と時間に規制される。
距離はロープや他の群衆によってまず他律的に制限され、
そして作品鑑賞上の適切な距離というものがあるため、それらに従う。

問題は、時間だ。
それぞれの絵画をどの程度の時間をかけて眺めればいいのか、自分で判断がつきにくいのだ。
まずは人びとの歩む”流れ”があり、ある作品では、その流れは停滞しており、
他の作品の前では逆に止ることが許されない。
それと、全体の展示量と所要時間との兼ね合いがある。
大量の展示を、個々に時間をかけて観ると疲れてしまう。
なので、どうしても”先を急ぐ”という気持ちがベースになる。

その中で、気に入った作品に出会った時は、ずっと立ち止まって、ずっと観ていたい。
時間が止ってほしい。
でも移動の列的にも、先を急ぐ的にもそれが許されないので、
後ろ髪引かれる思いで、その場から移動する。

一方、たいして気にかからない作品の前では、歩みを止めることなく、
一瞥しただけで素通りしようとする。
でも、それでいいのだろうかという後ろめたさを覚える。
もっとじっくり鑑賞すれば、きっとこの作品の価値がわかるかもしれないのに、
今、永遠の分れをしようとしている。

かように、結局、どの作品に対しても、それぞの最適な時間をかけておらず、
半ば強制された時間に追われているようだ。
これがいつも不満となる。

それは、そもそも美術展なるものが、あるテーマによる全体的構成を体験させる仕組みであるためでもある。
鑑賞者は、個々の作品にこだわるより、そのテーマを体験すべきと。
そう考えれば、毎回感じる”時間の不満”は、美術展ならではの問題なんだろう。

もっとも、常設展においても、全体を鑑賞する”流れ”の圧力には抗しえない。
そもそも”立って”観ること自体が、時間を身体的に制限する。
するとやはり、所有して壁に飾って、ソファに身を沈めて好きなだけ眺めるのが最適なのか。

クローズアップレンズの世界

2013年12月08日 | 雑感
我が愛機Lumix FZ-200は、
そこらのコンパクトデジカメの1ランク上位のハイエンドデジカメなので
デジイチやミラーレスには及ばないが、値段の割りに性能と使いでがよく、
評判がいいし、もちろん気に入っている。
その可能性をさらに高めようと、テレコンバーターとクローズアップレンズ、そしてその両者を装着するるためのアダプタを購入した。
テレコンバーターで遠望の山を大きく撮りたいし、
クローズアップレンズで花などを拡大して撮りたい。
特に後者は、見慣れたものをミクロの視野で撮ることで、新鮮な視覚体験ができるのが楽しい。
試し撮りに訪れた近所の谷中霊園で、なんの変哲もないヤツデの実を撮ってみた(写真)。
肉眼では見落としていた、細かい造形が描写される。
この世界にハマりそう。

私の不可解な行為

2013年05月13日 | 雑感
誰しも、合理的でない不可解な行動傾向の1つや2つはもっている。
いちおうは心理学者である私とて例外ではない。

国会図書館などに行って、メニュー豊富な食堂で昼食をとる時、
さっとサンプルを見て半ば直観的に食べるものを選ぶ。
そして食べ終わって、帰りしな、
もう一度ショーケースの前に立ち止まって、自分が本当に食べたいものを時間をかけて探しはじめる。
毎回、この行為がちょっとした楽しみになっている。

食べ終わった後に、食べたいものを探すという行為は、
本来的には不可逆的である、行為の時間連鎖構造を逆転させた、
少なくとも時間が一方向に流れるこの世では無意味な行為である。

なぜそのような事をするのか。
少なくとも予想しうる答えは、”合理的”なものではなかろう。

当事者に言わせれば、食べる前は、早く食べたいという気の高まり(ある種の切迫感)と、
注文の列に並んでいる他者たちが気になって(意識集中の阻害)、落ち着いて選べないのだ。

そして、食べ終わった後なら、目標となる行為が済んだため、
心に余裕ができて、しかも食事直後でまだ食べ物に関心が残っている状態なので、
食べたいものを落ち着いて選ぶ気持ちになれるのだ。

もちろん、そこで選んだとしても、私の次にする行為は、食堂から出て行く事以外にない。
すなわち、ここでの選択行為は、次の注文行為につながらない。
ということは、これは選択に至らない選択であり、
実的行為としての価値をもたないという意味で、”無意味”である。

ところがこの行為を毎度繰りかえす。
食べるための選択ではなく、選択のための選択を楽しんでいるからだ。
もちろん、「次に食べる時のための選択だ」と強弁することもできる。
だがしかし、実際の次なる時に、今回の選択が記憶されて、再現される実績はない。
そもそも、その時にはメニューが入れ替わっているのだ。

ただ、食後に選ばれたものが、今さっき自分が食べたものと異なったからといって、
後悔という不快感情に支配されることはない。
食前に自分が最適な選択をしそこなったので、
事後的ながら、最適な選択を完遂したいのである。
自分の真の心を知りたいのである。
だから、むしろ自分が食べたもの以外に、もっと食べたいものを事後的にでも発見した時の方が、
後悔どころか、この行為をした充実感を得る。
この行為の完遂傾向をなんとか心理学で説明するなら、
「ゼイガルニク効果」という名を紹介しよう
(その効果も含めて、心的緊張の解除というK.Lewinのパーソナリティの力学モデルで説明可能)。

私のこの行為は、結局、合理性よりも、その場の感情の満足に従っているわけだ。
合理性によって得られるはずの今は見えない満足には思いをはせず、
今したい事をすることの可視的な満足を優先している。
無駄な事をやって満足する。
げに感情とは、かくも論理を平然と無視する。
人間の心理の秘密は感情にあるようだ。

ボクと呼ぶ男

2012年11月30日 | 雑感
あくまで個人的な感想だが
いい歳をした大人の男が、公の場で自分のことを「ボク」と呼ぶことに違和感を覚える。
少なくとも、彼の出身地は東京ではないだろう。

私が生まれ育った東京では、男の子は幼稚園くらいのときは「ボク」と呼ぶ(周囲の大人からもボクと呼ばれる)。
それが小学校高学年くらいになると、仲間うちでは「オレ」と言うようになり(今小3の甥っ子がまさにそれ)、
まだ「ボク」と呼んでいるようなヤツは、ママから乳離れができていないガキ扱いされはじめる。

中学・高校時代は、一番言葉が粗っぽくなる時期で、この頃、周囲で「ボク」と言ったヤツの記憶はない。
そしてハタチ近くなると、さすがに、人前では「私」を使うようになる。
「私」こそ、公的な自称詞だと思っている。
自称詞にジェンダー(性別)は不要だし。

なので、東京の人間にとっては、「ボク」は半ズボンをはいた小さい男の子の自称詞であり、
少なくとも長ズボンで通す年ごろになれば使わない。

ところが、大学に行った時、中国地方出身の男が当初は「ワシャ~○○じゃけん」と言っていたのに、
1年後は「ボク○○だからさー」と喋っていたのには驚いた。

なるほど、幼い時「オラ」とか「ワシ」とか言っていた人たちが、大人になったら「ボク」を使いたがるのか。
彼らなりに”シティボーイ”を気取っているのかな。
私には”幼い”シティボーイに見えてしまうのだが。

当り前を疑おう

2012年07月16日 | 雑感
今晩、NHKで驚異的な強さを誇る東アフリカのマラソン選手の動きを分析した番組を観たら、
普通の理想的着地法とされる「踵着地」ではなく「つま先着地」を意識的にやっていた。

武家礼法の歩行を教える者として、それなりに歩行の勉強をしてきたが、
草履の日本人はずっと踵着地などしてこなかった。
踵着地は、脚に対して衝撃が強く、踵部の底が分厚く頑丈な靴を前提とする、
不自然な歩行法だと思っていた(この場合、正しくは走行)。
やっぱりそうだったのか。

同様に、今私のブログでは、私が昨夏に書いた”冷房にサーキュレーターの併用は逆効果”という記事にコメントが集っているが、
世間知とは異なる私の主張に賛同してくれる人はいない。

そのほか、いままで
「放射能はたとえ微量でも発がんの危険がある」、
「危機の情報を公開すると人々はパニックに陥る」
という世間的思い込みに対しても、
その逆の主張(これらはちゃんとした研究成果であって、私オリジナルでない)をしてきた。
電磁波の生体への影響についても、怪しげな自然観や商品販売とは無関係の、
信頼できるソースから情報を得るようにしている。

さらに「消費税の”逆進性”ってホントは無いんじゃないの」という主張をしようと思ったら、
さすが経済の問題は、私よりも専門的な人たちが、ネットでその論を展開していた。

情報って、きちんとした検証もされずに独り歩きして、
いつのまにか世間的に”真実”(=常識)になってしまうことが往々にしてある。
政治的意図や販売的意図が隠されている場合もあるので、注意を要する。

デジカメ撮影の腕

2012年04月28日 | 雑感
GW前半の帰京で、さっそく近所の根津神社に”つつじ祭”を見に行った。
もちろんカメラ撮影が主目的。

天気は良かったものの、肝心のつつじの見頃にはちょっと早く、
つつじ苑は葉の緑がまさっていた。

といっても、
数年前、当時買いたての今は無きサンヨーの”Xacti”の試し撮りに行った時、
葉の緑と稲荷社の参道に高密度に並ぶ奉納鳥居の赤の色相対比が面白かったので、
撮影の興はさほどそがれない。

今回のカメラは、このブログで再三紹介済みのNikonのCoolpixP7100というハイエンドデジカメ。
バシバシ撮って、家のパソコンに取り込み、ほぼ同季節・同構図のXactiの写真と見比べた。
そしたら、色合いその他、優劣の違いがわからない。
日中の屋外の風景なので、差が出にくいのは確か(もちろん撮影技能は同じ)。
機能豊富なNikonのカメラをいろいろマニュアル設定しても、たいして効果が出ず、
結局、オート撮影で充分という感じ。

実は、いまだに写真撮影の”腕(技能)”とは何なのかわからない。
カメラの性能とその使いこなしのことと期待していたのだが、
違うのかもしれない。
オート撮影ならなおさら腕の入る余地がない。
いちおう写真は私のFaceBookにアルバムとして載せておいたら、
「いいね」と反応してくれる人がいる。
FaceBookは載せ甲斐がある。

ある訃報

2011年09月07日 | 雑感
高校の同期生の訃報が一斉メールで届いた。

わが高校(すでに廃校)は全寮制でしかも1部屋8人暮らし。
訃報の主は3年間のうち2年間も私と同室だった。
こういう相手は他にいない。
親友ではなかったが、結果的に同期の中では近しい間柄といえる。

卒業後は連絡をとらず、また同期会でも顔を見せない彼だったが、
改めて訃報に接すると、ショックだ。

なにしろ、われら高校の同期は、いちばん多感な時期に
同じ釜の飯を食べ、一緒に暮した”仲間”だから。
なので、親族が逝った時のような喪失感がある。

同時に、なにしろ彼と同年齢なので、
自分がそういう危険な年齢にさしかかっていることを痛感させられる。
これから訃報が増えていくのだろう…。

まずはさておき追悼の返信(一斉)を出し、
そのままでは気がおさまらないので
家の仏壇に向かって手を合わせた。

ブログとフェイスブックの使い分け

2011年03月05日 | 雑感
フェイスブックをやり始めて、当初はブログの記事を転送していたけど、
両者の違いがわかってきて、転送を解除した。

フェイスブックは1次(直接)の友達から2次の友達程度に、自分の近況や情報を軽く流すメディアだ。
それに対してブログは、不特定多数のネットユーザーに、読み物として楽しんでもらうもの。
だから、「仕事が終った」とか「誕生パーティをやった」とかの、
縁者だけに関心がありそうな情報はフェイスブック向きで、逆にブログの読者には不要。

ブログは、情報量の多い記事や、読むことそれ自体を楽しんでもらう内容がいい。
長い文章はフェイスブックには向かない。
自分の長いブログ記事が毎日フェイスブックのニュースフィードに表示されるのをみて、
我ながらウザいと思ったので、解除した。

あと、自分が撮った写真をアルバムとして多数見せたいならフェイスブック。

そういう規準で使い分けることにする。
つまり今後は、ブログには、私的などうでもいい記事は控える。

今のところ、私にとっては、フェイスブックの友達(まだ9人ぽっち)より、ブログの読者(毎日3桁)の方がずっと多い。
なので、ブログからフェイスブックに移行するつもりはない(できたらそのつもりだったけど)。

私にとっての構造主義

2009年11月04日 | 雑感
私が2番目に入った大学で最初に接近したのは文化人類学。
その頃はレヴィ=ストロースが来日して、ネコも杓子も構造主義だった。

結果、私は、個々の人間にまったく興味を示さない文化人類学が大嫌いになり、
心理学に転向した。
われわれが今まで思っていた実体は単なる関係項で、関係こそが真の実体であるとする構造主義は、
心理学の出発点である「自我」の存在を否定する。
この関係主義的思考は実は確固とした自我にこだわらない日本人には受入れられやすい
(たとえば和辻哲郎の倫理学)。

だがその心理学は行動主義全盛というもっと悲惨な状況だった。
行動主義か精神分析かという低次元の選択肢しかなかった心理学から
思想的におさらばして、現象学に進んだ。

ところが、ビンスワンガーなどの精神医学的現象学のインチキ性
(恣意的意味づけ)に失望。

意味現象の源泉をソシュールの記号学に求め、バルトの軽快な分析に酔った。
その流れで”構造”という見えない枠組みを見透かすことの快感を知った。
ただそれを心理学にはまったく使わず(ラカンの思弁には興味なし)、
作法の分析に使った。

私が「作法学」という、既存の歴史民俗学的作法研究とは相異なる発想の学を作れたのも、
構造論的思考を学んだからだ
(直接にはグレマスの『構造意味論』を応用)。

というわけで、「構造主義」は、用途を限定すれば、充分使えると確信している。
大切なのは、構造”主義”という(実体を方法論的に無視しているだけなのに、
無視したものを「存在しない」と思い誤る非科学的)イデオロギーではなく、
構造的思考という(可視と不可視=実体と非実体のネガポジ関係を逆転してみる)
「1つのものの見方」だ。

…なんか「ニューアカ」っぽい衒学的文章になってしまった。