本日、母校に博士論文を提出しました。博士課程入学以来6年がかりでここまで漕ぎ着けました。しばらくはゆっくりしたいところですが、明日も朝一から仕事です……
神野志隆光『複数の「古代」』(講談社現代新書、2007年10月)
以前に取り上げた『漢字テキストとしての古事記』の著者の最新作です。
『古事記』や『日本書紀』を古来語り継がれてきた神話を復元するための材料として見ず、あくまでも両書が著述された当時の皇室や貴族による古代観が反映されたものとして見るというのが神野志氏のスタンスですが、それは本書でもいかんなく発揮されています。
まずまとめて取り扱われがちな『古事記』と『日本書紀』に対して、この両書がつくられた時期には、中国との交渉を開始し、また厩戸豊聡耳皇子の改革によって文字の文化国家への歩みを開始した推古天皇の時代が画期と見なされていたとして、その推古天皇の治世までしか扱わない『古事記』と、それ以後の時代をも扱う『日本書紀』は、それぞれ異なる古代観や世界像に基づいて書かれたのではないかと問題提起します。
そして『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』、更には『万葉集』なども独自の古代観を反映したものであるとし、これらの資料がつくられた時代には多様な古代観が存在していたと結論づけています。仏教伝来の年代が西暦で538年か552年かという問題についても、538年とする『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』と、552年とする『日本書紀』とではそもそも歴史観が異なり、それが紀年の違いとなって現れているということで、どちらの説が正しいかと問うことは全くのナンセンスだというわけです。
また、継体天皇の後、安閑・宣化朝と欽明朝が並立していたという説も、これらの資料が異なった歴史観を反映しているという認識に欠けていたことから生み出されたものであるとしています。
しかしそれぞれの資料が独自の古代観を反映しており、そのことを無視して『古事記』と『日本書紀』の記述を照らし合わせたところで歴史的な事実は見えてこないという著者の主張はよくわかったのですが、個人的にはそれでもやはり「本当はどうだったのか」という疑問が頭から離れないのですが……
以前に取り上げた『漢字テキストとしての古事記』の著者の最新作です。
『古事記』や『日本書紀』を古来語り継がれてきた神話を復元するための材料として見ず、あくまでも両書が著述された当時の皇室や貴族による古代観が反映されたものとして見るというのが神野志氏のスタンスですが、それは本書でもいかんなく発揮されています。
まずまとめて取り扱われがちな『古事記』と『日本書紀』に対して、この両書がつくられた時期には、中国との交渉を開始し、また厩戸豊聡耳皇子の改革によって文字の文化国家への歩みを開始した推古天皇の時代が画期と見なされていたとして、その推古天皇の治世までしか扱わない『古事記』と、それ以後の時代をも扱う『日本書紀』は、それぞれ異なる古代観や世界像に基づいて書かれたのではないかと問題提起します。
そして『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』、更には『万葉集』なども独自の古代観を反映したものであるとし、これらの資料がつくられた時代には多様な古代観が存在していたと結論づけています。仏教伝来の年代が西暦で538年か552年かという問題についても、538年とする『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』と、552年とする『日本書紀』とではそもそも歴史観が異なり、それが紀年の違いとなって現れているということで、どちらの説が正しいかと問うことは全くのナンセンスだというわけです。
また、継体天皇の後、安閑・宣化朝と欽明朝が並立していたという説も、これらの資料が異なった歴史観を反映しているという認識に欠けていたことから生み出されたものであるとしています。
しかしそれぞれの資料が独自の古代観を反映しており、そのことを無視して『古事記』と『日本書紀』の記述を照らし合わせたところで歴史的な事実は見えてこないという著者の主張はよくわかったのですが、個人的にはそれでもやはり「本当はどうだったのか」という疑問が頭から離れないのですが……