無意識日記
宇多田光 word:i_
 



音質の話をしようとしていたんだったな。少し飛躍するか。

何度も述べてきたように、私は3DVR技術自体は好きだ。使い方がいけないと言っているに過ぎない。

3DVRは「あたかもそこに誰かが居るかのように」から更に「あたかもそこに自分が居るかのように」に飛躍して初めて本領を発揮した、と言うべきだと思う。今後あのクソダサい眼鏡もコンタクトレンズのサイズにまでなる事が期待される。そういうのは時間の問題だろう。後は、何が身体感覚に影響するか、だ。

聴覚の話をすれば、ステレオのイヤホン&ヘッドホンの発明というのは、身体感覚的に革命だったように思う。だって、頭の中で音楽が鳴るんだぜ? ウォークマンがその状態を「いつでもどこでも」可能にした。聴覚上の体験としては、非常にドラスティックに新しかった筈だ。

宇多田ヒカルを3DVRに引き込むんだったら、聴覚でそれくらいドラスティックな新しさを持ち込んで貰わないと"割に合わない"。蝋人形になって本人が「やだーっ!」と可愛く叫ぶだけだったらそんな仕掛け必要ない。

しかし、問題は、当然の事ながら、「聴覚上新しい事って具体的に何?」という点、だわな。勿論私は思いつかない。

そもそも、歌を歌う人だ。我々にとって最も嬉しいシチュエーションは、目の前で、真正面で、生で歌ってくれる事だ。宇多田ヒカルは1人しか居ない。デュオでもトリオでもコーラス隊でもない。たったひとつの声帯が震えて声を出す。それを我々の耳が生々しく捉えられればいいのだ。

となると私達にとって最も有り難いシステムは「最高音質のモノラル・スピーカー」だろうな。3DVR云々ではない。宇多田ヒカルの声帯と同じ震え方をするモノラル・スピーカーが目の前にあれば、これに勝る(本人の)代替物は他にない。たった一人の歌手が相手の場合、それに尽きる。

バイノーラル録音も人気だが、それも究極的には要らない。ヒカルが自分の周りをぐるぐる周りながら歌ってくれたり、耳元で囁いたりしてくれたら…考えるだけで顔面が人類史上最低レベルにだらしなくなるが、歌を歌って貰うのに別に動き回る必要もない。それに現実的な話として、そんな事をするリソースがあるんならモノラルスピーカーの音質が上がる方が多分ずっと嬉しい。いや、多分じゃなくて"絶対"かもしれん。だってさ、『30代はほどほど。』の3DVRって2Dより画質自体は低かったでしょ。そういうこと。同じだけリソースがあるのなら、一点集中の方がクォリティーは上がる。間違いなく。

逆を向くべきなのだ。ただヒカルの歌を聴くだけなら、ステレオすら要らないという反対側の極端を、知るべきだ。新しさなんて要らない、のです。極上の歌を聴けてこその人生なのです。

今も、イヤホンを着けていると、両耳の間で、頭の中でヒカルが歌っている。変な話だが、こうしていると歌が夢の中から鳴り響いているようにすら感じられてくる。ライブで聴く、といってもそこにあるスピーカーの位置は、本物のヒカルから数十メートルも離れているし、ヒカルは素ではあんなデカい声で歌えない。何がリアリティなのかなんて、わからないのだ。いや、知らないのだ、と言った方がいいか。ヒカルは生きていて、"本当の生歌"を、本当に聴けるのだから。

ただ、これだけマイクロホンと共に生きてきていると、生で歌声を聴くよりPAを通した方がいい響きだったりするかもわからないからね、難しい。やっぱり、何が"本物"かなんてわからないし、そもそもこだわるだけ時間の無駄なのかもしれない。

そこを踏まえた上で敢えて次の3DVRは"聴覚も"期待してみたい。厚かまし過ぎるかな(笑)。

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けもフレ12.1話投入で「春アニメが息してない」と専らだが、本当に息してないのは作画厨の皆さんだろうかな。全然声が聞こえてこないや。

アニメ技術のインフレで昨今の作画レベルはあがりまくり。そこまでこだわらんでもという凝りようになっていたところにけもフレの大ヒット。結局多くのアニメファンは作画の質よりキャラクターへの愛着やストーリーの面白さを重視していた訳だ。

となると、ゲームの歴史を思い出す。マシンの進化に伴ってグラフィックの美麗さを追究していく中で、結局大事なのはゲーム性だよねと揺り戻しが起こる。ただその場合、新しいハードでかなり強制力を発揮しなくてはならない。任天堂のゲームボーイやDSがいい例だ。

携帯ゲーム機、という"言い訳"を通して、マシンのスペックを思い切り下げて、テトリスのような「ゲーム性命」のコンテンツを投入する。ゲームボーイなんて初代はモノクロだぞ。ゲームウォッチの昔の続きみたいだった。

アニメにおいて今回"言い訳"になったのは3DCGという事になるのだが、けもフレ12.1話がリリース可能になったのもプレスコに近いスタイルで声優の声をあてられていたからだ。アニメが出来ていようがいまいが声を兎に角収録してしまえればなんとかなる。「君の名は。」で時代の寵児となった新海誠監督も、総てをひとりでつくった「ほしのこえ」においてすら、声は差し替えたのだから、アニメで"必ず手を借りなくてはならない"のは声なのだ。他は天才なら音楽も含めなんとか出来るかもしれないが、声だけは無理なのだから。

ともあれ、そういった制作体制のフットワークの軽さを得られるのがCGアニメの利点であって、12.1話のような"仕掛け"が今まで皆無だったのは、単純に出来なかったのだろうな。


爛熟した技術を一旦捨てる事で他の利便性なり利得なりを得られる、というのはどの分野でも参考になるだろう。『MUSIC HUB』でヒカルとなりくんが2人して「世界中のスピーカーが全部同じだったらいいのに」と冗談を言っていたが、それを聞いて「嗚呼、末期だな」と思ったよ。日々サウンドのクォリティーを追究していくとそうなるんだよねぇ。

毎度AMラジオ等を例に出して語っているように、サウンド・クォリティーの追究はマニアに任せておけばよい。いや、作り手側すら「サウンドなんて気にしない」くらいの気概が必要なのかもしれない。

もっとも、ヒカルの場合曲も詞も既に素晴らしいし、歌唱力もあんななので、あとはサウンドクォリティーを追い究めるしかないのも実際ではある。ゲームでいえばグラフィックは美麗でゲーム性も高い、アニメでいえば作画厨も白旗をあげつつストーリーも面白い、みたいなもんだ。ひとり気を吐いている。全部いいのだから文句も出まい。

ただ、ハイレゾの盛り上がり方をみるに、音楽ファンがどんな反応を…という話になったら長くなりそうなのでまた次回ね。

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