★連載NO.293
62年前のボクは、何をして遊んでいたのだろう。
昭和19年<1944>10月10日。那覇市垣花を空襲で追われ、恩納村山田を経て恩納岳に逃げ込み、明けて昭和20年4月、金武村<現・町>の山中において米軍の捕虜となり、石川市<現・うるま市>に収容されていた。少年の勘は鋭く、親、兄弟の表情から(もう、空襲や砲撃はない。逃げ隠れしなくてもよい)ことを感じ取っていた。
7才のボクは、いち早く出来た城前小学校に入学するが(学校)とは名ばかり。校舎もなく、教科書、帳面、鉛筆も行き届かず。登校しても、焼跡を整地する大人が出す小石や木片をカマジー<かます>に入れて、運び捨てる作業を1,2時間すれば、すぐに下校できた。それ以上、学校にいても大人たちにとっては(足手まとい)。また、家に帰っても7才の少年は、食料をあがなうのに必死の親には(構っておれない)存在だったように思える。
そうなると少年は昼間を自主的に過さなければならない。
幸いにして(構ってもらえない)のは、ボクひとりではなく、生まれ落ちた所は異なっていても、捕虜収容地を同じくした少年少女たちは、すぐに仲よくなった。ウェーキンチュ<金持ち>もクーシームン<貧乏人。フィンスームンとも言う>もいなかった。皆、平等にクーシームンだったのだ。そのことが、少年少女の連帯意識を高めて仲よしになったのである。
ひと月ふた月前、村はずれに投下された爆弾は、円形に大地を割っていて、折からの梅雨、そこに満々と水を湛えている。誰が言いだしたのかそこを「バクダン池」と呼び、少年少女たちの絶好の水遊び場になった。ボクが犬かき泳法を習得したのは「バクダン池」あっての賜である。
そのころの石川市には、フクギやガジマル、琉球松などの大木が戦火をはね除けて生きていた。少年たちは、それらを見逃さず、すぐに遊びを生み出した。
縦横に大きく成長したガジマルの太い枝に、米軍払下げの野戦用ロープをくくり下げる。そのロープの一方を直径15センチ程、長さ50センチほどの丸太の真ん中に、逆T字型に結べば出来上がり。T字にまたがり、前後左右に揺する一種のぶらんこ遊びである。それがうまく出来るようになると、ロープを横にゆすって、枝を出したガジマルのミキ<幹>を蹴ることが出来るかどうかを競った。しかし、上部はガジマルの枝。少年の体重でも上下運動が起きる。そのため、ミキを蹴り損ねると体ごとミキにぶつかってしまう。ボクなぞ幾度、怪我したことか。同じ年の古謝善次<こじゃ ぜんじ>は、ミキ蹴りが巧く、少女たちの拍手を独り占めにしていた。くやしくて(イヤな奴ッ)だったが、今日まで親しくしているのは、ロープが結んだ(縁)なのだろうか。
「ぶらんこ」は、どこで生れて、子どもの世界に君臨し、相変わらずの人気モノになっているのか知らないが、沖縄方言名は各地にあるようだ。
◇沖縄本島。
*インダーギー。*ウンジョーギー。*ヰンニャーギ<ヰンニャーニー>など。
「ギー」は「キ」すなわち「木」。ぶらんこは、木に縄を下げて作ることに関係しているようだ。共通語の「ぶらんこ」を、沖縄方言の特長のひとつである長音・引音にして、「ぶーらんこー」とも言い、いまでも使っている。
◇先島地方<宮古・八重山>
*ヨーンサー。*ヨイサーなどと言う。揺するときの掛け声からの名称と思われる。
◇奄美大島
*ニャンゲー。*インジャーギー<喜界島>。*オージナギー<沖永良部>など。
ぶらんこは、ひとりで乗り遊ぶよりも幾人かの仲間がいて、ひとり(何回)と揺する回数を決めた方がよい。
♪ぶ~らんこ~ ぶ~らんこ~ こ~げ~よ~ こ~げ~よ~
独特の節回しで数を数えていた。その唱えは、乗り手は発せず、背中を押すことを義務とする次の乗り手と、順番待ちの者が(自分の番)への期待を込めて唱えたものだ。
たいていは、10カウントを基本としたが、ボス的な年かさのモノは、なんやかや余計な言葉をはさんで数を誤魔化し、15カウントも20カウントも乗る。(ズルっ!)をやっていた。
♪イッカーイ!ニカーイ!サンカーイ!
♪チュケーン!タケーン!ミケーン!
カウントは、歌うかのように共通語、沖縄口でなされていたが、
♪ワン!ツー!スリー!の英語を覚えたのは、ボクの場合「ぶらんこ遊び」の中だったような気がする。
6月23日。「沖縄戦全戦没者慰霊祭」=慰霊の日。
1週間前の「父の日」に、息子や娘が孫たちを連れてやってきた。なんとなく遠い日のぶらんこ遊びを思い出した。しかし、62年の歳月は記憶を徐々に薄れさせていく。語るべきことは、忘却してはいけないのだが・・・。
次号は2007年6月28日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com
62年前のボクは、何をして遊んでいたのだろう。
昭和19年<1944>10月10日。那覇市垣花を空襲で追われ、恩納村山田を経て恩納岳に逃げ込み、明けて昭和20年4月、金武村<現・町>の山中において米軍の捕虜となり、石川市<現・うるま市>に収容されていた。少年の勘は鋭く、親、兄弟の表情から(もう、空襲や砲撃はない。逃げ隠れしなくてもよい)ことを感じ取っていた。
7才のボクは、いち早く出来た城前小学校に入学するが(学校)とは名ばかり。校舎もなく、教科書、帳面、鉛筆も行き届かず。登校しても、焼跡を整地する大人が出す小石や木片をカマジー<かます>に入れて、運び捨てる作業を1,2時間すれば、すぐに下校できた。それ以上、学校にいても大人たちにとっては(足手まとい)。また、家に帰っても7才の少年は、食料をあがなうのに必死の親には(構っておれない)存在だったように思える。
そうなると少年は昼間を自主的に過さなければならない。
幸いにして(構ってもらえない)のは、ボクひとりではなく、生まれ落ちた所は異なっていても、捕虜収容地を同じくした少年少女たちは、すぐに仲よくなった。ウェーキンチュ<金持ち>もクーシームン<貧乏人。フィンスームンとも言う>もいなかった。皆、平等にクーシームンだったのだ。そのことが、少年少女の連帯意識を高めて仲よしになったのである。
ひと月ふた月前、村はずれに投下された爆弾は、円形に大地を割っていて、折からの梅雨、そこに満々と水を湛えている。誰が言いだしたのかそこを「バクダン池」と呼び、少年少女たちの絶好の水遊び場になった。ボクが犬かき泳法を習得したのは「バクダン池」あっての賜である。
そのころの石川市には、フクギやガジマル、琉球松などの大木が戦火をはね除けて生きていた。少年たちは、それらを見逃さず、すぐに遊びを生み出した。
縦横に大きく成長したガジマルの太い枝に、米軍払下げの野戦用ロープをくくり下げる。そのロープの一方を直径15センチ程、長さ50センチほどの丸太の真ん中に、逆T字型に結べば出来上がり。T字にまたがり、前後左右に揺する一種のぶらんこ遊びである。それがうまく出来るようになると、ロープを横にゆすって、枝を出したガジマルのミキ<幹>を蹴ることが出来るかどうかを競った。しかし、上部はガジマルの枝。少年の体重でも上下運動が起きる。そのため、ミキを蹴り損ねると体ごとミキにぶつかってしまう。ボクなぞ幾度、怪我したことか。同じ年の古謝善次<こじゃ ぜんじ>は、ミキ蹴りが巧く、少女たちの拍手を独り占めにしていた。くやしくて(イヤな奴ッ)だったが、今日まで親しくしているのは、ロープが結んだ(縁)なのだろうか。
「ぶらんこ」は、どこで生れて、子どもの世界に君臨し、相変わらずの人気モノになっているのか知らないが、沖縄方言名は各地にあるようだ。
◇沖縄本島。
*インダーギー。*ウンジョーギー。*ヰンニャーギ<ヰンニャーニー>など。
「ギー」は「キ」すなわち「木」。ぶらんこは、木に縄を下げて作ることに関係しているようだ。共通語の「ぶらんこ」を、沖縄方言の特長のひとつである長音・引音にして、「ぶーらんこー」とも言い、いまでも使っている。
◇先島地方<宮古・八重山>
*ヨーンサー。*ヨイサーなどと言う。揺するときの掛け声からの名称と思われる。
◇奄美大島
*ニャンゲー。*インジャーギー<喜界島>。*オージナギー<沖永良部>など。
ぶらんこは、ひとりで乗り遊ぶよりも幾人かの仲間がいて、ひとり(何回)と揺する回数を決めた方がよい。
♪ぶ~らんこ~ ぶ~らんこ~ こ~げ~よ~ こ~げ~よ~
独特の節回しで数を数えていた。その唱えは、乗り手は発せず、背中を押すことを義務とする次の乗り手と、順番待ちの者が(自分の番)への期待を込めて唱えたものだ。
たいていは、10カウントを基本としたが、ボス的な年かさのモノは、なんやかや余計な言葉をはさんで数を誤魔化し、15カウントも20カウントも乗る。(ズルっ!)をやっていた。
♪イッカーイ!ニカーイ!サンカーイ!
♪チュケーン!タケーン!ミケーン!
カウントは、歌うかのように共通語、沖縄口でなされていたが、
♪ワン!ツー!スリー!の英語を覚えたのは、ボクの場合「ぶらんこ遊び」の中だったような気がする。
6月23日。「沖縄戦全戦没者慰霊祭」=慰霊の日。
1週間前の「父の日」に、息子や娘が孫たちを連れてやってきた。なんとなく遠い日のぶらんこ遊びを思い出した。しかし、62年の歳月は記憶を徐々に薄れさせていく。語るべきことは、忘却してはいけないのだが・・・。
次号は2007年6月28日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com