旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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さんしんを弾く人たち

2007-03-29 10:13:12 | ノンジャンル
★連載 NO.282

 中央アジアの遊牧民が生み出した三絃の楽器は、14世紀ごろ、中国を経て琉球に伝来したと言われる。
 原型はどうだったのか。それは、中国の大小さまざまな三絃楽器から想像するしかないが、沖縄のそれは長い年月をかけて工夫、改良がなされ、現在の形になった。
 もちろん、ひとつの形ではなく、宮廷の三絃匠による(型)がある。
 ①南風原型<ふぇーばる。通称、ふぇーばらー> ②知念大工型<ちにん でーく> ③久場春殿型<くば しゅんでん> ④久場ぬ骨<くばぬ ふに。久場春殿作> ⑤真壁型<まかび> ⑥平仲・知念型<ひらなか ちにん。平仲某作。知念大工型系統> ⑦与那城型<ゆなぐすく。通称・ゆなー>の7型。
 ◇材料。
*棹<そう>=黒檀<黒木の芯。くるち>。紫檀。ゆしぎ<イスノキの芯>等。黒漆塗りで仕上げる。
* 胴<ちーが>=共鳴盤。桑の芯。イヌマキ。楠。
*胴張<はい>=ミャンマー・インドネシア・タイ・ボルネオに棲息するアミメニシキヘビの皮。ほかに樹木や芭蕉の樹液を接着剤に、美濃紙を4、5枚重ねたものや薄い絹布を用いた渋張い<しぶ ばい>が有ったが、最近は見かけない。奄美大島に現存すると聞く。
*絃<ちる>=絹の縒り糸。最近はナイロンを使用。
*撥<ばち。爪・ちみ>=牛や水牛の角。象牙。地方では、山羊の角も用いた。
*駒<馬・んま>=竹。

*名称=さんしん。蛇皮線<じゃひせん。じゃびせん>と記載した辞書もあるが、沖縄では、その字は当てない。言わない。ただし、明治以降「三味線」の字は用いている。三絃・三線・サンシンの文字は見えるが、数年前から県は「三線」を公用語としている。

 現在、県内にどれくらいの「さんしん」が有るか。
 「県内市町村別・さんしん保有調査表」
①調査にあたっては、概数でかまいません。②集計の都合上、平成19年2月15日迄に御返事いただければ幸いです。
 第15回「ゆかる日まさる日さんしんの日」<3月4日>を実施するにあたり、RBCiラジオ・さんしん事務局は、平成18年10月1日付けで各市町村宛、挨拶文を添えて調査協力を依頼した。

 これまで、47市町村だった沖縄県も全国の例にもれず合併がすすみ、41市町村になった。保有調査表に従って、回答を得たのは15市町村。伝統芸能が多く残る勝連町、与那城町、具志川市、石川市が合併して誕生した「うるま市」には、大いなる興味と期待を寄せていたのだが、なにしろ誕生して間がなく、他の優先業務繁多のためと思われるが、想定以下の数字にとどまった。知念村、玉城村、大里村、佐敷町が合併した「南城市」も同様の回答数であった。
 データーを5つのカテゴリーに分別。その平均値に基づき、1丁当たりの人口を算出。また、音楽教育の一環として(さんしん)を取り入れた学校数、芸能への関心度を考慮に入れて推計した結果、25万2722という数字が出た。人口=138万5365人。5.48人に1丁という数字になろう。(念のため)あくまで推計である。単順に25万2000丁。5人に1丁と承知している。
 ほかに、観光土産用に作られた安価のさんしんやカンカラーさんしんも加えると、その数字は天井を知らなくなるが、それらは実用には適さないから、計上しないがよかろう。


 5年前の調査では、約21万丁だった。
 1972年。米国支配から解放されて日本復帰。27年ぶりの「沖縄県」となり、沖縄は他府県の耳目を集めた。そして、政治的にはもちろん、文化・芸能への関心度が高まる中、殊に島うたを中心にして認知度が増し、さんしん音楽はメジャーになった。沖縄人として(うれしい)ことだ。しかし、さんしんの丁数が増えればいいというものでもない。ブームに乗って、安価なさんしんを手に入れたまではよかったが、あとは飽きたかして、県内でも県外でも数丁のさんしんが、塵芥として廃棄されているとの話を耳にしている。
悲しい・・・実に。
 さんしんは、沖縄人にとって「心の花」である。歌は祈りとして伝承されてきた。例え(飽きた)にしても、塵芥と一緒にして欲しくない。飾り物にしてもかまわない。部屋の壁にでも掛けて、生かしておいて欲しい。そして、思い出した時でいいから、音を出してやって欲しい。そうすれば、数年、10数年の内には1、2曲の沖縄の歌が歌えるようになるに違いないのだから。


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春の琉歌・梅と鶯

2007-03-22 09:29:50 | ノンジャンル
★連載 NO.281

 寒さにそう強くない沖縄人は、年明けとともに、そこいらに飛び交う「初春」という言葉を信じて、1日でも早い(春到来)を期待しているのだが、なかなか思い通りに春は来てくれない。
 今年も恒例の期日に「日本一早い桜祭り」を終え、ツツジ祭りは開催中だが、吉丸一昌作詞。中田章作曲「早春譜」♪春は名のみの風の寒さや 谷のうぐいす歌は思えど・・・・の日々がつづいている。

 (それもそのはず)と、言い切れるかどうかは決めかねるが、新暦の2月18日に亥年を迎え、いま旧暦の2月に入ったばかり。沖縄がもっとも寒いのは、旧暦2月と言われるくらいだから、本格的な春(うるじん)は、新暦4月になるかも知れない。昨年は、閏年で旧暦7月が2度あった。そのことと、昨今の気象異変が相なって、今年の春は遅くなるようだ。もっとも、これは私のカンにすぎないが・・・・。
 それでも、春の主役はウグイシ<鶯>とンミ<梅>。春を待つ人びとは昔から、鶯・梅に託して(人生)を数多く詠んでいる。

 ♪初春ぬ梅ぬ なま蕾でぃ居しや 深山鶯ぬ 声が待ちゅら
 <はちはるぬンミぬ なまちぶでぃWUしや みやまウグイシぬ くぃーが まちゅら>
 歌意=春だ春だと人は浮かれているが、梅はまだ蕾。それは、奥山から梅を慕ってやってくる鶯の声を待っているのだろう。鶯の声で花ひらきたいと、梅は思いを定めているのだ。鶯よ、はやく里におりて来い。
 春の風物詩としてとらえるのもいい。また、梅を女性・鶯を男性に置きかえるもいい。
 女童<みやらび・なーらび>は、似合いの若者と出会い、結ばれてこそ花ひらく道理である。
 幼鳥の鶯。つまり(藪鶯)は、発声訓練が未だ十分ではなく「ホー」が打ち出せず「ケキョ、ケキョ」と鳴く。嘴が黄色い。そのことから沖縄では、藪鶯を「チョッチョー・チョッチョイ・チョッチョロー」と言う。そして、年齢は大人の域に達していても、その言動が幼稚なものに対して「やなッ!チョッチョイ!」と、戒めの言葉を投げ放つ。主に男子が対象となるが「きみッ、まだまだ嘴が黄色いよッ」と、同義語なのである。

 ♪昔匂い添たる 深山鶯ぬ 鳴声忘しりたみ 花ぬあるじ
 <んかし にうぃすたる みやまウグイシぬ なちぐぃ わしりたみ はなぬ あるじ>
 歌意=かつては、匂い・香りを慕ってくる鶯と寄り添って春を謳歌した仲なのに 、このごろは、どんなに「ホーホケキョ」と美声を放っても、反応がなく開花の様子もない。鶯の鳴き声を忘れてしまったのか花よ、梅よ。
 千野かおる作詞。鳥取春陽作曲「籠の鳥」♪逢いに来たのに なぜ出て逢わぬ 僕の呼ぶ声 忘れたか。
 私にも、それらしい経験がないでもないが。サラバンジ<若い盛り>のころ、梅にも優る女性と春夏秋冬、都度逢ってロマンを語ったものだが、このごろは会見を申し入れても、他人行儀の声が返ってくるばかりだ。もっとも、梅はすでに「籠の鳥」になっていて、かく言う私も老鶯になってしまっては、詮ないことである。
 しかし、梅の香り、花への憧れは持ちつづけている。老鶯は、つぎのような琉歌を好んで口にする。

 ♪春や世の中ん 匂いに包まりてぃ 人ぬ肝までぃん 花になゆさ
 <はるや ゆぬなかん にうぃに ちちまりてぃ ふぃとぅぬ ちむまでぃん はなになゆさ>
 歌意=幾年月めぐっても、春は四方、花の香に包まれて、すべての人の心も花のようにやさしく清らかになる心地がする。
 人間は、環境に左右されやすい。季節の風にも感応せず、鳥の声にも耳をかさず、梅にも桜にも目をやらないでいると。心の中に何時までも寒風を囲うことになる。それでは、あまりにも切ないというもの。めぐり来る花の季節への期待感を胸に抱いていれば、佐藤惣之助作詞。古賀政男作曲「人生の並木道」♪・・・・この世の春は きっと来る。

 沖縄の風は、南へまわると見せかけて、まだまだ北から吹く。しばらくはそれを繰り返し、やがて「別り寒さ=わかり びーさ。冬に別れを告げる寒さ」「戻り寒さ=むどぅい びーさ。寒の戻り」があって、うるじん・若夏へと時を移していく。
 その修業は、藪鶯が成鳥となり、誇らしく「ホーホケキョ」と鳴いて告げてくれる。

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そう、あのさんしんですよ

2007-03-15 10:08:47 | ノンジャンル
★連載 NO.280

 「おかあさん。ぼくのあの帽子、どうしたのでせうね? ええ、夏礁氷から霧積へ行くみちで、渓谷へ落とした あの麦藁帽子ですよ」
 西条八十の詩をキーワードに、敗戦国の社会と日本人の悲劇を描いた森村誠一の小説「人間の証明」は、アメリカの統治下におかれた沖縄の昭和20年代と重ね合わせて、身を震わせながら読んだ。

 なくしたもの。
 沖縄芝居の女優北島角子の場合のそれは、むぎわら帽子ではなく、さんしんであった。
 戦時中、彼女たち一家は、南洋諸島のパラオで過ごしている。父・上間昌成を中心に家族4名。
 奇跡的に戦争の犠牲になることなく、昭和21年無事、ふるさと沖縄の地を踏むことができた。引き揚げは、米軍の輸送船。船中では、ネービーたちの厳重な監視下に置かれていたが、パラオを出港して1日もすると引揚者、殊に沖縄人たちには輸送船の向かう先に、もうふるさとが見えていた。
「命、儲きたん=ぬち もうきたん。直訳。命を儲かった。生き延びた。命拾いの意」
 このことは、大いなる希望につながって、歌をうたう(気)を高めた。役者であり、劇作家の上間昌成は、いち早くその(気)に気づき、先祖のイーフェー<位牌>と共に、片時も放さなかったさんしんを取り出して弾き、歌いだした。「浜千鳥節」「貫花」などなど。はじめは、上間昌成の独唱であったが、ふたり、5人、7人と加わり、引揚者30名ほどであっただろうか、輸送船の甲板には、歌の輪ができた。手拍子を取る者。ありあわせの板切れで太鼓よろしく、箱や樽をたたく者。そこは(命の宴)の場になっていた。
 (なにらごとッ)と、物珍しそうに見物していたネービーたちも、命の宴が3度4度と繰り返されると、3人5人10人と輪の中に入ってくる。
 上間昌成のさんしんは「川平節」「唐船どーゐ」など早弾にかわる。あとは沖縄人のペースだ。チュイナー舞らしぇ<ひとりづつ舞うこと>は、いつか総立ちのカチャーシー舞になる。ネービーたちの手を引っぱって踊りの輪にいれて踊らせる。彼らもまた、見よう見まねで踊る。さんしんの音の中では敵も味方も、勝ち組みも負け組みもなくなっていた。
 やがて。
 明日は、沖縄本島久場崎に入港することになる。ふるさとを目前にして、引揚者の気持ちは高揚。その日の宴は、いちだんと気合が入り、上間昌成の弾くさんしんの音は、太平洋の波をも踊らせた。ようやく、命の宴が終わったとき、ネービー3人が上間昌成に話しかけてきた。
 「0×0×0××」
 何を言っているのか上間昌成には皆目、理解できなかった。知っている英語といえば、「イェース」と「サンキュー」のみ。でも、さんしんの音に共鳴しあった仲(悪いことを言っているのではあるまい)と、ともかくも「イェース」「サンキュー」を。彼らの語りかけの合いの手にして連発した。すると、3人のうちのひとりが満面の笑みで席を立ち、そして持ってきたのは米製煙草ラッキーストライク5、6ボール。当時は、1カートンをひとボールと言った。つまり、彼らは、
 「その珍しい楽器を煙草と交換しないか」
 と、持ちかけていたのである。それとはツユしらず上間昌成は「イェース」「サンキュー」を返事としたのだから、取引は一方的に成立。引揚者は皆、ふるさとの地を踏むことができたが、上間昌成愛用のさんしんは、下船することなく、ふたたび太平洋を渡っていった。

 戦後。沖縄芝居が復活し、上間昌成は役者として活躍するが、ときにふれ、
 「あのさんしんは、どうなったろうかね。そう、太平洋上でわかれた、あのワシのさんしんだよ」
 と、家人に問いかけるともなくつぶやいていた。
 娘・北島角子もまた「ゆかる日まさる日さんしんの日」の前後には、決まって話す。
 「ほんとに、うちのオトーのさんしんはどうなったのか。アメリカのどこかでジャズでも奏でているといいのだが・・・・。飾り物でもいいから、生きていてほしい」

 沖縄に駐留した米兵が入替えで帰国する際、戦利品・・・・にしたとは考えたくないのだが、とかく多数のさんしんを持ち帰ったと聞く。
 「米兵よ。さんしんはどうしていますか。そう、あなたが持ち帰った、あのオキナワのさんしんですよ」



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さんしんの日・会話・来年はッ

2007-03-08 10:27:22 | ノンジャンル
★連載 NO.279

 第15回「ゆかる日まさる日さんしんの日」<RBCiラジオ主催>は3月4日、沖縄中をさんしんの音で春色に染めて華やいだ。さんしんの周辺には、いろんな世話ばなしが生まれる。


 琉球放送株式会社ひと筋。39年経理を担当。経理局長・役員を勤めて2月末日をもって定年退職した新嘉喜友功。専門職とは言えその道に徹しての定年であった。そのせいもあってか(さんしん音楽)とは、まったく無縁。ときたま、イッパイ入って歌う歌は、決まって「河内音頭」。専修大学時代に覚えたらしい。7つの差はあるが、つぶしが効かず、制作現場から異動させてもらえなかった私とは、妙に気があって兄弟分を通してきた。
 新嘉喜友功の出社が(今日まで)になった日、私は愛用のさんしんを専用の箱に納めて贈ったが・・・・。3日後彼は、共通の友人にもらしていた。
 「僕は、さんしんの持ち方さえ知らない。上原先輩は、友情を濃くして愛用のさんしんを進呈してくれたのだろうが、持ち帰ってつらつら考えてみた。先輩にとっては、意味合いを持つさんしんも、まったく弾けない僕のもとでは、失礼を承知の無用の長物。先輩の志だけをいただいて、お返しすべきでは・・・」
 深刻に近い口ぶりであったと言う。私は、すぐに新嘉喜友功に電話を入れた。
 「自分が好きなモノは皆、好きなのだと錯覚したようだ。余計な気遣いをさせてすまなかった。遠慮なく返していいよ。その代わり収集品のひとつ、壺屋焼の花瓶と交換しようか」
 定年記念の贈り物を交換するのも妙な話だが、彼に負担をかけまいとする気が多少、はたらいたからだ。
 林不忘の小説「大岡政談」に登場する丹下佐膳の手に入った(乾雲坤竜)ふた振りの妖刀は、夜になると「血が吸いたいッ」と、夜鳴きして丹下佐膳を狂乱させたそうな。人斬り包丁に成り下がった妖刀は、さもありなん。ほんものの名刀は「鞘におさまっているもの」とは、黒沢明映画「椿三十郎」の中のセリフ。妖刀とさんしんを同列にするつもりがあってはならないが、
 「さんしんは、置物ではない。弾いてはじめてさんしん。花瓶と交換しよう」
 新嘉喜友功との会話は、丹下佐膳、椿三十郎まで引き合いにして、ついつい長ばなしになってしまった。しかし、さんしんと花瓶の交換が成立したかといえば、そうではない。彼の判断は、意外な言葉となって返ってきた。
 「先輩。その交換ばなしは1年、待ってくれませんか。15年育った(さんしんの日)は、放送現場にこそ立てなかったが、僕も琉球放送の社員として、深く関わってきたと自負しています。今年は間に合いませんが、1年かけて練習して、16回目には「かじゃでぃ風」を弾き、歌えるように努力してみます。願望が叶かどうか、やってみなければ公約できませんが、ともかく1年だけ、このさんしんを預からしていただきたい」
 私にとっては、感動的なコメントだった。もちろん、新嘉喜友功の決意を尊重・優先。さんしんは花瓶に代わることなく、彼の家に住むことになった。つぎに私がやることは、さんしんの教則本「工工四」を彼に届けることである。さんしん仲間がひとり増えたことが、何よりうれしい。

 一方。
 「さんしんの日」の立ち上げからの同僚である真栄城忠之<現・RBCビジョン社長>は(オキナワンスピリッツ・サンシン)なるキャッチコピーを生み出し、
 「第1回目は間に合わないが、来年までにはさんしんをモノにして合奏に加わりたい」
 と、興奮気味に決意していた人物。しかし、(来年)という言葉が好きなのか今年、遂に14回目の(来年はッ)を聞いてしまった。
 待て。
 真栄城忠之の名誉のために一言、書き添えたい。彼は現役の社長。琉球放送入社当時から、仕事の鬼として知られている。弾きたくとも、さんしんを手にする時間がないのである。私としては、真栄城忠之の(来年はッ)を何年でも待ちつづける。

♪置ちょおてぃん鳴ゆみ 提ぎとぉてぃん鳴ゆみ 里が抱ち弾ちどぅ 我胴や鳴ゆる
 <うちょおてぃんなゆみ さぎとぉてぃんなゆみ さとぅがだちふぃちどぅ わどぅやなゆる>
 さんしんは訴える。
 「私、さんしんは、あなたがふれもせず置いたままでは鳴りません。壁に飾りもの同様に、提げて眺めてもなりません。あなたが両手でやさしく抱き寄せて弾いてくださってこそ、いい音を出せるのです。鳴るのです


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うるじんに蘇る・金武良仁師の遺声

2007-03-01 09:36:52 | ノンジャンル
★連載 NO.278

 「琉球古典音楽の世界は、いささか専門的。CD出版もそうそうない。かならずしも商売になるとはかぎらないが、音楽にかかわる仕事をしている以上、古い音源の復刻と記録は、私の義務と考えている。著作権等、クリアすべき事項があって時間を要したが、念願かなって、ようやく日の目を見る」
 民謡を中心にCDや書籍の出版をしている有限会社キャンパス・備瀬善勝社長の弁。
 古い音源とは、近世の名人とうたわれる琉球古典音楽家金武良仁師の遺声。昭和9年と昭和11年に収録された蓄音機盤の19曲。

 金武良仁師<きん りょうじん>は王府時代の宮廷音楽家安富祖正元<あふそ せいげん。1785-1865>の後継者安室朝持<あむろ ちょうじ。1841-1916>に師事。「絃声会」なる団体を組織して、安富祖流古典音楽を今日に伝えた人物である。
 この先人の遺声のCD化に際し、ライナーノーツを沖縄芸能史研究家崎間麗進氏に依頼した。

    §「楽聖金武良仁の歌三線」  *崎間麗進

 金武良仁は、琉球古典音楽はのために生まれてきた人である。
 音楽を科学的に考察することをこころがけ、師匠・安室親雲上<あむろ ぺーちん。親雲上は官位名>を裸にして聴診器をあて、発声時の胸音や腹音を聞いて歌唱法を研究。
 また、ナービナクー<鉄鍋の修理工>の呼びかけの声の発声法に関心を寄せるあまり、それを確認するため長時間、街中をついてまわったという。
 趣味として乗馬、弓道などをたしなみ、さらにはチャーン<鳴鶏>を観察して、その鳴き声の名称、打チ出シ・吹チ上ギ・チラシをはじめ、ソーミナー<めじろ>の高い鳴き声「タカブキー」を分析。それぞれの名称は、三線音楽の発声名に酷似していることなども研究の対象にしていた。
 古典音楽を正面に置き、後継者育成はもちろん、自らをきびしく鍛え上げるという芸術家肌で、弟子も古堅盛保ら少数にしぼり、日々の稽古は並みのそれではなかったようだ。
 昭和11年5月。日本民族音楽協会が主催する「琉球古典芸能大会」が、東京の日本青年会館において盛大に催された。柳田国男、折口信夫らが世話人となった記念すべき公演に、金武良仁も歌三線の一人として参加した。
 ところが金武良仁は、病をおしての上京。高熱を発して声が出なくなっていた。会話もままならないほどの重態。世話役の折口信夫は舞台挨拶で、
 「金武良仁は、高熱のため平常の声は出ないと思いますが、せめて名人の三線を持った姿だけでも、とくと見てください」
 と、案内した。しかし、金武良仁は舞台に上がり、なにごともないかのように三線を弾き歌い出した。それはいつもと変わらない歌唱であった。(緊急)に備えて、舞台の袖に待機していた平良医師は「金武良仁の声帯の有り様は、医学でも説明がつかない」と、感嘆していたという。
 この機会にと、金武良仁の演奏の蓄音機盤が企画され、伊波普猷<いは ふゆう>、比嘉春潮が仲介。コロンビア社で16曲を収録することができた。ここでも、担当技師が要求するテストを(時間がもったいない)との理由でやらず、一気に16曲を吹き込んだのであった。
 公演を終えて帰郷すると、すぐに病床に就いた。そして、残念ながら自らの声を聞くことを得ないまま9月1日、近世の楽聖金武良仁は他界している。
 金武良仁の理解者であった尚順<しょう じゅん>は後日、その死を惜しみ、レコードについて「息切れもしたであろうが、そこは修練の力をもって巧みに息をついで歌った。一片の遜色もない。貴重な記録だ」と、賞賛したと聞く。


        §   §   §   §   §

 金武良仁師が勉強会的に発足させた「絃声会」は、時を経て昭和6年<1931>、師の高弟古堅盛保を中心に「安富祖流絃声会」の設立につながる。安富祖流の保存・伝承を目的とした音楽団体だ。さらに、安富祖流絃声会は、宜保宜栄―宮里春行―照喜名朝一に受け継がれて、今日に至っている。そして、後継者の照喜名朝一氏は、その功績により、平成12年<2000>、人間国宝として認定された。

 3月4日は、第15回「ゆかる日まさる日さんしん日」<主催・琉球放送ラジオ>。
 ラジオの時報音を合図に、沖縄中のさんしんが一斉に名曲「かじゃでぃ風」を奏でる。
 悠久の時の中で、琉球文化を彩ってきたさんしん。15回の節目に、伝承の中核をなしてきた金武良仁師の遺声がCDとして蘇るということは、沖縄の音楽を愛してやまない人々にとっては、大きな意味をもって受け入れられるにちがいない。

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