旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

写真・君の名は

2009-08-27 00:20:00 | ノンジャンル
 乱雑きまわりない書斎兼寝床の部屋の目立つところに、59歳で逝った親父直實と90歳の長命を全うしたおふくろカマドの写真がある。折りたたみのできる額に、ふたりは向き合っておさまっている。
 1日に1度は目をやるようにしているのだが、このところ意識的に両親の遺影を見る回数が多くなっているのは、お盆の月だからだろう。[んッ?親父との2ショットの写真を撮った記憶がないな。おふくろとのそれもない・・・・」。そのことに気づいて、ちょいと寂しい。殊に親父は、私とは13年のつき合いしかなく、昭和24年に逝っている。そのころ親たちには、親子の写真撮影の発想も余裕もなく、どうしても撮らなければならない顔写真や特別の記念写真は、街の映画館へチュラスガイ〈おめかし。正装〉して出かけなければならない時代だったから仕方がない。
 戦後すぐに沖縄芝居や映画の巡回興行が掛かる劇場が建ち、並行して貸本屋兼文房具屋に行けば、映画スターのプロマイドを買うことができた。中学3年、私が初めて手に入れたプロマイドは、松竹映画のトップ女優岸恵子の笑顔。技術的には上質な仕上がりではない印刷だったが、少年の胸を躍らせるには十分だった。しかし、児童生徒がそのようなモノを所持することは[教育上よくない]として禁止されていた。でも時遅し。岸恵子はすでに少年の中では恋の対象になっていた。彼女には兄が読み尽くした、少年には読んでも理解できない島崎藤村詩集の千曲川の辺りに住んでもらい、米軍払い下げの野戦用鞄を親父が改良して持たせてくれた通学鞄に忍ばせて朝夕、一心同体だった。したがって、いまでも映画やテレビで岸恵子に逢うと、私は少年に返ることができる。



新聞に切ない記事をみた。
 大手の広告会社博報堂の生活総合研究所が暮らしの現状を探るため、2009年3月に実施した「持ち歩く写真」に関するデーター記事である。首都圏、名古屋圏、阪神圏の15歳から69歳までの男女約2800人から聞き取りし、人口構成を反映するように統計処理したという。この「外出時の持ち物実態調査」の写真に関しては、手段は「携帯電話」が87.3パーセントで圧倒的。あとは「手帳」など。
 分析結果によると男性の場合、62.7パーセントが子どもの写真。次いで妻42.5パーセント。犬や猫などペットが27.2パーセントの順。では、女性の場合はどうか。トップは男性と変わらず、子どもの写真が54.0パーセント。その次がなんとペットの33.7パーセント。夫の写真は犬、猫にも及ばない25.0パーセントに過ぎない。同研究所によると「家族を心の支えにする男性とは対照的に女性は、夫が仕事で家にいない中、愛情をまっすぐ返してくれるペットを大切に思っているのでは」と分析している。ゴキブリや蚊を退治する殺虫剤メーカーのCMコメント通り、世の中には遂に「亭主元気で留守がいい」になってしまったのだろうか。
 では、私の携帯電話におさまっている「持ち歩いている写真」はと言えば、中学校2年生を筆頭とする女児だけの孫5人の笑顔ばかりである。岸恵子にも遠慮いただいている。しからば妻女はどうだろうか。私と同じく孫たちのそれが大方なことは承知。そこで恐るおそる聞いてみた。
 「オレの写真も入っている・・・・・かい?」
 妻女はなぜか白けた表情のまま、あらぬ方向へ目を向けてしまった。ひと言のコメントもないまま・・・・。



 写真余話。
 後輩のTの妻女は、結婚前から琉球舞踊を正式に習っていた。ある年、お師匠さんの勧めがあって、沖縄タイムス主催の芸術選奨新人賞部門を受けることになった。課題舞踊は「伊野波節」。

 symbol7逢わん夜ぬ辛さ 与所に思みなちゃみ 恨みてぃん忍ぶ 恋ぬ慣れや
 [貴方に逢えない夜は、なんとも辛い。私のことを忘れて、よその美女に思いを寄せて逢っているのではないか。心は千々に乱れ、恨めしさがつのる。いやいや、貴方に限って、そんなことはあり得ない]と、否定しながらも、思いびとを忍ぶ恋ごころ。[恋の慣れとは、こうも辛く切ないものか]。琉球舞踊の中でも内容の濃い演目だ。
 この繊細かつ華麗な舞踊表現するために、Tの彼女はあることをした。恋愛進行形中の彼Tの写真を紅型衣装の胸深くにおさめ忍ばせて「伊野波節」を踊り通し、新人賞に合格した。
 この話には続きがある。二人はめでたく結婚するが、彼女が新人賞を得たのを契機に夫Tは、古典音楽研究所に入門。数年掛けて彼もまた、新人賞、その上の優秀賞を受賞している。夫婦してその道に進むつもりは最初からなく「オレの歌三線で妻を踊らせたかった」「夫の歌三線に乗って踊りたかった」なのだそうだ。サラリーマンを定年退職したいまでも、機会あるごとにそのことを披露している。

 お盆。久しく開いていない数冊の写真アルバムをめくりながら、過ぎし佳き日に思いを馳せてみるのもいいかも知れない。そこには、現実の淡泊さとは異なった「伊野波節」のような想いの場面があるに違いない。私は、マチコ巻きの岸恵子を恋慕いつつ菊田一夫作詞、古関祐而作曲、歌織井茂子。昭和28年〈1953〉の松竹映画「君の名は」の主題歌を歌う。妻女の携帯ファイルに、私の写真は入ってなくても、気分は佐田啓二だ。
 symbol7君の名はと たずねし人あり その人の名も知らず 今日砂山に ただひとりきて 浜昼顔に聞いてみる





お盆の節入り・七夕

2009-08-20 00:20:00 | ノンジャンル
 暦をめくってみると、平成21年8月26日の日付の下に「旧七夕」とある。
 およそ日本古来の年中行事は、陰暦でなされてきたが、明治政府は国際社会にでるための改善事項のひとつとして、陰暦を廃し、世界共通の陽暦・西洋暦を採用して今日に至っている。そのことはそれでよい。しかし、東洋の農業・漁業は、遠くエジプトを起源とする西暦月日巡りでは処しがたい歳月差が出てくる。季節風、雨期、潮の干満などなど。東洋の中の日本列島は、すべてを西洋並でも具合はよくない。古来の年中下行事も西洋暦で行なうわけにはいかない面が出てくる。
 沖縄の場合、代表的な正月、ハーリー〈海神祭〉、綱引き、エイサーなどは、いまでも陰暦に合わせてなされてるのが主流。もっとも、県庁所在地那覇では、かつて陰暦5月4日に漕いでいたハーリーは陽歴5月5日の連休に、陰暦6月か8月に引いていた大綱引きは10月10日の連休に実施している。これは、観光立県を標榜する県や主催者側が県外からの観光客誘致を視野に入れてのこと。地方では、慣例にしたがって陰暦の定まった日になされている。実施日が特定された伝統行事も、いまの生活パターンに合わせていくということか。念仏踊り・エイサーにいたっては、お盆の先祖供養とは無縁になり、県内外のイベントで年中演じられるようになった。
 とは言っても、エイサーはお盆の祭祀芸能。陰暦の当日は、先祖神の慰霊・供養と豊作の感謝及び翌年のそれを祈願することを失念せず今日、伝統にのっとって厳かに華やかになされていることにも関心を寄せなければなるまい。

   
      写真:ハーリー行事

 七夕はどうか。
 中国伝来の星物語行事は、いまや陽暦化。沖縄では保育園や小学校でなされるだけで、一般家庭では、そうそう行われない。それも、沖縄の七夕はお盆の[節入り]を告げる日と位置付けされているからだ。つまり、この日から陰暦7月15日までを「盆の日々」としているのだ。したがって、七夕の日に笹飾りや短冊書きはめったにしない。墓参が重要な行事。一家の幾人かが墓前に供える花と線香、草刈り用具を携帯して墓参して、周辺を掃き清める。その後の祝詞はこうだ。
 「陰暦7月13日には一家、一族相揃い馳走を作り、先祖神皆々さまのお下をお待ちしております。どうぞ、我ら子孫の接待を快くお受け下さいますように」
 簡単に言えば、先祖神にお盆の招待を掛けるのが沖縄流の七夕行事。この接待のことを「御取持ち=うとぅいむち」と言うが「御取持ちされて下さい」とする謙虚な心映えがいいではないか。
 また「七夕、日なし」と言い、洗骨や墓の移転、水神や守護されたムラガー〈集落の共同井戸〉や屋敷内の井戸の底さらいなど、ふだんは[やってはならない]とされることを実施するに、むしろ[よい日]とされている。したがって仏壇、仏具を清めたり、新装する家庭も少なくない。琉球由来記には、琉球国王尚真が1492年に着工、3年後に竣工した第2尚氏王統の菩提樹・円覚寺を後年、国王が参拝した後、御共衆に素麺をふるまったという記述がある。

 【蛇足】王家とは縁もゆかりもまったくないわが家だが、慣例として七夕の墓掃除の後は、決まって[冷や素麺]を食する。この日の前後は「七夕太陽=たなばた てぃーだ」と称し、ことのほか暑さが厳しく食欲が落ちる。でも冷や素麺ならば涼とともに喉を通ってくれる。たったそれだけの理由。
 本土の七夕祭も起源は農事に関わる儀式。神仏に五穀豊穣の感謝と祈願する行事と、ものの本で読んだ。それが中国の天の川伝説と結びつき[星祭り]が表立っている。
 長野県松本地方には「七夕人形」を作り、軒先に吊るし飾る風習が継承されている。30センチか40センチか。とにかく大小の竹棒などを十字に固定し、顔をきれ板に描いた頭部を付け、着物を着せる。それも数体。それぞれに魂があり、現世と来世を結ぶ役割を果たしているそうな。穏やかで崇高な風習のように思える。子どもたちが主役であることは言うまでもない。

 沖縄に笹飾りや短冊書きがまったくなかったわけではない。琉球国が日本国に組み入れられた明治12年以降、日本教育の中に星祭りは登場した。
 昭和20年、終戦の年に小学校1年生を始めた私なそも、3年生か4年生のころ、
symbol7ささの葉さらさら 軒ばにゆれる お星さまきらきら 金銀砂子 symbol7五色の短ざく わたしがかいた お星さまきらきら 空からみてる[たなばたさま]の唱歌を教わって歌い、ヤンバル竹〈琉球竹〉を笹代わりに飾り付けをした。おそらく戦争で荒んだ少年少女の心のケアの意図があったのではなかろうか。ちなみに「たなばたさま」の歌は昭和16年3月、文部省発行の「うたのほん・下」に掲載された。作詞権藤はなよ。補作詞林柳波。作曲下総皖一。



 単に短冊書きのためのみではなかったろうが、週に一度は[お習字の時間]があった。毛筆や墨、硯はなんとかあったが、習字用の和紙がない。いや、あろうはずがない。紙は米軍払い下げのそれも、タイプを打った使用済みの裏面を使用していた。しかし、ウーマク〈悪童〉を身上としていた私は、その紙で飛行機を作って飛ばし、先生のお叱りを受けてしぶしぶ筆を取ってはみても、そのたっぷりとつけた墨は机上の紙ではなく、隣席の女の子の顔に走らせるのが常だった。
 その祟りに違いないが、私の直筆は誰も読めない。見事すぎるミミズ走り。学問の神様は確かに存在する。


    写真:原稿直筆
 

清く正しく・衆議院議員選挙

2009-08-13 00:20:00 | ノンジャンル
 「今回の選挙は、政党を選ぶのではありません!政策を選ぶ選挙です!」
 2009年8月18日告示。8月30日投開票される日本国衆議院議員選挙を前に、各政党の顔たちはマニフェストを掲げてがなり立てている。これを評論家先生たちは「珍しい政策選択選挙」と位置づけて、言いたいことを言い合っている。政権交代成るか!確かに重要な国政選挙には違いないが、不況のどん底にあって、毎日の暮らしには酷暑にも関わらず、夏の木枯らしが吹き、ただただジッと身を縮めざるを得ない国民には、政策を吟味するジンブン〈知恵〉も出ない。
 いつの時代の俗諺かは知らないが「銭ジンブン=じん」とは、よく云ったもんだ。銭がないことを[首が回らない]というのと同意で、このところ国民の首は右にも左にも回らなくなったし、これと言ったジンブンも出ない。この現実で何をどう選べばよいのか、8月30日が近づくのがなんとも重たい。

 選挙カーから笑顔で支持を訴えるウグイス嬢。そのほとんどがアルバイトらしい。日当は1日、1万5000円とも2万円とも漏れ聞いている。そして、彼女たちもドライに割り切っていて「いい日当」が目的。その立候補者や所属政党を特別に支持しているわけでもないそうな。
 これは30年ほど前の選挙戦中の出来ごとだが、選挙カーには複数のウグイス嬢が同乗し、交代でマイクを握り支持を訴えていた。ウグイス嬢のバイトに就いたG子さん。自分の番を終えて交代したまではよかったが、連日のハードスケジュールの疲労が一気にきたらしく後方シートでウツラウツラしてしまった。しばらくして再び自分の番になり、いきなり起こされてマイクを渡された彼女、ライバル候補のことも気になっていたのだろう、自分の雇主が誰だったのかついつい失念。ライバル候補の名前を連呼してしまった。G子さんは非を恥じて、翌日からウグイス嬢を辞退した。気になるのは、日当はどうなったのか。また、いずれの候補者が当選したのか。その辺までは伝わっていない。

 選挙戦に入ると、県下はくまなく笑顔のポスターで埋めつくされる。候補者のほとんどがカメラ目線でニッコリ。[いつでも笑顔で暮らせる幸せな人たちなんだなぁ]と、羨ましく思う。さらに思うのは県民が、国民が笑顔で生活できると[もっといいのになぁ]なのである。
 ポスターの配色をどうするか。立候補者の着衣を何色にするか。それによって浮動票は増にも減にもなるそうで、色彩は侮れないとプロの選挙参謀がテレビで語っていた。言われてみれば、アメリカのオバマ大統領は赤、クリントン国務長官は黄色をシンボルカラーにしている。
 こうして様々な作戦を駆使して[当選]に向けて白熱化する選挙戦だが、せっかくのポスターでイメージを悪くする例も少なくない。今回も告示前からポスターは出まわっている。それに目を光らせるのは選挙管理委員会や警察だ。今日現在、各地の目抜き通りに貼られているポスターの中には、ニッコリ笑ったそのアゴの下に[違反掲示]のステッカーが権威を持ってペタリ!貼られてるのがある。その数、県下では何枚に達しているのだろう。市町村の美化条例違反にもあたる。
 「街を美しくしようとする美化条例さえ守れない人が議員になって、憲法・法律がまもれるかねぇ」
 笑顔と警告ステッカーを交互にみながら、買い物中らしい初老婦人がつぶやいていた。いまや有権者は政党の議席数には関心はない。まして総理大臣の席取りゲールにも、もう飽き飽きしている。また、女性運動家の「私たち女性は・・・」の演説に「この人たちの言う“私たち女性”の中にワタシも入っているかねぇ」と怪訝顔をした農家の中年女性の言葉もずっしりとした重みがあった。ファッションの相違がそう言わせたらしい。




 投票は、個人の自由な意志・選択が反映されてはじめて「清き1票」になり得る。しかし、何としても当選!を勝ち取るためには「汚い1票」も生まれるようだ。選挙のたびに「クリーン選挙」を打ち出すのも、不正な汚い1票を締め出す目的がはっきりあってのこと。それでも支持者は、金にモノを言わせて[清くても汚くても1票は1票!]を敢行する。この慣例は時代を問わない。
 昭和7年〈1930〉。名護町〈現名護市〉の町会議員選挙が実施された。が、フタを開けてみると有権者数よりも300票も多い結果となった。当然、関係者から意義申し立てがあって、この選挙は無効。改めて同年8月9日に再選挙がなされて1件は落着した。もちろん。不正票に関わった違反者は裁判にかけられ処罰されたのは言を持たない。当時の新聞はこれを「幽霊票300・名護のゆうれい投票事件」と見出しをつけて報じたと、名護町史にある。

 親しい友人Bは「投票ねぇ、破棄はしない。まずは他人が衆議院という職場を得るため就職運動のつもりで出かけるよ」と、ジョークとも本音とも取れる言葉を発していた。ちょっとだけ笑ってはみたものの、頬が強張って声まではでなかった。有権者の意識が見え隠れはしないか。こんな国会に誰がした。



世に連れ価値観も変化

2009-08-06 00:20:00 | ノンジャンル
 「美術」に接するのは、中学生になってからのことだった。
 それまでは「図工・工作」の授業がもっぱら。屁理屈のひとつやふたつは言えるようになったころの「美術」との出合いは、なんと感動的だったことか。自分が賢くなったような気がした。セザンヌ、マネー、ゴッホ、ゴーギャン、点描のスーラ。梅原龍三郎、村山槐多、岸田劉生などなどの名前と作品名を必死に覚え「賢くなる」ことに磨きをかけた。
 それらを教えて下さったのは知花俊夫先生。先生は教科書のほかに、沖縄画壇の南風原朝光、名渡山愛順、玉那覇正吉、大嶺政寛、金城安太郎、島田寛平らについても熱っぽく語っておられた。この方々は当時、現役バリバリ。知花先生も戦後の混乱期に精力的な創造を続ける画家たちに共感して、青少年のボクたちにも「文化」なるものを伝えたかったに違いない。



 知花先生はまた、所有の画集も見せて下さった。それには絵画とともに北イタリア・トスカナ州の古都ピサの大聖堂付属の鐘塔「ピサの斜塔」の写真もあった。そこで少年は見た通りの感想を述べる。
 「先生!この建物はマガっている!」
 先生は、やさしく答えていわく「これは曲がっているのではなく意図があって、高さ55メートルの垂直線から、わざわざ5メートル傾斜させて造ったんだよ」。それがガリレオの落体の実験であることを知るのは、ずっと後年になってからだ。「ピサの傾斜はいつか倒れはしないか」と、少年は夜もおちおち眠れなかった。加えて「曲がっている」「歪んでいる」「傾いている」の言葉の使い分けをも沖縄口をまじえて教えて下さったのは、大正生まれの知花先生が方言にも通じていたのだろうと、いまごろになって気づくのである。
 沖縄口の場合、私だけかもしれないが「マガとーん=曲がっている」「カタンちょーん=傾いている」「ユガどーん=歪んでいる」を咄嗟に紛れて、同義語として発することがある。これらも「十分使い分けなければならないなア」と思いながら「マガヰ=曲がり」にちなむ古諺が頭をかすめた。
 「木ぬ曲ゐや使かぁりーしが 人ぬ曲ゐや使かぁらん」これである。曲がった木は具合によっては鋤、鍬の柄など農具や生活用品を作るのに使える。ところが、心の曲がった者、素直さを欠いたひねくれ者は、使いようがないと言い当てっている。また「肝ぬ曲がゐや 酒かきれー直ゐん」と言い、多少の不機嫌は美酒を一杯飲み交わせば心をひらき仲よくなれるという古諺もある。





 もの心ついたころから都度、おふくろに言われた言葉がある。「人間は、陰日なたなく“ムシルぬ綾”の如く、まっすぐ生きよ」。しかし省みるに、おふくろの教訓通りに生きてきたか・・・・。どうにも自信がない。
 待て。ここまで書いて困惑することがある。
 ウチナーグチは文化であるとして、普及運動が展開されている。このことには双手をあげて同意。微力ながら「ことばの勉強会」を週1回開いて、沖縄口・大和口を対比し、楽しみ続けて9年目になる。その中で痛感するのだが、前述の諺を説明するにも鋤、鍬、鎌の単語は知っていても実物を見たことも、まして触ったことも世代が多くなっているのだ。莚(むしろ。ムシル。茣蓙・ござ)さえ「わが家はフローリング。それらはありません」とくる。こうなると「莚の綾」(縫い合わせの直線)なぞを持ち出した諺は、実感しにくいだろう。こうした場面では、かつてはこうした農具、家具があったことを説明。物によっては実物を提示して認識してもらうようにしている。
 このことは、決して若い世代の責任ではあるまい。われわれは、より便利な新しいモノや言葉を失っただけではなかろうか。温故知新の意味を理解するまでには、経験の積み重ねが重要。若い世代には「故・古」が少なく、目は「新」のみに向いているのが現状。だからと言って放っておけと、無関心を決め込むわけにもいくまい。経験者は経験が不足しているモノに対して、新旧問わずモノの実態を語る義務があるように思える。ちょっと、クサムヌヰー(屁理屈物言い様のさま。知ったかぶり)に過ぎたか。乞う容赦。
 世の中には善かれ悪しかれ変わる。伴って人の有り様も変わる。古諺の教訓も価値観もどんどん変わる。その中で音を立てて消滅する古いモノを蘇らせるのは至難である。50年で失ったモノは、100年掛けなければ取り戻せないという。ならば、いま失いつつあるモノは、100年掛けて1個でも2個でも取り戻したいと努力しているしだい。またぞろ、クサムヌヰー。再び乞う容赦。

 ※琉球新報「巷ばなし 筆先三昧」2009年7月2日掲載を転写。

次号は2009年8月13日発刊です!

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