旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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婚姻の風習・馬手間

2010-09-30 00:13:00 | ノンジャンル
 「娘がフランス人と結婚しましてネ。パリに住むことになりました。これでパリがグッと近くになりましたし、ヨーロッパ旅行の機会が増えるかも知れません」
 56歳の知人は嬉々として話す。祝福の言葉はかけたものの、私には考えられない親の心情を感じた。なにしろ、戦前生まれで昭和33年〈1958〉に20歳になった私。[一生のうちに飛行機なるものに乗る機会があるだろうか。フランス・アメリカ・中国へ行くことなぞ、まずないだろうなぁ]と、真顔で考える時代環境だった。まして、母国・祖国と教えられた日本国には見捨てられ、そこへ行くにも米民政府の厳重な審査を受けて取得するパスポートを携帯しなければならないとあっては、渡航の夢は封じ込められて[あきらめ]だけが残った私だった。もっともそれは、私個人の場合であって、多くの若者たちが苦難をはねのけ、勇気をもって国内外への留学・就職したことは言うまでもない。家庭事情の勢にしてはいけないが、私に飛躍の勇気がなかっただけのことだ。
 この観念は、いまもって払拭できず、沖縄以外で生きることなぞ、考えただけでも身震いがする。
 あれから半世紀。私も一皮剥けたころ渡航も自由になり、本土はもちろん、アメリカ本土を除く海外旅行を楽しんでいるが、件の知人のように娘をパリに嫁がせることには、絶大なる拒否反応を示し、命に代えても阻止するであろう。他人の子はどうであれ、自分の子を距離的・空間的・時間的隔離の存在に置くとは[何の人生!]なのである。では[子の人生はどうなる!]と問われると、そこまでは考えたことはない。また、考えたくもない。幸いにして息子と2人の娘は、父をよく理解して県内で、しかも沖縄人同士結婚して5人の孫を抱かせてくれている。私の人生はこれでいいのである。


 婚姻のあり方も時代に沿って異なる。
 大正5年〈1916〉。沖縄県浦添村〈現・市〉字仲西の親富祖カメ〈20歳〉は、実家とはつい目と鼻の先の同村字内間の大城嘉三〈19歳〉に嫁ぐことになった。しかし、同村には[婚姻に関する内法]があった。すなわち[他字・他村に嫁ぐ女性からは、馬手間を徴収のこと]。親富祖カメは、この内法に該当するとして罰金50円を支払うハメになった。この事例の場合、罰金は彼女のみならず、新郎大城嘉三にも課され都合[100円を納入した]と記載されている。
 【馬手間=んま でぃま】とは、年ごろの女性が他地域へ嫁ぐことは即、労働力の低下を意味する。それを防ぐための罰金慣行。
 この慣行は宮古・八重山にはなく、村落の耕地・山林・原野の共有制と村民配当地の割替制・地割り制度のあった本島のみにしかない。地割り制度の基は、税の負担の村・字割りだったため、生産高と税負担増加を防がなければならない。その対価として慣行となったのが[馬手間]だ。女性の労働力を馬1頭に対価したのではない。
 夫になる男性が判明すると、村の二才頭〈にーしぇー がしら。青年会長〉の指揮のもと、若者組の手によって本人を捕え、木製の擬馬に股がらせ拝所を巡拝した後、村中を引き回した。いじめ抜き恥をかかせるのである。そこで結婚する二人は、擬馬による[村中引き回しの刑]を免れるために金品や酒・米などを村公認の若者組に納めたことから[馬手間]の名がついたと言われる。他に[酒手間=さき でぃま]とする地域もある。
 それらの例をいくつか拾ってみよう。
 ※大正6年9月、宜野湾村〈現・市〉伊佐の伊佐カメ〈23歳〉は、同村我如古の仲宗根真喜〈23歳〉に嫁いだ際、20円60銭の馬手間を請求された。
 ※宜野湾村野嵩の玉城カメ〈18歳〉は、同村嘉数の比嘉亀〈26歳〉に嫁ぐのに40円を払った。
 ※宜野湾村野嵩玉城ウシ〈18歳〉は、今帰仁村生まれの与那嶺某〈20歳〉と結婚することになったが、馬手間を拒否。駆け落ちをした。
 また、勝連村〈現・うるま市〉では、馬手間は1円。大正後期に入ると各地で高騰。南部各地ともども20円~50円。北部の今帰仁村古宇利は1円だったが5円及び酒3升になっていた。因みに当時、沖縄毎日新聞社勤務・渡嘉敷錦水記者の月給は12円と交通費5円が支給されていたという。
 各地共通していることは、徴収された馬手間は若者組が仕込む旧暦8月15日の村遊びや村芝居など年中行事の費用に当てられたと言うが、これは建前で実際は若者組の[WUたゐ治し]と称する疲れ治し・慰労会の酒肴費用になった。
 この慣行は[悪習慣]として明治後期に禁止令が出ていたが、その後の税制度の改正によってしだいに姿を消していった。それでも大正期から昭和初期まで残っていたのは、罰則というよりも、結婚を祝福する[余興]のひとつに変化したのではないかと思われる。


 「娘は決して県外、国外には嫁がせない!」
 時代に逆行する私のような頑固者を完全無視するかのように、昔も自由恋愛、結婚の自由を主張する女性がいた。琉歌にそれを見ることができる。他村に出かけた際、その村の若者に「キミ。どこから来たの。生りジマ〈生まれ在所〉はどこ?」と声をかけられて女性は即座に返歌をしている。
 
 男=シマやまがアバ小
 女=シマぬ有み我身に 里がめるシマどぅ 我シマさびる

 〈シマやまがアバぐぁ
  シマぬあみ わみに サトゥがめるシマどぅ わシマさびる


 歌意=アバ小〈15~20歳の女性〉の生まれ在所はどこ?に対する返事はこうだ。
 アラッ!女のアタシに生りジマなぞあるものですか。里〈男性の美称〉が愛してくれるなら、アナタのふるさとがアタシのふるさとよっ!
 この二人が馬手間を取られたかどうか。そのようなことを推察するのはヤボの骨頂。青春バンザイ!である。




不発弾の上に平和はあるか

2010-09-23 00:20:00 | ノンジャンル
 ゴルフに出かける。
 コース周辺の木立ちで鳴いていた夏蝉も、すっかり勤めを終えて秋蝉と選手交代をしている。しかし、まだ30度を越す中でのプレイは、コース攻略対策よりも熱中症対策を優先させなければならない。私なぞ、バック9に入ったころからアゴを出し朝、家を出たときの石川遼気分はどこへやら、18ホール最後のパットは目まいを抱えて打ち、命からがらクーラーの利いたクラブハウスに緊急避難した。


沖縄には、パー70以上のゴルフコースが21有り、ミドルコース・ショートコースを合わせると41を数える。そのほかに那覇エアベース、嘉手納基地内、そして泡瀬ミドーゴルフ場などがあって、これらは駐留米軍人専用の娯楽施設だ。民間人がプレイできないこともないが、そのためには面倒な手続きが要る。
 米軍人最優先コースのひとつ「泡瀬ゴルフ場」は2010年8月1日、沖縄側に返還された。
 同コースがオープンしたのは昭和24年<1949>のこと。終戦からわずか4年後だったことを考えると、米軍はよほどの余裕をもって〔沖縄の植民地化〕に着手したと言えよう。現在の北中城村にありながら、なぜ現沖縄市の行政区・かつては美里村字〔泡瀬〕の地名をコース名に用いたのか、いまだにナゾである。
 面積43平方メートル<約13万坪>。運用はもちろん米軍。米軍人の娯楽施設とあっては、原則的に民間人はプレイできない。しかし、同ゴルフ場に働く沖縄人の知人や米軍に顔の利く通訳職、親米的な要人の紹介などで政財界の大モノ・本土商社のお歴々は、わりかし自由に入れるには入れた。身元を確かめられたのは言うまでもない。それも平日に限られる。土曜日・日曜日は米軍人専用になるからだ。
 「これは沖縄人にとって、屈辱以外の何ものでもない。沖縄人がプレイできるゴルフ場を造ろう!」と、「すなべゴルフ場」=1万坪=。9ホールだけのパー29のショートコース。これをきっかけにゴルフを始めた人は少なくない。ただ皮肉なことに、幹線道路を隔てたすぐそこに米軍人専用の嘉手納エアベースゴルフクラブ・パー72のロングコースが青々と広々として見える。それを横目で見ながらのプレイは、やはり〔納得できなかったなぁ〕と、当時を述懐するゴルファーがいまもっている。
 話を戻そう。
 前記のように、61年ぶりに返還された北中城村在、米軍基地瑞慶覧<ずけらん>内にある泡瀬ゴルフ場跡地から、いまひとつ返還?されたモノがある。大量の不発弾がそれである。
    
 跡地利用の前に、沖縄防衛局から委託を受けた業者が磁気探査中に発見。これが沖縄戦中の米製とみられる小火器弾や砲弾などの不発弾約5590発。判別したのがこの9月10日であることを読者は、どう受け止めるのか。
 内訳は小火器弾約2400発、砲弾35発、信号弾26発。火薬のようなものが約3000個、弾倉や散弾。約40センチの機雷など。ほかに使用済みの薬きょうが約3350個。さらに沖縄防衛局によると同跡地の磁気探査は、先月8月2日に開始。8月20日までに75ミリ砲弾が発見されたのを皮切りに、155ミリ砲弾、小火器弾などが見つかっている。沖縄防衛局は、原状回復を経て、地権者に予定通り引き渡すとしているが、跡地には、2013年をメドに複合型の大型商業施設が進出することになっている。

 もはや〔事件〕というべき〔不発弾発見〕は、土地整備をするたびに頻発している。
 「5600初の不発弾発見 泡瀬ゴルフ場跡地 探査で」の記事は「オスプレイ日本配備 米表明 普天間代替年頭に」「すでに政府へ伝達」「外相打診認める/知事不快感」の見出しと共に9月11日付・沖縄タイムス紙の1面に見ることができる。さらに同紙同日付27面社会面のトップには「跡利用計画の遅れ懸念 泡瀬ゴルフ場不発弾」「地元 国に対応要望 大量の“遺物”に驚き」とする関連記事あり、2件の不発弾事件が報じられている。
① 〔学校敷地から5インチ弾 浦添小 児童ら一時避難〕
9月10日午後1時ごろ、浦添市伊祖の私立浦添小学校敷地内にある同幼稚園舎建設予定地で、建築工事をしていた業者が、深さ3~4メートルの地中から、直径約10センチ、長さ約45センチの不発弾1発を発見した。幼稚園児と同小学校児童あわせて1256人が体育館に一時避難し、午後2時半ころまでには全員下校した。
② 〔那覇の爆破処理 周辺世帯に説明 衝撃“最大で震度7”〕
那覇市は9月10日、首里鳥堀町で見つかった不発弾(米国製8インチ艦砲弾)を住宅街の発見現場で爆破処理する計画について、現場から半径40メートルの23世帯を対象に説明会を開いた。処理時の衝撃は最大で震度7相当に上ると見込まれる。市は10月17日の処理日のほかに、前後の家庭調査で補償の対象となる影響の有無を調べるスケジュールを示した。住民からは「もしも近くに別の不発弾があれば、誘爆する可能性はないか」「周辺の事前探査をする考えは」といった不安や要望が出た。

 これら米製不発弾は戦時中、本国から大量に持ち込んだものの使用することもなく、そこいらの地中に埋めたとする見解もある。
 いま、沖縄県民は地上に米軍事基地の脅威、地中に不発弾の恐怖に怯えながらこの65年間を生きてきている。いや、それはこれからもつづく。それでも日本国は米国の言うがまま、軍事基地を沖縄にだけ押しつけるのか。日本の平和はほど遠い。

     


老いの戯言・操り言

2010-09-16 00:54:00 | ノンジャンル
 「せっかく人間として生まれれたからには、這いつくばってでも生きてやる!」
 「長生きも芸の内とは言うものの、お先真暗な世の中に永らえてどうする。必ずしも長命は、誇らなくてもいい」
 「寿命は、自分では決められない。なるようにしかならないサ」
 さまざまな思いを聞く「敬老の日」前後の日々。

 もう80歳にならんとする夫は言った。
 「この暑い夏。妻はヤーサノーシー〈間食〉のスナックを持って、近くの病院のロビーへ行くのを日課としている。わが家よりもクーラーが利いているし、そこで知り合ったお話しイェージュー〈仲間。同志〉も欠かさず来ていて、楽しいそうな」。
 またある老女は(ねぇ、聞いて聞いて)と前置きして言う。
 「高齢者のための講座があると聞いて、行ってみたの。そしたら軽い『記憶テスト』を受けさせられたのよ。自分と夫の氏名、生年月日、住所、年齢。子や孫の有無とその年齢と名前はフルネーム。殊に住所と連絡先・電話番号は『明確に』と言われたワ。これって受講生の完全なる『ボケ度テスト』よねッ。バカにされているようで、せつなくなったワ。終戦直後の流行歌ではないけれど、かつて人々は“リンゴの気持はよくわかる~”だったのに、このごろはリンゴの気持ちどころか、老齢者の気持ちを知ってか知らずか、逆なでされた感じだったワ」
 と、元気に吐露していた。しかも、そのことをお題に狂歌を1首詠んでいる。
 “生き甲斐講座 受けんとすれば 記憶確かめる ボケテストから”
 これだけの批判精神と老いをシャレ飛ばす創造力があればこの老女、長寿まちがいなしの太鼓判を押したい。『老い』は病気ではないことを心得ているところが頼もしい。


 『老い』とな何か。
 (何をいまさら)だが、暇にまかせて辞書を引いてみた。そこには、ごくあっさりと「年をとること」とある。学術的論文ならいざ知らず、端的な説明をしなければならない辞書の性格上、そうとしかまとめられないのだろう。
 ちょっとシラケながらも、つづいて記載される『老い』を用いた慣用句を見てみる。
 ※老いの一徹=老人の頑固さ。
 ※老いの僻耳〈ひがみみ〉=老人が聞き間違えたり、ひがんで聞き取ったりすること。
 などがある。
 では『老人』はどう記載されているか。辞書には=年をとった人・年寄り・老年の人・老人福祉法によると65歳以上をいうとあり、その次ぎに「老人性痴呆」がある。
 ※老人性痴呆=老人に現れる慢性的な知能及び記憶力の低下状態。いわゆるボケ状態。
 この項を読んだとたん、思わず辞書を音を鳴らして閉じてしまった。見てはいけないものを見てしまったような気がしたからだ。
 老人性痴呆については、有吉佐和子風に「恍惚の人」ほどの表現がほしい。だが、そこが文学と辞書の異なるところ。単純して明解をよしとしなければ、辞書は成り立たないだろう。文学的表現は一切いらないのである。
 一方『老い』には、経験を積む・造鮨が深いという意味があると、辞書に明記されている。老巧・老練・老師・老舗などなど。「老」がすべての伝統をいまに継承してきたことも認知しなければなるまい。

 筆者は、寅年を6度回した完璧な[老人]である。このところ、年寄り扱いされることが多くなった。周囲が妙に気を遣ってくれる。それはそれで嬉しいのだが、長生きはしたいが年寄りとは呼ばれたくないのが本音である。
 40年余楽しんでいるゴルフ。かつては月に2、3度はこなしていたが、最近は月に1度になっている。ここでも(シルバーであること)を目の前に突きつけられる。[70歳以上のサービス料金]がそれだ。クラブハウスのカウンターに置かれた用紙に生年月日・住所・氏名を記載するとプレイフィーが800円ほど安くなる。
 「てやんでぇ!800円ぽっちで年寄り扱いされてたまるけぇッ!」
 いきなり江戸っ子になって70歳の抵抗をしていたが、このごろは観念したかして素直に必要事項を記入して提出している。老いの一徹が吹っ切れたようだ。
 つい先日。寅年を祝って息子、娘、婿がヌチャーシー〈金を出し合うこと〉して、パソコンをプレゼントしてくれた。これまでワープロを叩いていた。欲しかっただけに嬉しかったが[ボケ抑止に有効]のメッセージには、いささかありがたみを削がれた。片や幼稚園生と小学校1年ぺの孫たちからもらったクレヨン画「爺の肖像」は、特徴をよく捉えていてピカソの上を行っている。「爺、長生きしてね」のメッセージも嬉しかった。その気になるから孫力とは、大したものだ。
 ワープロ・パソコンもさることながら、ボケ防止には「携帯によるメール交換もよい」と、テレビの脳科学者が勧めていた。殊に特定の女性との“愛メール”は、効力倍増という。短い文章でどれだけ愛が語れるか。この作業が能の活性化を促すそうな。筆者も仲間内のメール交換は[交歓]として、大いに楽しんでいるが、特定の女性との“愛メール”には至っていない。どなたか筆者のボケ防止化に力を貸してはくれまいか。


待て。
筆者はまだ※老いの戯言=老人のとりとめのないことば。※老いの繰り言=老人が愚痴っぽく、同じことをくり返すこと=を引きずっているらしい。



猿・マングースの声が聞こえる

2010-09-09 00:24:00 | ノンジャンル
 「噛みつき猿は、きっとこう言っているよッ」。
 片手にしたビールジョッキーの泡よりも、男の飛ばす口角の泡のほうが溢れている。静岡県内3市1町の猿騒動に人一倍関心が高いようだ。男の言う猿の主張を聞いてみよう。
 「だいたい猿祖騒動というが、騒いでいるのはオレさまではなく人間のほうだ。住み着いている山に、異常気象もあってエサが少なくなり、ちょいと人間に一時しのぎのおねだりをしに来ただけなのに、街中を追っかけ回されるハメになった。山にエサが不足しているのは、今年の天候不順も要因のひとつだが、もう何十年も前から人間は、開発・経済優先を名目に、われら猿の聖地を荒らしてきている。人間にとって命が大切ならば、それはわれら猿にとっても同じことなのだ。神代の昔から人間と猿は『共存共栄しようね』と約束をして、大自然の中で生きてきた。暗黙の不可侵条約もあった。その約束を信じて、時には動物園の檻の中にも入り、猿山を開放して人間の目を楽しませてきた。
         
 さらには、芝居や踊りを提供して愛嬌を振りまいてきている。さらにさらに、本意とするところではないがブリキの太鼓を叩かされ、挙げ句の果てにはシンバルを手に足まで同時に動かさなければならない恥もさらした。それもこれも、人間と共存するためには多少の自己犠牲は惜しまない信念があってこその行為。それを、ここにきて「噛みつき猿」とは、あまりと言えばあまりな呼ばわりッ。噛みつきたくて噛みついたわけではない。第1発見者がソッと見守ってくれたら、すぐに山へ帰るつもりだった。しかるに、通報によって町内会が騒ぎ出し、果ては警察署、消防署、青年団、猟友会が動員され、四方八方塞がれては山への帰路すら失念してしまうではないか。こうなると、人間皆が敵に見えて噛みつくか、引っ掻く以外に防御の術はないではないか。そりぁ・・・・騒ぎの中、敵意は示さず、ただただ成り行きを静観し、自宅の門の脇に立っていたオバちゃんの太めのクンダ<ふくろはぎ>を引っ掻いたのは、過剰防衛だったと思っている。ゴメンナサイ。アメリカのテレビ映画「逃亡者」のリチャード・キンブル的日々は、もうイヤッだ。子どもたちに愛される猿でありたい!売り上げ1、2を競う縫いぐるみのキャラクターを発揮したい。山へ帰りたいッ。そして、われらから奪った自然の森林を返せッ!山を返せと叫びたい。日米両政府に対して「沖縄を返せッ」と訴え続けている沖縄人の気持ちが、猿のオレにはよく理解できるッ」
 口角泡のこの男のジョッキーは、仲居さんの足を幾度かサーバーとの間を行き来させている。アルコールが五臓六腑に行き渡ったらしい。聞けばこの男、申年生れという。
     

 かつて必要とされたものも、時代の環境が変わると不必要「害」成すものにされる例が少なくない。マングースにしてからがそうだ。マングースの言い分を聞いてみよう。
 「明治43年4月5日付の琉球新報紙に、ワタシたちが沖縄入りした理由が社説風に掲載されているのをご存じか。いわく。
 『マングースを沖縄に移入したるは、東京帝国大学教授・渡瀬庄三郎博士なり。明治42年12月20日、渡瀬博士はインドへ向け横浜港を出発したり。かの地のマングースを本県に移入。本県はインドのカルカッタと緯度が似て居れば、マングースは育ち、農作物に害なす野鼠を撲滅し、ついでにハブの駆除を試みんとする目的もありき。はじめ、マングースがハブの駆除に効果ありや不明なりしが、インドにてはマングースは野鼠を食って生き、時にはコブラを食い殺すことも判明し居りたり。よって、本県に移入されたるマングースをハブと立ち会わせたるや、見事にハブを食い殺したり。飼育指導のため渡瀬博士は本県に滞在し居りたるが、当時、非常なる貴重動物にて「マングース1頭に数百円かかり居ることなれば、県民は天下公益のため熱心にこれを保護するところなかるべし」とし、ある小学校にては、マングースの移入事業を教材に使ひ、教育勅語に(公益を広め)とあるは、かかることを云ふと説き聞かせその保護・奨励に努めたりと云ふ。マングースは、まず首里城周辺に放たれ漸次、地方農村に配置されるにいたる』
 こうして天竺から沖縄に来て、県民のために野鼠を駆除し、ハブと対決してきた荷も関わらず、ヤンバルクイナやノグチゲラらが天然記念物に指定されるや、ワタシたちは一挙に凶悪非道な無用の長物にされてしまった。環境省も今後10年間で『マングースの完全排除を図る』として、県とともに検討委員会を都度、開いている。このことは、渡瀬庄三郎博士に相談の上のことなのか。はじめ、本島南部一帯を暮らしの場にしていたワタシたちも、そこでは満足の種の保存が不可能になり中部、北部への移動をせざるを得なかったのだ。人間は、今日的な自由と社会生活を優先とさせて、出産率を極端に押さえてきた。その結果、高齢化社会・少子化社会を生み出して国家存亡の危機に瀕している。ワタシたちマングースは、人間の二の舞を踏むまいと固く決意して繁殖に懸命なのだが・・・・。このことが人間には気に入らないらしい。あゝ 故郷インドへ帰りたい!もはや沖縄にはわれらマングースの住むべき所はない・・・・」
     
       マングース 
 筆者は疲れているのだろうか。連日の猛暑で熱中症気味なのかも知れない。夜、猿やマングースの声を聞くこと再三である。人間同士でさえ〔共存共栄〕できなくなりつつあるニッポンを憂いているのか。これ以上、生きものたちの声を聞くようなことがあれば、一度病院に行かなければなるまい。

    
   

月がとっても青いから・道うた

2010-09-02 00:50:00 | ノンジャンル
 “月がとっても青いから 遠回りして帰ろう あの鈴懸の並木路は・・・”

 旧盆を済ませた沖縄は、旧暦8月15日に向かって日一日“月がとっても”青くなってくる。それは旧暦9月15日の「後ぬ十五夜=あとぅぬ じゅうぐゃー」には、さらに青さを増し、10月半ば過ぎ、ちょっと「太陽ぬ ねぇーゐる時分=ティーダぬ ねぇーゐる じぶん」まで続く。沖縄の太陽は、秋口にきて[やわらぐ]ではなく[萎える]のである。それでも昼間の残暑は、道行く人を萎えさせるに十分。夕暮れの明りが、ほんものの闇に抱き込まれるころになって、気のせいかどこからともなくシダカジ〈涼風〉が吹いてくる。

 歌謡曲「月がとっても青いから」は、作詞清水みのる・作曲陸奥明・うた菅原都々子・昭和30年〈1955〉のヒット曲。独特なビブラートの利いた歌唱は、成年、少年を問わず「歌まね」の格好の1曲だった。
 変声期を終えたばかりの私のノドにも、まだヨーデルが発声できるほどの柔軟さは残っていて、周囲のおだてに乗って菅原都々子になり切ることしばしばだった。
 また、歌詞の中の“あの鈴懸の並木路は・・・”のフレーズで[すずかけの木]の存在を知った。すずかけの木は[スズカケノキ科の落葉高木。高さ約23メートル。葉は掌状。雌雄同株]であることを植物図鑑を開いて知ったのも、菅原都々子さんのおかげであった。さらに、スズカケノキは[春に雄花と雌花が別々の枝に付き、晩秋に球状果が枝の下にさがる。プラタナス、ボタンノキの別名がある]ことを知るのも最近のこと。現物にはまだお目にかかっていない。アジア西部・ヨーロッパ南西部原産で、日本には明治時代に入ってきたといい、移入されたものはあるかも知れないが、沖縄には育ってないようだ。

 月がとっても青い夜の遠回りに似合うのは、鼻歌や音楽だろう。いまはもっぱら車で聞くCDに任せているがそれでも徒歩の場合は、どうしても鼻歌程度は歌わなければ歩が進まない。昔風に言えば「道うた」である。

 高校時分の登下校はもちろん徒歩。それも丘を越えるのに40分ほど要した。登校は、時間的余裕がなく道うたどころではない。しかし、クラブ活動を終えての下校路はアコークロー〈明こう暗ろう・夕間暮れ〉の中を「ユー・アー・サャンシャイン」や覚えたてのロシア民謡を三々五々の仲間たちと歌って帰ったものだ。

 道うたには、ふた通りある。
 ひとつは民謡のうち、道路での仕事唄や夜道の道連れに歌うそれ。沖縄の道普請に集団で歌われた「やりくぬしー節」。近年に歌われた「県道節」「汗水節」などもそれだろうし「なーくにー」「けーひっとぅり節」などは、夜道の道連れに適している。
 沖縄が平和だったころの昔。夏の夜なぞ、遠くから道うたが聞こえてくると[どこそこの誰々が、どこかで一杯ひっかけて帰ってきた]ことが分かったそうな。それが昭和14、5年にもなると、日本の戦争はいよいよ先が見えなくなり、道うたは戦意を消沈させるとして禁止され、警察が厳しく取り締まることになる。それに抵抗して密かに歌われた道うたの文句がある。

 “道うたん止みる 警察ぬ巡査 我した罰かんてぃ 位牌になりよ
 〈みちうたん とぅみる キーサチぬじゅんさ わした ばち かんてぃ イーフェーに なりよ
 
 歌意=道うたまで禁止、取り締まる巡査よ!われわれの罰を受けて早く位牌になりやがれ!
 凄まじい。恨みの対象は巡査ではなく、戦争を仕掛けた国だったはずなのに。

 道うたその2。
 祭の広場や行列舞のおり歌われ、道理や祈り・願望を内容としている。七月エイサーのひと節「仲順流り」や臼太鼓〈うしでーく・うすでーく〉などもそれに当たるだろう。八重山の与那国島には、ずばり「道唄」と称するひと節がある。土地の言葉では「ミティウタ」。年の始めに歌われる祈り歌である。集落の広場や村道を歩きながら歌われるが、なにしろ与那国の言葉は、沖縄語の中でも発音を異にし、記述するのも私には重荷。ここでは意訳にとどめる。いわく。
 『迎えたこの年が弥勒世・平和な日々でありますように。五風十雨をいただいて豊作でありますように。願い事が叶いますように。島びとの願いが天に届いたのか、島の上を鳩や鷹が舞い飛んでいる』

糸満市真栄里の綱引き

 “月の雫に濡れながら 遠回りして帰ろう”“月もあんなにうるむから 遠回りして帰ろう”
 沖縄は、月がとっても青いシーズンに入る。殊に旧暦8月15日・16日〈今年は9月22日・23日〉には、各地で十五夜遊び〈じゅぐや あしび〉があり、綱引きや村芝居が華やぐ。私もひとりで出かけて遊びを堪能し、菅原都々子さんが勧めるsymbol7ふと行きずりに知り合った 思い出の小経 夢をいとしく抱きしめて 二人っきりで帰ろう~を実現させたい。
    
      八重瀬町富盛の十五夜遊び