旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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琉歌百景・終章=立雲節

2009-07-30 00:20:00 | ノンジャンル
 2009年7月。
 RBCiラジオの番組「民謡で今日拝なびら」の1コーナー「琉歌百景」は、15年を経てなお続いている。
 「この際、あらためて琉歌100首を選出、文字にしてみてはどうか」
 古馴染みであり、沖縄市諸見大通りに店を構えている(有)キャンパスレコード社長備瀬善勝に勧められ、2009年1月29日号から書き始めた琉歌シリーズが遂に100首に達する。また、2003年11月1日に創刊して連載中の「浮世真ん中」自体、備瀬善勝の企画。同店のホームページのスペースを開けてもらってのことである。つまり、すべて備瀬に操られるままにここまできた。「琉歌百景」またしかり。
 [お主の心の趣くままにの選出]という彼の勧め方。何といい加減なと言われると、その加減なのだが、書く者にとってはこれ以上の気軽さはないし、楽しみながらの作業であった。古歌を中心に、時には自作の詠歌をはさみながら・・・・。

 琉歌百景99[立雲節=たちぐむぶし]

 symbol7東立雲や 世果報しにゅくゆゐ 遊びしにゅくゆる 二十歳女童
 〈あがり たちぐむや ゆがふう しにゅくゆゐ あしび しにゅくゆる はたち みやらびや〉

 語意*しにゅくゆゐ=支度。準備。*世果報=果報は、過去、前世の報いの意から転じ、しあわせ・幸運の意。したがって「世」が付くと、平和に治まっている世。そのさまの意。
 果報者は、言うまでもなくしあわせ者のこと。慣用語にも、幸運はあせらず待っていれば必ずやってくるとする「果報は寝て待て」あるいは運がよすぎて、かえって災いを招くことを言い当てた「果報負け」などの言葉を口にすることもある。
 沖縄には「世果報」を筆頭に「孵でぃ果報=しでぃがふう。生まれる、生まれ変わる、よみがえる果報」。「命果報=ぬちがふう。命あることの果報」などがある。沖縄における日米陸上戦争で多くの人びとが犠牲になった。しかし、辛うじて「命果報」があって九死に一生を得た人たちは「孵でぃ果報」もあって今日に子孫を繋げている。唇に歌を乗せることのできる「歌果報=うたがふう」は、「世果報・命果報・孵でぃ果報」の賜物だろう。思わぬ馳走にありつけた時は「食ぇ報=くぇーぶー」があると言い、この果報は五穀豊穣のおかげとし、飢餓にも遭わず食物を得ることのできる「果報」としている。“この秋は雨か嵐か知らねども今日のつとめの草を取るなり”の努力の裏づけがなければ「食ぇ報」は寄ってこない。神仏に願掛けをしたならば、それが成就するように尽力なしでは叶わない道理も説いている。待て!屁理屈が過ぎた。乞う容赦。
 歌意=暁の空にわき立つ雲は、偉大なる太陽の命を受けて豊作、豊年を約束し、その支度をしている。さあ、豊作の感謝祭を仕組もう。この神仏への感謝こそが来年の豊作を招く。

    
      写真:玉城グスクからの朝日

 戦後この方と思われるが、古典音楽公演が日常的に行われている。演目の幕開けは祝歌「かじゃでぃ風」の大合唱。これは決まり事に近い。誇らしく開幕すると独唱や舞踊をはさんで賑わうが、最後にはどんな節曲で幕を下ろそうか。決まり事ではないが大抵は「立雲節」だ。演奏時間1分20秒の小曲ながら内容は意味深長。公演のメインになる演目は後から2番目に演じ、最後は嘉例〈かりー=めでたい。吉事〉の歌で締めるという演出意図がある。つまり、めでたい「かじゃでぃ風」で始め、めでたい「立雲節」で終わる。明日に果報を繋げるという願望、祈念を汲み取ることができる。

 琉歌百景100[立雲節の内]

 symbol7夢ぬ世ぬ中に ぬがしシワみしぇが ただ遊びみしょり 御肝晴りてぃ
 〈いみぬ ゆぬなかに ぬがし シワみしぇが ただあしび みしょり うちむ はりてぃ〉

 琉歌集「立雲節」の項には14首が記載されているが、この1首は演奏会などで歌われることはほとんどない。前記99首目が完璧すぎるのだろう。しかし「立雲節」は、豊年の祝歌のみならず人生や風物なども詠み、組踊にも用いられていて[14首]を数えている。そこで私は「琉歌百景」を締めるには、この歌詞が最適と思い100首目に置いた。
 語意*シワは世話を語源としている。人様に気を配る・面倒をみるの意から転じて沖縄語では「心労・心配」を意味している。
 歌意=人生たかだか100年。昔は50年と言ったが・・・・。夢のような浮世で何をそう気をもむことがあろう。泣いても笑っても一生は一生。ただただ心晴ればれと快適に生きようではないか。
 詠みびとは定かではないが、酸いも甘いもなめ尽くしてきた人生の達人の1首と言わなければならない。
 八八八六音詩形の琉歌が確立されて400年か500年か。とかく貴賤を問わず詠まれて、今日に残された琉歌は星の数に届くだろう。これは現在も続いている。[あなたも力まず臆せず気負わず、沖縄口を駆使して八八八六をモノにしてみてはいかが]とお勧めして、琉歌百景シリーズの筆をひとまず置くことにする。




次号は2009年8月6日発刊です!

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琉歌百景=共白髪節

2009-07-23 00:20:00 | ノンジャンル
 中国人の家庭の床の間には、漢詩や山水画など墨・筆を使った[書]そのものや掛け軸が多々見られそれは古来、中国が学問の国であることに由来するという。日本の場合は、長い戦国の世の名残りをとどめて旧家・名家には甲冑、刀剣類を床の間に見ることができる。沖縄はどうか。三線である。
 戦さ争いを好まない琉球民族は、音楽文化を誇りとし万民が三線を心の花として歴史を刻んできた。それは今日に継承されていて新築、出産、名誉ごとなど慶事に際しては、新しく三線を打ってもらい床の間に置く。したがって三線造りの職人も多い。現在、県内には、100数10軒の三線製作販売工房があって繁盛している。三線の保有件数は推定約22万丁。約6人に1丁の割合で三線をたしなんでいることになる。
 宮廷音楽、通称古典音楽も湛水流、安冨祖流、野村流に複数の会派があり、島うた界もまた、八重山民謡、宮古民謡などをふくみ20団体ほどある。団体には属さなくても、公民館活動の中のサークルや愛好会、学校現場で三線に親しんでいる人を加えると[6人強に1丁の割合]の保有率も納得せざるを得ない。
 このことを背景に[詠歌]も盛んだ。多くの人たちが八八八六の30音をひねりだして楽しんでいて、殊に歌三線をよくして世に出ている歌者は作詞、作曲、歌唱を1人でなしてCDをも出している。沖縄はシンガーソングライターの宝庫だ。その中のひとり、琉球國民謡協会会長金城実氏は2007年、自らの73歳のトゥシビースージ〈生まれ年の祝事〉に「息災でこれたのも妻敏子の内助の功の賜物」と感謝。「妻に捧げる歌」4首を詠み、祝賀会の舞台両サイドに大書きして掲示。即興で曲を付け、かつ歌った。そしてこの4首に「共白髪節=とぅむしらぎぶし」と節名を付けてCD化している。

 琉歌百景95[共白髪節]

 symbol7苦りさちりなさや 走川にやらち 安々とぅ歳ん 取やゐ行かん
 〈くりさ ちりなさや はいかわに やらち やしやしとぅ とぅしん とうやゐ いかな〉

 歌意=これまでの夫婦の道程は苦しく、つれなくも切ないことの連続だった。しかし、それらのことは速い川の流れにやり、余生は安楽に過ごすことにしよう。



 琉歌百景96[同]

 symbol7縁結でぃ二人 後先ゆ見りば 十、七ち重に 夢ぬ心地
 〈ゐんむしでぃ ふたい あとぅさちゆ みりば とぅ、ななち かさに いみぬ くくち〉

 歌意=縁あって結ばれた二人。これまでの後先をふりかえって見れば、10年を7つ重ねる歳になった。夢の心地がしてならない。



 琉歌百景97[同]

 symbol7孫達とぅ笑てぃ 曽孫しかち 浮世果報者や 二人さらみ
 〈ンマガたとぅ わらてぃ マタンマガしかち うちゆ くぁふうむんや ふたゐ さらみ〉

 語意*ンマガ=孫。*マタンマガ=曽孫。*さらみ=何々の古語。
 古諺に「銭とぉ笑らーらんしが 孫とぉ笑らーりーん」がある。つまり、銭金や財産をいかに持っていても管理、活用の苦労があって常時、笑顔でいるわけにはいかない。しかし、孫とならば朝な夕な幸せの笑顔を絶やさないでいられる。人生の至福とはこれであるとしている。
 歌意=子を産み育てそしていま、孫と笑い合い曽孫をあやすことのできる幸福感。この世の果報者、幸せ者は妻よ!私たちふたりだよ。

 琉歌百景98[同]
 
 symbol7くりからや二人 命果報願がてぃ 花ぬ夫婦路 手取てぃ歩ま
 〈くりからや ふたゐ ぬちがふう にがてぃ はなぬ みーとぅみち てぃとぅい あゆま〉
 歌意=[73歳にもなった]。これからは二人して長寿を神に祈願し、慈しみ合いながら人も羨む夫婦の路を手を取り合って歩もう。



 古諺。
 「ミートゥンダ〈夫婦〉や、淵端んたにん立ちゅん」
 深い愛に結ばれた夫婦に何の恐れることがあろうか。何も怖くはない。例えば、一歩誤ると転落死するような淵の端・断崖絶壁の先にも立てる。言い換えると夫ならば、妻とならばどんな苦労も厭わない。二人でする苦労や遭遇する困難は乗り切ることができると教訓している。
 まったくの余談になるが、大和の流行り唄が沖縄に入り「六調節」や「十九の春」「安里屋ゆんた」の替え歌で唄われる文句に“君は百歳我しゃ九十九まで 共に白髪の生えるまで”がある。夫か妻か。いずれがそう詠んだ歌かよく酒座の話のネタになる。「君というのだから、夫が妻を“キミ”とした」と主張する御仁もいる。しかし「君」は君主、主君、主上、大君の言葉があるように、目上の人に対する敬称であり、古語の「瀬の君」は夫、男性の意。したがって、この句は老妻が老夫の長寿を願い“君は百歳がしゃ九十九まで”としたものとして話は落ち着く。瀬の君にはひとつでも長生きしてほしい妻の情念が感じられる。 
 

琉歌百景・千鳥編

2009-07-16 00:20:00 | ノンジャンル
 「千鳥」とは、不思議な鳥だ。
 海岸、河川、湿原、干潟などに生息するチドリ科の鳥の総称が「千鳥」。世界に約60種、日本にはシロチドリ、コチドリ、イカルチドリなど10種がいるそうな。人里には生息しているわけでもないのに人間は、千鳥に親しく想いをあずけてきた。歌謡の世界では、鶯と並んで数多く登場するのではあるまいか。
酒に酔ってよろよろ歩くさまを千鳥足と言い、和裁用語にも千鳥掛、千鳥縫いがあり、模様の千鳥格子、紋所に[丸に千鳥][波輪に千鳥]などがある。文芸には短歌“淡路島通う千鳥の声聞くに 幾度寝覚めぬ須磨の関守”〈金葉和歌集・源兼昌〉。童謡の「浜千鳥」“青い月夜の浜辺には 親をさがして鳴く鳥が 波の国から生まれ出る ぬれた翼の銀の色”〈鹿島鳴秋作詞、弘田龍太郎作曲〉。「ちんちん千鳥」“ちんちん千鳥の鳴く夜さは ガラス戸しめてもまだ寒い”〈北原白秋作詞、近衛秀麿作曲〉などは、学校唱歌の名作に数えられている。また沖縄の歌謡でも千鳥は、沖縄人の唇に乗って飛んでいる。
 まず、舞踊と共に最も親しまれているのが「浜千鳥節」。

 琉歌百景92[浜千鳥節]

 symbol7旅や浜宿ゐ 草ぬ葉どぅ枕 寝てぃん忘ららん 我家ぬ御側
 〈たびや はまやどぃゐ くさぬふぁどぅ まくら にてぃん わしららん わやぬ うすば〉

 歌意=旅の1日の終わりは、行き着いた所に人家がない場合、野宿や浜の岩陰を宿として、草の葉を枕とする。寝付くまでいや、寝ても夢の中に出てくるのは、親兄弟が睦ましく暮らしている我が家のあたたかさ。愛する人との添い寝の温もり・・・・。
 「浜千鳥節=一名チヂュヤーぶし」の歌詞は4首で構成され望郷、旅情を歌っているのだが「千鳥」という言葉はいずれにも登場しない。しかし、30音の後に“千鳥や 浜居てぃ チュイチュイナー=千鳥は浜辺でチッチチッチと鳴いている”の句が付き、哀感をもって旅情を表現している。戦前、沖縄をあとに東京に学ぶ沖縄学生や働く人たちは、下宿の窓から月を眺めながら、このひと節を口ずさみ、ふるさとに思いを馳せたという。
 ほかにも八重山の「千鳥節」はじめ、俗語の「夫婦千鳥」「千鳥小」「恋々千鳥」「恋千鳥」などがある。さらに[毛遊び千鳥]にいたっては持味である哀感、旅愁をすっきりと削いで、ハイテンポの歓喜の[遊び唄]になっている。沖縄人は大したアレンジャーと言わなければならない。
 ここで取り上げるのは、いまひとつの名曲「下千鳥=さぎ ちぢゅやー」。「さぎ」は低音を意味するのではなく、舞踊曲の「浜千鳥節」よりもローテンポで歌われ、二揚調子で演奏して哀感をいやが上にも深くしている。そのため沖縄芝居では孤独、愁嘆を表現する場面には、決まって「下千鳥」を用いている。つまり「下・さぎ」は、テンポを落としたの意。詠歌も詠み人のその時の心情を詠み上げていて、記録されているだけでも10数首に及ぶ。次の詠歌には背景があった。
 戦後50年目の平成7年〈1995〉7月13日。東京九段の靖国神社「御霊祭」は、全国都道府県の民謡を奉納した。沖縄のそれは、神奈川県川崎市在住野村流音楽協会師範名渡山兼一氏に出演依頼があった。名渡山兼一氏は「下千鳥」に乗せて2節を歌った。

 琉歌百景93[下千鳥]

 symbol7散りてぃ逝く命 物言やんあてぃん 国ぬ行く末ぬ 礎思むら
   “安々とぅみしょり 花ぬ台=うてな・うてぃな”
 〈ちりてぃいく いぬち むぬいやん あてぃん くにぬ ゆくしゐぬ いしじ とぅむら “やしやしとぅみしょり はなぬ うてぃな”〉

 歌意=戦火に散った御霊はもう言葉を持たないが、その沈黙を教訓として、国の将来の礎としなければならない。“御霊よ。極楽の花の台で、安らかにお眠り下さい。

 琉歌百景94[同]

 symbol7五十年経てぃん 心安まりみ 語ゐ継じ行かな 後ぬ世ぬ為に
     “忘るなよ 忘しな 戦嵐”
 〈ぐじゅうにん ふぃてぃん くくる やしまりみ かたゐちじ いかな あとぅぬゆぬ たみに  “わしるなよ わしな いくさあらし”〉

 歌意=戦後50年経ても、戦死者を思えば心の痛みは癒えない。日本の戦争は何だったのか、語り継いでいかなければならない。次代の平和のために。“忘れるな、忘れまい。あの鉄の爆風”。

 話は「千鳥」に戻る。
 三線造りの名人・名工と言われた故又吉真栄氏〈大正5年~昭和60年(1916~1985)〉は晩年、自作の三線の上部「天」に、千鳥の紋様をあしらい「又吉千鳥=マテーシチヂュヤー・マテーシ チドゥリ」と銘名した。職人・名工の自信と誇りの証としたのである。
 千鳥は意匠として用いる場合、右下から左上に飛ぶ図柄をよしとしている。逆の場合のそれは「凋落」を意味し、好まれない。ものごとには嘉例・不嘉例〈かりー・ぶかりー=吉・不吉〉があるということだ。

  

  

琉歌百景・おきなわ文学賞編

2009-07-09 00:30:00 | ノンジャンル
 財団法人・沖縄県文化振興会〈理事長=尚弘子〉主催「おきなわ文学賞」は小説、シナリオ・戯曲、随筆、詩、琉歌、短歌、俳句、漫画の8部門を設定、平成17年に創設された。
 「県民の文学作品を広く公募し推奨することにより、沖縄の文学活動を奨励するとともに、県民文化の振興に役立てること」を目的としている。応募は県内にとどまらず、他府県からも寄せられる。ここでは、平成21年度第4回応募作品の中から[琉歌部門]の1席、2席そして佳作入選作を紹介しよう。

 琉歌百景86[1席・沖縄県知事賞。うるま市=前原武光]

 symbol7東むら雲に 綾ぬ花咲かち もどろ若太陽ぬ 孵でぃるちゅらさ
 〈あがり むらくむに あやぬはな さかち もどろ わかてぃだぬ しでぃる ちゅらさ〉

 歌意=早朝、東の空の雲が花のように綾なして夜が明ける。生まれたばかりの[明けもどろ]の若太陽が、まるで島びとの命を孵化させるようだ。なんと清々しく美しいことか。幸せな1日を予兆している。

 琉歌百景87[同]

 symbol7昔賢くしぬ 琉歌〈うた〉ぬ寄し言や 我肝玉磨く 宝さらみ
 〈んかし かしくしぬ うたぬ ゆしぐとぅや わちむ たまみがく たから さらみ〉

 歌意=悠久の歴史を生きてきた賢者たちが詠み残した琉歌の言の葉のひとつひとつは、私の肝心〈ちむくくる〉という珠玉を磨く、宝そのものである。

 琉歌百景88[沖縄県文化振興会理事長賞。名護市=上原仁吉]

 symbol7花や命薬 歌や耳薬 友とぅ云語れや 肝ぬ薬
 〈はなや ぬちぐすゐ うたや みみぐすゐ どぅしとぅ いかたれや ちむぬ くすゐ〉

 歌意=[平和の世にあって]島に咲く花々を愛でることができるのは、まさに命の薬。また、三線に乗せて歌ううたも詠歌も耳に快く良薬そのもの。そして、それらを共有する友人知人たちとの語らいは、心にしみて生きるための薬となる。

 琉歌百景89[同]

 symbol7花愛でる人ぬ 居てぃん居らんてぃん 節々ぬ花や 咲ちゃゐ 誇くてぃ
 〈はなめでる ふぃとぅぬ WUてぃん WUらんてぃん しちしちぬ はなや さちゃゐ ふくてぃ〉

 歌意=花を愛でる人が居ても居なくても、沖縄の四季折々の花は自然体で咲き誇っている。自分もそうありたい。

 琉歌百景90[佳作。那覇市=松田栄松]

 symbol7昔友行逢てぃ 夜ぬ更きるまでぃん 話色数に 花ゆ咲かち
 〈んかしどぅし いちゃてぃ ゆぬ ふきるまでぃん はなし いるかじに はなゆ さかり〉

 歌意=苦楽を共にした旧友に逢った。当然のように苦労ばなし色恋ばなしと、言葉通り話題は尽きず深更にいたる。想いのたけを語り合える友人がいることは幸せだ。

 琉歌百景91[同。名護市=山内範正]

 symbol7里や針心 我身や糸心 難所道ん 産し子 連りてぃ
 〈さとぅや はゐぐくる わみや いとぅぐくる なんどぅくる みちん なしぐぁ ちりてぃ〉

 歌意=[縫い物に例えるならば]貴方〈夫〉は針、私はその後について行く糸のようなもの。[結婚してこのかた]決して平坦な道程ではなかった。しかし、愛し子たちを引き連れてここまで生きてきた。いまなお心労の絶え間はないが、それでも幸せを実感する。
 語意=はゐ・針。日常語ハーヰ。



 発刊されている作品集[はなうる]。
 「はなうる」とは、沖縄の美しい自然を象徴する珊瑚を意味する古語。優れた新人を発掘し、文学界で花開くことを願う「おきなわ文学賞」の思いを込めて、作品集名としている。
 琉歌部門の選考員は、第1回から詩人・琉球古典音楽家勝連繁雄。琉球古典音楽家・沖縄県立芸術大学教授比嘉康春、放送人・作家上原直彦が選任されている。同文学賞は、各部門毎年9月1日~30日を応募期間とし選考後、翌年の2月に発表及び表彰式を日程として実施。
 琉歌部門に限って記すならば、詠歌漢字を用いるのはよしとしても、無理なフリガナが目立ち、かえって詩情を損ねた作品もあった。気負わず、自分の感性を信じて沖縄語を駆使、日々[詠む楽しみ]を生活の中に溶け込ませてはいかがかとお勧めしたい。
 「文学賞」の[賞]をあまり意識せず詠み続けよう。それが主催側の望むところであり「おきなわ文学賞・琉歌部門」を継続させる基本姿勢であると思われる。
 特筆に値するかどうかは、いま議論するべきではなかろうが、沖縄口の衰退に伴って[共通語]による八八八六の琉歌体で詠ん作品もあった。良かれ悪しかれ琉歌の将来性を示す現象だろう。しかし、現段階では本来の琉歌体を尊重していきたいと思うのは、頑固に過ぎるだろうか。琉歌への関心は、沖縄口衰退の歯止めの一助になると思うからである。



琉歌百景・畳語~重ね言葉編

2009-07-02 00:23:00 | ノンジャンル
 日本語には[畳語=じょうご。重ね言葉]があって、会話を豊かにしている。
 畳語は、複合語の1種。同じ単語を重ねることで、物事をより強調して伝えることができ、ひとびと・さむざむ・なくなくなどと言葉の意味を強めている。一方の重ね言葉は、語頭が似通う語を重ねて、さまざまな状態を言い当てている。のたりのたり・ちんたらちんたら・なんたらかんたら・のっそりもっそりなどがそれだろう。
 沖縄口にも当然それらは多く、ユーモラスに会話を膨らませている。琉歌に表れた重ね言葉を拾ってみよう。語頭には意味があっても、続く言葉にはそれほど意味はないが、語呂が快くリズムがいい。

 琉歌百景83[ぬるん とぅるん]

 symbol7蛸ん釣らりらん 烏賊ん釣らりらん 崎樋川ぬ沖に ぬるん とぅるん
 〈タクん ちらりらん イチャん ちらりらん サチフィヂャーぬウチに ぬるんとぅるん〉

 語意*崎樋川=那覇市天久の西の海に面していた湧水地名。慶良間諸島が一望できて赤太陽〈あか てぃだ。夕日〉の夕景、金波銀波の月夜景。もちろん白日の青海・碧空を楽しむことができる場所だ。
 
歌意=〈意気込んで糸は垂れたが〉目当ての大物どころか小蛸も烏賊も釣れない。ただただ無為の時間だけが過ぎ思考力停止、放心の態でノロリトロリ。波のなすままたゆとうばかりである〉
 気分は太公望でも、釣りをしたことのある素人はこうした「ぬるんとぅるん」の経験を誰もがしていることだろう。かつて、おふくろに「大物を釣ってくる!」を宣言して、県内屈指のポイント慶良間の沖に舟を浮かべた。しかし「ぬるんとぅるん」の時間を過ごすばかりだった。結局ボウズ〈釣り言葉。釣果なしの意〉のまま、赤太陽に見送られての帰り舟。何とかしなければならないのが、おふくろに吹いた大ボラ。私は漁港近くの鮮魚店に立ち寄り、3匹のイマイユ〈生・魚。獲りたての魚〉を買い、いかにも自分が釣ったかの如く持ち帰りおふくろに渡した。しばらくしてシム〈上座に対するシモ。台所〉から独り言にしては大きめのおふくろの声がした。
 「へぇー。近頃の魚はワタミームン〈はらわた〉無しで泳いでいるんだネ」
 鮮魚店のオバさんは人の気も知らず、ワタミームンだけ取ってくれたのだ。なんとお節介な魚屋がいたもんだ。



 琉歌百景84[たっとぅゐ ふぃっとぅゐ]

 symbol7家の前までぃ 行ちゃびたん 七回ぇん八回ぇん 行ち戻どぅやー
 たっとぅゐふぃっとぅゐ ゆたみかち 男の心ぁ 定まらん

 歌者神谷幸一の「浮名ぶし」の1節。八八八六の定型をはなれた散文詩形。
 語意*たっとぅゐ ふぃっとぅゐ=不安・困惑で心が定まらないさま。*ゆたみち=揺れるさま。動揺。
 歌意=貴方に逢いたくて、貴方の家の前まで行きました。呼び出すわけにもいかず、7回も8回も行きつ戻りつしました。私の心は[たっとぅゐ ふぃっとぅゐ]。寄せては返す波のように[ゆたみち]、揺れに揺れました。でも女心とは裏腹に、男の恋とは口で言うことと本音とは別なもの。定まらないものなのネ。
 「徒に恋はすまじ」。男らしい男は女心を「たっとぅゐ ふぃっとぅうゐ」「ゆたみかせる」ようなことは決してしない。

 琉歌百景85[WUんぶゐ こうぶゐ]

 symbol7踵高靴小や けーくまゐ WUんぶゐ こうぶゐ 歩っちゅしや まあん変わらん 風吹ち鶏
 〈アドゥタカグツぐぁや けーくまゐ WUんぶゐ こうぶゐ あっちゅしや まあん かわらん かじふち どぅい〉

 語意*アドゥ=かかと。したがって、アドゥタカグツはハイヒールのこと。*「けー」は「くむん・履く」にかかる接頭語。WUんぶうゐ こうぶゐ=不安定のさま。
 歌意=踵の高いハイヒールは履いたものの、その女性の歩行の態は、いまにも転びそうな不安定さ。なんとまあ、寸分違わず強風にあおられて歩く鶏のようだ。
 昭和31、2年ごろ風狂の歌者故嘉手苅林昌が「花口説・一名花街口説」に乗せて歌った即興詩である。節名は「時代の流れ」。敗戦から10余年ごろ沖縄の世相を読み込んだ貴重な俗謡と言える。このひと節は「唐ぬ世から大和ぬ世 大和ぬ世からアメリカ世 うすまさ変わたるくぬ沖縄」と歌い出す。「うすまさ」は「ものすごく」の意。沖縄の激変は、いまもとどまるところを知らない。