旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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平和メッセージ・今は平和といえますか?

2017-07-20 00:10:00 | ノンジャンル
 盛夏。ところかまわず蝉が鳴き込めている。
 72年前の夏もそうだったに違いない。沖縄戦が終結した6月23日。沖縄は「慰霊の日」。沖縄戦全戦没者追悼式が執り行われ「平和の礎」に刻銘されただけでも24万1468名。未刻銘のままの犠牲者の鎮魂がなされ、沖縄中が鎮魂と平和希求に包まれた。
 この日に合わせて、沖縄県平和祈念資料館では「第27回児童・生徒の平和メッセージ」を募集。公表した。小学校生の作文2篇。読み取っていただきたい。

 ◇「えがおでへいわをつくろう」
     *石垣市立白保小学校1年・森 心羽奈(こはな)

 今日、学校で平和のお話しをきいたよ。私は平和ということばが何か分からなかったけど、少し分かったよ。それは、おうちで弟が元気いっぱい泣く声がすることかもしれないな。だって、平和じゃないと赤ちゃんは大きな声で泣いたりできないからだよ。私は弟が大好き。まだ8か月だけど、とってもかわいいよ。心羽奈のたからものだよ。
 私はいつも友だちと笑ったり、自転車にのって遊んだり、ケンカをしたりするけど、ケンカしても友だちは許してくれるよ。心羽奈も「ごめんね。心羽奈もわるかったよ。また一緒に遊ぼうね」というと「いいよ。わたしこそごめんね。また仲良くしてね」というよ。世界の国も心羽奈たちみたいに「ごめんね。なかよくしよう」と言えばいいのにな。そうすれば、国と国のケンカもすぐにおわるのにな。みんなの笑顔が世界にいっぱい咲くといいな。
 おとうととおかあさんが笑うと、私の心があたたかくなる。おにいちゃんと弟は心羽奈のたからもの。お友達の笑い声、先生のやさしい声。モウという牛の声。白保のみんなが笑顔になったらいいね。みんなが笑うといい気持ち。笑い声がみんなをやさしくするよ。手をつないだらもっとうれしいよ。みんなの心をえがおでつないで、へいわにしたい。みんなで笑って笑って世界を平和にしていこう。

 ◇「今は平和といえますか?」
     *糸満南小学校6年=上原一路

 今年の夏も オオゴマダラを青空に放つ
 沖縄では、蝶は平和の使者
 歌声にのって ふわふわと まるで戦没者と私たちをつなぐように
 そして、オオゴマダラは私に問いかける
  「今は平和といえますか?」

 七十二年前の写真をみた。
 この空から降ってくるのは 爆弾だった
 軍艦で埋め尽くされた海 戦車 銃を担いだ兵士 火炎放射器 焼け野原
 暗闇のガマ、人々は痩せ細り ボロボロになった服で 哀しそうな目をしていた
  あの時の沖縄は何色に見えたんだろう

 このまっ青な空の下 私の目の前にあるのは
 避難するはずだった子どもたちが数多く眠る海
 潮風が私を包み込んでいく そして時折
 戦闘機やオスプレイの轟音が降ってくるのだ あの時と同じように
 今度はやんばるの海と森がこわされていく
 また沖縄が泣いている
 波にのって打ち上がる貝がらが訴えているようだ
  沖縄を守ってくれ
 慰霊祭のたびに 私は平和をうたう
 ‟むしか てぃーちだき にげーぐとぅぬ かないらー
  命失ないる戦捨てぃてぃ 世界んかい 肝がなさとぅ みるく世
  くぬ願げーぐとぅぬ 叶いるまでぃ我達ぁや 歩み続きーし 止みらんどぅ~


 今年も六月二三日がやってくる
 戦争でかけがえのない命を失った過去を 二度と繰り返さぬように
 差別と貧困がなくなるように 世界が平和で包まれるように
 平和の歌にのせて 沖縄の空をオオゴマダラが舞う
  今は平和といえますか?
 と問いながら

 七夕。子どもたちは短冊に(願いごと)を書き‟笹の葉さらさら~”を歌った。
 宜野湾市立嘉数小学校1年伊波光勇クン(7歳)は、たどたどしい、それでも力強く星に願いを託した。
 「せんそうがおきませんように」。
 嘉数小学校はオスプレイが発着する普天間基地にそう遠くない。
 「7歳の子に‟せんそう”という言葉を使わせない世の中でなければならないのになぁ・・・」
 窓を開ける。まだ太陽と蝉が勢力争いをしている。


平和メッセージ・サンゴの骨壺

2017-07-10 00:10:00 | ノンジャンル
 その日の前日。沖縄の梅雨は明けた。途端に太陽は威力全開。戦後72年の「慰霊の日」を迎えた6月23日、県内では沖縄戦で死没した24万1468人を追悼し、恒久平和を希求する祈りに沖縄中が包まれた。
 沖縄県、県議会主催・沖縄全戦没者追悼式は、糸満市摩文仁の平和祈念公園「平和の礎・平和式典ゾーン」で執り行われた。
 同施設内の沖縄県平和祈念資料館では、27年前から「児童・生徒の平和メッセージ」を公募、発表してき、今号はその作品の中から、作文の部最優秀賞・那覇国際高校2年。新里美結(みゆう)さんの「サンゴの骨壺」を紹介しよう。高校生の(想い)を分かち合いたい。

 ※「サンゴの骨壺」
 大気を震わすような低い音が近づいてきたので、空を見上げると予想通り、三角形の翼を広げた軍用機達でした。次々に過ぎ去るその姿を見て思い出したのは、その音が鳴り響いていた中学校の校庭と、見たこともない曾祖父の骨壺でした。「戦争に行くとわかった時、もう帰ってこないだろうと、髪の毛と爪を置いて行ったんだよ。戦争が終わって、海に行った。そこで拾ったサンゴを髪や爪と一緒に壺に入れた。骨は戻ってこなかったからね」。
 祖母はそう話してくれました。骨の代わりにサンゴの入った骨壺。祖母はどんな思いでサンゴを拾ったのでしょうか。軍用機が空を飛ぶ音は民間飛行機とは違います。私はその音を聞くと、ふと疑問に思うことがあります。武力に頼る平和は本当に平和なのでしょうか。
 「正義の戦争などない。誰かに向けて撃った弾は巡り巡って自分自身に返ってくる」。
 道徳の授業で聴いたこの言葉は、ある写真と共に私の記憶に残っています。その写真は横長で、ライフル銃を構えた兵士の写真でした。平らな壁に貼れば、兵士はライフルを写真の左側に構えており、鋭った先には何もありません。しかし、円柱に貼ると、ライフルは一周し、その銃口はライフを構えている兵士の後頭部に向いているのです。私はぞっとしました。この兵士が私たちだという可能性があったからです。私たちが兵士になるという意味ではありません。私たちが傷つけようとしていることが、実は私たち自信を傷つけることにならないでしょうか。写真の兵士は、自分自身を撃つとは知らず引き金を引くでしょう。私たちもこの兵士と同じことをしようとしているのではないでしょうか。
 国を守るためには、軍を強化する必要があるという考え方を持っている人がいます。海外ではこの考え方が一般的だという人もいるでしょう。しかし、私は武力では国を守ることができないと思います。なぜなら、武力を用いて物事を解決しようとするならば、それは新たな問題を生み出すことになるからです。失わずにすんだものさえ失う可能性があるからです。守るはずだったものが守りきれなくなるからです。そして、未来で得られていただろう関係や可能性をつぶすことになるからです。私には中国人の友だちがいます。中国ときくと内心嫌だという人もいるでしょう。中国でも日本人に抱くイメージは良いものではないでしょう。私たちの間には歴史や政治的な隔たりがあります。今、もし、中国との間で争いが起これば、その隔たりはますます深くなるはずです。そうなってしまうと、私は大切な友だちを失うことになります。私たちは同じ誤まちをまた繰り返すのでしょうか。国を守るためとやった行為が、逆に国の未来を奪いはしないでしょうか。一つの判断が全てを無にする歯車を動かすことになるのです。
 政治、経済の資料に載っている日本国憲法第九条には、こう書いています。
 「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇、又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。人は誤ちを繰り返さないよう努力します」。
 日本国憲法第九条は先人たちにとって誤ちを繰り返さないための決意であり、未来に向けての願いではなかろうかと、私は思います。私たちはこの決意を守らなければならないと思います。私たちには頭があります。心があります。それらを用いれば、武力より優れた力を使うことができます。第九条に書かれているように、私たちは平和を誠実に願い求めなければなりません。そしてそして、平和の未来を築くために考え、行動しなければなりません。先人たちの思いを踏みにじってはいけません。先人たちの決意は私たちにとっての誇りです。
 第2次世界大戦中、曾祖母のお腹の中には、祖母の弟がいました。曾祖父は、自分の子供に1度も会うことなく行ってしまったそうです。
 「もう帰ってこないだろう」
 そう言って爪と髪を切った曾祖父は一体、どこへ行ったのでしょうか。最後、何を思ったのでしょうか。
 爪と髪とサンゴ。それは曾祖父の悲しみのようでした。
 サンゴの骨壺。それは私が忘れてはならない物語です。

 新里美結さんの視点には暗さがない。鎮魂の上に立って、純粋に未来を見つめている。キラキラ光っている瞳がそこにはある。そして、戦争の実体験を通し、美結さんに伝え続けてきた祖母に、平身低頭して敬意を表したい。
 日頃、知ったかぶりをして反戦平和を吹聴している己が恥ずかしく思えてならない。
 南の風は湿度を含みじとじとと熱風を送ってよこす。そこいらの木草もげんなりとしている。72年前もこうした夏だったのだろう。


めざせ長寿・健康かるた 終章

2017-07-01 00:10:00 | ノンジャンル
 嫌いではなく。‟恐いっ”のである。
 もちろん鎖につながれている近所の犬でさえ、いつもならボクの足音に返応して唸ったり吠えたりしてするのだが、このところ小屋の前に半身を出して寝そべり、ウンともスンとも言わなくなった。それどころか、片目をあけて一瞬、ボクを見るだけで完全無視の態。そうなると「ワンッ」のひと声を覚悟していただけに警戒心をはぐらかされる。それほど真夏日である。

 高橋和男編纂「めざせ長寿・健康かるた」シリーズも終章。
 「あさきゆめみし」の「あ」からはじめよう。例によって「*印」は、ボクの蛇足。

 ◇(あ)甘いもの 塩辛いものは ほどほどに。

 ◇(さ)寒い日は 暖めてから トイレとお風呂。
  *沖縄では、便器を暖めるほどの寒さはないが、それでも高齢者は夏でも身体を冷やすべきではないという。古諺の「年寄りの冷や水」は、無理な行為戒めながらも、内臓の平穏保持を促しているのではないか。

 ◇(き)気にするな 耳が遠いは 好都合。

 ◇(ゆ)行き先を 家族に伝えて 外出しよう。
  *ラジオの生番組に「尋ね人」が多くなった気がする。高齢化社会のひとつの現象か・・・。

 ◇(め)メモをして 貼れば防げる 物忘れ。
  *思わず苦笑する。メモをどこに貼ったか忘れることもあるし、何をメモしたか覚えていたらいいが、貼ったメモを見て、何のためにメモしたかを忘れたらどうしよう。

 ◇(み)見栄はらず 早めに 転ばぬ先の杖。
  *敬愛する先輩のK氏は難聴気味。家族の奨める補聴器着用を拒否している。視力低下には眼鏡。歯が少なくなったら入歯。おしゃれ感覚で補聴器もよいのではないかと奨めるらしいが、K氏はまだ見栄を捨て切れずにいるらしい。それもまたよし。

 ◇(し)シミ 白髪 受け入れましょう あるがまま。

 ◇(ゑ)恵比須顔 爺さん婆さん 福を呼ぶ。
  *沖縄(もろみざと)の一角にスナック、小料理店、おでん屋が軒を連ねる飲食街がある。自治会、飲食店組合としては「末永く繁華するように」という思い入れがあって「百軒通り」と名付けたのだが、年期が入るにつれ、かつての美人ママも70歳前後になり、天下を語っていた(若者たち)も、年金生活をするようになっている。そのせいか「百軒通り」の名称は「年金通り」の方が文字通り(通り)がよくなっている。
 御常連たちは連夜、若かりしころの自慢ばなし、武勇伝などを披露し、懐かしのメロディーを有名歌手になり代わりマイクを握り皆々、恵比須顔である。60歳にとどかない現役の市町村長も校長も社長も、年金通りの店に入ると後輩扱いで説教を喰らうシーンも見られる。温故知新を身をもって知る「年金通り」の店々なのだ。勇気と情愛を心得た現役者は「話半分」を楽しんでいるようだ。看板近くになると恵比須顔たちは、申し合わせたように席を立ち、その折に発する再開の弁がこうだ。
 「また次に!」
 この「次に」は年金授与日かその翌日を意味するそうな。

 ◇(ひ)ひと安心 手すりをつけた家の中。
 
 ◇(も)物忘れしたしたから何だ 気にするな。
  *風俗史や芸能史の表裏を教えてくださった故崎間麗進大兄。ある事項をド忘れなさることがあった。「このことでしょうか?」と伺うと「そうそう。まあ、ワシが忘れても教えたお前が覚えていたらそれでいい」が返事だった。

 ◇(せ)世話好きで マメなお人は ボケません。

 ◇(す)酢の物や 香辛料で食すすむ。

 ◇(京)今日もまた いい日だったと 床につく。

 以上、高橋和男編纂「めざせ長寿・健康かるた」。
 諺、名言は数にあるがその通りにいかないのも人生。読者諸賢で、自分のためのみの「いろは人生訓」を詠んでみては如何。人生は存外煩わしい。ならば、その煩わしさを楽しみに替えてみるのも人生なのではなかろうか。
 ウフムヌ言い(大言壮語)に過ぎた。乞う容赦。

 おや、もうこんな時間か。暑さにかまけて完全休養を決め込んだことだが、そうしてはいられまい。陽もおさまったようだし、散歩に出ようか。件の犬も昼寝から覚めたであろう。「ワンッ」とひと声、彼の挨拶も聞かなければなるまい。「めざせ長寿・健康かるた」のせいか、散歩着に着替えながら後期高齢者の仲間入りをしているボクの口をついて出たのは、忘れて久しかった都々逸の文句。
 ‟七つ八つからいろは覚え イの字忘れてイロばかり”