旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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御口三司官にならないで!

2016-07-20 00:10:00 | ノンジャンル
 早朝から集団で鳴く蝉顔負けの暑く熱い6月、そして7月前半だった。
 県会議員選挙に参議院選挙。巷では今なお選挙熱は醒めていない。

 「いつもの選挙よりは、盛り上がった選挙だったね。それはそう成らざるを得なかった。米軍軍属による暴行殺人事件。駐留米軍総司令官は、哀悼の意を表して、米軍人の民間地域への夜間外出、基地外での飲酒などを禁止したが、その期間中で相次ぐ飲酒運転逮捕者が多々である。沖縄をなんと思っているのか」。
 「このような事件事故が、二度と起きないよう、徹底した教育をするという総司令官のコメントが、白々しい。いや、白々しいではすまされないし、それで納得はしておれない」。
 「二度とという謝罪を何百回聞いたことか!それでも堪忍袋の緒を切らさない沖縄人。我ながら我慢強いと思うよ。外国ならテロものだよ。それも、心の片隅で日本という国を信じているから・・・・かな」。
 会話はどんどんエスカレートして、基地拡大、普天間基地、辺野古問題に及ぶ。他府県では想像だにしない市井の日常会話なのである。その中での選挙結果をうけて、ある御仁は溜息とともに言った。
 「全国の当選した新議員連。御口三司官にだけはなってほしくないな・・・・」。

 御口三司官(みくち さんしかん。昔風には、さんしくぁん)。
 沖縄の慣用句である。
 高慢な公約を標榜した立候補者は、自分を当選させてくれたら、すぐにでも日本は平和国家になると声高らかに熱弁をふるうが、議員バッジをつけたとたんに、公約はひとつひとつ選挙民から遠ざかっていく。
 選挙ばかではない。政治経済、文化、教育などなど、すべての面で御高説はのたまうが、高説止りで実行を伴わない御仁に対し、皮肉と不信感を含めて奉るのが「御口三司官」。
 ひところ流行った「口裂け女」ならぬ「口だけ御仁」のこと。これはいつの時代にもいる。

 三司官について、少し記しておいたほうがよかろう。
 簡単に言えば首里王府の最高職名。尚巴志王代(しょう はし=1372~1438)に置いたとされるが、詳しい記録はないという。はっきりしてくるのは尚真王(1465~1526)年代も後半になってからのこととされる。
 つまり、今風にいえば、琉球国の国政を統括する3人の大臣と理解しておく。司法・行政・立法の諸法案を吟味し、国王に認可を得て、各部署にその実施を命ずる最高位にあり、見識はもとより人徳と実行力が問われた。そのことは、いまでも基本とすべきことだろう。万民にリスペクトされる人物でなければならず、選出は王府の高官による選挙。
 この組閣形態は現在でも基本的には相違しないようだが、その実績から推察するに、有言実行の三司官に比較して「言うだけ大臣」「ふろしき大臣」が普通であるような気がしてならない。いやいや、大物言い(うふ むぬいい)知ったかぶりはよそう。無責任な政治批判、政府批判は(私は)止めておこう。これ以上、論じると(御口三司官)ボクもなりかねない。面白ばなしにしよう。

 戦後間もなくのはなし。
 ある選挙の際、立候補者は農村票を当て込んで演説した。
 「わたくしが当選の暁には、近代農業化を進めます。まず、農道を改修し、皆さんの田畑へつづくアブシ(畦)というアブシをアスファルト・コンクリート舗装して、草1本もない立派な農道にして差し上げましょう」
 それを聞いたひとりの老農夫が不安げに問い掛けた。
 「先生さま。うちのフィージャー(山羊)の餌は、これまでアブシの草を刈って与えてきました。先生が当選して、この辺りのアブシをアスファルト、コンクリートで固め、草1本なくしたら、フィージャー草は、何処で刈ることになるのでしょう」。
 この立候補者、農民の実生活に疎く、家ではステーキとワインの食事を日常としていたのだろう。フィージャーが、どう人びとと暮らしているかまでは、政治理念には皆目なかったのだろう。これまた「御口三司官」と言えないこともない。この話、その先生が当選したかどうかの「落ち」はついていない。

また、世間から先生と呼ばれる方に多いが、集会やパーティーに遅刻してきても主賓席を要求する。参集者の中からは囁きが漏れる。
 「またまたまた!あの先生!自分で自分を三司官の位に就附けたよっ」
 失笑混じりであることは言うまでもない。
 そうした先生は決まって、予定にはない来賓祝辞を申しつける。これに対しても雄弁、蘊蓄を述べれば述べるほど、
 あの人議員かっ!」「弁護士みたいだね」と皮肉る。言行は一致してはじめて人の心に届くということか。

 待て待て!待て!
 暑さのせいか、人選びの整理がまだついてないせいか、自分が「御口三司官」に陥りそうだ。駄弁に過ぎたか!乞う容赦。
 と言いながら蛇足を。晴れて(沖縄の場合)県会議員になった方、全国の参議院議員に当選した方に暑中見舞いの狂歌を1首お贈りしよう。
 ‟選挙前の公約 ちっとぅ実なしよ 御口三司官 なてぃや呉るな
 〈新議員の皆さん。選挙前に口にした公約は、きっと結実させてください。口だけの議員にはならないでね〉。


夏は子育てのとき

2016-07-10 00:10:00 | ノンジャンル
 イクメンがすっかり定着した。
 息子、2人の娘が幼少のころ、ボクという父親は(イクメン)をしたことがあっただろうか。
 息子に二人の娘が手のかかるころは、たまに、ごくたまにオシメを替え、風呂に入れた記憶はあるが、その他は母親任せだった。それで世間には通用する時勢だったのだろう。いやいや、家庭における子育ては(母親の義務)と決めつけて、父親面を通していたのかも知れない。いまになって反省しきりだが、それでも息子、娘が人さま並みに成長してくれて、合計6人の親になって、ボクを(しあわせ爺)にしてくれた。感謝以外に言葉をもたない。

夏になると、男5人女4人を産み育てたおふくろが、自分の娘や嫁に言っていた古諺を思い出す。
 「赤ん子ぁ 6月にん 雪降ゐん=あかんグァぁ ルクグァチにん ユチふゐん」。直訳すれば「まだ、ちゃんと生育していない乳児にとっては、盛夏の6月でも、雪が降る日々だ」ということになる。つまり、自分では体温調節のできない乳児は極端に暑さに弱い。したがって、親が暑いからといって裸になり、あるいは薄着をさせたのでは健康を害する。このことを心得よとする教えである。子育ては季節を問わず、健康管理が第一であることは、世界共通の認識。それを雪は降らない沖縄で(雪)を引き合いにして(親の心得)としたところが平明で説得力をもっている。

 スペインには、次のような諺があるそうな。
 ◇誰と一緒に暮らすかであって、誰の所に生まれたかではない。
 人は誰の子として暮らすかによって、一生が左右されるのであって、誰の子に生まれるなぞ、問題ではないとしている。大切なのは氏素性ではなく、育つ環境。本性よりも教育を重視する考え方であろう。日本の「氏より育ち」に通じるか。もともと生まれというものは、あまり当てにならないもので、やはり「育て方・育ち方」に重さを置くべきなのかもしれない。
 非イクメンのボクは、いまひとつウクライナの諺を見つけて、またぞろ頭を抱える。
 ◇小さな子は頭痛をもたらし、大きい子は心痛をもたらす。
 子どもは小さいうちは何かと手がかかり、チブルヤミー(頭痛)の絶える間がないし、大きくなればなったで、他人さまに迷惑をかけないか。反社会的な道を歩みはしないか。チムヤミー(心痛・心労)を持病とすることになる。
 乳飲みん子(チーぬみんグァ・乳児)や幼児を育てるのも大ごとだが、親の苦労はむしろ、子どもが大きくなる過程のほうが大きいとも言える。日本的には「子は三界の首枷」か。
 ◇小さい子は母の前掛けを踏み、大きな子は心を踏みつける(ドイツ)。
 ◇小さな子は膝に重く、大きな子は心に重い(エストニア)。
 ◇小さな子は眠らせてくれず、大きくなると母親が眠られぬ(ロシア)。
 ◇小さな子は粥を食べ、大きな子は親の心を食う(チェコ)。
 ◇小さな子は小さな喜び、大きな子は大きな悩み(ロシア)。
 これらは北村孝一著「世界のことわざ辞典」に掲載されているが、一番手がかかったのはボク「非イクメン親父」であったことを思い知らされる諺群である。

 ダメ親父も子たちのおかげで、好々爺をさせていただいている。
 けれども、世の中の価値観には寂しさを覚えないこともない。
 先日、2歳半の末孫のために夏服を買った。煙草以外、買い物をしたことのないボクがである。デパートに立ち寄り孫注文のシューズを買うという老友について行ったおかげである。いい爺ぶりを誇りたかったのだ。意気揚々、持ち帰ったことだが、爺の期待は裏切られ、夏服は孫の身を包まなかった。孫の母は、口調は柔らかかったが、鋭く切り込んできた。
 「幾らしたの?へぇーっ!そんなに!気持ちはありがたいけど、ダサすぎる!ひと昔前のデザインよっこれ!私が買い換えてくるわ。引換券が付いていたでしょう。えっ!もらってないの!だめねぇー。これからは勝手に買い物なぞしないでね。品物よりキャッシュを頂戴。私が買ってくるから。これっ?どうするかって?せっかくだからもらっておくわ。ヤーカラー(普段着・遊び着)にはなるから」。
 反論の余地なし。爺になるのもただごとではない。
 「若い父親は頼りになるが、老いた父親はセンスがない」というところか・・・・。
 非イクメンの末路をみた。
 それでも爺は、そのまた爺婆たちが座右の銘にした言葉を記さなければ、存在がますます薄くなる。その言葉・慣用句はこうだ。

 ◇冬や銭儲きてぃ 夏や子儲きり=ふゆやジンもうきてぃ なちや クァもうきり
 他府県に比べて、そう寒くもない沖縄は働きやすい。冬は懸命に生業に打ち込み、蓄えを成し、他府県より暑い沖縄の夏場は、子育てに専念せよの意。言うまでもないが(子もうきり)は(子づくりに励め)にあらず。殊に乳児の健康に留意せよということだ。
 子が生まれたことを「子をもうけた」とは、いまでも使っていることば。

 いま午前0時を少し回った。孫たちは夢の中だろう。爺も同じ夢をみることにしよう。明日も暑くなりそうだ。