旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

諺・金言・格言・座右の銘

2008-11-27 17:26:14 | ノンジャンル
★連載No.368

 「諺」「金言」「格言」。
 沖縄ではこれらを「黄金言葉=くがに くとぅば」と言い、座右の銘にしている人も少なくなかろうか。黄金のように価値ある言葉として、たいていそれらは幼少のころ祖父母や両親に掛けられた言葉が多く、その意味を理解できる大人になってから座右の銘に昇格させているようだ。
 私の場合は、何がそれだろうか。
 「三人からぁ 世間=ミッチャイからぁシキン」。これもいまでは座右の銘のひとつになっている。
 少年期。風呂も入らず汚れた顔のままだったり、あらぬ格好をしていたりしていると、おふくろは、この言葉を掛けてよこした。つまり、見た目によろしくない格好は、人さまに不快感をあたえる。人は、三人寄り集まれば立派な世間を構成するもの。たとえ親しい少数であっても「みっともない格好をしてはいけません」「常に顔や手足だけでも洗って人前には出なさい」と、戒めていたように思える。そのころは、身だしなみだけの訓辞と受け取っていたが、長じるにしたがって「三人からぁ世間」は、言動もふくむことを思い当たり、おふくろの面影と共に胸の奥に納めている。諺・金言・格言とは、どう定義づけされているのか。またぞろ辞典の世話になることにする。
 諺=昔から広く親しまれている教訓・風刺をふくむ句。
 金言=仏の口から出た心理のことば。生活の掟とすべき立派なことば。
 格言=人生の真実、いましめなどを短い形で述べたもの。(日本語大辞典)

 表現は異なっても、いずれも同意語に思えるが、どこか微妙な言い回しがあって言葉の面白さを覚える。いまひとつ『会話などに用いるくだけたことば』とされる俗言、俗語には、その時代を写し出したインパクトがあって興味深い。しばらく前に、ビートたけしが放った「赤信号!みんなで渡ればこわくないっ!」や、志村けんの「カラスなぜ鳴くのカラスの勝手でしょう」は、自己中心に成り下がった日本社会をズバリ批判していて、グサリ胸を刺すものがあった。
 沖縄には昔のそれながら、飽食を通り過ぎてメタボリック症候群におののく我々に、警告を発している俗言・俗語がある。

 ◇目や腹やかねぇ 大ぎさん=ミーやワタやかねぇ マギさん」。目は腹よ 
  り大きい。
  外食のバイキング料理の場合、安くて食べ放題ということもあってか、目で見た分には「よしっ!これぐらいは腹に納まる!」と、自信をもって受け皿を大盛りにするが、いざ箸をつけてみると、見ると食べるでは大違い。とてもとても完食できず、もったいないほど残してしまう。言い直せばこの俗語は「腹八分」「腹も身の内」に通ずるのではなかろうか。


 ◇だてぇーん食み欲さいねぇ 少ふぃ。ニーサいねぇ だてぇーん食み=だてぇーんカミぶさいねぇ イフィ。ニーサいねぇ だてーん カミ。
 たくさん食べたい時は少し。腹八分。健康がすぐれず、食がすすまない時には〔無理してでも〕たくさん食せよと、教えている。なかなか利に叶った俗言ではないか。「食べる」を「かむん」、「食べ物」を「かみむん」と方言では言うが「かむん」は「噛む」の転語。なべて「かみむん」は、よく噛んだ後、喉を通し胃に納めなければならない。
 ◇仕事や成ゐる分 物や腹ぬ満=シグトゥやナゐるブン ムヌやワタぬミー。
  およそ仕事は無理せず、ゆるりと出来る分だけにとどめ、その代わり飯   
  は遠慮せず満腹するほど食せよの意。
 いつの時代にも要領のいい御仁はいるもの。植木等の無責任男「♪・・・・楽して儲けるスタイル」を彷彿させる。こういう御仁はそのうち「世の中は寝るより楽はなかりけり 浮世のバカよ起きて働け」と言いかねない。

 演芸を沖縄に定着させた人。作詞家、作曲家、文筆家、漫談家など多彩な顔を持ち、コザ・チャンプルー文化の先がけとなった故照屋林助さん。幼少のころの家は貧しく、豚肉鶏肉など肉類が買えない。それでも母親は、育ち盛りの子どもたちのために、豚や鶏の骨をあがなってきて、その出し汁に野菜を入れて食卓に乗せていた。ある日、林助少年は母親に言った。
 「アンマー<母親>。汁だけで、肉が見当たりませんが・・・・・」
 アンマーは答える。
 「肉よりも、骨の出し汁に栄養分はあるんだよ」
 林助少年は、さらに言った。
 「汁も栄養になるでしょうが、たまには肉の栄養もつけたいですね」
 ・・・・・アンマーは貧しさを恨み、シム<下方。台所>の隅で泣いたにちがいない。

 おや。諺、金言、格言。そして座右の銘について語るつもりが、的外れの展開になってしまった。小腹がすいたせいだろう。時間も午前1時。うどんでも食べてから寝ることにしよう。

次号は2008年12月4日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com

琉歌・夫婦百景

2008-11-20 10:12:28 | ノンジャンル
★連載NO.367

 週に2度、もしくは3度は会って50年近く付き合っている役者八木政男さんは〔夫の鏡〕である。
 沖縄芝居の芸歴60年余。RBCiラジオ午後3時の番組「民謡で今日拝なびら=月~金」のレギュラー出演46年。ほかに「一言葉二言葉島言葉=月~金」を担当。一方で舞台やテレビを精力的にこなす重鎮だ。これだけでもハードな日々に思われるが、私生活では孫の学校の送迎のみならず、清子夫人の言いつけをよく守り、今日は〔飲料水〕の買い出し、明日は出したクリーニングの受け取りと、実に多忙を笑顔で極めている。もちろん、食材の買い出しにも同伴、夫人の後ろからカートを押して店内を回り、その上、週に2度ほどは夫人と共にカラオケハウス行きを欠かさず高峰三枝子、藤山一郎から氷川きよしまでを楽しんでいる。これを〔夫の鏡〕と言わずして何と言おうか。

 ♪若さある内や 松ぬ葉に暮らち 今や芭蕉ぬ葉ん いばくなとさ
 『結婚当時は貧しく、住まいも松の葉のように細く狭い家で暮らしてきた。それでもふたりは、心を合わせて気張り通した。おかげで人並みの芭蕉の葉のように広い家を建てることもできた。子も出来、孫も生まれてこの上なく幸せ。しかし、そうなってみれば広い家も孫たちの運動場と化して狭くなってしまったね』
 この1首は、決して不満を詠んでいるのではない。むしろ逆であることは容易に読み取れる。詠み人しらずになっているが、八木政男夫妻がモデルではないかと思われてならない。
 “友がみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て妻としたしむ”
 石川啄木の暮らしを彷彿させる歌が「琉歌集」にある。
 ♪チリチリ小思むてぃ 蓋取やい見りば な何やちょんあらん カンダ ンブシー
 ♪カンダンブシーやてぃん 肝込みてぃあむぬ チリチリ小思むてぃ みしょち給り
 『勤めを終えて帰宅した夫。台所から胃袋を刺激するチリチリー小<すきやきの様な煮物>の香りがする。今夜は馳走だなと鍋の蓋を取ってみれば、いやいや何のことはない。肉抜きの芋の葉と豆腐の煮物ではないか』
 夫は少々がっかりの態。それに対して妻は返歌した。
 『いつもの相変わらずの夕食ですが、あなたのために真心を込めて作りました。どうぞチリチリー小と思って召し上がって下さいませ』
 夫婦の夕食は、フランス料理、イタリア料理を並べるよりも美味な〔愛の食卓〕になったにちがいない。
 一方にはまた、冷めた夫婦の琉歌もある。
 ♪好かん刀自起くち 物食まなゆいか にじてぃ寝んじゅしどぅ 腹ぬ薬
 帰宅恐怖症気味の夫。夜遅くいやいや帰宅してみれば刀時<とぅじ。妻>は、すでに床の中。そこで夫は決断した。
 『愛もクソも冷め切った妻を起こしてメシを食うよりも、空きっ腹を我慢して寝ちまった方が腹の薬というものサ』
 ほんとうに寝入ったのか狸寝入りなのか、定かではない妻の寝姿を横目で見て「チェッ!」と舌打ちをして別室に入って行く夫の哀愁漂う1首・・・。空腹を「腹の虫」と解釈した挙動を健康的には前向きととるべきか、砂を噛むような夫婦の悲劇ととるべきか。判定は読者におまかせする。
 沖縄では腹部や内臓を〔腸・はらわた〕の「ハラ」と言わず「ワタ」と呼称。したがってメタボ状態は「ハラが出ている」のではなく「ワタが太い」と言い、そのような体形の人を「ワタ ブー」あるいは「ワタ ブター=腹太」としている。

 次の1首は風狂の歌者・故嘉手苅林昌が好んで「ナークニー」「じんとうよう節」の遊びに乗せて歌っていたが、狂歌、ざれ唄とするには凄まじいものがある。
 ♪夫や喰てぃ寝んてぃ 刀自や病でぃ寝んてぃ 親ぬふりむんや 起きてぃシワし
 『夫は例のごとく酒を喰らって朝寝昼寝。妻は生活に疲れて病がちで起きることができない。〔親とは、この場合母親だろう〕親はそれを気遣いバカみたいに起きて心配している・・・・』
 なんという家庭なんだろう。妻と母親が哀れでならない。けれども、この歌詞が三絃に乗って嘉手苅林昌の喉からでると、実に軽妙な実に明朗な遊び唄になったのは、やはり粋人の表現力、歌心にほかならない。この1首などは選曲を誤ってはならない。ローテンポの哀愁濃厚な「下千鳥・さぎ ちじゅやー」に乗せたならば、これほど悲惨に聞こえる歌もあるまい。

 夫婦の有り様は千差万別。傍から見てとやかく言えるものではないが私自身は、人さまにはどう思われようと、せめて孫をふくむ肉親にとって「恥にならない、うとまれない存在であり・・・・たい」。ここまで書いて、なぜかしら、赤面を覚える。夫、親、爺、いずれも一般的水準に達していないことを自覚しているからだろう。


次号は2008年11月27日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com

津堅通いの白い船

2008-11-13 13:59:15 | ノンジャンル
★連載NO.366

 「うまいいなり寿司がある」
 この評判を聞いて久しくなる。ときどき友人がわざわざ買ってくるのをお裾分けしてもらっているが、酢を押さえ気味にした食感は私的には好みだ。
 「たまには出かけて行って食してみよう」
 味覚の秋に誘われて、うるま市平敷屋へゆるりと車を走らせた。平敷屋<へしきや>の方言読みはフィシチャ。沖縄本島中部の東海岸・勝連半島の東南端に位置し、かつてはトラバーチンの産地として知られ、その名石は国会議事堂正面玄関にも使用されている。それよりも、半農半漁の地に継承されたお盆の念仏踊りエイサーは、特に「フィシチャエイサー」と呼ばれ名を馳せている。
 現地到着。潮風を吸いたくて平敷屋港を出て見た。20隻余の漁船、釣船がロープを結んでいる中に、君臨するかのように大きな白い船が停泊している。船内からサンシンも華やかに新民謡「キャロット・アイランド」が流れ港内に広がっている。
 「これかッ!歌者神谷幸一所有の新造旅客船【フェリーくがに】はッ!」
 興味はそこへ移った。(有)神谷観光「フェリーくがに」。総トン数136トン。乗客定員170名。建造費3億1千万円。前後左右ガラス張りの客室。デッキからは東にあくまでも洋々たる太平洋。南を向けば知念半島。北は金武町、宜野座村の山々が遠望できることだろう。平敷屋港と津堅島を25分で結ぶ。白い船体には目、鼻、口と手足のついたアニメ画〔赤いニンジン〕が踊っている。津堅島がニンジンの産地として名を上げつつあることに因んでのデザインだろう。新民謡「キャロット・アイランド=作詞作曲・歌神谷幸一」が港内、船内に流れる由縁はこれである。

フェリーくがに
 「この船はどこで建造されて、ここまできたのだろう」
 広島県尾道の石田造船建設KKに発注された同船は、2008年7月23日現地で進水式を挙行。29日朝5時20分、因島・三庄を出港。瀬戸内海~宮崎沖日向灘、鹿児島沖から開門岳~種子島~屋久島を見て南下。古揺「下り口説」よろしく奄美大島徳之島~沖永良部~与論島沖を経ていよいよ沖縄伊平屋~伊是名島沖、そして沖縄本島国頭の山々を左にして進み津堅沖に投錨。3日間を要しての航海だった。船名「くがに」は、黄金の方言発音。島中で新造船就航を祝ったのは言うまでもない。

 津堅島は、勝連半島の南東海上約4キロにある。面積1.88平方キロメートル。周囲6.77キロメートル。標高40メートル以下の隆起サンゴ礁の島だ。
 琉球王府時代に編纂された説話集「遺老節伝」によれば、中城間切喜舎場村の喜舎場子<きしゃば しー。方言読みチサバシー。またはチサバぬシー>が村立てをしたとされるが、しかし島にはすでに人が住んでいて、喜舎場子はその人びとに農業技術を教えて崇められたとも伝えられる。島の名称もまた、喜舎場子はこの島への上陸を試みることを3度目で成功。そのとき、ようやくにして「チキタル島=船を着けた島!」と歓喜して叫んだことによるともいう。さらに「海東諸記」の〔琉球国之図〕には【通見島】。教育の祖名護親方寵文・唐名程順則著「指南広義=1708年」、徐葆光著「中山伝信録=1721年」、周煌著「琉球国志略=1708年」には【津奇奴】。1854年、日米和親条約、琉米修好条約を締結させた米国海軍軍人ペリーの5度に及ぶ琉球見聞録「ペリー訪問記=1856年」には【タキン・taking】とある。なお、徐葆光は尚敬王、周煌は尚穆王のそれぞれ冊封副使でいずれも唐人。
 「津」は港、船着場、渡し場の意があり、「堅」には堅固、堅持、堅実にみるように、「かたい。しっかりした」の語意があることからすると、津堅島は沖縄本島のほぼ中央の東方海上にあって、地の利を活かし東西南北からの大小船舶の中継地としての役割を果たしていたとも考えられる。

津堅島風景


 ♪津堅とぅ久高に 船橋架きてぃ 津堅ぬ女童 渡し欲さぬ
 久高島<くだか>は、南城市知念の東に浮かぶ小島。津堅島からは数キロの南海上にその島影を見ることができる。同じ小島だけに相呼び合うものがあったのだろう「津堅と久高に船橋を架けて、両島の女童たちを渡し合って交歓したい」と、俗謡「イサヘイヨー」の一節に歌われている。

 白い船からの連想で長い間、すっかり忘れていた歌謡曲が口をついて出た。
 ♪小鳥さえずる森かげ過ぎて 丘に登れば見れる海・・・アメリカ通いの白い船~
 作詞石本美由起、作曲利根一郎、歌小畑実。昭和24年7月発売「アメリカ通いの白い船」の出だし・・・・。
 平敷屋には、東京や横浜の港では感じられない秋風が吹き、行き交う人びとにも涼しい顔がいきわたっている。鼻歌に歌いながら帰路につく。が・・・・待てよ。当初のお目当ての〔いなり寿司〕をすっかり忘れ切っていることに車中で気づいた。まあ、また出かければいい。いなり寿司は逃げないから。

次号は2008年11月20日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com

北風のころ・竈廻ゐ

2008-11-06 15:26:47 | ノンジャンル
★連載NO.365

 「明日は、竈廻ゐがあるから今夜は遠慮するよ」
 週に1度集まっている〔ことばの勉強会〕の帰り、もう8年も顔を合わせている松崎伸男は、私の〔どうだ、一杯〕の誘いをそうかわした。
 彼が生まれ育った恩納村安富祖では、旧暦10月に入ると早々に〔竈廻ゐ〕をする。特別の仕込みはないが、その行事の後は公民館に男衆が集まって慰労会という名の酒盛りがあるため、二日続きの酒を慎み、私との一杯よりも集落の面々とのそれを優先したのだろう。というよりも〔お前の酒は長っ尻で深夜に至る。身が持たないッ〕が本音だろう。そこが松崎伸男のやさしいところ。集落の伝統行事にかこつけて、私を傷つけまいとする気配りは、本音を見通しながらも嬉しかった。

 〔竈廻ゐ=かま まーゐ〕
 3月後半から吹き始めた沖縄の南風も、ここへきて徐々に北に変わりつつある。そのため、火の扱いに注意を呼びかける行事が〔竈廻ゐ〕なのだ。火災除けの祈願行事と解していいだろう。

 地域によって「火御願=フィー ウグァン。 ヒー ウグァン」「竈番=カマバン」「火松御願=フィーマチ ウグァン。ヒーマーチウグァン」「火返し=フィーゲーシ」などの呼称がある。様式は地域によって異なるが、一般的には竈廻ゐの当日、集落の御嶽に村の主立った人たちが集まり、諸行事を司る神女<ノロ、祝女。カミンチュ>による火災除け祈願をし、夜がふけてから若者組が拍子木を打ちながら各戸を廻り〔火の用心〕を呼びかける。
 「朝夕、火松=フィーマーチ=思み詰みそうり!朝に夕に火元に気配りあれ!」
 「火松、肝要しみそうり=火の要慎第1になさりませ」
 などと呼ばれる。この唱えも地域によって異なりがある。火と松を併せているのは、かつての火越こしはトゥブシ<ともしびの意>に頼っていて、松材をお箸大に裂いたものを使用していたからだ。竈廻ゐの夜の若者組みの呼ばわりの声を聞いたならば、一家の主婦は合掌して「思み詰みやびら=肝に銘じます」と返事する。
 しかし、昭和30年ごろからは石油~ガス~電化と進み〔竈廻ゐ〕も、ほとんど形式的になったが、火ぬ神<フィヌカン。ヒヌカン>信仰は根強く継承されている。見聞するところでは松崎伸男の住む恩納村安富祖をはじめ、恩納村谷茶、読谷村座喜味、糸満市喜屋武、南城市玉城中山などは、重要な年中行事のひとつとして位置づけしている。オール電化された今日的キッチンにも〔火の用心〕の札が貼られているのを普通に見るが、何の違和感もない。これは沖縄だけだろうか。とかく、それほど火神信仰は深いと言えるだろう。
 沖縄には仏壇が登場したのは後世のことで、それ以前は〔火ぬ神〕が中心。一家の主婦がそれを守っている。火ぬ神を造置するには、神元家とは関係なく主婦の意思で成してよいとされているが、その主婦が早逝した場合は処分されて、たいていは後を継ぐ長女が新しく設けるのが慣例。シム<台所・しも・下>に神棚を作り、陶器の香炉を置いただけの〔火ぬ神〕だが、日常は先祖神以上の存在。簡単には廃れまい。
 北風が吹き始めるころになると「盗人ぉ 持たりーるうっぴどぅ 持っち行ちゅしが 火や 家屋敷、財産、命までぃ持っち行ちゅん」という俗語を聞く。ドロボーは持てる分しか持って行かないが、ホーファイ<火事>は、家屋敷、財産、命までも持っていくとして、火の用心を重視している。


 ところで。
 旧暦10月を俗に「飽ち果てぃ10月=あちはてぃ じゅうぐゎち」という。10月を除く正月から師走までは、統一的な一斉行事があるが、旧暦10月だけは「竈廻ゐ」「種子取ゐ=タントゥイ。タニドゥル。八重山諸島」「祖神祭=ウヤガン。宮古諸島」などはあっても、全県的行事がない。したがって諸行事の際、特別に作られ、火ぬ神や仏壇に供えられる季節料理にありつけない。つまりは、馳走を口にするこれといった行事のない10月の30日間は「飽き飽きする。あきれ果てるほどの月」としたのである。芋が主食だった昔びとにとっては、米飯にありつける諸行事は月々楽しみだったに違いない。それを目標に日々働いたという話には実生活感がある。

 後日。
 松崎伸男は語った。恩納村安富祖の〔竈廻ゐ〕は旧暦10月3日、今年は新暦10月31日、管轄警察署の防災担当官も参加して行われたそうな。公民館前広場で警察犬の実演があり、人が集まったところで火災防止のアピールがなされた後、区長を先頭に1軒1軒火の元を視察。「予定通りの慰労会をした」という。美酒だったろう。
 私も火の用心を肝に銘じておこう。ガスの扱いはおろか台所にも立たないが、なにしろ煙草を好み、寝煙草をするから。

次号は2008年11月13日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com