旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

響之右くんの平和・きずな

2008-06-26 11:53:27 | ノンジャンル
★連載NO.346

 6月23日は昭和20年、日米戦争における沖縄地上戦が終結した日である。あの日もそうであったように、梅雨明けの太陽が容赦なく照りつける中「沖縄戦全戦没者慰霊祭」が、しめやかに催された。沖縄は「慰霊の日」。
 その慰霊の日に向けて沖縄県平和記念資料館は、平成20年で18回目を数える「児童・生徒の平和メッセージ」を募集。作文部門・小学校の部最優秀賞に選出されたのは、那覇市立さつき小学校5年生照屋響之右〈きょうのすけ〉くんの作品だった。

 ◇「平和の日ときずなと」

 「おばあちゃん早く、早く。こっちだよ」
 僕は車を飛びおりて後ろをふり返り、おばあちゃんに手招きをした。そして走りながら、
「やっと来れたね。おじいちゃん。ここが平和の礎だよ」
 と、空に向かってつぶやいた。
 僕が小学校三年の秋のころだった。宮崎のおじいちゃんの具合が悪くなり、入院したというのでお見まいに行った。僕はおじいちゃんを元気づけるために、前に書いた平和の作文「母の日と子守歌」を持っていった。僕が読むのを聞きたいと何度も言っていたからだ。病室に入るとおじいちゃんはねていたが、僕を見るとびっくり!喜んで体を起こしてくれた。さっそく僕は心を込めて精一杯に作文を読んだ。読み終え顔を上げると、おじいちゃんは泣きながら大きな拍手をしてくれた。僕は嬉しくなっておじいちゃんに教えた。
 「慰霊の日にね、平和の礎の先に、小さな火が燃えていてね。平和の火って名前なんだけど、とってもきれいなんだよ」
 「ああ、それはきれいやろうね。じいちゃん必ず元気になって、平和の礎に連れてってねぇ。響ちゃんと同じ風景を見たかがよ」
 さらに、僕の背中をポンポン叩きながら、
 「響ちゃん、実はね。じいちゃんが小さい頃、沖縄から疎開してきた人がおってね。よう遊んだよ。いい人でね。ずっと年賀状のやり取りもしとるよ」
 やさしい目で話してくれた。そして、
 「じいちゃんも沖縄を忘れちゃいかんのよね」と、ポツリと言った。僕はへえーと思ったのだけど、この言葉の意味がよくわからなかった。おじいちゃんが少しよくなったので僕達は、また会いに来ると約束して沖縄に帰ってきた。それから一ヶ月と少したった日、おじいちゃんは死んでしまった。約束、約束したのに。
 悲しみがうすらいできた二月のある日、
 「響ちゃん、さっきね、びっくりしたよ。わざわざ沖縄からおじいちゃんに手をあわせに来て下さってね。疎開していた方だよ」
 どぎまぎしたおばあちゃんからの電話だった。僕もびっくりして、その人にお礼を言いたくなり、勇気を出して電話をしてみた。僕は何度も何度もありがとうございますを言い「なぜ、手をあわせにきて下さったのですか」と聞いてみた。すると、
「ただ、会いに行きたかったからです」。
 この言葉を聞いて僕は感動し、感謝の気持ちでいっぱいになった。ふと、僕はおじいちゃんの最後の言葉を思い出した。どうしてあんな事を言ったのだろうと。もしかしたらおじいちゃんは、沖縄の人じゃないけど沖縄の悲しい過去を知る事や沖縄の未来を見つめる事が大切だと思っていたのかもしれない。それに二人の間に強い友情のつながりがあったから、おじいちゃんは沖縄が好きで“沖縄を忘れない”と思ったのではないだろうか。
 戦争はいろんな物をこわす。人の心までもたち切ってしまう。でもこんなおそろしい時でも、人と人は友情でつながっていた。何年何十年たっても消えることのないもの。
“きずな”
 僕は初めてきずなという言葉の意味を知った。
 春三月。やっと沖縄に来てくれたおばあちゃんが、たくさんの名前を見ながらゆっくりゆっくり歩いてきた。
 「おばあちゃん、あれ、あれだよ」。僕は礎の波の先を指さした。そこには大きく広がる海と、小さな平和の火があった。おばあちゃんは何も言わず左うでに下げたバッグからそっと、写真を取り出した。
 「お父さん、来たよ。ここが平和の火じゃいげなよ」
静かに、ほろろほろろとおばあちゃんはおじいちゃんと一緒にいつまでも泣いていた。おばあちゃんの横にそっと立ち僕は思った。平和の火は、戦争をもう絶対起こさないと礎のみんなにちかい、僕達がずっと笑っていられるように祈っているんだ。消えていった命とこれからも生きていく命をつないでいるんだ。平和の火は、この島の命の火なんだ。だから僕達は灯すのだ。手と手をつなぐように、心と心を結ぶように、平和の火を灯そう。
 きずなという平和の火を灯すのだ。


平和の火

 響之右くんへ。
 おじさんはキミと同じ5年生のときは、戦後の捕虜収容所のひとつ石川〈現うるま市〉にいました。米軍の野戦用テントを建てただけの教室、即席の茅ぶき教室で教科書もままならない授業を受けていました。6歳にして戦火に追われた少しばかりの戦争体験がありますから、空襲や爆弾がなくなった分、いや、それだからこそ生き残った少年少女たちは嬉々として日々を過ごしていました。しかし、響之右くんのように“平和”“きずな”については、考えたこともありませんでした。
 おじさんは、いや、中学1年生を頭に5人の孫がいるボクはおじいさんですね。2番目はキミと同じく5年生です。このふたりとは時々、戦争の話をします。真剣に聞いてくれます。下の3人にも、きっと沖縄戦や平和や人のきずなの話をするでしょう。それがボクの[平和運動]だと承知しているからです。
 ボクは今年10月になると、70歳になります。


魂魄の塔

次号は2008年7月3日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com


夏の日のアミジャー・ガジャンたち

2008-06-19 10:41:41 | ノンジャンル
★連載NO.345

 “孑孑に月がさすなり手水鉢”虚子
 アミジャー〈孑孑・ぼうふら〉がわく頃になった。かつて、ほとんどの家のシム〈下。台所〉の横外には、雨水を溜める荒焼き土器のハンドゥーがあった。直径1メートルほどの椀状で底がややある皿状のそれを普通ハンドゥーと言い、水瓶形のものをハンドゥーガーミと称して重宝していた。前者に「半胴」後者に「半胴瓶」の漢字名を見ることがある。
 家屋のアマダイ〈雨垂れ。軒先〉にティー〈桶。とい〉と設け、屋根に降る雨をハンドゥー、ハンドゥーガーミに溜めて、お茶を入れて飲む[水]にした。井戸水は硬水のためお茶や白湯には軟水のティンシー〈天水。雨水〉を使用したのである。もちろん、生のそれは飲まず、沸騰させてからのお茶、白湯だから衛生上の問題はない。

 梅雨明けの2,3日後、ハンドゥーやハンドゥーガーミの中を童謡「めだかの学校」よろしく[そっとのぞいて見てごらん]。いつの間にかガジャン〈蚊〉の卵が孵化し、アミジャーになって蠢いている。彼らも気温の高い日はさすがに疲れるらしく、水面でジッとしているが、ドアのノックの要領で器を叩いたり触れたりするだけで、中の水面には振動が作る波紋が広がり、アミジャーたちは器用に頭と尾をS字にくねらせて底へ逃げる。それでも、しばらくすると水面に現れ、元のジッとした体勢に戻る。きっと、酸素を補給してガジャンになり、飛び立つ日を待っているのだろう。ボクは研究心旺盛だったのか、そのハンドゥーやハンドゥーガーミをのぞいては、水面を指で突っつきアミジャーたちのユーモラスな反応を2時間も3時間も観察していた。



 少年とアミジャーとのつき合いは、それだけではない。悪童ども相語らいターイユ〈田魚。鮒。フナ〉釣りに行く段になるとまず、井戸のまわりの小石を裏返し、そこにひそんでいるミミジャー〈蚯蚓。ミミズ〉採りから始める。エサである。次に親父や兄に作ってもらった釣竿を取り出す。昭和25年ごろのことだから釣り糸は米軍のパラシュートのそれ。釣針は電線製。ウキやオモリも手製。それで十分だったし、またそれ以外に術はなかった。竿、糸、針、ウキ、オモリなぞ売っている店があろうはずもない時代。子どもの遊具は、たいてい子ども自身か父兄の手作りだった。
 さて。準備が整い最後になすべきことは、ハンドゥーやハンドゥーガーミ、それに水が溜まったまま放置されているドラム缶などに生まれたアミジャーたちをすくうことだ。蚊帳布やいまでは虫除け窓に使用している目の細かい金網を用いこれまた手作りの掬い網でアミジャーを捕獲して空缶に入れる。これで準備は万端。あとは釣果を期待して、すでに見つけておいた[鮒の棲む川]へ出かける。現場に着くと、竿に巻き付けておいた糸をほどき、エサのミミジャーを手早くつけてそれぞれのポイントに投げる。ゆるやかな流れの真ん中、流れが止まっている入り江の底にターイユはいる。それでも釣果の確実性を高めるためにターイユの好物のアミジャーを撒く。ターイユは思わぬ馳走に嬉々として寄ってくるという寸法だ。面白いように[釣れた]とは言い切れないが、少年たちが胸をときめかす時間は充実して経っていく。釣れるのはターイユだけではない。トウイユ〈闘魚〉、カーシェー〈川エビ〉、時にはカーミー〈亀〉も揚がる。釣ったらそれらを持ち帰って、大きめのビンや空缶やドラム缶に入れて飼っていたが5,6日もすると飽きてしまい、釣った川に還してやった。もっとも、そのときには大方はすでに白い腹を上にして動こうとはしなくなっていたが・・・・。
 アミジャーから進化的変身を遂げたガジャン。
 沖縄にはハマダラカ、オオカ、ヌムカ、チビカ、ヤブカ、イエカなど60種の蚊がいるそうな。これらカ科昆虫は吸血の害があるばかりでなく、マラリア、デング熱、日本脳炎などを媒介するため、衛生思想の向上とともに撲滅されつつある。しかし、そこいらの草むらには、ものすごい生命力と根性を発揮したガジャンが健全に飛行している。

 かつてガジャンは若い恋人たち、殊に女性の[恋の言い訳]に一役かってくれた。
 好きな人と夜の村はずれの松の下で恋を語らった娘。翌朝、首筋に赤アザがある。「どうしたの?」と親に問われた娘はどぎまぎした。思い当たることがあるからだ。昨夜の激しい愛の嵐の中、彼の唇が首筋に埋まったことを鮮やかに覚えている。その愛の証のアザなのだ。ことの真実を包み隠さず親に告白する勇気はない。娘は答えた。
 「昨夜、ガジャンに刺されたのよ」
 因みに、蚊に刺された跡の赤ぶくれを沖縄口では「刺す」ではなく「喰う」を用い「ガジャンぬ喰ぇ=くぇー」と言う。
 夜遊びが好きだった私も、若いころはよくガジャンに喰われたものだが、近ごろは彼らはとんと寄りつかなくなってしまった。前期高齢者の血は[旨味]が抜けたのだろうか。
 “草抜けばよるべなき蚊のさしにけり”虚子

次号は2008年6月26日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com



父よ!あなたは強いかッ

2008-06-12 03:12:13 | ノンジャンル
★連載NO.344

 由来はともかくとして、6月第3日曜日は「父の日」。アメリカで始まったそうな。
 3人の父の私も、しばらく前まではその恩恵に浴したが、それぞれが独立したいまでは「敬老の日」に追いやられて「父の日」の影は薄くなっている。
 戦時中、大人たちは国の強制もあって、♪父よあなたは強かった~と、高らかに歌っていたという。戦後の少年のころいずれ自分も強い父になろうと決心して、戦場へ国民をかき立てた軍歌とも知らず、聞き覚えのこの歌を応援歌風に歌ったものだ。しかし、世の中が平和になったせいか、母の強さと愛は教育的に賛美されても、父の強さと威厳は、とんと表沙汰にはならない。


 「中国、韓国、台湾に比べ日本では父親の権威を尊重する考えが目だって[低い]とするアンケート結果が出た」
 これは、大阪商業大学が参加して行なった調査結果であると、新聞は報じている。
2006年6月から12月にかけて日本、中国、韓国、台湾の研究機関が、20才~69才の計約8000人にした意識調査である。「父親の権威は常に尊重されるべきか」の問に中国、韓国、台湾では80~84%が「尊重すべき」としているが、日本では53%と低かった。男女の役割分担に関する質問では中国、台湾の49%以上が「夫は外で働き妻は家庭を守るべき」と答えたが、日本では32%にとどまった。既婚女性に、結婚への満足度をたずねると中国、韓国は80%以上が「満足」と回答。日本、台湾は51%と低迷し、夫側の満足度を20ポイント近く下回った。
 「うちの女房は、オレとの結婚を120%満足している」
 夫はそう自惚れていてもその実、妻にはそれほどの満足意識があるわけではないということか。私もニッポンの父・ニッポンの夫の一人としてアンケートを試してみようと、
 問①=父、夫として尊敬及び権威を感じているか。
   イ.感じている。ロ.感じていない。ハ.答えるべきではない。
 問②=家長としての存在感は?
   イ.ある。ロ.ない。ハ.考えたことはない。
 問③=〈妻に〉結婚の満足度はどうか。
   イ.満足している。ロ.満足していない。ハ.どうでもよい。
 などなどの項目を挙げてみたが、実施はひかえることにする。私が期待する答えが得られるとは、到底思えないからだ。自分では立派な父、理想的な夫と自負していても調査実施をビビるのはどうしたことか。このビビリに対する自己分析が、まず先なのかも知れない。

 諺に目を向ける。
 ※夫や中柱 刀自や鏡=WUトゥやナカバァヤ トゥジやカガン。
  一家の長の夫・父は、家屋の中心に立つ柱。大黒柱。刀自〈妻〉は、母として愛を発揮し、良識を映す鏡であれと説いている。
 八重山は西表上原〈うぃーばる〉に生まれ、沖縄本島でも盛んに歌われる「でんさ節」の歌詞にも「一家が息災・健全であるには中柱と鏡が要になる」と詠み込まれている。
 ところがいま、周囲の20代、30代の人に「中柱、大黒柱とは何?」と聞いても即答は得られない。これは、近年の家屋建築から[柱]がなくなったせいだろう。かつては、瓦葺きを問わず、家屋は幾本もの大小の柱が支えて出来ていた。その中心となる[中柱・大黒柱]が建築方式の著しい進歩に伴い、柱は鉄筋に壁はコンクリートに代わった。そのことは大いによいのだが、おかげで中柱なる言葉すら息たえだえ・・・・それと共に中柱たる父の権威も風前のともしび・・・・。
 「女性の社会進出、経済的自立、核家族化、少子化が[父]を非力にしてしまったのかなぁ」。そう考えてみて「いやいや、そうではあるまい。そう思うのは父・夫たる男のヒガミだッ。マイナス思考だッ」と、打ち消している自分がいる。それでも、心が奮い立たないのはなぜか。父権をふりかざさない[楽]に慣れ切ってしまったのだろうか。


 東京堂出版・北村孝一編「世界ことわざ辞典」を開いてみる。
 ※父親は10人の子を養っても、10人の子は父親1人養えない〈イギリス、ドイツ、デンマーク、ポーランド、タタール〉
 言葉は異なるがフランス、トルコ、イタリア、スペインなどにも同じ意味のことわざがあるようだ。父親を母親に置き換えたエストニアのことわざはこうだ。
 ※母親の胸は9人の子を抱けるが、9人の子どもたちの中庭は母親1人養えない。
  まあ、親子の情愛は世界中変わらないということだろう。
 父に関するデータや社会的観念や屁理屈は傍らに置き、こどもの日、母の日、父の日、敬老の日をつつましく楽しむことにしよう。私の人生はそれでよい。




次号は2008年6月19日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com



ハブ・どっこい生きている

2008-06-03 17:39:17 | ノンジャンル
★連載NO.343

 ハブ咬症注意報発令!
 沖縄県薬務衛生課は、6月を「暖かくなりハブの行動が活発になる時期」として、ハブ咬症[注意報]を発令して、注意を呼びかけている。県内では、2007年までの10年間でハブに咬まれた被害発生件数が1,042あり、うち1人が死亡している。
 5月、6月。野鳥は卵から孵り、小動物の行動も活発化する。それに合わせてのハブの登場は、ごく自然の営みである。と言って住宅街のそこいらをわがもの顔で徘徊しているわけではない。私なぞ70年近くこの島から他所へ移り住むことなく[沖縄人]を通してきているが、野生のハブに出会ったのは2度ほどしかない。滅多に踏み入らない山中や岩場など、ハブが快適に棲める条件の整っている場所でない限り、そうそう出会うことはない。同じ沖縄人同士の座談でも、私は2度ほどのハブとの遭遇談は貴重な体験として、むしろ、興味を誘って受入れられている。それほど希少なのだ。殊に他府県から来た人は、私のハブとの遭遇ばなしに目を輝かせてのってくるものだから、ついつい話を膨らませ、枝や葉をつけ、蘊蓄をタレたりしてしまう。
 「ハブの呼称は、ヘビの沖縄語と思われがちだが、さにあらず。クサリヘビ科の毒ヘビの1種。全長2メートル。体は黄褐色の地に鎖状の暗褐色の斑点。頭部は三角形で毒腺が発達。動きがすばやく攻撃的。奄美諸島・沖縄諸島に分布していると、日本語大辞典にちゃんと載っている。ハブは立派な日本語だ」
 およそ日常会話というものは「話半分」と言われるように「辞典」を例に持ち出して語れば、たいていは箔が付き、信憑性を増大させるものだ。そして「ハブは、漢字で書くと波布。飯。匙などの文字も見える」なぞと、辞典の受け売りをすることで話をこっちのペースに巻き込めば、もうしめたもの。お調子者の私は、いい気になってハブにまつわる昔ばなしまでしてしまうのである。


 昔々。神も人間も動物も、あらゆる命あるものが仲良く暮らしていたころの大昔。いたずらものでずる賢いハブは、人間や小動物に咬みついた後は、決まって己の尾っぽに自ら傷をつけていた。[生きとし生きるものは皆、愛し尊び合わなければならないとする神の教えに対して、己の行為を正当化するための必策であった。つまりハブは、人間や小動物を咬んだことを神に咎められた場合、「神さま。ワタシは好んで咬んだのではありません。彼らが、ホレッ!この通り、ワタシの尾っぽに傷をつけたので、仕方なく報復したのです」と、言い訳を準備したのである。しかし、こうしたことが度重なるにいたって神さまは熟慮の結果、ハブの胴体を3つに分けることにした。そして頭部を琉球に残して胴体を大和の国に、尾を唐の国に放った。このため、ハブは頭部にある口で人間を咬み、大和のヘビは胴体で人間やモノを巻き、唐の国の蛇は尾の先で生きものを刺すようになったとサ。

 ①[ハブの行動]
  ハブは夜行性。昼間はよほどのことがない限り行動しない。湿度が高く、暖かい夜が活動どき。冬眠はせず、冬でも少し暖かい夜は動き出す。高湿に弱く、直射日光下では短時間で死ぬ。
 ②[ハブのいる場所]
  主に林や草地に生息。しかし、街中の公園や空き地にいる例も少なくない。つまり、身を置く所と餌になるネズミやトカゲ類などがいなければ、ハブもいない。飼育下では餌を3年もとらず生きた例があり、沖縄県下での最長年齢は飼育下で21歳。
 ③[ハブの感覚]
  嗅覚が優れている。舌をペロペロ出してニオイの分子を集め、口中のヤコブセン器官で感知する。視覚もよく、動くものには敏感だが聴覚はほとんどない。また、目と鼻の間に赤外線〈熱〉を感じ取るピット器官があり、餌のネズミや外敵の体温を感知。
 ④[ハブの繁殖]
  3月から5月にかけて交尾。6月下旬から7月に2~15個の長さ約6センチの楕円形の卵を産む。産卵から約1ヵ月半後、つまり8月下旬から9月に体長約40センチの仔ハブを孵化。その時点で毒を有している。
 ⑤[種類]
  沖縄県には22種類のヘビがいるが、毒ヘビは8種。その中で危険なのはハブ、サキシマハブ、ヒメハブ、タイワンハブの4種だけ。

 以上の項目は、沖縄県が監修発行したパンフレット「ハブに注意!」によるもの。
 要するに、ハブについての基本的な知識を持ち合わせることで、ハブ咬症被害は防げるというわけだ。
 旅行者の中には「どうしても野生のハブが見たいッ」と駄々をこねる人もいる。[どうしても]の要望なら、ハブの必殺捕獲人を紹介しないことはないが、あまりお勧めはしない。もちろん、私は同行しない。沖縄戦を生き延びてここまできたのに、ハブに咬まれることもあるまい。命の尊さを説いた「命どぅ宝」とは、これである。



次号は2008年6月12日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com