★連載NO.346
6月23日は昭和20年、日米戦争における沖縄地上戦が終結した日である。あの日もそうであったように、梅雨明けの太陽が容赦なく照りつける中「沖縄戦全戦没者慰霊祭」が、しめやかに催された。沖縄は「慰霊の日」。
その慰霊の日に向けて沖縄県平和記念資料館は、平成20年で18回目を数える「児童・生徒の平和メッセージ」を募集。作文部門・小学校の部最優秀賞に選出されたのは、那覇市立さつき小学校5年生照屋響之右〈きょうのすけ〉くんの作品だった。
◇「平和の日ときずなと」
「おばあちゃん早く、早く。こっちだよ」
僕は車を飛びおりて後ろをふり返り、おばあちゃんに手招きをした。そして走りながら、
「やっと来れたね。おじいちゃん。ここが平和の礎だよ」
と、空に向かってつぶやいた。
僕が小学校三年の秋のころだった。宮崎のおじいちゃんの具合が悪くなり、入院したというのでお見まいに行った。僕はおじいちゃんを元気づけるために、前に書いた平和の作文「母の日と子守歌」を持っていった。僕が読むのを聞きたいと何度も言っていたからだ。病室に入るとおじいちゃんはねていたが、僕を見るとびっくり!喜んで体を起こしてくれた。さっそく僕は心を込めて精一杯に作文を読んだ。読み終え顔を上げると、おじいちゃんは泣きながら大きな拍手をしてくれた。僕は嬉しくなっておじいちゃんに教えた。
「慰霊の日にね、平和の礎の先に、小さな火が燃えていてね。平和の火って名前なんだけど、とってもきれいなんだよ」
「ああ、それはきれいやろうね。じいちゃん必ず元気になって、平和の礎に連れてってねぇ。響ちゃんと同じ風景を見たかがよ」
さらに、僕の背中をポンポン叩きながら、
「響ちゃん、実はね。じいちゃんが小さい頃、沖縄から疎開してきた人がおってね。よう遊んだよ。いい人でね。ずっと年賀状のやり取りもしとるよ」
やさしい目で話してくれた。そして、
「じいちゃんも沖縄を忘れちゃいかんのよね」と、ポツリと言った。僕はへえーと思ったのだけど、この言葉の意味がよくわからなかった。おじいちゃんが少しよくなったので僕達は、また会いに来ると約束して沖縄に帰ってきた。それから一ヶ月と少したった日、おじいちゃんは死んでしまった。約束、約束したのに。
悲しみがうすらいできた二月のある日、
「響ちゃん、さっきね、びっくりしたよ。わざわざ沖縄からおじいちゃんに手をあわせに来て下さってね。疎開していた方だよ」
どぎまぎしたおばあちゃんからの電話だった。僕もびっくりして、その人にお礼を言いたくなり、勇気を出して電話をしてみた。僕は何度も何度もありがとうございますを言い「なぜ、手をあわせにきて下さったのですか」と聞いてみた。すると、
「ただ、会いに行きたかったからです」。
この言葉を聞いて僕は感動し、感謝の気持ちでいっぱいになった。ふと、僕はおじいちゃんの最後の言葉を思い出した。どうしてあんな事を言ったのだろうと。もしかしたらおじいちゃんは、沖縄の人じゃないけど沖縄の悲しい過去を知る事や沖縄の未来を見つめる事が大切だと思っていたのかもしれない。それに二人の間に強い友情のつながりがあったから、おじいちゃんは沖縄が好きで“沖縄を忘れない”と思ったのではないだろうか。
戦争はいろんな物をこわす。人の心までもたち切ってしまう。でもこんなおそろしい時でも、人と人は友情でつながっていた。何年何十年たっても消えることのないもの。
“きずな”
僕は初めてきずなという言葉の意味を知った。
春三月。やっと沖縄に来てくれたおばあちゃんが、たくさんの名前を見ながらゆっくりゆっくり歩いてきた。
「おばあちゃん、あれ、あれだよ」。僕は礎の波の先を指さした。そこには大きく広がる海と、小さな平和の火があった。おばあちゃんは何も言わず左うでに下げたバッグからそっと、写真を取り出した。
「お父さん、来たよ。ここが平和の火じゃいげなよ」
静かに、ほろろほろろとおばあちゃんはおじいちゃんと一緒にいつまでも泣いていた。おばあちゃんの横にそっと立ち僕は思った。平和の火は、戦争をもう絶対起こさないと礎のみんなにちかい、僕達がずっと笑っていられるように祈っているんだ。消えていった命とこれからも生きていく命をつないでいるんだ。平和の火は、この島の命の火なんだ。だから僕達は灯すのだ。手と手をつなぐように、心と心を結ぶように、平和の火を灯そう。
きずなという平和の火を灯すのだ。
平和の火
響之右くんへ。
おじさんはキミと同じ5年生のときは、戦後の捕虜収容所のひとつ石川〈現うるま市〉にいました。米軍の野戦用テントを建てただけの教室、即席の茅ぶき教室で教科書もままならない授業を受けていました。6歳にして戦火に追われた少しばかりの戦争体験がありますから、空襲や爆弾がなくなった分、いや、それだからこそ生き残った少年少女たちは嬉々として日々を過ごしていました。しかし、響之右くんのように“平和”“きずな”については、考えたこともありませんでした。
おじさんは、いや、中学1年生を頭に5人の孫がいるボクはおじいさんですね。2番目はキミと同じく5年生です。このふたりとは時々、戦争の話をします。真剣に聞いてくれます。下の3人にも、きっと沖縄戦や平和や人のきずなの話をするでしょう。それがボクの[平和運動]だと承知しているからです。
ボクは今年10月になると、70歳になります。
魂魄の塔
次号は2008年7月3日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com
6月23日は昭和20年、日米戦争における沖縄地上戦が終結した日である。あの日もそうであったように、梅雨明けの太陽が容赦なく照りつける中「沖縄戦全戦没者慰霊祭」が、しめやかに催された。沖縄は「慰霊の日」。
その慰霊の日に向けて沖縄県平和記念資料館は、平成20年で18回目を数える「児童・生徒の平和メッセージ」を募集。作文部門・小学校の部最優秀賞に選出されたのは、那覇市立さつき小学校5年生照屋響之右〈きょうのすけ〉くんの作品だった。
◇「平和の日ときずなと」
「おばあちゃん早く、早く。こっちだよ」
僕は車を飛びおりて後ろをふり返り、おばあちゃんに手招きをした。そして走りながら、
「やっと来れたね。おじいちゃん。ここが平和の礎だよ」
と、空に向かってつぶやいた。
僕が小学校三年の秋のころだった。宮崎のおじいちゃんの具合が悪くなり、入院したというのでお見まいに行った。僕はおじいちゃんを元気づけるために、前に書いた平和の作文「母の日と子守歌」を持っていった。僕が読むのを聞きたいと何度も言っていたからだ。病室に入るとおじいちゃんはねていたが、僕を見るとびっくり!喜んで体を起こしてくれた。さっそく僕は心を込めて精一杯に作文を読んだ。読み終え顔を上げると、おじいちゃんは泣きながら大きな拍手をしてくれた。僕は嬉しくなっておじいちゃんに教えた。
「慰霊の日にね、平和の礎の先に、小さな火が燃えていてね。平和の火って名前なんだけど、とってもきれいなんだよ」
「ああ、それはきれいやろうね。じいちゃん必ず元気になって、平和の礎に連れてってねぇ。響ちゃんと同じ風景を見たかがよ」
さらに、僕の背中をポンポン叩きながら、
「響ちゃん、実はね。じいちゃんが小さい頃、沖縄から疎開してきた人がおってね。よう遊んだよ。いい人でね。ずっと年賀状のやり取りもしとるよ」
やさしい目で話してくれた。そして、
「じいちゃんも沖縄を忘れちゃいかんのよね」と、ポツリと言った。僕はへえーと思ったのだけど、この言葉の意味がよくわからなかった。おじいちゃんが少しよくなったので僕達は、また会いに来ると約束して沖縄に帰ってきた。それから一ヶ月と少したった日、おじいちゃんは死んでしまった。約束、約束したのに。
悲しみがうすらいできた二月のある日、
「響ちゃん、さっきね、びっくりしたよ。わざわざ沖縄からおじいちゃんに手をあわせに来て下さってね。疎開していた方だよ」
どぎまぎしたおばあちゃんからの電話だった。僕もびっくりして、その人にお礼を言いたくなり、勇気を出して電話をしてみた。僕は何度も何度もありがとうございますを言い「なぜ、手をあわせにきて下さったのですか」と聞いてみた。すると、
「ただ、会いに行きたかったからです」。
この言葉を聞いて僕は感動し、感謝の気持ちでいっぱいになった。ふと、僕はおじいちゃんの最後の言葉を思い出した。どうしてあんな事を言ったのだろうと。もしかしたらおじいちゃんは、沖縄の人じゃないけど沖縄の悲しい過去を知る事や沖縄の未来を見つめる事が大切だと思っていたのかもしれない。それに二人の間に強い友情のつながりがあったから、おじいちゃんは沖縄が好きで“沖縄を忘れない”と思ったのではないだろうか。
戦争はいろんな物をこわす。人の心までもたち切ってしまう。でもこんなおそろしい時でも、人と人は友情でつながっていた。何年何十年たっても消えることのないもの。
“きずな”
僕は初めてきずなという言葉の意味を知った。
春三月。やっと沖縄に来てくれたおばあちゃんが、たくさんの名前を見ながらゆっくりゆっくり歩いてきた。
「おばあちゃん、あれ、あれだよ」。僕は礎の波の先を指さした。そこには大きく広がる海と、小さな平和の火があった。おばあちゃんは何も言わず左うでに下げたバッグからそっと、写真を取り出した。
「お父さん、来たよ。ここが平和の火じゃいげなよ」
静かに、ほろろほろろとおばあちゃんはおじいちゃんと一緒にいつまでも泣いていた。おばあちゃんの横にそっと立ち僕は思った。平和の火は、戦争をもう絶対起こさないと礎のみんなにちかい、僕達がずっと笑っていられるように祈っているんだ。消えていった命とこれからも生きていく命をつないでいるんだ。平和の火は、この島の命の火なんだ。だから僕達は灯すのだ。手と手をつなぐように、心と心を結ぶように、平和の火を灯そう。
きずなという平和の火を灯すのだ。
平和の火
響之右くんへ。
おじさんはキミと同じ5年生のときは、戦後の捕虜収容所のひとつ石川〈現うるま市〉にいました。米軍の野戦用テントを建てただけの教室、即席の茅ぶき教室で教科書もままならない授業を受けていました。6歳にして戦火に追われた少しばかりの戦争体験がありますから、空襲や爆弾がなくなった分、いや、それだからこそ生き残った少年少女たちは嬉々として日々を過ごしていました。しかし、響之右くんのように“平和”“きずな”については、考えたこともありませんでした。
おじさんは、いや、中学1年生を頭に5人の孫がいるボクはおじいさんですね。2番目はキミと同じく5年生です。このふたりとは時々、戦争の話をします。真剣に聞いてくれます。下の3人にも、きっと沖縄戦や平和や人のきずなの話をするでしょう。それがボクの[平和運動]だと承知しているからです。
ボクは今年10月になると、70歳になります。
魂魄の塔
次号は2008年7月3日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com