旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
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納涼・キミ心変りし給うこと勿れ

2007-08-30 09:31:33 | ノンジャンル
★連載NO.303

 昔々。首里城下の真和志間切真壁村に下級武士の屋敷があった。そのひとつに住む真三戸<まさんどぅ>と真鶴<まじる>は、評判の相思相愛の夫婦。
 実直で温和な性格そのままに城勤めをする夫。夫に仕える家庭的な妻。二人の日々は、はた目も羨む(夫婦の理想像)だった。しかし、夫真三戸には気に掛かってならないことがひとつある。
 (わが妻は、美しすぎる。他の男が縣想しはしないか。奪われはしまいか)
 このことだった。心に巣くった懸念は、日を追って膨らみ、心労となって夫の神経をもむしばみ、遂には病の床に臥すにいたった。その様子に近所の人たちは(あまりにもイイカーギ<美人>を妻にするのも、手放しでは喜べない)なぞと噂し合い、成り行きをそれとなく注目していた。
 ことは、悪い方へ転開した。真三戸は、床を離れることができず、遂には死を口にするようになった。
 「真鶴。オレはもうダメだ。このまま朽ち果てるだろう。そのことは恐れない・・・が・・・・オレが死んだらお前は、すぐに再婚するだろうなぁ・・・・。その美貌を他の男が無視するはずがない・・・・。それを思うとオレは・・・・オレは・・・・」
 献身的に看病する妻に、繰り返し言う夫。
 「何をおっしゃるのですか。骨壷の底までの契り、愛を誓った二人ではありませんか。万が一、貴方が先に逝っても、2夫にまみえる私ではありません。私を信じて、早くよくなることだけを考えて下さい。私のためにも」
 その思いのみを胸に看病する真鶴だったが、夫の肉体の衰弱は(気)を萎えさせてしまう。
 「お前を残して死ぬのは残念だ・・・・。お前が他の男に抱かれるであろうことが無念でならない」
 同じことを口走り、病状は快方に向かう様子がない。
 「そこまで気掛かりならば、貴方への真実の愛の証拠を見せましょう」
 真鶴は、夫が日ごろ使っている剃刀を持ち出すや、夫の目の前で、その美貌を引き立たせている(鼻)を一気に削いでしまったのである。
 「ま、真鶴ッ。お前はそこまでオレのことをッ」
 妻の真実の愛を知り、ひしッと彼女を抱きしめる夫であった。

 そのことがあって、ひと月ふた月。心の闇が明けたのか、真三戸の病はみるみる快癒。元の身体になった。しかし、ここにまた、ひとつの感情が頭をもたげてきた。
 「元の美形だけに、鼻の削げた女はゾッっとする。一生この女と暮らすのかッ。生きている甲斐がないッ」
 そして・・・・。真三戸は、他に女を囲って、真鶴のもとへは帰らなくなった。それどころか、その女と計って、こともあろうか真鶴の命を断ち葬ってしまった。
 真三戸は(真鶴は病死した)と、世間に公表する一方、新しく家に入れた女と堂々と暮らしを始めた。その年のシチグァチ<お盆>をすませ、翌月の十五夜。新夫婦は野辺に出て月見を楽しんでいたのだが、一陣の風に乗って女の吟詠が二人の耳に入った。
 “月や昔から変わる事ねさみ 変わり易く無情なのは人の心”
 (月は昔から時・形を変えない。変わり易く無情なのは人の心・・・・)
 まぎれもなく真鶴の泣くような声である。
 その声が消えたときだった。冴え渡っていた十五夜の空がかき曇ったかと思うと、天地が裂けんばかりの雷鳴風雨。そして、その雷のひとつが身動きひとつせず、茫然自失で立ちつくす真三戸と女の上に落ち、2人は絶命したのだった。

 これは、夫婦愛を説いた夏の夜ばなしである。
 物語は、大正3年<1914>。役者渡嘉敷守良によって劇化。「逆立ち幽霊=さかだちユーリー」の芸題で上演された(納涼公演)の代表作である。「逆立ち幽霊」としたのは、昔ばなしを脚色した故。芝居では、真鶴の幽霊が夜な夜な現れるのにおののいた真三戸が、墓を掘り起こし、真鶴の遺体の両足に5寸釘を打ち込む。(これで、ここまでは歩いてこれまいぞ)そう算段してのこと。しかし、愛を裏切られた女の怨念は深く、幽霊は逆立ちして現れる。結末としては、真鶴の心情に同情した仏法に通じた人物によって、恨みは晴らされることになる。


 所は、わが家に移る。
 夜。この原稿を読んでいるバーチー<女房>がそばにいる。パソコン画面の光のせいか顔が青白い。読み終えたバーチー。何を思ったのか横目で私を見、低い鼻をうごめかし、無言でニヤリッ。猛暑の残る夜なのに、背筋だけが一瞬、冷えた。

次号は2007年9月6日発刊です!

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は~ッ!ガッパイッ!・クチュ!クチュ!クチュ!

2007-08-23 12:34:10 | ノンジャンル
★連載NO.302

 沖縄のお盆は「七夕」に始まる。
 この日、清掃用具と水、供花とちょっとしたお供え物を携えてお墓に行く。わが家は妻女と娘3人で行った。まず、墓所周辺の夏草を刈り、墓所内を掃き清め、花と今年は(いなり寿司)を供えたあと、同行できなかった家族全員分の線香をつけて合掌して口上。
 「7日後はお盆です。足元も掃き清めましたので、旧7月13日には、わが家にお出で下さり・・・・・」
 「・・・・・御取い持ち=うとぅいむち。ご接待=拝まってぃ うたびみそぉーり=子や孫の接待をお受け下さいますように」
 母親が存命中は、こうした唱えは声にして、すべて(沖縄口)で述べていたのだが、母親が(御取い持ち)される側にある今は、大和口・沖縄口ちゃんぽんになっている。

 陰暦7月13日から15日<今年は8月25日―27日>のお盆中はもちろん、その前から子や孫や縁者がやってくる。御中元を兼ねたお供え物を持ってくる。わが家もいつにもない賑わいをみせる。ひと時もジッとすることを知らない孫、殊に幼児を落ち着かせるために爺は、座ったまま出来る遊びで相手することになる。わが家で孫にウケている遊びがふたつある。
 その①「は~ッ!ガッパイッ!」
   大人は両足を伸ばして座り、幼児と向かい合う形になった太股のあたりに乗せる。そして、幼児の頭部を両手で抱え(は~ッ!ガッパイ!)の声とともに、額と額をぶつける。ただそれだけの遊びだが、幼児は意外にキャッキャ喜ぶ。何回やっても喜ぶ。同じように笑う。ちょっと間を置くと(再開)をせがんでくる。強烈な頭突きをするわけではないが、10回に1度くらいは痛さを感じるほどの(は~ッ!ガッパイ!)もいい。幼児は一瞬面喰って泣くか、泣くまいか逡巡して泣き笑いを発する。少々の痛さをこらえても、この遊びを続行したいらしいのだ。大人は同じ動作の連続に疲れる。その時は(強めの頭突き)を3度に1度やるといい。幼児は慣れない痛さに耐えられず、太股から下りて他の遊びを探しにいく。
 この遊びは、名称は知らないが(は~ッ!ガッパイ!)を(あ~ッ!ごっつんこッ)と発して、大和でもやるそうな。

 その②「クチュ!クチュ!クチュ!」
   コチョコチョコチョッのくすぐり遊びがある。
   幼児と向かい合って座る。幼児の右・左いずれの手でもいい、手のひらを開かせ、まず親指をつまみ、適当な抑揚を唱える「父さんユービッ」。次からは順に「母さんユービッ・兄さんユービッ・姉さんユービッ・赤ちゃんユービッ」。唱え終わると大人は、幼児の手のひらの真ん中に人差し指と中指を立て2,3回渦巻きを描くと。指人形が歩む要領で幼児の腕をゆっくりと、時には速くワキの下に進める。そして、「クチュ!クチュ!クチュ!」である。当然、身をよじって笑うが、くすぐったさを嫌うかと思いきや、これまた何度もチャレンジしてくる。
 ところで。
 私などは「父さん指・母さん指・・・・」を覚えてきたのだが、沖縄口のそれもある。
 北中城村荻堂・中地名常<なかち めいじょう。74才>さんは、大和口の「父さん指・母さん指」ではなく、イーユー<魚>・タークー<蛸>・シシ<肉>・メメー<飯>・トーフー<豆腐>の唱えを祖母に教わったと記述している。
 この唱えは、各地に異なった言葉を用いてなされているものと思われる。モノの名称を覚え始めた幼児に対して、遊びを通しての言語教育のひとつだったのだろう。


 お盆。
 七月ぬ盆<しちぐぁちぬブン>という言い方もあるが、沖縄では「しちぐぁち」は、月名Julyではなく「お盆」を示す。先祖崇拝の信仰が色濃い沖縄人にとって「しちぐぁち」は、「そうぐぁち=正月」と並んで2大行事である。
「しちぐぁち・そうぐぁちを怠りなく成すために、1年の日々を働いている」
 そう言い切る沖縄人である。
 私の場合、孫5人。それだけでも(しちぐぁち)は賑わう。エイサーを演じる遊び庭<あしび なあ>のように華やぐ。しかし、本音を言えば疲れる。それぞれ独立している息子や娘婿が孫たちを連れてやってくる。その中の3才児1人。4才児2人を相手に「は~ッ!ガッパイ!」「クチュ!クチュ!クチュ!」をやるのは、爺にとって重労働。
 孫たちがやってくるのは、何より嬉しい。帰ってくれる、いや、帰って行くときも嬉しいのは、この爺だけだろうか。

次号は2007年8月30日発刊です!

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詩・写真の中の少年

2007-08-16 09:55:15 | ノンジャンル
★連載NO.301

 その人が有名、無名に関わらず、また、年齢を問わずペンの先に(想い)を託して書いた文章は、読む人の心をゆさぶる。怒濤のような文章もあれば、さざ波のような文章もある。
 昭和22年6月23日。日米戦争の沖縄地上戦は終結した。今年の「慰霊の日」・沖縄戦没者追悼式で、仲井眞弘多県知事の平和宣言につづいて朗読されたのは、13才の少年が書いた(詩)である。その詩を読者はどう読み、何を感じ取るだろうか。

 <写真の中の少年>
   
 何を見つめているのだろう
 何に震えているのだろう
 写真の中の少年
 周りの老人や女性、子供は
 身を寄せ合って声を殺しうずくまっている
 後ろでは逃げ出さぬようにと
 鋭い眼光で見張るアメリカ兵
 その中の少年はひとり一点を見つめている
 何を思っているのだろう

 とうとう戦争はやってきた
 いつ来るとも知れない恐怖に怯えながら
 必死に生きてきた少年に
 悪魔はとうとうやって来た

 戦争で異郷の地にいる父や兄に代わって
 ひとり毎日山に行き
 家族を守りたいその一心で
 防空壕を掘り続けた少年
 しかし無情にも堅い岩が
 少年の必死の思いをあざ笑うかのように
 行く手を阻み掘り進むことができない
 手には血豆
 絶望感と悔しさが涙とともにあふれ出た

 とうとうやってきた
 奴は少年のすぐそばまでやって来た
 殺される 死ぬのだ
 そんな恐怖が少年を震わせ凍らせた

 やっとの思いで入れてもらった親戚の防空壕
 泣きじゃくる赤ん坊の口をふさぎ
 息を殺して奴の通り過ぎるのを祈った
 少年は無我夢中で祈った
 しかし祈りは天には届かなかった
 壕の外でアメリカ兵の声
 「出て来い」と叫んでいる
 出て行くと殺される
 「もう終わりだ」
 少年は心の中でつぶやいた
 先頭に立って出て行こうとする母親を
 少年は幼い手で必死に引き止めた
 けれどいつしかその手を離れ
 母親はアメリカ兵の待つ入口へ
 それに続いて壕の中から次々と
 少年や親戚が出て行った
 写真はまさにその直後に撮られたものだ

 とうとうやって来た
 恐怖に怯え 夢や希望もなく
 ただ生きることだけに家族を守ることだけに
 必死になっていた少年のもとに
 悪魔はやって来た

 写真の中の少年
 一点を見つめて何を思っているのだろう
 写真の中の少年は 僕の祖父
 何を思っているのだろう
 どんな逆境の中でも最後まであきらめずに
 頑張ってきた生き抜いてきた祖父
 だから今の僕がいる
 いのちのリレーは
 祖父から母へ 母から僕へとつながった
 あの時祖父が生きることをあきらめずに
 必死に生きてきたから僕がいる
 だから
 自分で自分の命を絶ったり
 他人よって奪われたりということは
 いつの世でも いかなる場合でも
 決してあってはならないことだ

 僕がいる
 必死で生き抜いてきた少年がいたから
 僕がいる
 僕はその少年から受け継いだ 命のリレーを絶やすことなく
 僕なりに精一杯生きて行こう
 また少年から聞いた あの忌まわしい戦争の話を
 風化させることなく 語り継いでいこう

 
 沖縄県平和祈念資料館は、6月15日「慰霊の日」に合わせて募集した「児童・生徒の平和メッセージ」の審査結果を発表した。図画・作文・詩の各部門に160校、3883点の応募があり(写真の中の少年)は、詩の部の1編。書いたのは、沖縄尚学高校付属中学2年生・匹田崇一朗くん。
 62年前、アメリカ軍は沖縄を占領。空からは「戦争ハ終リマシタ。アメリカハ皆サンノ友ダチデス」と書かれたビラがまかれ、ガマ<洞穴>に身をひそめた日本兵・民間人に対しては「出テキナサイ。水モ食ベ物モ有リマス。仲ヨクシマショウ」と、たどたどしい日本語が拡声器で放たれた。
 匹田崇一朗くんの祖父松本忠芳さん=2005年逝去=は、母八重さんはじめ親戚など10数人とともにガマにいた。そこへアメリカ軍の呼びかけ。ともかく、ガマを出たところを写真に撮られた。
 「ガマを出たら殺されるかもしれない。でも、母と一緒ならいい。そう思ってガマを出た」
 いまの自分と同じく(少年)であった祖父の戦争体験をじかに聞いた匹田崇一朗くんは(詩を書く)決心をした。大好きだった祖父との会話を通して書いた入魂の1編である。

 日本は、ほんとうに(平和)だろうか。疑問と不安。それでも、未来を信じて(戦争と平和)に向き合っている若者たちがいることを忘れてはなるまい。




※匹田崇一朗くんの「写真の中の少年」は、沖縄県平和祈念資料館提供。

次号は2007年8月23日発刊です!

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哀れ・・・・。男は雄蜘蛛か

2007-08-09 12:50:29 | ノンジャンル
★祝!!連載300回

 「糸巻などに利用される管竹は、適当な長さでよい。竹の先端を20~30センチ、それ以上でもよいが、まずは裂いて、内両側に箸状の横棒を渡し、3角形に固定する。これで昆虫捕獲具は出来た。あとは、蜘蛛の巣を三角部分に幾重にも巻き付ける。これさえあれば、ハーベールー<蝶々>、ジージャー<蝉>、シェー<バッタ>、アーケージュー<とんぼ>など小昆虫が、面白いほどよく捕れた。傷つけずにね」

 山野の多いヤンバル<山原。本島北部>を生りジマ<出身地>とし、野性児を自称する友人Kは、うまそうにビールを喉に通しながら得意顔をする。男も中高年になると、少年期の遊びをアテにビールを飲むことができる。
 発端は、夏休みの宿題の昆虫採集・標本作り。やがて話は(蜘蛛)に集中。蜘蛛の方言名=クーバー、またはクブ。蜘蛛の巣=クーバーガーシー、またはクブガシ。ガーシーはカシの引音・長音。紡いだ糸を巻きとる道具の綛<かせ>などと、言語論になり、「蜘蛛の糸」を引き合いに芥川龍之介を語り、転じて黒澤明監督・三船敏郎主演「蜘蛛の巣城」で日本映画の現状と将来を論じ、さらに一転して「蜘蛛が巣をかけ始めると微風快晴のいいウァーチチ=いい天気」「朝グモは福グモ」「よるのクモは、親に似ていても殺せ」などの俗信にまで至り、夏の夜のビールジョッキーの底は、いよいよ浅くなる。

 蜘蛛=広義には、節足動物でサソリ、ダニなども含むそうだが、普通の蜘蛛はその中の1目<クモ目。真正クモ目>。種数は約20,000。日本産だけでも500~600。琉球列島からは、250種ほどが確認されているということだ。

 「蜘蛛の巣糸の1本目はどう張るのか」
 野性児Kの高説を聞こう。
 「まず、昆虫の通り道と思われる木の枝に最初の糸を固定。出した糸に自らの身をぶら下げて風を待つ。風によって次なる枝に移り、巣作りをスタートさせるのだ。(クモが巣をかけ始めると微風快晴)の俗信は、このことによるもの。巣をかけるのはメス。オスは交尾をするときのみ、糸を通して特殊な振動を巣の中央にいるメスに送りながら接近する。しかし、雌雄でありながら直接の交尾をすることはしない。オスは精液を己の触肢<足>につけ、メスの生殖門に塗るという・・・・。どこか(切ない)行為だが、さらに気の毒なことには、その行為を全うした後のオスは、2度と蜘蛛の巣の外へ出ることは許されない。(種の保存)のため(栄養)をつけなければならないメスに食されて、あたら一生を果てるのだよ・・・・」
 この件りきて、野性児Kの話ぶりがトーンダウンしてきた。ビールのせいではない。雄蜘蛛の一生を(自らの人生)に重ね合わせてしまったらしい。蜘蛛談義の締めくくりは、
 「男はつらいよ」
 これであった。
 蜘蛛の巣にヒントを得て1城の主になった人物がいる。
 茶谷間切屋良村<ちゃたん まじり やらむら。現嘉手納町>の農民の子に生まれた青年加那<かなー。俗説>は、木陰に寝そべっていた際、目前の木の枝に蜘蛛が糸をかけるのを見て「投網」を考案、近隣に広めた。このことによって人望を得た彼は、やがて漁業の盛んな勝連半島<かつれん>に移り、時の勝連城主茂知附按司<もちづき あじ>を攻め落とし「阿麻和利=あまわり」を名乗って君臨した。勢力を有した彼は、国王尚泰久<しょう たいきゅう>の婿になりながらも、琉球の天下人を目論むが、野望は夫人百十踏揚<むむとぅふみあがり>の密告により、事前に首里王府の知るところとなって王府軍に討ち取られている。
 王府側から見れば「逆賊」だが、居城勝連城跡からは朝鮮製の高麗器、中国製の須恵器や青磁などが出土していて「貿易を興した大人物」だったことは確かである。

 蜘蛛は、糸紡ぎのお手本として琉歌に詠み込まれている一方、その巣は「危険物」にも例えられている。
 ♪クブぬ糸綛に 掛かるなよハベル 忍ぶマシ内ぬ 花に迷ゆてぃ
  マシ内=垣の内。この場合、花街をさしている。
  歌意=(人生経験の浅い)青年<ハベル>よ。垣の内<色街>に咲く花<遊女>に迷ってはいけない。花の咲く所には、蜘蛛が巣を張って待ち受けている。捕まったら最後、身の破滅だぞ。
 注意を喚起しているが、この歌の詠み人も若いころ、2度や3度はクーバーガーシーに引っ掛かった経験の持ち主に違いない。

 ところで、Kは・・・・。いつの間に立ったのか姿が見えない。どうやら、愛する妻女が張った蜘蛛の巣に、食われるのを覚悟で帰ったらしい。


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よく遊べッ・夏休み

2007-08-02 11:02:09 | ノンジャンル
★連載NO.299

 学校は夏休み中。
 私は、もう少し夢の中にいたいのだが、ジージャー<蝉>の大合唱に起こされる。コンダクターは、上い太陽<あがい てぃーだ>。彼が東の海の天境<てぃん じゃけー。水平線>に顔を出すと、ジージャー合唱団は一斉に声を出す。毎朝のことだから(これも盛夏の風物詩)として、夢と現の間を行き来して床を離れずにいる。しかし、起床せざるをえない事態が発生する。近所の子どもたちの甲高い声だ。声だけならまだしも、門前のアスファルト道でのローラースケートの音。これは、地面を伝わって寝ている私の脳を振動させる。
 「かしまさぬッ=うるさいッ」
 本気で腹立たしくなるのだが、「夏休みか。ガキども元気だなぁ」と、感心に変わり、枕元の煙草を取って、火をつける。1日の始まり。外はもう、30度近くになっているだろう。

 少年のころの遊びを思い出した。

 ☆うどぅん ぐぁ。
 年かさのものが、幼児をまじえて遊ぶときによくやった。まず、ふたりの担い手が向き合って、自分の右手は左ひじの上部を摑み、伸ばした左手で相手の右ひじを摑む。すると、そこには(井型)の桁が出来る。そこへ幼児を乗せて、そこいらを歩き回るのだ。井型台の中央は、幼児のお尻が安定して坐れるようにするのが肝要。幼児の足は、井型の外側に通し、両手で担い手の肩を抱き込むようにすれば、すこぶる乗り心地がいい。家の中や庭、道路や野っぱら、ときには、浅い小川を渡る際にもやった。かつては、そこいら中が安全な子どもの遊び場だったのだ。
 「うどぅん ぐぁ」は、無言の遊びではない。担い手同士、呼吸を合わせてリズムよく「ギシテーギシ!ギシテーギシ!」と、声を発する。木で作った(乗り物)に見立てて、その軋みを疑似音にしたと思われる。
 名称が「うどぅん ぐぁ」の語源については、王府時代、王子の家屋敷を「御殿=うどぅん」と称したところから、腕に乗せた幼児を(王子)に、(王子の乗り物)としたとするのが通説。おんぶ<うーふぁ>でも、抱っこ<前・めー。めーうーふぁ>でもない。「うどぅん ぐぁ」は、5,6才の子を王子にして、13,4才の男の子が家来になって遊んだ。


 ☆うぁーぐぁー けんそーりー。
 「うぁー」は豚。「ぐぁー」は(小)の字をあてて、小さいものを意味する。「けんそーりー」は「こーいみ そーりー=買ってください」の異語。したがって「子豚は要らんかネ。子豚を買って下さい」という遊びである。
 男女を問わず、ひとりが売り手、いまひとりは「うぁーぐぁー」になる。売り手は、子豚を横にして、後ろ手で腰に乗せる。そして、売り手は腰をふりながら「うぁーぐぁー けんそーりーッ」を連呼。ゆっくり、あるいは小走りに歩き回る。この場合、「うぁーぐぁー」は、幼児である。
両親が働いている間は、弟・妹の遊び相手はもちろん、世話をみるのは兄・姉の役割であった。


 ☆ぎーたー むんどー。
 ぎーたーは、片足飛び(ケンケン)のこと。むんどーは、問答が転じて「争い」を意味し、この遊びでは「勝負」「対戦」をさしている。
 普通、右足を後ろに曲げ、その足首もしくは親指を左足で握る。右手を胸か腰に当てると、片足飛びをして正面からぶつかり合う。左手を放したり、倒れたりすると負けだ。幾人づつかに分かれてする集団対戦と、1対1の勝負があった。奄美大島にも「ちゃんぐ」と称する同様の遊びがあるそうな。ただし、「ちゃんぐ」は、片足飛びはするが両手は胸に組んでぶつかり合うと聞いた。
 「ぎーた むんどー」は、南西諸島に限らず、日本各地にあるだろうし、ほんの数日前、東南アジアのある国で「ぎーたー むんどー」のチャンピオン大会が開催されているのをテレビの海外トッピクスで見た。もちろん、名称は向こうの国の言葉だったが・・・・。
 子どもたちの遊びは、多少の異なりはあっても、世界共通のものが多い。

 「ぎーたー むんどー」と言えば、小学校5,6年生のころ、男の子女の子揃ってやっていた遊びだったのに、いつもの仲良しメンバーだった繁子ちゃんが、ある日を境に仲間から抜けた。わけを聞いても顔を赤らめるばかりで答えてくれない。なんでも、胸をぶつけ合うのが(はばかられる)らしかった。

 「今日も1日。暑さとの戦いだなッ」
 覚悟しつつも、庭木で歌つづける合唱団員たちをにらみ返している8月である。





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