旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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ソテツの花咲くころ

2017-05-20 00:10:00 | ノンジャンル
 ♪赤い蘇鉄の 実も熟れる頃 カナも年頃 大島育ち~
  黒潮(くるしゅ)黒髪(くるかみ)女身(うぃなぐみ)ぬかなしゃ 
  想い真胸に 織る島紬~
 

 若夏の辺り一面の風景を楽しんだのも束の間。太陽は容赦なくその輝きを増し、真夏の様相を呈してきた。
 冒頭の歌詞は、奄美大島生れの歌謡曲「島育ち」の歌詞である。この歌が世に出るきっかけになったのには、ちょっと「いい話」がある。
 昭和37年(1962)のある夜。バタやんの愛称で親しまれていた庶民派歌手田畑義男は、東京・新橋の沖縄料理店にいた。店内に流れていたのが無名の歌手大島ひろみ(本名室井充美・まさみ)の「島育ち」だった。
 「心がしびれた」。
 後に田畑義男が述懐しているように、南国情緒の歌詞。曲は瞬時に大物歌手を魅了、レコーディングの運びとなってヒットしたのである。
けれどもこの歌は、世に出る3年前の昭和34年。奄美大島・名瀬市在の「セントラル楽器店」が、歌・大島ひろみでレコード制作をしていた。
 作詞有川邦彦、作曲三界稔。島では普通に歌われていたという。作詞の有川邦彦は昭和14年(1979)生れ。しかし、そのころ彼は病床にあり、自作のレコード化を望みながら果たせず逝ったという。

 ♪朝は西風 夜は南風 沖の立神 また片瀬波 
  夜業(よなべ)おさおさ 織るおさの音 せめて通わそ 
  この胸添えて~


 沖縄では、岩場のそこここに見掛ける「蘇鉄・ソテツ」は、本島ではスーティーチャー。宮古・シウヅ。八重山・シティーヅ。奄美大島・スティツィと言い、九州南部から琉球列島、そして中国に分布している。常緑椰子状小低木。とは言っても中には高さ5メートルに達するものもある。幹は太く、うろこ状葉痕におおわれ、葉は羽状複葉。先端は針状になっている。花は5~6月に咲く。果実は12~1月頃つけ、赤く熱する。木は庭園樹、公園樹、鉢植え、盆栽などに重宝されている。また、幹と種子は澱粉原料になるが、有毒成分ホルマリン、サイカシンを含んでいて、よく水洗いしないと中毒することがある。幹や根が茶色なのは、含んでいる鉄分によるものといわれる。南国的で庭樹にしても量感があって美しく、養分補給のため古釘を打ち込んで育てる好事家もいるが、鉄分を「カネ・銭」と同一視、「お金を食う」として、屋敷内には植栽しない向きもある。

 ソテツの歴史は古く、1935年。座間味島の阿真比屋(あまぬひや)なる人物が中国から持ち帰り、食糧難に喘ぐ島びとを救ったという記述がある。また、1709~1725年に琉球を襲った大飢饉の折りは、国頭間切奥の人たちが国頭はじめ大宜味、久志、恩納の各間切にソテツを送って飢饉を救ったともある。「飢死ぬ飯めー=飢饉の際の食糧」という言葉がでたのはこの辺りからだろう。
 
 一方に「ソテツ地獄」なる言葉がある。
 第一次世界大戦後、世界は慢性的経済恐慌に陥った。日本の中でも「沖縄県ならぬ貧乏県」と称されていた沖縄なぞひとたまりもない。米はおろか芋さえ口に入らず、ソテツの澱粉に頼る状況をそう呼んだのである。「ソテツ地獄」。それは当時の「沖縄朝日新聞」の比嘉栄松記者がそう表現。新語はたちまちジャーナリズムで流行し、一般に広まった。

 先般、沖縄タイムスの紙面に「ソテツ・新たな活用に光」「食糧難時の恩返し」の見出しを見つけた。
 「戦前から戦中にかけて、飢えをしのぐために毒性のある実が食べられたソテツ。ソテツ地獄と呼ばれたマイナスイメージを取り払おうと、各地で見直す動きが広まっている。実からお酒を造ったり、キャラクターにしたり。飢餓から救ってくれた恩返し」と、活用方法に光を当てる試みがはじまっているとしている。
 泡盛酒醸業、那覇市の照屋比呂子さん(79)の研究所で約10年前に造ったソテツ酒が保存されてりる。度数30度と45度の2種を試飲した記者は「普通の泡盛より、ほんのり甘い香り。フルーティーな味わい」との感想。ソテツの実での酒造は少なくとも500キロ(約2万5千個)が必要。
 ソテツが多く自生する奄美大島の加計呂麻島では2014年9月、ソテツをモチーフにしたキャラクター「ソテツマン」が誕生。島でソテツ農園を経営する徳田達郎さん(52)が「島民が救われた歴史を知ってもらいたい」と考案。ストラップにしたり、着ぐるみにしたりして人気を集めているという。
 また、那覇には、ソテツの保護に取り組む「世界のそてつを護る会=会長玉寄貞夫(75)粟国村出身」もあり、さらに2015年出版に県内外の大学の研究者による著書「ソテツをみなおす」があり、ソテツに関する熱い思いが高まっている。

 運動会の競技出場者の入場退場口のアーチの飾りはソテツの葉を用いたし、ボクはソテツの葉で虫かごを作れる。葉の1本1本を丸めて繋ぎ、首飾りを作ることもできる。夏休みなどにはよく、近所の子どもたちに教えて、一緒に作ったものだが・・・・。外は雨。ボクは田畑義男になっていた。
 ♪赤い蘇鉄の 実の熟れるころ カナも年ごろ 大島育ち~


世・世・世=ゆ・ゆ・ゆ

2017-05-10 00:10:00 | ノンジャンル
 一門・縁者が墓前に集い「御蔭さまで、子孫一同皆、息災にしています」。
 言葉通り、辺りが清く明るくなった4月。各地の霊園、墓所は馳走を詰めた重箱などを携えた人出で賑わった。「清明祭」である。わが一門のそれは4月30日、清明の節の末日に行った。本来、清明の入り早々になされる季節行事だが、生活の様相が近代化するにつれ、それぞれ自分たちの都合に合わせて5月のゴールデンウイークに行う一門も多くなった。これを「終ゐシーミー」に続く「流りシーミー」と称する。
 4月中に成すべき日取りを流してしまったが、それでも「清明祭」は執り行う。そこに他の「日に決まった」法事ごと・祀りごとの相違がある。時期は過ぎても流れても、短絡に休止はせずに実施する。この辺にも沖縄人に先祖崇拝の精神がうかがえる。
 沖縄の墓所は本土のそれと比べて敷地の規模が大きく、墓前は最低2、30人は坐れる。もっとも、日本復帰は、本土のそれに習った墓も多く見掛けるようになってはいる。
 通常「墓ぬ庭=はかぬなぁ」では、長老を中心に先祖ばなしや近況報告が主になされるが、今年は違った。
 「いよいよ戦争になるのかな。アメリカのトランプ大統領の言動を見聞きするにつけ現実味をおびてきた」
 「駐留アメリカ軍の動きも尋常ではない。国も参戦の構え。戦争には戦勝国、敗戦国もない。両方が敗戦国だ」
 「去年から選挙権を18歳に引き下げたが近々、徴兵制度を実施する下敷きではないのか」
 「徴兵を拒否したら罰せられるのか。そうなったら徴兵を拒否し、刑務所でもどこでも入っていよう。戦地よりはそこのほうが命が守れるという若者もいる」
 「かの大戦で死に、墓に眠る人たちの前で、そんな話をしなければならないシーミー・・・・。平和はどこへ行ったのだろう」
 そんな会話を打ち消すように、オスプレイが3機、北の方へ飛んでいく。

 ♪唐ぬ世から大和ぬ世 大和ぬ世からアメリカ世 うすまさ変わたる くぬウチナー

 昭和32年頃、
 風狂の歌者故嘉手苅林昌が「花口節」という風俗歌に乗せて作詞し、歌った「時代の流れ」と称する世相口節の出だしの文句である。
 (古くは中国介入の唐の世。明治維新の廃藩置県で日本に属した大和の世。その日本のアメリカ相手の戦争の結果、母国独立の代償として売り渡されたアメリカ世。もの凄く変わりゆく沖縄。これから何処へ、どんな世になるだろう)
 そのアメリカ世から1972年5月15日、日本復帰・再び大和ぬ世へと世替わりしたことだが、ここへきて「戦争勃発の危機」。基地を抱える沖縄。世替わりを強いられ、どんな世へ向かうのか・・・・。

 世替わりとは、外からの力によって沖縄の世の中が変わることを指している。
 では「唐ぬ世」「大和ぬ世」「アメリカ世」とは?「世・ゆう」は、その時代の為政者の直接的支配を意味する。

 ◇唐ぬ世。
 *琉球国第一尚氏国王尚巴志(しょうはし)=1372~1439=時代は、奏(中国)皇帝の冊封を受けた上、琉球最高権力者「琉球の世の主」を内外に示した。中には薩摩支配時代がありながら、それは明治2年(1879)まで続く。
 仮に尚巴志が即位した1416年を元年とすると「唐ぬ世」は463年ということになる。

 ◇大和ぬ世。
 *明治12年4月4日「沖縄県」は成立したものの、県政の中枢は明治政府の任命によるものであった。県令1代。県令5代、知事23代。さらに司法、文教、教育もすべて大和人によって運営され、それは終戦時の島田叡知事まで続く。因みに沖縄でいう「大和・やまとぅ」とは、広義には日本全体を指すが、語源としては、薩摩の国府があった川内地方の山門院(やまといん)に寄るという説と、朝廷があった近畿地方の「大和の国」に因むともいう。

 ◇アメリカ世。
 *アメリカが支配宣言をした昭和20年(1945)4月18日から昭和47年(1972)5月15日を指す。県政は確立したものの、日本の独立は「沖縄のアメリカの統治下に置く」という条件付きの独立。それも「半アメリカ世・半大和世」の態である。軍備以外のなにものでもない軍事基地は、ますます補強拡大される沖縄のアメリカ世は現在も続いている。

 古謡には「神ぬ世=かんぬゆ」という言葉が多く見受けられる。
 神の世は弥勒世(みるくゆ)のことで、神仏に加護された「平和の世」を意味している。沖縄が、いや、日本国が半アメリカ世から神ぬ世になるのは、何時の日か。

 梅雨のはしりか、雨の日がつづく。時を違わず季節が巡るのはありがたい。45年前の5月15日「復帰の日」は豪雨だった。


渾名・ガッパイのころ

2017-05-01 00:10:00 | ノンジャンル
 春は野山に緑を敷きつめ、人里に明るい照明を点けて、今年の役目を終えて去って行き、入れ替わった夏は、4月半ばからエンジンをかけ始め、一気に走り出す構えを見せている。そのエンジン音を待っていたかのように、山籠もりをしていた野鳥たちも里に下りてきて合唱。誇らしく独唱する鶯もいる。
 もうすぐやってくるゴールデンウイークに浮かれだした我々に、ちょっと意地悪を仕掛けたくなったのか、空は灰色と青色を繰り返している。その割合が灰色が多くなると、早くも梅雨入りということになる。これもまた、天の恵みとして受け止めなければならない。

 二週間ほど前から、何時も通る古都首里の龍潭の湖上や那覇久茂地川に‟鯉のぼり”が泳いでいる。家並みを見ると、見るからに新しいそれが屋根や門口を彩っている。5月5日を待ちきれない新保育園児や新1年生のいる家庭なのだろう。
 「お父さん。早く鯉のぼりを揚げようよっ!」
 「ああ。よしよし」
 子どもにせがまれて目を細めて作業に取り掛かる親子の会話が聞こえてくるようだ。

 ボクは(ボクのための鯉のぼり)を知らない。
 なにしろ、終戦の年の1年生。幼稚園さえ閉鎖された時期の少年には「鯉のぼり」の「こ」も泳がなかった。親たちは、その日の飢えをどう凌ぐか、その日の雨露をどう凌ぐかがすべてだったのだ。そのことはボクひとりだけではなく、沖縄の幼少、少年は等しくそうだったことを高学年になって知るのである。それでも少年たちは、大人の苦労を知るよしもなく明るかった。
 渾名を付けあって(親しく)していたのもそのころだ。
 當山英男クンは「はたけー」。
 逃避行の折、艦砲の破片か爆風のせいで、前頭部に段々畑のような傷跡があった。それを(段々畑のようなカンパチ・禿げ)というので「はたけー」。昨今なら(いじめ)で社会問題になっている。けれども当の英男クンは「はたけー」と呼べば「ぬーが?なんだい?」と、気にもせず返事を返していた。少年期を共にした(はたけークン)。いまでも親しくしているが、その段々畑のカンパチはすっかり整地。拡張され立派な農耕地となり、社長業の貫禄を示している。
 玉城清侑クン「アイゼンハワー」。
 時折、校庭でなされる米軍政府の宣教映画(主にニュース映画)に出てくる極東司令長官アイゼンハワー元帥に、どこか似ていると誰かが言い出したことからその渾名が付いたものと思われる。その証拠に彼は「アイク・アイゼンハワー」の渾名を苦にしていなかった。むしろ、戦勝国の元帥似に小鼻をふくらませていたようなきらいがあった。それが日米戦争の仕掛人のひとり東条英機似だったらどうだろう?。エライ人に似ていればいいというものでもない。

 古堅睦子さんは「あんむちゃー」。
 睦子の「むつ」を餡餅の「あん」にし、それにerを付けただけのこと。そう渾名を付けた張本人平田弘一クンが自ら言うのだから間違いない。それにしても単純。その平田弘一クンの渾名は「ゴリラ」。当時の人気映画、ジョニー・ワイズミューラー主演「ターザン」に出てくるチンパンジーのチータならぬゴリラを彷彿する骨格、面体?だった。

 島袋明子さんは「ちょっかくー」。
 聡明で美少女だったが、極端な恥ずかしがり屋。学校ではそうでもないが、下校後、道で悪童どもを前方に見ると、右か左に(直角)に曲がり、来た道を引き返す警戒の仕様だった。

 かく言うボクの渾名はというと「ガッパイ」これは仲間内で付いたものではなく、兄や年上の従兄たちが愛称したものらしいが、ボクには悪口にしか受け取れなかった。
 「ガッパイ」とは、体の部位としては前頭部(前ガッパイ)、後頭部(後ガッパイ)を指す。メーガッパイ、クシガッパイが多少出ていると、またぞろerをつけて「ガッパヤー・後頭部・前頭部のサイズが大きめの人」に昇格する。ボクの場合、身内が愛称として付けた(ガッパイ)には甘んじられたが、それがどう漏れ広がったのか仲間内でそう渾名されるのには耐えられなかった。そのことをおふくろに訴えた。おふくろはボクの目をみながら言った。
 「ガッパイのどこがいけないの。ワタシは、わざわざそう生んだのよ。他の子よりガッパイであることは、脳みそが多いということ。先生に教えてもらったことは、他の子より多く詰まるということ。自慢していいのよ」。
 ガッパイコンプレックスが、スーッと引いた瞬間だった。
 ガッパヤーと一等最初に言い出したはずの兄はこう言った。
 「ガッパイが目立つのは、丸坊主の時だけ。大人になってメーガントゥー(前髪のこと。転じて長髪)にすると、ガッパイの方が形よいそれになる」。
 高校3年の3学期。待望のメーガントゥーにしたことだが、兄の審美眼は正しく、二十歳過ぎには俳優山崎務とも言われた。いまは似ても似つかない面体の、ただの爺になったが・・・。
 ハタケー英男。アンムチャー睦子。チョッカクー明子。アイゼンハワー清侑。ゴリラ弘一・・・。久しく逢っていないが息災にしているだろうか。ガッパイ直彦も日々好日を楽しんでいることを知らせてやらなければなるまい。
 どうやら5月は幼年期、少年期を蘇らせてくれるようだ。鯉のぼりが(あの日)を連れてくるのだろう。