♪赤い蘇鉄の 実も熟れる頃 カナも年頃 大島育ち~
黒潮(くるしゅ)黒髪(くるかみ)女身(うぃなぐみ)ぬかなしゃ
想い真胸に 織る島紬~
若夏の辺り一面の風景を楽しんだのも束の間。太陽は容赦なくその輝きを増し、真夏の様相を呈してきた。
冒頭の歌詞は、奄美大島生れの歌謡曲「島育ち」の歌詞である。この歌が世に出るきっかけになったのには、ちょっと「いい話」がある。
昭和37年(1962)のある夜。バタやんの愛称で親しまれていた庶民派歌手田畑義男は、東京・新橋の沖縄料理店にいた。店内に流れていたのが無名の歌手大島ひろみ(本名室井充美・まさみ)の「島育ち」だった。
「心がしびれた」。
後に田畑義男が述懐しているように、南国情緒の歌詞。曲は瞬時に大物歌手を魅了、レコーディングの運びとなってヒットしたのである。
けれどもこの歌は、世に出る3年前の昭和34年。奄美大島・名瀬市在の「セントラル楽器店」が、歌・大島ひろみでレコード制作をしていた。
作詞有川邦彦、作曲三界稔。島では普通に歌われていたという。作詞の有川邦彦は昭和14年(1979)生れ。しかし、そのころ彼は病床にあり、自作のレコード化を望みながら果たせず逝ったという。
♪朝は西風 夜は南風 沖の立神 また片瀬波
夜業(よなべ)おさおさ 織るおさの音 せめて通わそ
この胸添えて~
沖縄では、岩場のそこここに見掛ける「蘇鉄・ソテツ」は、本島ではスーティーチャー。宮古・シウヅ。八重山・シティーヅ。奄美大島・スティツィと言い、九州南部から琉球列島、そして中国に分布している。常緑椰子状小低木。とは言っても中には高さ5メートルに達するものもある。幹は太く、うろこ状葉痕におおわれ、葉は羽状複葉。先端は針状になっている。花は5~6月に咲く。果実は12~1月頃つけ、赤く熱する。木は庭園樹、公園樹、鉢植え、盆栽などに重宝されている。また、幹と種子は澱粉原料になるが、有毒成分ホルマリン、サイカシンを含んでいて、よく水洗いしないと中毒することがある。幹や根が茶色なのは、含んでいる鉄分によるものといわれる。南国的で庭樹にしても量感があって美しく、養分補給のため古釘を打ち込んで育てる好事家もいるが、鉄分を「カネ・銭」と同一視、「お金を食う」として、屋敷内には植栽しない向きもある。
ソテツの歴史は古く、1935年。座間味島の阿真比屋(あまぬひや)なる人物が中国から持ち帰り、食糧難に喘ぐ島びとを救ったという記述がある。また、1709~1725年に琉球を襲った大飢饉の折りは、国頭間切奥の人たちが国頭はじめ大宜味、久志、恩納の各間切にソテツを送って飢饉を救ったともある。「飢死ぬ飯めー=飢饉の際の食糧」という言葉がでたのはこの辺りからだろう。
一方に「ソテツ地獄」なる言葉がある。
第一次世界大戦後、世界は慢性的経済恐慌に陥った。日本の中でも「沖縄県ならぬ貧乏県」と称されていた沖縄なぞひとたまりもない。米はおろか芋さえ口に入らず、ソテツの澱粉に頼る状況をそう呼んだのである。「ソテツ地獄」。それは当時の「沖縄朝日新聞」の比嘉栄松記者がそう表現。新語はたちまちジャーナリズムで流行し、一般に広まった。
先般、沖縄タイムスの紙面に「ソテツ・新たな活用に光」「食糧難時の恩返し」の見出しを見つけた。
「戦前から戦中にかけて、飢えをしのぐために毒性のある実が食べられたソテツ。ソテツ地獄と呼ばれたマイナスイメージを取り払おうと、各地で見直す動きが広まっている。実からお酒を造ったり、キャラクターにしたり。飢餓から救ってくれた恩返し」と、活用方法に光を当てる試みがはじまっているとしている。
泡盛酒醸業、那覇市の照屋比呂子さん(79)の研究所で約10年前に造ったソテツ酒が保存されてりる。度数30度と45度の2種を試飲した記者は「普通の泡盛より、ほんのり甘い香り。フルーティーな味わい」との感想。ソテツの実での酒造は少なくとも500キロ(約2万5千個)が必要。
ソテツが多く自生する奄美大島の加計呂麻島では2014年9月、ソテツをモチーフにしたキャラクター「ソテツマン」が誕生。島でソテツ農園を経営する徳田達郎さん(52)が「島民が救われた歴史を知ってもらいたい」と考案。ストラップにしたり、着ぐるみにしたりして人気を集めているという。
また、那覇には、ソテツの保護に取り組む「世界のそてつを護る会=会長玉寄貞夫(75)粟国村出身」もあり、さらに2015年出版に県内外の大学の研究者による著書「ソテツをみなおす」があり、ソテツに関する熱い思いが高まっている。
運動会の競技出場者の入場退場口のアーチの飾りはソテツの葉を用いたし、ボクはソテツの葉で虫かごを作れる。葉の1本1本を丸めて繋ぎ、首飾りを作ることもできる。夏休みなどにはよく、近所の子どもたちに教えて、一緒に作ったものだが・・・・。外は雨。ボクは田畑義男になっていた。
♪赤い蘇鉄の 実の熟れるころ カナも年ごろ 大島育ち~
黒潮(くるしゅ)黒髪(くるかみ)女身(うぃなぐみ)ぬかなしゃ
想い真胸に 織る島紬~
若夏の辺り一面の風景を楽しんだのも束の間。太陽は容赦なくその輝きを増し、真夏の様相を呈してきた。
冒頭の歌詞は、奄美大島生れの歌謡曲「島育ち」の歌詞である。この歌が世に出るきっかけになったのには、ちょっと「いい話」がある。
昭和37年(1962)のある夜。バタやんの愛称で親しまれていた庶民派歌手田畑義男は、東京・新橋の沖縄料理店にいた。店内に流れていたのが無名の歌手大島ひろみ(本名室井充美・まさみ)の「島育ち」だった。
「心がしびれた」。
後に田畑義男が述懐しているように、南国情緒の歌詞。曲は瞬時に大物歌手を魅了、レコーディングの運びとなってヒットしたのである。
けれどもこの歌は、世に出る3年前の昭和34年。奄美大島・名瀬市在の「セントラル楽器店」が、歌・大島ひろみでレコード制作をしていた。
作詞有川邦彦、作曲三界稔。島では普通に歌われていたという。作詞の有川邦彦は昭和14年(1979)生れ。しかし、そのころ彼は病床にあり、自作のレコード化を望みながら果たせず逝ったという。
♪朝は西風 夜は南風 沖の立神 また片瀬波
夜業(よなべ)おさおさ 織るおさの音 せめて通わそ
この胸添えて~
沖縄では、岩場のそこここに見掛ける「蘇鉄・ソテツ」は、本島ではスーティーチャー。宮古・シウヅ。八重山・シティーヅ。奄美大島・スティツィと言い、九州南部から琉球列島、そして中国に分布している。常緑椰子状小低木。とは言っても中には高さ5メートルに達するものもある。幹は太く、うろこ状葉痕におおわれ、葉は羽状複葉。先端は針状になっている。花は5~6月に咲く。果実は12~1月頃つけ、赤く熱する。木は庭園樹、公園樹、鉢植え、盆栽などに重宝されている。また、幹と種子は澱粉原料になるが、有毒成分ホルマリン、サイカシンを含んでいて、よく水洗いしないと中毒することがある。幹や根が茶色なのは、含んでいる鉄分によるものといわれる。南国的で庭樹にしても量感があって美しく、養分補給のため古釘を打ち込んで育てる好事家もいるが、鉄分を「カネ・銭」と同一視、「お金を食う」として、屋敷内には植栽しない向きもある。
ソテツの歴史は古く、1935年。座間味島の阿真比屋(あまぬひや)なる人物が中国から持ち帰り、食糧難に喘ぐ島びとを救ったという記述がある。また、1709~1725年に琉球を襲った大飢饉の折りは、国頭間切奥の人たちが国頭はじめ大宜味、久志、恩納の各間切にソテツを送って飢饉を救ったともある。「飢死ぬ飯めー=飢饉の際の食糧」という言葉がでたのはこの辺りからだろう。
一方に「ソテツ地獄」なる言葉がある。
第一次世界大戦後、世界は慢性的経済恐慌に陥った。日本の中でも「沖縄県ならぬ貧乏県」と称されていた沖縄なぞひとたまりもない。米はおろか芋さえ口に入らず、ソテツの澱粉に頼る状況をそう呼んだのである。「ソテツ地獄」。それは当時の「沖縄朝日新聞」の比嘉栄松記者がそう表現。新語はたちまちジャーナリズムで流行し、一般に広まった。
先般、沖縄タイムスの紙面に「ソテツ・新たな活用に光」「食糧難時の恩返し」の見出しを見つけた。
「戦前から戦中にかけて、飢えをしのぐために毒性のある実が食べられたソテツ。ソテツ地獄と呼ばれたマイナスイメージを取り払おうと、各地で見直す動きが広まっている。実からお酒を造ったり、キャラクターにしたり。飢餓から救ってくれた恩返し」と、活用方法に光を当てる試みがはじまっているとしている。
泡盛酒醸業、那覇市の照屋比呂子さん(79)の研究所で約10年前に造ったソテツ酒が保存されてりる。度数30度と45度の2種を試飲した記者は「普通の泡盛より、ほんのり甘い香り。フルーティーな味わい」との感想。ソテツの実での酒造は少なくとも500キロ(約2万5千個)が必要。
ソテツが多く自生する奄美大島の加計呂麻島では2014年9月、ソテツをモチーフにしたキャラクター「ソテツマン」が誕生。島でソテツ農園を経営する徳田達郎さん(52)が「島民が救われた歴史を知ってもらいたい」と考案。ストラップにしたり、着ぐるみにしたりして人気を集めているという。
また、那覇には、ソテツの保護に取り組む「世界のそてつを護る会=会長玉寄貞夫(75)粟国村出身」もあり、さらに2015年出版に県内外の大学の研究者による著書「ソテツをみなおす」があり、ソテツに関する熱い思いが高まっている。
運動会の競技出場者の入場退場口のアーチの飾りはソテツの葉を用いたし、ボクはソテツの葉で虫かごを作れる。葉の1本1本を丸めて繋ぎ、首飾りを作ることもできる。夏休みなどにはよく、近所の子どもたちに教えて、一緒に作ったものだが・・・・。外は雨。ボクは田畑義男になっていた。
♪赤い蘇鉄の 実の熟れるころ カナも年ごろ 大島育ち~