旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

年の瀬の日々

2018-12-20 00:10:00 | ノンジャンル
 ラジオが午後4時を告げる。
 「民謡で今日拝なびら!」のタイトルコール。そして三線と鳴り物のみの「うしうし節=元歌は奄美大島沖之永良部島の遊び唄」をバックにアナウンスが入る。
 「〇月〇日〇曜日。沖縄の暦ぇ〇月ぬ〇ぬ日(干支)。はいさい!今日拝なびら」と挨拶をする。
55年続いた番組の始まりである。現在の担当者は月~金上原直彦。月曜日座喜味米子=琉球舞踊家。火・木は八木政男=役者。水・金島袋千恵美=放送タレントが務めている。
 新暦、旧暦、干支。放送冒頭の挨拶言葉にしているだけに、いま担当者としては、どうしても「今日の暦」を確認する。したがって、そのことが習慣づけられ、日に幾度かはカレンダーに目がいく。
 そこで今号は残り少ない年の瀬の出来事を暦の中から拾ってみよう。

 ◇12月20日木曜日=旧暦11月14日・戌の日。
 *琉球松を県木に指定=1966年。
 *コザ暴動事件。深夜コザ市(現沖縄市)のメインストリートで米人の運転する乗用車が沖縄人をひき逃げ。さらに時をおかず外人と沖縄人の車が衝突。米軍による事故処理中に事件は起きた。抗議した沖縄側の住民の人数が増えるにつれ、米軍側の鎮圧隊が出動。沖縄側の反米感情むき出しの暴動、騒動になった。(日本復帰2年前)の1970年のことである。
 *辺野古埋め立て承認取り消し訴訟。最高裁で県敗訴(2016)。
 
 ◇12月21日。
 *平和祈念堂で大相撲3横綱北の湖、若乃花、輪島が奉納土俵入り(1978)
 *名桜大学開学(1997)名護市在。

 ◇12月22日。
 *冬至。*NHK・先島で本島と同時放送開始(1976)。
 *米軍、北部訓練場4千ヘクタールを返還(2016)。

 ◇12月23日。
 *「海ぶどうの日」。県海ぶどう生産協制定。

 ◇12月24日。
 *古典音楽野村流師範城間徳太郎・人間国宝となる(2005)。

 ◇12月25日。
 *民政府、クリスマスを法廷休日に指定(1947)。
 この年、本土でも公休日を新しく制定することになったが、沖縄民政府では、12月8日、有給休暇として次のように指令した。
 *1月1日元旦(新暦)。
 *4月24日・民政府創立記念日。
 *5月30日・戦没者慰霊祭。
 *7月4日・米国独立記念日。
 *旧盆の中日と御送りの2日間。
 *12月25日・クリスマス。
 ただし、4月24日は民政府から給与を得ている者に限る。
 *奄美郡島日本復帰(1953)。

 ◇12月26日。
 *那覇市長に人民党瀬長亀次郎当選。米軍は「赤い市長誕生」と警戒した(1956)。
 *ボクシング元世界チャンピオン具志堅用高の胸像、石垣港離島ターミナルに設置。本人より8㎝大きいめ(2013)。

 ◇12月27日。
 *米軍「人は左 車は右」通行を指示(1946)。
 *女子プロゴルファー宮里藍に県民栄誉賞(2010)。

 ◇12月28日。
 *歴史家真境名安興死去(1933)。
 *詩人伊波南哲死去(1976)。

 ◇12月29日。
 *琉球歴史上、名政治家と称された三司官・蔡温没(1761)。

 ◇12月30日。
 *沖縄復帰関連法案・国会で強行採決。基地撤去ならず(1971)。

 ◇12月31日。
 *安室奈美恵。日本連盟レコード大賞受賞。NHK紅白初出場。

 かくて戌年は暮れる。ボク個人は何をしてきたか。ふり返ってみても、これというものがない。まあ・・・・いいではないか。
 ‟ともかくも あなたまかせの 年の暮れ”


舞踊‟むんじゅる秘話”・我が家のみの芸能

2018-12-10 00:10:00 | ノンジャンル
 「これまた戦争に関わる話になるが、我が家には戦後この方、続く舞踊‟むんじゅる”があって、4代目は高校2年生だ」。
 そう語るのは80歳を越えた南部・H村のK老人。農業ひと筋に生きてきた手足はたくましく、浅黒い顔に刻まれたシワが、なんとも味がある。
 「我が村の字の豊年祭の余興舞踊のひとつ‟むんじゅる”は、若く美形の男性が「あんぐぁすがい(女性)」をして演じてきた。その配役は2年越しに交代する決まりになっていた。その踊り手に実兄が選ばれたのだが・・・・。

 老人の話をじっくり聞く前に舞踊‟むんじゅる”について記しておこう。
 この舞踊は宮廷舞踊とは異なり、明治27年(1894)頃、舞踊家玉城盛重(たまぐすく せいじゅう)の振付とされている。音曲は「早作田節=はいちくてんぶし」「照喜名節=てぃるちなぶし」「芋ぬ葉節=んむぬふぁぶし」「月ぬ夜節=ちちぬゆーぶし」もしくは「赤山節=あかやまーぶし」の4曲に乗せて踊る。もともとはそれぞれ独立した歌謡だが、4曲のテンポの違いを巧みに組み合わせて踊りを充実させている。
 内容は田舎娘が彼氏が張ってくれて「むんじゅる平笠」を被り、農耕に就く間も、彼氏の情愛を片時も忘れない純愛のさまを表現している。
 衣装もそれにふさわしく、袖、裾とも短めの芭蕉布を片袖を抜いて着付け、表に出た白い襦袢が若い娘の清楚さと、そこはかとした純愛を表現する。そして前結びの帯に挟んだ赤系統の花染み手布(はなずみティーサージ)が、それを浮き立たせる。はじめは、むんじゅる平笠を背に、次に手に、そして被るという手順で、情感をいよいよ高める。
 蛇足になるが、中テンポの「早作田節」で舞台に登場、ゆったりとした「照喜名節」を本踊りとし、ハイテンポの「月ぬ夜節。もしくは赤山節」で退場する。退場の際、観客席にどの程度の拍手が起きるか。踊り手はそれによってその日の出来不出来を知るのだそうな。

 いまひとつ。「むんじゅる平笠」についても記しておこう。
 『むんじゅる平笠』
 麦わらで手作りした女性用の日笠。男性用は山形。女性用は丸みをおびている。
 「むんじゅる」は麦わらの意。「麦蔓」の字もみえる。
 円錐状に立てた竹ヒゴの上から、さらに細いヒゴを螺旋状に巻き、その上へ麦わらを縦に張り、頂点をしぼって止め、縁(ふち)は内側で止める。男子用は急勾配、女子用は円みをおびるように作る。産地としては那覇の西に位置する離島粟国島と北部・本部町の瀬底島が知られている。殊に瀬底島産は『シーク笠・瀬底笠』と呼ぶ。
 
 さて・・・・。
 H村のK老人家のみの舞踊‟むんじゅる”の話を聞こう。
 「K村の豊年祭余興の演目のひとつ‟むんじゅる踊り”は定番で、踊り手は村の長老たちが選出し、指名された者は前年の踊り手に就いて所作を受け継ぎ、翌年の豊年祭に備える。なにしろ、女踊りを男が演じるのだから、少なからず美男子でなければならず、そのことがまた当人にとっては自慢にもなった。
 昭和19年に翌年の踊り手に指名されたのはワシの実兄。当時17歳。たいそう喜んでいたことだが、日米戦争の雲行きが怪しくなり、踊りどころか豊年祭の開催そのものが危ぶまれるまま昭和20年になり、4月1日には米軍上陸。熾烈な沖縄地上戦だ・・・・。そして実兄は残念ながら艦砲射撃の餌食になってしまった。したがって、実兄の舞踊‟むんじゅる”の稽古は、出羽の「早作田節」で終わっている。「照喜名節」「芋ぬ葉節」「月ぬ夜節」の手は知らずじまい・・・。口惜しかったに違いない。それから・・・・数年後、豊年祭が復活してなされるようになって舞踊“むんじゅる”も舞台に戻ってきたが、踊り手は実兄ではない。そこで思ったんだ。(よしっ!ワシには踊りはできないが、歌三線ならできるっ)。一発発起して“むんじゅる4節”を特訓。兄貴の命日には仏壇の前で、晴明祭には墓前で「早作田節」だけを独演するようにしてきた。えっ?どうして通しで演奏しないのかって?だって兄貴は、出羽の「早作田節」の所作しか受け取っていない。本踊り、入羽まで歌っては、兄貴はついて来れず戸惑うでないかっ」。
 K老人は心なしか小さく笑って、もう、すっかり冷えてしまった傍らの茶碗を口元に運んだ。そして再び口を開いた。
 「以来、今日まで仏前と墓前の「早作田節」は、我が家だけの伝統芸能になっている。ワシの子や孫はワシの気持ちを知ってか知らずか、ワシの知らないうちに三線教室に通うのもいるし、孫にいたっては本格的に琉球舞踊を習い始めている。いずれ通しで“むんじゅる踊り”を見せてくれるだろう」。
 K老人の目は輝きをましてきた。
 「早作田節」の歌詞は、
 ♪若さ一時ぬ通い路ぬ空や 闇ぬさく坂ん車とぅ原
 という青春賛歌。それだけに早くして逝った実兄の姿と重なるものがあるのだろう。
 年の瀬の風はまだ冷たくない。


釘が打てない男

2018-12-01 00:10:00 | ノンジャンル
 日曜日。朝寝の延長をむさぶっているとっ、台所からなにやらトントン、ガソゴソ聞き慣れない物音がする。堕眠の夢を破られてのぞいてみると、古女房がねじり鉢巻きの額に薄ら汗をにじませて、台所に置くらしい小物入れの木箱を組み立てている。いまは専門店に行けば、誰にでも簡単に仕上げられる素材を売っているらしい。(昨日、買い物に行ってくるといって外出したのはこれだったのか)関心。亭主は再び寝室に戻り、破られた夢の続きを見ることにした。
(日曜大工のできる女房を持ったこの幸せ!)に得心する。
 小物入れにせよ本棚にせよ、風に歪んだ屋根にせよ、ちょいと自分でやってのけようとネジまわしやトンカチを持ってはみるものの、ネジを回せば垂直にならず、釘を打てば89%は、釘そのものが曲がってしまうのである。
 『釘が打てない男』。そう、私自身を指している。そのことを知ってか知らずか、我が家の(大工仕事)の担当は古女房。役割分担が暗黙のうちに定着しているということは(幸せな家庭構築)の基本ではなかろうか。

 『大宜味大工』なる敬称がある。方言読みは「WUJIMI ジェーク」。
 大宜味村はかつて教育者、大工職人、染色職人を輩出したことで有名で、殊に大宜味村出身の大工職人はその数だけではなく、仕事の巧みさ、迅速さ、労苦をいとわない働きぶりが全県的に有名を馳せていた。したがって、仕事の発注も多く、本島内は言うに及ばず周辺離島、さらに宮古島にもその足跡がみられる。
 大正8年(1919)、那覇辻町で起きた大火、折りからの黒砂糖景気と相まって、大建築ブームに乗り、仕事が丁寧な上に迅速であることが評価かつ信用につながり「大宜味大工」の敬称を不動のものにした。

 「大工」もいろいろ。
 *指物大工=さしむん じぇーく。箪笥などの家具職人。
 *挽物大工=ふぃちむん じぇーく。鍋、釜など鉄製品の製作及び修理職人。
 *家大工=やー じぇーく。家屋建築職人。
 *石大工=いし じぇーく。石垣などに携わる職人。
 などなど。一方に「細工」を当てる「しぇーく」もいる。
 *黄金細工=くがに しぇーく。王府時代の上流社会で用いられる男性用髪差しや女性の髪型眞結い(まーゆい。カンプーともいう)を留める金製、銀製の髪留めを作り、細工する職人。
 単に「金細工=かんじぇーくー」と称するのは、一般が用いる飾りもの職人のこと。
 *歯大工=はーじぇーく。技工士のこと。歯科医師とはことなり、義歯を細工する技術者を指す。

 さて・・・・。
 それぞれの「大工・細工」に人名や地名を被せた例に「田場大工=ターバ じぇーく」がいる。
 『田場大工』。
 田場については人名とする説と現うるま市田場の地名とする説がある。
 田場某という人物は、大工と称しながらも大した腕でもなかったのに、首里王府に仕えたという説がある。したがって、何事につけ、名前や肩書が先行し、成すことにいまいち問題のある人をいまでも「ターバージェーク」と呼び、軽視する。また一方では具志川間切出身の某は正真正銘の名工であったことからこの名称があるともされる。
 沖縄口をよくする者の間では、日常的に口にする言葉だが、一見、仕上がりはよいようだが、中身が薄い例を指す場合が多いのはどうしてだろう。身近な例を上げれば、酒場など遊興をもっぱらとする場所でもっともらしい政治論をぶったりすると「総理大臣の如どぅある!。総理大臣のようだ」と真顔で賞賛されても、額面通り、手放しに喜んではならない。それは一種の褒め殺しの評価。裏には嘲笑があることに気付かなければならない。事実、政治熱が高まった昭和の初めごろ、なんでもかんでも演説口調になる御仁に対して放たれた言葉は「はっ!議員でぃやる!=ほっ!議員かいなっ」という嘲りであったという。これなど最たる褒め殺しではなかろうか。
 ところが、それらも時代によって受け取り方が異なるようだ。
 昨日今日聞いた話。
 沖縄の基地問題を熱っぽく語る大学生に感じ入った大人が「キミを総理大臣にしたいね」と言ったのに対してその大学生は「馬鹿にしないでください!ボクは総理大臣になるほどの私利私欲は持ちません!」ときたそうな。
 ひところの少年、青年の将来図の「末は博士か大臣か」は、どこへ行ってしまったのだろうか。相手が野党の議員であっても、同じ政治家の名前を覚えていない大臣がいては「末は大臣」を目指す若者がいなくなるのも、納得せざるを得ないではないか「少年よ!大志を抱け!」とも言えない世の中に誰がした。
 んっ?ボクみたいな「釘が打てない男」が亭主面しているせいか?
 堕眠が醒めて居間に行くと大工女房は、涼しい顔でコーヒーを楽しんでいた。
 「釘が打てない男」は、消え入るような声でたったひと言。
 「おはよう」。