国、県、市町村。いや、いかなる組織、集団、グループも、その先頭に立つ人物の器量、品格によって右へでも左へでも、はたまた前にも後ろにも流動するものだ。
ハイライトに過ぎないが、明治以降の沖縄県のトップに位置する人物からも、今日に至る〔時代〕を感じ取れるような気がする。「時に歴史あり、人に歴史あり」とは、このことだろう。
※【官選知事時代】
♣奈良原 繁〔ならはら しげる〕。天保5年~大正7年=1834~1918=。鹿児島県下高麗町出身。沖縄県第4代知事。
明治維新直前、京都に起きた寺田屋騒動の際には、薩摩藩主島津久光の命を受けて、同藩の討幕派を鎮圧。明治11年<1878>、内務省御用掛になって官界入りし内務省権大書記官、農商務大書記官、静岡県県令、日本鉄道会社初代社長、元老院議官、貴族院議員<男爵>などを歴任した後、明治25年<1892>7月20日、沖縄県知事に任命された。以来、明治41年<1908>年まで、実に15年10ヵ月に渡って在任。教育、土地整理、築港を3大事業に掲げて沖縄開発にあたった。
殊に教育振興・普及への尽力はめざましく、離任間際の明治40年には就学率92.81%という高率を達成している。また、各種実業教育や女子の中等教育もつぎつぎと推進した。さらに、沖縄県農工銀行設立、糖業改良事務局設置などなど精力的に実現。奈良原時代に『沖縄の近代化の基礎は確立された』と、評価されている。しかし、沖縄近代化の遂行過程では、専制的権力者として君臨。『琉球王』の異名をとっている。と言うのも、農民の利益を無視して「杣山開発=そまやま」「杣山処分」の政策を強行。国家や一部特権階級による山林利用を許可し、薩摩出身者を重用して、沖縄の官界や教育界に薩摩閥をはびこらせた。こうした専制的施政に抵抗した謝花登<じゃはな のぼる>らの「自由民権運動」を抑え込んだという史実もある。
「杣山」とは、材木用の木を植えた山のこと。
沖縄でも王府時代、各地の山林を王府の監督・保護のもと、王府の需要を満たすとともに、一般の家屋等の建築、薪炭その他の必要な材木を許可を得て切り出すことができた。ところが、政府は「杣山開墾」を明治10年ごろからはじめていて、沖縄でも奈良原県政になって強行。世に言う「杣山問題」が一気に表に出た。開墾は、主にサトウキビ生産を目的にしたものだが、本土からの寄留商人大規模な農場経営に乗り出し、山林払い下げを申請。土地整理の際の「土地取得」を目論んだ。当時、謝花登は開墾事務取扱主任で、彼らは地元農民を優先して開墾に従事させる方針だった。しかし、寄留商人優先の奈良原施策と本部間切農民とが対立、開墾優先順位をめぐる騒動に発展した。地元優先を主張した謝花登は解任され、このことが「自由民権運動」につながっていく。
現在、全国各地で進められている「開発事業」と重ね合わせることができる。
♣明治26年。
◇テニスの始まり。
首里中学校生が修学旅行の際、京都第三高等学校でテニスを見学。テニス用具を持ち帰り始めた。野球も同時期に入ってきたようだ。
♣明治27年。
◇1日の生活費。
首里・那覇の上等家庭=12銭1厘。中等家庭=8銭9厘。下等家庭=6銭。島尻郡の場合、上から10銭1厘~4銭6厘~3銭1厘。勤め人の月給が6円~9円。饅頭を10銭分買うと5、6人で満腹するほど食せた。
♣明治29年<1896>
◇写真屋開業。
県立病院の医療器具修理技師・又吉昌法が大阪、京都、東京で写真技術を修得して、那覇市久米町に開業。しかし、写真に写ると『マブイ=魂=を抜かれる』という風評が立ち、始めは商売にならなかった。
♣明治31年<1898>
◇銭湯料金。
那覇湯屋営業人組合の料金表には、男=1銭2厘。14才以下1銭。女=1銭。12才以下8厘。毎日入る者は月極め=前金30銭。
♣明治32年<1899>
◇ハワイ移民第1号出発。
12月5日。30人の契約移民が旅客船サツマ丸にて那覇港を出発。奄美大島~鹿児島~神戸~大阪。汽車で横浜に行き、身体検査を受けた後、チャイナ号に乗船。12月30日に横浜を出航。翌年1月8日、ホノルルに到着。上陸した移民は、身体検査不合格となった3人を除く27人。
◇英語学校開校。
9月13日の琉球新報紙面に、那覇区西町の真教寺内に英語学校開校『生徒募集』の広告を見ることができる。教師は、東京英語学校卒業の高崎義男。
ハイライトに過ぎないが、明治以降の沖縄県のトップに位置する人物からも、今日に至る〔時代〕を感じ取れるような気がする。「時に歴史あり、人に歴史あり」とは、このことだろう。
※【官選知事時代】
♣奈良原 繁〔ならはら しげる〕。天保5年~大正7年=1834~1918=。鹿児島県下高麗町出身。沖縄県第4代知事。
明治維新直前、京都に起きた寺田屋騒動の際には、薩摩藩主島津久光の命を受けて、同藩の討幕派を鎮圧。明治11年<1878>、内務省御用掛になって官界入りし内務省権大書記官、農商務大書記官、静岡県県令、日本鉄道会社初代社長、元老院議官、貴族院議員<男爵>などを歴任した後、明治25年<1892>7月20日、沖縄県知事に任命された。以来、明治41年<1908>年まで、実に15年10ヵ月に渡って在任。教育、土地整理、築港を3大事業に掲げて沖縄開発にあたった。
殊に教育振興・普及への尽力はめざましく、離任間際の明治40年には就学率92.81%という高率を達成している。また、各種実業教育や女子の中等教育もつぎつぎと推進した。さらに、沖縄県農工銀行設立、糖業改良事務局設置などなど精力的に実現。奈良原時代に『沖縄の近代化の基礎は確立された』と、評価されている。しかし、沖縄近代化の遂行過程では、専制的権力者として君臨。『琉球王』の異名をとっている。と言うのも、農民の利益を無視して「杣山開発=そまやま」「杣山処分」の政策を強行。国家や一部特権階級による山林利用を許可し、薩摩出身者を重用して、沖縄の官界や教育界に薩摩閥をはびこらせた。こうした専制的施政に抵抗した謝花登<じゃはな のぼる>らの「自由民権運動」を抑え込んだという史実もある。
「杣山」とは、材木用の木を植えた山のこと。
沖縄でも王府時代、各地の山林を王府の監督・保護のもと、王府の需要を満たすとともに、一般の家屋等の建築、薪炭その他の必要な材木を許可を得て切り出すことができた。ところが、政府は「杣山開墾」を明治10年ごろからはじめていて、沖縄でも奈良原県政になって強行。世に言う「杣山問題」が一気に表に出た。開墾は、主にサトウキビ生産を目的にしたものだが、本土からの寄留商人大規模な農場経営に乗り出し、山林払い下げを申請。土地整理の際の「土地取得」を目論んだ。当時、謝花登は開墾事務取扱主任で、彼らは地元農民を優先して開墾に従事させる方針だった。しかし、寄留商人優先の奈良原施策と本部間切農民とが対立、開墾優先順位をめぐる騒動に発展した。地元優先を主張した謝花登は解任され、このことが「自由民権運動」につながっていく。
現在、全国各地で進められている「開発事業」と重ね合わせることができる。
♣明治26年。
◇テニスの始まり。
首里中学校生が修学旅行の際、京都第三高等学校でテニスを見学。テニス用具を持ち帰り始めた。野球も同時期に入ってきたようだ。
♣明治27年。
◇1日の生活費。
首里・那覇の上等家庭=12銭1厘。中等家庭=8銭9厘。下等家庭=6銭。島尻郡の場合、上から10銭1厘~4銭6厘~3銭1厘。勤め人の月給が6円~9円。饅頭を10銭分買うと5、6人で満腹するほど食せた。
♣明治29年<1896>
◇写真屋開業。
県立病院の医療器具修理技師・又吉昌法が大阪、京都、東京で写真技術を修得して、那覇市久米町に開業。しかし、写真に写ると『マブイ=魂=を抜かれる』という風評が立ち、始めは商売にならなかった。
♣明治31年<1898>
◇銭湯料金。
那覇湯屋営業人組合の料金表には、男=1銭2厘。14才以下1銭。女=1銭。12才以下8厘。毎日入る者は月極め=前金30銭。
♣明治32年<1899>
◇ハワイ移民第1号出発。
12月5日。30人の契約移民が旅客船サツマ丸にて那覇港を出発。奄美大島~鹿児島~神戸~大阪。汽車で横浜に行き、身体検査を受けた後、チャイナ号に乗船。12月30日に横浜を出航。翌年1月8日、ホノルルに到着。上陸した移民は、身体検査不合格となった3人を除く27人。
◇英語学校開校。
9月13日の琉球新報紙面に、那覇区西町の真教寺内に英語学校開校『生徒募集』の広告を見ることができる。教師は、東京英語学校卒業の高崎義男。