旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑤

2011-10-20 00:15:00 | ノンジャンル
 国、県、市町村。いや、いかなる組織、集団、グループも、その先頭に立つ人物の器量、品格によって右へでも左へでも、はたまた前にも後ろにも流動するものだ。
 ハイライトに過ぎないが、明治以降の沖縄県のトップに位置する人物からも、今日に至る〔時代〕を感じ取れるような気がする。「時に歴史あり、人に歴史あり」とは、このことだろう。

 ※【官選知事時代】
 ♣奈良原 繁〔ならはら しげる〕。天保5年~大正7年=1834~1918=。鹿児島県下高麗町出身。沖縄県第4代知事。
 明治維新直前、京都に起きた寺田屋騒動の際には、薩摩藩主島津久光の命を受けて、同藩の討幕派を鎮圧。明治11年<1878>、内務省御用掛になって官界入りし内務省権大書記官、農商務大書記官、静岡県県令、日本鉄道会社初代社長、元老院議官、貴族院議員<男爵>などを歴任した後、明治25年<1892>7月20日、沖縄県知事に任命された。以来、明治41年<1908>年まで、実に15年10ヵ月に渡って在任。教育、土地整理、築港を3大事業に掲げて沖縄開発にあたった。
 殊に教育振興・普及への尽力はめざましく、離任間際の明治40年には就学率92.81%という高率を達成している。また、各種実業教育や女子の中等教育もつぎつぎと推進した。さらに、沖縄県農工銀行設立、糖業改良事務局設置などなど精力的に実現。奈良原時代に『沖縄の近代化の基礎は確立された』と、評価されている。しかし、沖縄近代化の遂行過程では、専制的権力者として君臨。『琉球王』の異名をとっている。と言うのも、農民の利益を無視して「杣山開発=そまやま」「杣山処分」の政策を強行。国家や一部特権階級による山林利用を許可し、薩摩出身者を重用して、沖縄の官界や教育界に薩摩閥をはびこらせた。こうした専制的施政に抵抗した謝花登<じゃはな のぼる>らの「自由民権運動」を抑え込んだという史実もある。
 「杣山」とは、材木用の木を植えた山のこと。
 沖縄でも王府時代、各地の山林を王府の監督・保護のもと、王府の需要を満たすとともに、一般の家屋等の建築、薪炭その他の必要な材木を許可を得て切り出すことができた。ところが、政府は「杣山開墾」を明治10年ごろからはじめていて、沖縄でも奈良原県政になって強行。世に言う「杣山問題」が一気に表に出た。開墾は、主にサトウキビ生産を目的にしたものだが、本土からの寄留商人大規模な農場経営に乗り出し、山林払い下げを申請。土地整理の際の「土地取得」を目論んだ。当時、謝花登は開墾事務取扱主任で、彼らは地元農民を優先して開墾に従事させる方針だった。しかし、寄留商人優先の奈良原施策と本部間切農民とが対立、開墾優先順位をめぐる騒動に発展した。地元優先を主張した謝花登は解任され、このことが「自由民権運動」につながっていく。
 現在、全国各地で進められている「開発事業」と重ね合わせることができる。

 ♣明治26年。
 ◇テニスの始まり。
  首里中学校生が修学旅行の際、京都第三高等学校でテニスを見学。テニス用具を持ち帰り始めた。野球も同時期に入ってきたようだ。
 ♣明治27年。
 ◇1日の生活費。
  首里・那覇の上等家庭=12銭1厘。中等家庭=8銭9厘。下等家庭=6銭。島尻郡の場合、上から10銭1厘~4銭6厘~3銭1厘。勤め人の月給が6円~9円。饅頭を10銭分買うと5、6人で満腹するほど食せた。

 ♣明治29年<1896>
 ◇写真屋開業。
  県立病院の医療器具修理技師・又吉昌法が大阪、京都、東京で写真技術を修得して、那覇市久米町に開業。しかし、写真に写ると『マブイ=魂=を抜かれる』という風評が立ち、始めは商売にならなかった。
 ♣明治31年<1898>
 ◇銭湯料金。
  那覇湯屋営業人組合の料金表には、男=1銭2厘。14才以下1銭。女=1銭。12才以下8厘。毎日入る者は月極め=前金30銭。

 ♣明治32年<1899>
 ◇ハワイ移民第1号出発。
  12月5日。30人の契約移民が旅客船サツマ丸にて那覇港を出発。奄美大島~鹿児島~神戸~大阪。汽車で横浜に行き、身体検査を受けた後、チャイナ号に乗船。12月30日に横浜を出航。翌年1月8日、ホノルルに到着。上陸した移民は、身体検査不合格となった3人を除く27人。
 ◇英語学校開校。
  9月13日の琉球新報紙面に、那覇区西町の真教寺内に英語学校開校『生徒募集』の広告を見ることができる。教師は、東京英語学校卒業の高崎義男。




沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その④

2011-10-10 00:15:00 | ノンジャンル
 年号が[明治]になって、日本は本格的に国際的檜舞台へ進出。それに伴って[琉球王国]も日本の1県に組入れられて以来、今日まで中央の意のままに翻弄されている。この連載は、沖縄県のトップに立った県令・知事に登場願いながら、時代々々の世情を垣間見ている。5代続いた「県令時代」は、今回から「官選知事時代」に入る。
 第5代県令大伯貞清が在任中に「官制改正」が成され、大伯貞清が[初代知事]に就任したことは、10月1日号に記した。いよいよ、昭和20年まで続く「知事時代」へ。

 ※官選知事時代
 ◆福原 実[ふくはら みのる。弘化1年~明治33年。1844~1900]。
 長州藩=山口県=萩出身。第2代沖縄県知事。
 長州藩校明輪館に学んだ福原実は、戊辰〈ぼしん〉戦争の際の長州藩陸軍局に勤務。以降、明治政府の陸軍少佐、西南戦争の征討軍砲兵部長兼第3師団参謀長、陸軍少佐、仙台鎮台司令官を歴任。一貫して陸軍畑を歩んできた。総理大臣伊藤博文らが、福原実を沖縄県知事に推挙したのは彼の履歴を鑑み、国の南の沖縄県を国防の要所のひとつにする意図があったと言われている。
 福原実は明治20年〈1887〉4月17日に着任。“郷に入りては郷に従え”を実践して、着物のオビを琉球風の前結びするなど、奇人肌の人物だったようだ。明治21年9月18日までの1年5ヶ月の在任。帰郷して元老院議官に復帰している。

 ★明治20年。
 ◇初の運動会。
 2月6日。県知事はまだ、大伯貞清。この日、文部大臣森有礼が来県し、那覇や首里の学校を視察。次いで2月9日、真和志村〈現・那覇市〉古波蔵〈こはぐら。沖縄読み=くふぁんぐぁ〉在の陸軍練兵場に森文部大臣を迎えて、沖縄初の大運動会が開催された。
 ◇重い通貨。
 当時の通貨は紙幣ではなく、いまの5円玉のような穴開きの1厘銭が主。後年になって2円に相当する100貫文の重量は約10斤〈6㎏〉。10円が丁度50斤〈30㎏〉。したがって10円を運ぶには大人の男が右肩に2円、左肩に2円、左右両手に1円づつ、背中に2円、腹に2円の硬貨を巻き付けて運んだ。これが20円になると100斤になるため、金袋は2人で担ぐか、牛車・馬車で運搬。紙幣が流通するようになるのは、明治27年~8年ごろになる。
 ★明治21年
 ◇結髪から断髪へ。
 琉球古来の男の結髪〈片かしら〉を廃して、新時代の断髪にせよという奨励は、明治20年頃から明治27年~8年まで続く。さもあろう、慣れ親しんだ風俗は、そうそう改められるものではなく、各地で悲喜交々の[断髪騒動]があった。
 ◇この年4月。沖縄師範学校寄宿舎で深夜、生徒が寝込んでいる間に、舎監やすでに断髪していた上級生が、下級生の結髪を切り落とした。


 ◇宮古島出身で初めて断髪したのは、師範学校在学中の立津春方。
立津春方が夏休みに帰郷した際には、彼の断髪頭を見ようと人垣をなした。それだけではない。立津春方の妻の実家では「坊主頭には娘はやれぬッ!」と、離婚騒ぎまで起きたそうな。“ざん切り頭を叩いてみれば 文明開化の音がする”。

 ※丸山莞爾[まるやま かんじ。天保7年~明治31年(1836~1898)]。
 土佐藩〈高知県〉出身。第3代沖縄県知事。
 明治20年ごろ、内務省社寺局長兼造神宮支庁副使。翌年9月。沖縄県知事に任ぜられた。明治25年7月に離任する3年余の間に宮古、八重山を除く沖縄本島の間切〈まじり・旧行政区の呼称〉に予算協議会を設置し、市町村制施行のための準備措置を講じた。次いで、那覇在の波之上宮を官弊小社に指定させ、沖縄県民の皇民化推進の教材として活用し、沖縄の[内地化]の布石とする政策をとった。一方では、旧慣諸制度に関する資料を精力的に調査収集して、300余冊におよぶ「旧慣調査書類」を編纂している。高知県知事に転任。

波之上宮 
 
 ★明治23年~25年。
 ◇気象観測所設置。
 「那覇測候所」がそれ。頑固な老人たちは、これを「那覇を測り候う所」と読み「大和人は、那覇人や那覇の街を測って何とするつもりかっ!」と戦々恐々。不安を覚えて田舎に移転する騒ぎがあった。 
 ◇薬局開店。
 明治25年。和歌山県人福岡伊之助が那覇に「楠見薬局」を開業。民間の薬舗はそれ以前にも数件あったが、公認薬局の第1号は「楠見薬局」とされる。
 那覇にあった楠見薬局は筆者も記憶にあり、やがて首里城下「龍潭」の道向かいに移転していたが、大型ドラッグストアの進出によってか、昭和末ごろから「楠見薬局」の看板は見えなくなっている。