旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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はたまた・たびたび・畳語・重ね語

2018-10-20 00:10:00 | ノンジャンル
 まずは「畳語・重語」とは何か。講談社発刊「日本語大辞典」のページをペラペラとめくって見る。

 『じょうご・畳語』=複合語の一種。同じ単語。語根が結合した語。多数を表し、また副詞に多い。例=ひとびと・さむざむ・ほくほく・泣く泣くなど。重語。

 もし、日常会話に畳語を用いなかったとするならば、会話は味気なく「パサパサ」した乾いたものにものにななってしまうだろう。それらは沖縄口にも多々ある。先般、年頃の甥っ子が、ジンティー(相手)の彼女を同伴して、婚約したことの報告にきた。叔父にあたる御仁は、しばし歓談のあと「タイやウチャタイ カナタイ。ネートゥ ケートゥやさ」と祝福した。「タイ」は二人を指す。
 ◇ウチャタイ カナタイ=願ったり叶ったり。
 ◇ネートゥ ケートゥ=お似合い。

 琉歌の中の「ネートゥ ケートゥ」。
 ♪ネートゥケートゥやりば 何故んでぃ我ね泣ちゅが 無蔵が丈勝ゐやてぃどぅ泣ちゅる
 《ネートゥケートゥやりば ぬんでぃ わねなちゅが ンゾがタキまさゐ やてぃどぅなちゅる

 歌意=彼女と俺。似合いならば、どうして俺は泣くものか。彼女の家柄、格式、彼女自身の学歴等々。俺とは格段に異なる。つり合わぬは不縁のもとともいう。それゆえに俺は男泣きに泣くのだ。
 「丈」は身分・丈分・間尺・均衡などの差。

 ◇アイメ― クサメー
 出しゃばりのさま。目立ちたがり屋に多い、選挙の時など政党や支持団体に属しているならいざ知らず、おのれの選挙好きが抑えられないのか、選挙事務所に顔を出し、頼まれもしないのにビラ配りをする方がいる。そういう方はいつの間にか選挙事務所に入り浸って、スタッフ・運動員と茶菓子をともにしている。当事者にとっては有難いのか迷惑なのか。また政党人の中には通常はそうそう顔は見せないが、立候補者の記者会見などテレビや新聞社のカメラが入るとなると、真っ先に駆けつけカメラの枠内に立ち位置を取る政治家がいる。その立ち位置も最前列ではなく、2列目か3列目の、それも立候補者の真後ろに陣取り、カメラ目線に心掛け、立候補者や選挙対策本部長や支持団体の幹部らとのグループショットにおさまる努力?を惜しまない。まさに「アイメ― ミサメー」。かかるさまを別に「メーユイユイ」=人前に寄りたがるさまで、そうする人を「メーユイユイ」という。

 畳語には「さま・様子」を表す語もさることながら擬態語が多用され、日常会話を豊かに色づけしている。
 ティーダ(太陽)はサンサン。これは共通語。沖縄のティーダはもっと強烈でカンカンである。カジ(風)はそよそよの他にソイソイ、スルスル吹く。ただし、ニシカジ(北風)は小枝を折るがごとくパチパチと吹く。

 ◇キリリン ボンボンはどうだ。
 キリリンは各種祭りの鳴りものの鉦の音。ボンボンは片面の小鼓パーランクーや両面の小鼓の音。お察しの通り、鳴り物入りの華やかなさま。

 ◇トゥルルン テン
 云うまでもなくサンシン(三線)が鳴り響くさま。華やかなさま。共通語でいう「テレツク テン」「トチチリ シャン」と同畳語。

 ◇イヒー アハー
 人前でも遠慮なく、大声で和やかに笑うさま。

 ◇ハックイ シックイ
 大粒の涙を流し、息つぎもままならないほどの大泣きをするさま。

 ◇チーチー カーカー
 食べ物が喉に詰まったさま。そのことから事実、真実を追求されて返事に困っているさま。自分の都合の悪い返事は、どうしても「しどろもどろ」「チーチー カーカー」になる。不祥事の言い訳はなべてそれだ。
 快い畳語に「イッスイ カッスイ」がある。嬉しい外出の場合「いそいそ」に当たる。

 ◇イッスイ カッスイ(またはイッスイ ガッスイ)。
 ちょっとおめかしをして、ちょっと先を急ぎ、イッスイ カッスイお出かけになるさまは、見た目にも爽やかだ。

 今年は9月、10月と大型台風に見舞われ甚大な被害を被った。サトウキビ畑なぞは見るも無残なさまを見せている。けれども、植物の蘇生力は凄まじい。年が明けるころには、サトウキビ畑の上を「ザワワ ザワワ」と、実りの風が拭いているだろう。


天下の秋を知る・琉歌

2018-10-10 00:10:00 | ノンジャンル
 *桐一葉落ちて天下の秋を知る。
 詩歌の好きだった兄直政に教わって知った句。確か中学3年のころの秋だったと記憶する。四季の移ろいに関心を持ったのもその句が発端だったのかも知れない。
 ♪秋の夕日に照る山紅葉~
 ♪夕空晴れて秋風吹き~
 学校唱歌で知る秋が、ぐっと身近に感じられたものだ。
 四季がはっきりしている本土では紅葉、夕風などなどで秋を敏感に感じ取るようだが、南の島ではどうか。日没の早まり、7月後半から発生し始める台風が25号を名乗り終えたころ、秋という言葉を口にし出すようになるのが常だ。

 琉球歌謡の場合「秋」は「四季口説=節口説=しき くどぅち・しち くどぅち」の中で、

 ♪秋は尾花が打ち招く 園の真垣に咲く菊の 花のいろいろ珍しや。錦、更紗と思うばかりに、秋の野原は千草色めく~

 と表現。また「道輪口説=みちわ くどぅち=別名・秋の踊り」は、

 ♪空も長月初めころかや 四方の紅葉を染める時雨に濡れて雄鹿の 鳴くも寂しき 折りを告げ来る。雁の初音に心浮かれて共に打ち連れ 出ずる野原のキキョウ苅萱 萩の錦を来ても見よとや招く尾花が 袖に夕風~

(まだつづくが・・・・)。このように和文でつづられ、歌三線で表される。和文は1700年代から琉球歌謡に多用される。お察しの通りこの頃に本土の能・狂言が導入されて音曲、台詞、所作を組み合わせた演劇的独自の芸能「組踊」が誕生。また、三八六句の琉歌体に対して、上句は七五、下句は八六の「仲風調」の詠歌が生れている。

 1969年7月1日・沖縄風土記社発行。島袋盛敏著「琉歌集(定価7弗)」の分類「四季」の吟詠の部には春の部67首。夏の部43首。秋の部52首。冬の部28首が収められている。詠者が明確なもの、詠み人知らずと沖縄の秋の捉え方もそれぞれ。その中からいくつかの琉歌を拾い、直ぐそこにきた(おきなわの秋)を見つけてみよう。

 ◇暑さ涼まちゃる 手に馴りし扇 余所になち暮らす 秋になたさ
 《あちさ しだまちゃる てぃになりし おうじ ゆすになち くらす あちに なたさ
 詠み人=城間恒模。
 
 歌意=長い夏の間涼風を生み、片時も手放すこともできなかったクバ扇。気がついてみれば、それを使わなくても暮らせるいい時候になった。我が家にも秋がやってきたようだ。
 クバ(棕櫚)の木の葉を広げ、乾燥させて作るクバ扇。ひところはどこの家庭にも2個や3個はあったものだが、このごろはルームクーラーに主役の座を明け渡して、とんと見かけなくなった。それでも、かつての夏の必需品だったクバ扇は民芸品としてその専門の店頭にある。

 ◇秋毎にウトゥジャ 今日ぬぐとぅ揃てぃ互に眺みらな庭ぬ小菊
 《あちぐとぅにウトゥジャ きゆぬぐとぅ するてぃ ながみらな にわぬ くぢく
 詠み人=小禄按司朝恒。
 
 歌意=秋が来るたびに弟たちよ。今宵のように我が家に集まって、私が丹精込めて育てた庭の小菊を眺めようではないか。やがて月も顔を見せるだろう。
 ウトゥジャウトゥジャンダとも言い、兄弟の(弟)の名称。妹はWUナヰ。兄はヤッチーヤチメー。姉はンーメー。秋の花もいろいろだが、沖縄のそれの代表のひとつは小菊だったようだ。殊に首里城下に屋敷を構える士族や那覇の富豪は競って豪邸を建て、庭園を誇り、季節ごとに花の品評会を催したという。いずれにせよ秋の月、秋の花を兄弟姉妹寄り合って楽しむとは風流だ。

 ◇情ねん雲や 情あてぃ風ぬ 吹ち払らてぃ給り 後ぬ今宵
 《なさきねん くむや なさきあてぃ かじぬ ふちはらてぃ たぼり あとぅぬ くゆゐ
 詠み人=太田朝明。

 「後の今宵」とは、旧暦八月十五夜に対して旧暦九月十五夜を指す。そのころは秋風も本格的に感じられ、月もいよいよ冴える。因みに今年の「後ぬ今宵」は10月23日。「二十四節季の「霜降」でもある。
 歌意=せっかくの名月というのに今宵は雲が多い。その風流を知らない情ない雲は、情ある風よ、吹き払っておくれ。友輩集い名月の出を楽しみに待っているのだから。

 こうした猛暑からの解放を期待している人々の心情に後押しされて「おきなわの秋」は、里へ下りつつある。つと見ると部屋のクーラーは27度を示し、肌に快い。
 「いましばらく頑張っておくれ」と声を掛けめくっていた「琉歌集」のページをとじる。
 ‟覚書して 捨てられぬ 扇かな”也有。


10月の日々

2018-10-01 00:10:00 | ノンジャンル
 家の中ではTシャツと短パンで楽をしてきた。
 昨日の日曜日(土曜日もそうだったが)夕刻、徘徊と称しているウォーキングに出掛けた。引っ越しして1年を過ぎた豊見城市金良(かねら)の辺りは、集落をちょっとはなれると純農村風景を目にする。サトウキビ畑、マンゴー栽培のビニールハウス、次に何を植え付けるのか、耕運機が入って広がる畑地が黒茶色に西日に光っている。
 30分余を徘徊して息の上がる身体をクーラーの効いた家の中に入れ、冷たい水を喉に流し込み、フーッと息を吐いたとたん、三つばかり連続くしゃみを家中に響かせた。
 汗のせいばかりではないらしい。すぐに熱くはないシャワーを浴びて身体を拭きバスタオルのまま居間に戻ると、クーラーが(快い!)と思ったとたん、またぞろくしゃみを三つ。もう夏場の気温ではなくなっているのだろう。

 10月。1日から連日、行事、記念日がつづく。
 ◇『赤い羽根の日』
 戦後まもなく実施された「歳末助け合い運動」のひとつで、鳥の羽のようなモノを針に差し、一般の募金を促した。
 ♪トンボが見送る赤い羽根 トンボも秋の赤トンボ~。
 確かサトウハチロー作詞、万城目正作曲「赤い羽根共同募金の歌」。中学生のころか、オルガン伴奏でこの歌を全校生徒が教わり早速、街頭にて「赤い羽根募金にご協力ください!お願いします!」と呼び掛けたのを思い出す。少年少女たちは「日本赤十字社」の存在を知った。とてつもなく(いいことをしている)を実感した。

 ◇『第1回国勢調査』
 大正9年(1920)10月1日実施。「午前零時を期して、陛下も市民も平等に同じ用紙に記録する」。これが政府のPR文句だった。沖縄県の人口59万1572人。日本の総人口5596万1140人。

 ◇『琉球放送株式会社』開局。
 昭和29年(1954)10月1日。
 戦後、沖縄における実質的な民間放送局。現首里城内にあった琉球大学構内に米民政府が管理する沖縄唯一のラジオ放送局の施設を利用。資本金1000万B円で設立。ラジオ放送を開始した。ただし、いかなる番組も事前に、その放送内容や出演者及びスポンサーを米民政府は「チェックする権利」を有していた。米民政府は琉球放送が発信するいかなるニュースをも逐一検閲し「反共産主義番組」を強制。逆に教宣番組を優先的に放送させる他、レギュラー番組に替えて米民政府副長官のコメントを発表させたりした。
 1958年10月、琉球放送は、全放送施設を買い取って、純然たる民間放送としてスタートさせている。1959年夏。琉球大学構内にあったスタジオ施設を現在の那覇市久茂地に移設。総務、営業、現場を統一したビルになった。同年12月、JNNに加盟。さまざまな紆余曲折を経て今年で64年を刻んできたのである。
 琉球放送がテレビ放送を開始したのは昭和35年6月1日に開局式を挙行。沖縄は本格的テレビ時代に入った。もちろん、琉球放送はテレビ・ラジオ兼営を堅持している。
 私事になるが筆者が琉球放送に入社したのは、創立5周年祝賀会の日。昭和34年(1959)10月1日のこと。20歳。報道局1年。テレビ制作局7年。さらにラジオ局制作部に転属。定年までラジオ一筋を通してきた。さらに定年後もラジオのレギュラー番組2本を担当して現在にいたっている。定年から20年。通算59年那覇市久茂地2丁目3番地の1に通い放送屋をやっていることになる。

 ◇『10月2日』
 語呂合わせで「豆腐の日」。NHK沖縄局開局(1967年)。
 ◇『10月4日』
 「陶器の日」。「都市景観の日」。「里親デー」。「沖縄に自衛隊の配備(1972年)」。
 ◇『10月5日』
 初めて中国と交易した察度王没(1395年)。新聞人豊平良顕氏・第20回菊池寛賞受賞(1972年)。
 ◇『10月6日』
 人民党事件(米軍、瀬長亀次郎氏らの逮捕(1954年)。与那国島ティンダパナ(端)国の名勝地に指定(2014年)。
 ◇『10月7日』
 名は大綱挽祭り。県内最初の共同売店・国頭村奥共同売店が100周年(2006年)。
 ◇『10月8日』
 体育の日。寒露。高速道路・那覇~名護間開通(1987年)。

 あなたのもとには初秋の気配は届いていますか。沖縄の名月がいよいよ冴えるのは旧暦9月半ば。ひと月余ある。それまでは寝着はTシャツと短パンにしようと決心したとたん、またぞろくしゃみ三つ。誰か噂をしているのか、薄着のせいか。