旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

<ひとり語り・おろせない荷物>その1

2007-06-27 19:34:06 | ノンジャンル
★連載NO.294

(この一編は、6月23日。沖縄全戦没者慰霊の日に、RBCiラジオで放送した台
本である)

SE=<蝉の声>

爺=今年もジージャーが鳴き始めたね。
  梅雨がすっきり上ったら、もう、朝早くからうるさくて朝寝も出来なくなる。
  ん?それで?・・・・。そうか。学校の宿題なのか。うん・・・・うん。お父さ
んが・・・・戦争のことなら、お爺ちゃんに聞いておいでって言ったのか。学校の  先生も明日香のお父さんもお母さんも、戦後もいいとこの生まれだからぇ・・・。  戦争ばなしは、このお爺ちゃんの役目と言うわけか・・・・ハハハハ。我んにん兵  隊かい行じゃるむのぉあらん。うりどぅくるか、年端んいかん童どぅやてぇーくと  う、何のための戦争だったのか・・・・誰がはじめたのか・・・・。しかっとぉ、  今ちきてぃ分らのぉあしが、子どもには子どもが体験した「戦争」があるからね。
  明日香の宿題に応えられるかどうか、分らのぉあしが、聞いてみるかい。

       = 間 =

爺=昭和19年。そう、63年前。お爺ちゃんは、国民学校6年生だった。ん?明日香  と同じ年なのかハハハハ。


 M=<静かな音楽>・・・・・・・BG


 AN=作・上原直彦。演出・森根尚美。効果及び選曲・除 弘美。出演・北村三郎。

 M=・・・・・・・・・・・・FO

 SE=<蝉の声>

爺=昭和19年の9月ごろからは、学校へ行っても授業はほとんどなくてね。大人や中  学生の男性は、日本軍の命令で防空壕堀りをしていた。えっ?防空壕は、まんいち  アメリカ軍が爆撃してきたときに避難する「壕」さぁ・・・・。いやいや、お爺ち  ゃんたちが避難するためのものではない。日本の兵隊さんが「隠れるための防空   壕」さぁ。「お国のために戦っている兵隊さんの命」が、先ず第一。
  国民学校6年生のお爺ちゃんたちは、大人が掘り起こした土や小石をカマジーに入  れて運ぶのが役目。「戦争」というのが何なのかも分らなかったから、結構楽しく  土運びをしていたよ。皆で歌をうたいながらね。えっ?どんな歌かって?ハハハ   ハ。久しぶりに歌ってみるか。(間)
 ♪ボクは軍人大好きだ いまに大きくなったなら 勲章つけて剣さげて
  お馬に乗って ハイ ドードー
  ハハハハ。ほんとうだね、変な歌だね。でもよ、あのころは、大きくなったなら男  は陸軍大将が海軍大将。女は従軍看護婦になれ!と教育されていたんだ。

    = 間 =

爺=<フィルター=ひとり言> あん言ちん、今ぬ童ん達ぁ、若者のぉ理解できないだ  ろうなぁ・・・・・。教育んでぃ言しぇー大事なむん。国ぬ有り様にゆってぇ、ち  ゃぬような方向にん、向かぁさりーどぅすぐとぅ・・・・恐ろしい・・・・。

    = 間 =

爺=ん?「それから」って? あ、ごめんごめん。お爺ちゃん、アッタに黙ってしまっ  たかハハハハ。それからね<間>
  大人たちは、何故か暗い顔になるし、あまり話もしなくなってくるし「何か大変な  ことが、身近に起きているなッ」とは、感じていたのだが・・・・・。その不安が  不安ではすまされなくなってきた。昭和19年10月10日。突然!

 SE=<空襲警報のサイレン>

爺=空襲警報が鳴った。アメリカ軍の空襲が始まった。何が何だか分らなかった。ただ  ただ、オトーやオカーの言うままに、ネーネー共々、家ぬクシーに掘ってあった我  が家用の防空壕に飛び込んだ。

    = 間 =

爺=戦争というものはね明日香。陸や海から攻めてくるなら、逆の方向の遠い所に逃げ  たらいいが、空からの爆弾は「いつ、どこから爆弾が落ちるか」分らないから、た  だジッとしているより外はない。ネーネーが作ってくれた防空頭巾を被ってね。日  ごろ、学校の先生が教えてくれた「歌」の通りにね。えっ?お爺ちゃんは「戦争と  いうのによく、歌ばかりうたっていたんだね」だって?ハハハハ。ほんとうだね。  「どんな歌なの?」ハハハハ、また歌うの・・・・。もう、忘れかけている     が・・・・。

 ♪<歌う> 空襲警報聞こえてきたら ボクたち今は小さいから
       大人の言うことよく聞いて 慌てないで騒がないで落ちついて入ってい       きましょう 防空壕

 M=<不安な音楽>・・・・・・・・BG

爺=それから、年が明けて昭和20年。どうすることも出来ない中、お爺ちゃんたち   は、空襲の合間をぬって今度は、芋掘り作業だ。防空壕を掘ったり、芋を掘ったり  忙しかった。でも、掘った芋はお爺ちゃんたちが食べるんじゃないよ。みんな兵隊  さんたちのモノ。お爺ちゃんたちは、掘りおこした畑に残った芋のチビーをあさっ  て、食べていたんだ。
 
     = 間 =

爺=そうこうしているうちに、4月1日。アメリカ軍は沖縄に上陸。陸上戦になった。

 SE=<激しい戦闘音>・・・・・・・・・・BG
          
                   =7月5日号につづく=



次号は2007年7月5日発刊です!

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ぶらんこの日々

2007-06-21 14:36:56 | ノンジャンル
★連載NO.293

 62年前のボクは、何をして遊んでいたのだろう。
 昭和19年<1944>10月10日。那覇市垣花を空襲で追われ、恩納村山田を経て恩納岳に逃げ込み、明けて昭和20年4月、金武村<現・町>の山中において米軍の捕虜となり、石川市<現・うるま市>に収容されていた。少年の勘は鋭く、親、兄弟の表情から(もう、空襲や砲撃はない。逃げ隠れしなくてもよい)ことを感じ取っていた。
 7才のボクは、いち早く出来た城前小学校に入学するが(学校)とは名ばかり。校舎もなく、教科書、帳面、鉛筆も行き届かず。登校しても、焼跡を整地する大人が出す小石や木片をカマジー<かます>に入れて、運び捨てる作業を1,2時間すれば、すぐに下校できた。それ以上、学校にいても大人たちにとっては(足手まとい)。また、家に帰っても7才の少年は、食料をあがなうのに必死の親には(構っておれない)存在だったように思える。
 そうなると少年は昼間を自主的に過さなければならない。
 幸いにして(構ってもらえない)のは、ボクひとりではなく、生まれ落ちた所は異なっていても、捕虜収容地を同じくした少年少女たちは、すぐに仲よくなった。ウェーキンチュ<金持ち>もクーシームン<貧乏人。フィンスームンとも言う>もいなかった。皆、平等にクーシームンだったのだ。そのことが、少年少女の連帯意識を高めて仲よしになったのである。
 ひと月ふた月前、村はずれに投下された爆弾は、円形に大地を割っていて、折からの梅雨、そこに満々と水を湛えている。誰が言いだしたのかそこを「バクダン池」と呼び、少年少女たちの絶好の水遊び場になった。ボクが犬かき泳法を習得したのは「バクダン池」あっての賜である。

 そのころの石川市には、フクギやガジマル、琉球松などの大木が戦火をはね除けて生きていた。少年たちは、それらを見逃さず、すぐに遊びを生み出した。
 縦横に大きく成長したガジマルの太い枝に、米軍払下げの野戦用ロープをくくり下げる。そのロープの一方を直径15センチ程、長さ50センチほどの丸太の真ん中に、逆T字型に結べば出来上がり。T字にまたがり、前後左右に揺する一種のぶらんこ遊びである。それがうまく出来るようになると、ロープを横にゆすって、枝を出したガジマルのミキ<幹>を蹴ることが出来るかどうかを競った。しかし、上部はガジマルの枝。少年の体重でも上下運動が起きる。そのため、ミキを蹴り損ねると体ごとミキにぶつかってしまう。ボクなぞ幾度、怪我したことか。同じ年の古謝善次<こじゃ ぜんじ>は、ミキ蹴りが巧く、少女たちの拍手を独り占めにしていた。くやしくて(イヤな奴ッ)だったが、今日まで親しくしているのは、ロープが結んだ(縁)なのだろうか。

 「ぶらんこ」は、どこで生れて、子どもの世界に君臨し、相変わらずの人気モノになっているのか知らないが、沖縄方言名は各地にあるようだ。
 ◇沖縄本島。
 *インダーギー。*ウンジョーギー。*ヰンニャーギ<ヰンニャーニー>など。
 「ギー」は「キ」すなわち「木」。ぶらんこは、木に縄を下げて作ることに関係しているようだ。共通語の「ぶらんこ」を、沖縄方言の特長のひとつである長音・引音にして、「ぶーらんこー」とも言い、いまでも使っている。
 ◇先島地方<宮古・八重山>
 *ヨーンサー。*ヨイサーなどと言う。揺するときの掛け声からの名称と思われる。
 ◇奄美大島
 *ニャンゲー。*インジャーギー<喜界島>。*オージナギー<沖永良部>など。

 ぶらんこは、ひとりで乗り遊ぶよりも幾人かの仲間がいて、ひとり(何回)と揺する回数を決めた方がよい。
 ♪ぶ~らんこ~ ぶ~らんこ~ こ~げ~よ~ こ~げ~よ~
 独特の節回しで数を数えていた。その唱えは、乗り手は発せず、背中を押すことを義務とする次の乗り手と、順番待ちの者が(自分の番)への期待を込めて唱えたものだ。
 たいていは、10カウントを基本としたが、ボス的な年かさのモノは、なんやかや余計な言葉をはさんで数を誤魔化し、15カウントも20カウントも乗る。(ズルっ!)をやっていた。
 ♪イッカーイ!ニカーイ!サンカーイ!
 ♪チュケーン!タケーン!ミケーン!
 カウントは、歌うかのように共通語、沖縄口でなされていたが、
 ♪ワン!ツー!スリー!の英語を覚えたのは、ボクの場合「ぶらんこ遊び」の中だったような気がする。

 6月23日。「沖縄戦全戦没者慰霊祭」=慰霊の日。
 1週間前の「父の日」に、息子や娘が孫たちを連れてやってきた。なんとなく遠い日のぶらんこ遊びを思い出した。しかし、62年の歳月は記憶を徐々に薄れさせていく。語るべきことは、忘却してはいけないのだが・・・。



次号は2007年6月28日発刊です!

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どこへ行くのか・日本

2007-06-14 15:08:31 | ノンジャンル
★連載NO.292

 明治12年<1879>4月4日。沖縄県の誕生日である。したがって、沖縄県は128才。
 明治政府は琉球王国をひとまず(琉球藩)にし、本土の各藩同様「藩を廃し県を置く」つまり、廃藩置県をもって、沖縄を日本国に組み入れた。
 唱歌「蛍の光」の3番の歌詞に♪千島の沖も沖縄も・・・・の1行を入れて(美しい国)づくりへ踏み出したのである。
 以来「鼻ふぃーしん 大和風にふぃり=くしゃみも日本風にせよ」と、皇民化教育は徹底されていった。このことは、第1次、第2次大戦を仕掛けるころまでには一応の成功?をおさめ、男たちは勇んで戦場に出、女たちは(銃後の妻)となって、鬼畜米英に立ち向かった。

 ♪男 生まりてぃくりば 軍人になゆい 女 生まりてぃ我んね 銃後の護り
 意訳=男に生まれたら軍人なる。女に生まれた私の役目は銃後の護りに徹すること。
 皇民化教育を進められている中で歌われた流行り唄「銃後の護り」の1節だ。
 日本の南端に住む沖縄人は「オキナワもん」と呼ばれ、本土から差別された時代だが、それでもオキナワもんの出征兵士は「これで天皇の民になれた。日本人になれたッ」と歓喜したという。
 本土では、
 ♪ボクは軍人大好きだ 今に大きくなったなら 勲章つけて剣さげて お馬に乗って ハイドードー
 と、歌わせていた。しかし、国民はひそかに♪ボクは軍人大嫌い 今に小さくなったなら おっかさんに抱かれて乳飲んで 1銭もらって飴買いに。と替え歌を歌っていた。
 沖縄の「銃後の護り」と重ね合わせてみると、日本国の近代史が見えはしないか。

 再び「銃後の護り」
 ♪男ん子産ち でぃかちょおさ 軍人になゆい 女ん子どぅん産しね 銃後の護り
 意訳=男児を産んだ。でかしたぞッ。立派な軍人になるぞ。女児を産めば、これまた銃後の護りの要員になる。


 私事。
 明治生まれの母は、5男4女を産んだ。
 「あとひとり!10名産めば天皇陛下から褒美が貰えたのにッ」
 ふたりの息子を太平洋上とビルマ戦で戦死させながら、戦後になっても本気ともとれる言葉を口にしていた。「産めよ!増やせよ!」の時代に生きたとは言え末っ子の私は、さむざむと(親心)を聞いたことを今も忘れない。国が危機感をもって推進している少子化対策の向こうには、近い将来の「軍隊増強」「銃後の護り育成」の意図があるのだろうか。いやいや、それは(考え過ぎ)・・・・であればいいのだが。

 東京からは沖縄は見えないが、沖縄からは東京がよく見える。
 麻生外務大臣は(例えば)と前置きにしたとしても「沖縄が他国から攻撃された場合」なぞと、国の自衛力増強を促している。銃口を向ける人は、銃口を向けられる人の脅威を知らないでいる。おそろしいことだ。
 さらに時を同じくして文部科学省は、高校歴史教育検定で沖縄戦の「集団自決・強制集団死」に、日本軍が関与したとする記述を削除・修正。
 このことに抗議する「沖縄戦の歴史歪曲を許さない!県民大会」は6月9日、那覇市の県民広場で怒りをもって開催された。
 「米軍の捕虜になるくらいなら、自ら命を断ち、日本人の誇りを守れッ」
 壇上に立った瑞慶覧長方<ずけらん ちょうほう>さん75才は、自身の体験を証言した。
 「戦争中、国民学校6年を終えたばかりの13才。学徒動員で日本軍のための防空壕堀りをしていた。(昭和20年)5月23日。(出身地)大里村<現・南城市>の民間壕に避難していたが、そこも日本軍に追い出され玉城、東風平、摩文仁の激戦地を彷徨。こうした中、日本軍は、天皇の子である日本軍が米軍の捕虜になっては、これ以上の恥はないぞッ。いざというときは(自決せよッ)と、2個の手榴弾を渡した」<沖縄タイムス・6月10日朝刊より>



 日本という国は、またぞろ、
 ♪ボクは軍人大好きだ・・・・を子供たちに歌わせ、男たちを軍人にし、女たちを銃後の護りにつかせようとしているのだろうか。
 6月23日は、日米戦争における沖縄地上戦が終結した日である。

次号は2007年6月21日発刊です!

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遺稿*琉歌・恋歌の情景=船越義彰

2007-06-07 13:50:27 | ノンジャンル
★連載NO.291

 昨年師走の朝。
 「船越先生から電話よっ」
 階下からカミさんの声。夜ふかしのせいの寝ぼけ眼のまま2階小<にーけーぐぁ。2階小部屋>を降りて電話に出る。
 「琉歌の中の恋歌を集めて評釈してみたいんだ。八重山の(与那国しょんかね)に出てくる地名(ヤディク)は、どんな漢字を当てているのかね。ん?屋・手・久・・・・フンフン。そうかい。ハイハイ!ニフェードー<アリガトウ>」
 電話は一方的に切れた。
 船越義彰<ふなこし ぎしょう>
 愛称<童名>・タロー。後輩たちは「タローっちー=太郎兄貴」と呼んで親しんだ。タローっちーは、大の電話好き・・・・いや(電話魔)だったことは有名。そして、自分の用が済めば、あるいは、話のネタが尽きそうになると、こっちの都合なぞ気にもとめず、一方的に電話を切る(特技)の持ち主だった。(・・だった)と、過去形になるのは、2007年3月5日午前1時20分。急性肺炎のため、入院中の那覇市立病院で亡くなったからだ。
 大正14年<1925>3月10日、那覇市生まれ。中野高等無線電信学校卒。戦後、琉球政府広報課長・琉球電信電話公社秘書課長・同副参事などを経た後、それまで続けていた文筆活動に専念。昭和57年<1983>には、特集「きじむなあ物語」で第5回山之口獏賞を受賞。沖縄タイムス芸術選賞<小説>、沖縄県文化功労賞、琉球新報社賞<文化功労>など多数受賞。著者「なはわらべ行状記」「狂った季節」「スヤーサブロー」「遊女たちの戦争」「戦争・辻・若者たち」等々。それらは、
沖縄の作家・詩人ならではの視座で著された作品ばかりだ。
 琉球政府時代、沖縄タイムス紙に連載された「青い珊瑚礁」「成化風雲録」は、琉球放送ラジオが連続放送劇化。殊に「成化風雲録」では私奴「風根丸」という主人公を演じさせてもらった。俳優津嘉山正種も共演。42年前のことだ。以来、何かにつけて気にとめていただいたタローっちーだったのだが・・・・・。

 「歌は理屈ではありません。心の波動を感性が言葉にし、声に乗せて伝えるもの。それが歌(詩)です」
 茶色にクロトンの葉1枚で装丁された船越義彰著「琉歌・恋歌の情景」は、5月15日ニライ社から出版された。目次=①夢のつれなさや<29首>。②夢のゆくえ<27首>。③かなし面影<27首>。④しほらし思無蔵<13首>。仲風<7首>。著者詠歌・慕情<うむい・15首>。273ページに118首が呼吸している。しかし、タローっちーは、労作を手にすることなく逝ってしまった。
 「はじめて、わたしの水彩画を挿絵に使ってくれたのよ」
 そう弘子夫人は語っているが、夫婦婦随のお二人だっただけに、6枚の挿絵が(恋歌)とともに心に染みる・・・・。

 戦後の沖縄文学界を共に拓いてきた芥川賞作家大城立裕氏は「琉歌・恋歌の情景」の書評に記している。
 「・・・・(船越義彰は)叙情と理論をあわせそなえた詩人であった。・・・・いまにも電話で(この1冊について)語りたい思いがする。
 “思い寄らん遺言 読めば肝あまじ 後生にこの思い届けぶしゃぬ”」
 と、追悼の琉歌を詠んで添えている。
 また、芸能研究家崎間麗進氏は、
 「同じナーファンチュ<那覇人>で、会うとナーファグチ<那覇口。方言>でしか話さなかった。昔の那覇を語れる人がいなくなり、寂しい・・・・」
 と、嘆いた。

 タローっちーは、イユ ティンプラー<魚のてんぷら>が好物だった。
 (アシビーがくーわ=遊びにおいで)の誘いを受けたり、教えを乞うために那覇市三原のお宅に押しかける際、近くの「糸満屋」に立ち寄ると、そのてんぷら屋のおばさんも心得ていて「船越先生んとこで食べるんですね」と、シーブン<おまけ。余分>を5,6個もつけてくれた。
 先輩同輩に思われ、後輩に慕われたタローっちー・・・・。いまさらながら(少年がそのまま大人になった人)のように思えてならない。
 文学とはほど遠いところにいる私ではあるが近々、ティンプラーを持って行って、仏壇に供え、弘子夫人と(噂供養)をすることにしよう。


次号は2007年6月14日発刊です!

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