旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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つれづれ・いろは歌留多 その7

2013-12-20 10:30:00 | ノンジャンル
 「いろは」は、大人子ども誰もが知っていて、覚え易く親しまれているところからさまざまな使われ方をしている。かつては各地に「いろは通り」があり、そこには「いろは書店」「いろは食堂」「いろは湯」などがあって賑やかだった。
 江戸時代。「火事と喧嘩は江戸の花」と言われ、人口増加と繁栄に伴って火事が頻繁に起きた江戸に、町火消が誕生したのはテレビ時代劇「暴れん坊将軍」でお馴染み、8代将軍徳川吉宗時代の頃。町々を地域で分けて「いろは47組」が出来た。この中で(ひ)は火、(へ)は屁、(ま)は磨羅に通じるとして嫌われ、それぞれが百組、千組、万組と呼び代えられた。火事が相手の火消組だけに、縁起が担がれたらしい。その後、再編成されて「いろは47組」をさらに10組に分けたが、ここでも四番組は(死)に、七番組は(質)に通じると忌み嫌われて四番組は五番組に、七番組は六番組に合併したという。徳川吉宗の在位は1684年~1751年。琉球王府時代は城内に防火役人を置いたとされるが、地方では頭役の指令の下、各戸が火の扱いを意識して防火にあたった。
 さて、「いろは歌留多」は“浅き夢見し”の(あ)に入る。

 【あ】
 読み札=アミジャー アミナー アンダチャー
 取り札=ぼうふら おたまじゃくし とかげだよ!
 ぼうふらは言うまでもなく蚊(ガジャン)の幼虫。蚊は世界に約2000種、日本に約100種いるそうな。水溜り、それがたとえ空缶であっても容赦なく産卵する。マラリアは撲滅されたが、蚊そのものはしぶとく生き続けている。下水道が万全でなかったころ町内、村内では「どぶさらい」の日が定められて、少年たちはよく駆り出された。
 おたまじゃくしはよく飼っていた。田んぼや集落のどこにもあって洗濯や水浴び、時には使用後の農機具を洗ったりしたクムヰ(小堀、小池)には大抵おたまじゃくしがいて、両手ですくいあげては持ち帰り、瓶などの器に飼って手が出、足が出、尾っぽが切れて蛙になるまでを観察。少年少女のいい遊び相手だった。
 とかげもまた、世界に3000種生息。しかし、ここで言うとかげは、そこいらの草むらや庭の木々にいるそれ。しかも10センチそこいらの小型を指している。背中は青や黄色の原色なのだが腹部は白、なかにはまだら模様のモノもいるうえに、胴体にヌルヌル感があって、気色がよいものではない。そのせいか飼うこともなく、発見すると棒切れで突っついて嬌声を上げる程度の遊び相手だった。
 (あ)は母音の始めにあって、もっとも発音しやすく共通語、地方語を問わず(あ音)を頭とする言葉は多い。それは名詞、動詞、形容詞等々を問わない。
 *あんまー=阿母。母親。*あばー=成人女性。*あんぐぁ=乙女。*あーまん=やどかり。*あふぁくぇー=貝。*あーけーじゅー=とんぼ。*あんだんすー=油味噌。*あんむち=餡餅。*あんだぎー=天ぷら。感嘆詞。*あきさみよー。*あっさみよー。*あぎじゃべー。*あきとー。*あきさみさみ。*あきとーなー
 これらは筆者が思いつくままの語。読者諸氏もメモを取って(あ音)を拾っていただきたい。

 【さ】
 読み札=サシバ サージャー サンサナー
 取り札=さしば 白鷺 あぶらゼミ。
 サシバは、秋の終わりに新北風(みーにし)に乗って渡り、沖縄に冬の訪れを知らせるタカ科の小型渡り鳥。東北方面から鹿児島県の佐多岬に結集した後、いくつかの集団で沖縄本島や宮古島に1泊、翌日には中国南部、マレーシア、フィリピン、ニューギニアなどへ向かい、熱帯地方で越冬する。
 白鷺は各地の湿地帯や湖で年中見られる。首が長いところから人間でも、人さまより多少頸部の長い人を「さーじゃー首」と形容する。筆者の近所にもこうした御老人がいて、誰が名付けたか「サージャーたんめー=首長爺さん」の愛称があった。おまけにこの御老人は白髪が美しく粋な方だった。

【き】
 読み札=きーびさー きりんまー うむしりむん
 取り札=竹馬 蹴り馬 面白い。
 竹馬は、沖縄では木製が普通。そのことから「木足=きーびさー」と言い、竹製には「だきびさー」と呼び分ける。足の方言は「ふぃさ」「ひさ」。
 蹴り馬は、少年たちの遊び。Aの腰に前から抱きつくBがいて、C以下の数人がBの馬体状態の背中に乗ろうとする。AとBは乗せまいとして前後左右に動く。さらにBは足を後ろに蹴り上げる。蹴られた者は即失格。馬役や軸役と交代しなければならない。結構ハードに動きまわるため、すぐにいい汗をかく。どちらかというと冬場のアウトドアの遊びだった。

 【ゆ】
 読み札=ゆーりー まじむん きじむなー
 取り札=幽霊 化けもの 木の精。
 幽霊は死びとの霊魂が成仏できずにこの世に現れる。大抵は女性のそれが多い。殊に純愛を裏切られた女性が幽霊となって(裏切った男)に怨念を晴らそうとする。徒に恋はすさまじ。
 化けものは、諸々の物体が他の生きものに化けて現れ、害をなす。幽霊は特定の人にしかつかないが、化けものは見境なく襲うから始末に悪い。
 きじむなーは、木の精である。人間に近い子どものような姿形をし、大木、老木を棲家としている。夜、突然現れ寝ている人を金縛りにしたり、多少の悪さはするが、すこぶる愛嬌者。かつて、きじむなーと仲良しだという人を何人か知っている。沖縄が平和だったころの「確かなる幻」である。

 2013年が暮れる。拙文にお付き合いいただいた読者諸氏にお礼を申し上げるしだい。そして、それぞれが「いい午年」を迎えますよう祈念してやまない。

 ※12月下旬の催事。
 *沖縄こどもの国 第18回クリスマスファンタジー'13(沖縄市)
  開催日:12月21日(土)~29日(日)
  場所:沖縄こどもの国

 *第36回摩文仁・火と鐘のまつり(糸満市)
  開催日:12月31日(火)~2014年1月1日(水)
  場所*沖縄平和祈念堂



師走=忘年会・クリスマス雑感

2013-12-09 22:22:00 | ノンジャンル
 巷にクリスマスソングが鳴り渡り、それに煽られたか、沖縄の風も北から吹き、年末の慌ただしさに拍車をかけている。別にこれといって成すこともない私まで気忙しくなるのはどうしてだろう。(世間の慌ただしさに反応できるのは、元気な証拠サ)と、妙な納得をしているのだが・・・・。

 ※忘年会。
 就職した年の12月下旬のある日、初めて忘年会参加の声が掛かった。場所は、当時の琉球新報社編集局長池宮城秀意氏の私邸。記者諸兄をはじめ、各部局の役職者。中には作家、画家など高名な芸術家も列席。20歳の青年には固苦しい宴会だったが、それも酒や馳走が払拭してくれて、したたか飲んだことが、いまでは懐かしい。二日酔いの朝、そのことを男親代わりの兄に話すと(無礼行為はしなかったか)と、念を押された後にひと言あった。
 「貴様も大人になったな」。嬉しかった。
 昭和30年代から40年、50年代までの忘年会会場は(料亭)が定番だったが、随所にホテルやホールが出来るにつれて、宴会は畳座から立食形式に移行していった。
 先輩の話を聞けば、戦前の忘年会はそれなりの人たちが、那覇の花街「辻=チージ」に集まり、綺麗どころをはべらせての歓談はもちろん、歌三線、踊りありで「それは賑やかだった」と回顧する。それは公人やその関係者の宴。庶民的は、暮れも差し迫った日、それぞれの稼業で使う道具類を磨き、手入れして、座敷や床の間に飾り、一家そろって酒肴を共にした。つまり、1年間の労働を慰労、それに感謝する催事だったそうな。忘年会は、この1年を忘れるのではなく、むしろ過ぎし日々を振り返って確認しあう行事。(自分の年齢を忘れる)(過去を忘却する)宴ではないようだ。
 私はもう忘年会をひとつこなした。年内にもうふたつほど声が掛かっている。仲間に入れてもらえるのは嬉しい。

 ※クリスマス。
 「西洋にはイエス・キリストさまという偉い方がいて、12月25日、世界中の子どもたちにキャンディーや絵本の贈り物をしてくれる」。
 昭和20年、小学校1年生の少年は、そうクリスマスなるものを先生からそう教わった。また、近くに急造の木造教会があったおかげで、クリスマスには早く馴染むことができた。教会が開く日曜学校にも、時折かよった。それも11月後半から12月25日までは欠かさず出かけ、神妙に讃美歌を歌い、牧師さんの説教を拝聴していた。おかげで讃美歌の5曲10曲は、いまでも口ずさむことができる。が・・・・説教内容はまるで覚えていない。12月24日、25日にもらえる(イエスさまからの贈り物)目当ての(アーメン!)だった。長じてもそうだった。厳粛な生誕祭であることを無視して(飲めや歌えや!)を繰り返してきたクリスマス。イエスさまは許して下さるだろうか。不遜をお詫びしてやまない。
 20年ほど前、ヨーロッパを旅した際、ガイドをしてくれたパリ大学留学の日本人学生が言っていた。
 「留学生にとって12月は寂しい。この時季、地元の学友たちは皆、夕食は各家庭で家族揃って摂る慣わしで外出を控える。教徒ではない日本人のボクは語る人がなく、ひっそりとアパートで夜を過ごすのですよ」。
 本来、クリスマスシーズンは家庭単位で過ごすものらしい。
 いまや巷には讃美歌どころか、ハイテンポにアレンジされた「ジングルベル」や「赤鼻のトナカイ」が流れ、パーティーを楽しむ若者たちはAKB48を歌いまくっている。日本のクリスマスはイエスさまを抜きにして賑わっているが、これも日本文化?なのだろう。
 
 沖縄の新聞に見るクリスマス裏話をしよう。
 *昭和22年。
 この年、日本本土で公休日を新しく制定した。これにならい琉球民政府では12月8日付で、有給休日として次の通り民間に指令した。
 *元旦=新暦の1月1日。
 *4月24日=琉球民政府創立記念日。
 *5月30日=戦死者慰霊祭。
 *7月4日=米国独立記念日。
 *旧暦7月15日、16日=旧盆。
 *12月25日=クリスマス。
 ◇ただし、4月24日は、民政府より給料を受けている者に限る。

 *復帰前後。
 クリスマスに異教徒の住民が浮かれ出すようになったのは昭和24、5年ごろから。沖縄一の歓楽街、那覇市牧志の「桜坂」は「酒徒の聖地」となり、昭和30年前後からは、トンガリ帽子を被った者たちが横行した。そのブームも47年の日本復帰の年まで。それ以降はクリスマス景気は衰退。不夜城・桜坂は衰退してしていった。

 *コザ暴動事件。
 昭和45年12月20日に起きた米軍と民間人が衝突したコザ暴動事件を受け、米軍はAサイン業者が密集しているコザ市内のゲート通りをオフ・リミッツ(米兵立入禁止)にした。例年ならクリスマス景気に沸いた基地の街は「電気代にもならない」と軒並みネオンが消え、不気味に静まりかえった。基地の街にとって「生活が破壊された」その年のクリスマスだった。

 かくて今年も忘年会、クリスマス。
 読者諸氏はどんなクリスマスをなさるのでしょうか。私はと言えば、孫の招待に応えて、オーダーのプレゼントを携えて行く。俄かサンタが分相応というところ。ともあれ、それぞれのクリスマス・・・・。

 ※12月中旬の催事。
 第15回いとまんピースフルイルミネーション(糸満市)
 開催日:12月16日(月)~2014年1月3日
 場所:糸満市観光農園



琉歌・雪へのあこがれ

2013-12-01 10:01:00 | ノンジャンル
 「もう雪。炬燵頼りの半年を過ごさなければならない。ふるさと沖縄を恋しがる日々・・・・」云々。返事をする。
 「こちらは霜さえ降りず、そちらの冬景色が羨ましい。冷蔵庫ぐらしに入ったわけだ。それが年が明けると冷凍庫暮らしになるのだろう」。
 それに対する返事は「チェッ!」のひと言。北国に住む友人とのメールのやり取りである。日本列島は南北に長いせいだろう。
 このところの挨拶言葉はこうだ。
 「シービークなたんや=薄ら寒くなったね」。
 あるいは「肌持ち ゆたしくなたんや=(長い暑さがようやく遠退き)肌持ち=肌に快い、いい気候になったね」。この「肌持ち=はだむち」なる言葉は、春3月、冬が行き、周囲が明るくなったころにも使う。
 霜が降りるのも年に数度。霰(あられ)にいたっては、よほど寒波の厳しい年でなければ降りず、降ろうものなら新聞のトップを飾る。まして、雪はまったくなし。もっとも昔々、北部地方の山頂に「雪の結晶」を確認したという話はある。しかし、それも定かではない。
 それでも、ないものねだりだろうか「雪」とういう言葉は「白いもの」を言い当てるのに多々引用されている。
 *雪ぬ真米=ゆちぬまぐみ。真っ白な米。豊作の意。
 *雪ぬ色ぬ歯口=ゆちぬいるぬはぐち。白い歯並び。
 *雪白髪=ゆちしらぎ。美しい白髪。
 *雪ぬ真肌=ゆちぬまはだ。白い肌。

 琉歌の中の「雪」を拾ってみよう。

 ♪春ぬ初花ん 秋ぬ夜ぬ月ん 忘してぃ眺みゆる 雪ぬ清らさ
 <はるぬ はちはなん あちぬゆぬ ちちん わしてぃ ながみゆる ゆちぬ ちゅらさ>

 歌意=春に咲く花も美しい。秋の夜の月も美しい。それらを忘れて飽きずに眺め、見とれてしまうのは雪景色である。
 詠み人は義村王子(1763~1821)。名は朝宜(ちょうぎ)。父は第二尚氏王統14代目・尚穆王(しょう ぼく)。王子は王府の高官として行政に携わり「和文に通ず」とされることから推察するに、和文書から「雪」を読みとって、琉歌にしたのではないかと考えられる。
 「雪」1語は、琉球と大和の交流を濃密に示していると言えないだろうか。

 ♪降ゆる雪霜ん 与所になち語る 埋ん火ぬむとぅ 春ぬ心
 <ふゆる ゆちしむん ゆすになち かたる うんじゅびぬ むとぅや はるぬくくる>

 *埋ん火=火種を絶やさないように、竈や火鉢の中に被せた炭火。この場合は、火鉢そのもん。
 歌意=外は厳しい寒さ。外の雪霜を与所ごとにして、親しい人が相揃い、暖をとりながら歓談をする。心身ともに温かく、春の心地そのものである。
 詠み人は護得久朝常(ごえく ちょうじょう。1850~1910)。公儀の平等等学校所(ふぃらがっこうじゅ)奉行などを歴任した教育者・歌人。琉歌はもちろんのこと「沖縄集二編」に66首の和歌を残している。

 [余談]
 我が家には火鉢はない。炬燵もない。夏用に冷暖房器は設置しているものの、暖房はつけない。つけなくても冬は越せる。沖縄に生まれた至福と言うべきだろう。しかし、終戦直後の幼年時代はそうはいかなかった。なにしろ、家屋は仮設住宅。春、夏、秋は過ごせても冬は(南国)とは言え寒かった。隙間風が容赦してはくれなかった。米軍が捨てた小型ドラム缶を半分に切って、親父が作った火鉢があるにはあった。それも、1年でもっとも寒い1月下旬から2月いっぱいの使用。夜間だけ炭火が入る。我が家だけがそうだったのではなく、当時は皆、平等に貧しかったのである。大人たちは生活を支えるのに精いっぱい。火にあたる暇はない。漸く夜になっても、暖をとるのは年寄りと子ども。父と母は火鉢の傍らで下駄の鼻緒作りの内職をしたり、これまた米軍払い下げの布などで、それぞれの着衣を縫っていた。皆、黙って冬の夜を過ごしていた。前記の琉歌のように「埋ん火」を囲んで歓談するようになったのは、ずっと後のことになる。

 ♪梅でんし雪に 詰みらりてぃ後どぅ 花ん匂い増する浮世でむぬ
 〈んみでんし ゆちに ちみらりてぃ あとぅどぅ はなん にうぃます うちゆでむぬ

 *でんし=ナニナニでさえ。ナニナニも。
 歌意=美しく香り高い梅でさえ、長い冬の雪に耐えて色も香りも増し放つのである。まして人間、いかなる艱難辛苦をも乗り越えてこそ、願望成就は達成される。それが浮世、人生そのものだ。
 この1首は、舞踊「松竹梅」の(梅の踊り)に用いられている。
 「松竹梅」は、大正元年(1912)舞踊家玉城盛重(たまぐすく せいじゅう。1868~1945)によって振付けられた群舞。踊り手が頭に松、竹、梅、そして鶴、亀をあしらった被りものを乗せて踊る祝儀舞踊だ。初演では松竹梅の三者で踊られたが、後に鶴亀が加わり五者になった。音曲も八重山の歌をふくむ7節の構成になっていて、見応えのある演目。

 北国は雪という。
 私が何日か経験した北国の冬は「寒い!」というより「痛い!」だった。しかし、雪国の方々はそれを受け入れざるを得ない。この原稿を書いている11月末の私は、部屋の窓はさすがに閉めているが、短パンにTシャツだ。申し訳ないが「梅でんし雪に・・・・」の1首のように「忍耐」の2文字に徹して、梅が花をつけ、桜が咲時節を待っていただきたいとメッセージするのみである。

 ※12月上旬の催事。
 *第26回名護・やんばるツーデーマーチ
 開催日:12月7日(土)~8日(日)
 場所:名護市内一円

 *第25回ぎのわん車いすマラソン大会
 開催日:12月8日(日)
 場所:宜野湾市海浜公園スタート