旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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梅雨・海鳥・暮らしの歌

2011-05-20 03:58:00 | ノンジャンル
 “雨<あみ>どぉーゐ モーチーチャーチャー 慶良間ぬ後<くし>から 晴りてぃ呉みそぉりっ!” 
もう歌われなくなったし、歌ったひとも少数になった那覇のわらべ唄である。
 せっかく外での遊びに興じていたのに、雨が降りだし遊びを中断されてしまったわらべたち。集落の広場なら必ずと言っていいほど、そして広場の主のように立っていたガジマルの老木の下や、近くの家の軒下に駆け込みながら呼ばわった。
 “雨だぞうッ!モーサー<人名>チャーチャー<おじさん>。早く隠れないと濡れちゃうよッ!(そして)雨よ。(南西に位置する)慶良間島の後ろの方から(徐々に)早く晴れておくれよ”。
 遊び仲間でもないモーサーチャーチャーにまで、声を掛けたわらべたちの心根が嬉しくなる。自分たちが遊んでいた広場の近くで仕事に夢中になっている彼にも、雨を避けるように促すことを忘れてはいない。「慶良間の後ろから徐々に晴れておくれ」と、願望したのは那覇の気象を知っているからだ。夏と冬では方角は異なるが、那覇の夕陽が沈むのは慶良間の後方であり、雨も風も大抵は西から降り吹き、止むのも常とする。
 那覇には、西の海が鳴りだすと「ウァーチチ<天気>が崩れる」という民間天気予報がある。したがって、いかに大雨でも慶良間諸島のさらに後方の空が明るくなると「雨は上がる」ことを那覇わらべたちは知っていたのである。
     
 いまでは、西の海の騒ぎなぞ街中の喧騒に昼夜問わずかき消されて聞こえないが、かつてわらべだった大人たちは、そのことをいまでも口にする。また、海鳥が山に向かって飛び始めると海は〔時化る〕とも言う。これは、いまでも変わらない。
 カモメの沖縄口は、地方によってはあるかも知れないが、私はしらない。海鳥はすべてウミドゥイと称してきた。白い海鳥を歌った節もある「白鳥小=しるとぅやーぐぁ」「白鳥節=しらとぅやーぶし」がそれだ。
 “御船ぬ高艫に 白鳥が居るちょん 白鳥やあらん ウミナイ御霊
 この歌の場合「御船」は〔ふ〕を省略して〔うに〕と発音する。尊敬・美称だけに〔御船〕は漁船ではなく王府時代、唐や薩摩に派遣される役人を乗せた公船を指す。
 航海中の御船の高艫に白い海鳥が羽を休めてか止まった。いやいや、あれはただの海鳥ではない。航海の安全を守護するウミナイ神だ、と歌っている。
 「ウミナイ」は「姉妹」。御霊=ウシジ=は、霊魂のこと。一家の男たちの長旅の航海の無事を加護・守護するのは〔姉妹神〕と信仰されていて、このことを背景にして詠まれた。一種の祈り歌と言えよう。

 海や沼地に生息するサージャー<白鷺>も、風向や天気を予測してくれる。
 八重山は西表島の1集落租内<そない>の前海にある岩礁のひとつ、通称「まるまぶんさん=まるま盆山」は、シルサイ<八重山方言・白鷺>の休息場・ねぐら。そのシルサイがどんな恰好で、どこを向いて羽を休めているかを見れば、風向や天気を予測することができると島びとは言い伝え、島うた「まるま盆山節」に読み込んでいる。丸く盆のような形をした岩礁なことから、この名称が付いている。そして歌は、
 “阿立=あだてぃ・大立=うふだてぃ・宇嘉利=うかり・下原=そんばれ・そんばる・真山=まやま・内道=うちみち・成屋=なりや・舟浮=ふなうき”と、近隣の集落名を並べて歌い、さらに
 ※租内の津口<ちぐち・港口>に浮いているミティン木<目印の木・浮標・ぶい>の上には、餌の魚を狙ってアタグ<海鵜>がいる。
 ※(夕刻になると)点在する島々の間の水路を通って、漁に出ていた舟が、舟人たちの掛け声も勇ましく、櫓や櫂を操って港に帰ってくる。平和な情景であることか。
 と続く。
 海でもアギ<陸>でも人は、生きものと暮らしのリズムをともにしたことが、この「まるま盆山節」からも感じられる。

 八重山語のシルサイは、那覇方言ではサージャーと称している。
 少年のころ、近所に住んでいたおじさんは、普通の人よりも頸部が長かった。誰に教えてもらうでもなく少年たちは「サージャーおじさん」と呼んでいた。
 白鷺のように首の長い人間はまずいないが、そうあだ名されていた。少年たちは何の悪意もなく「サージャーおじさん」と、声を掛けると「ぬーが=なんだい」の返事が気さくにあった。きっとおおらかな性格の〔いい人〕だったに違いない。が・・・・いまもって本名を知らないでいる。

 シトシトと飽きずに降る雨もいとわず、放し飼いの鶏が餌をついばみ回ると、その雨は「長引く」と言われてきたが、昨今は放し飼いの鶏なぞ、ついぞお目にかかることはなくなって、梅雨情報はもっぱらラジオ・テレビに頼っている。6月上旬までは降り続くだろう。それまでは雨とも仲よく付き合うことにする。

   


自然の驚異・シガリ波

2011-05-10 00:30:00 | ノンジャンル
 「3月11日午後2時46分。ラジオ・テレビの速報に接したときは『またか。地震国日本だな』程度に聞き流していたが、短い時間をおいて大津波の発生を知り、動転せざるを得なかった。すぐに現地の惨状がテレビ画面に映し出されるや、昭和19年10月10日の大空襲。そして翌年4月1日のアメリカ軍の沖縄上陸による激烈な陸上戦。跡形も残さない瓦礫の山と化した那覇の街と東日本の惨状を重ね合わせてしまい、身の毛のよだつ思いをした。戦争は人間がしでかした悪行。その責任追及は、いまもってなされているが、大自然による壊滅的現状は、どう責任追及をすればよいのか・・・・。相手が自然では、人間なぞ手も足も出ない。ただひとつ、被災者の立場になって私が出来るのは、募金活動しかない、その募金も、金銭はあっても必要なモノが波に飲まれてしまっては、どれほどの役に立つのか・・・・。しかし、いずれは何らかの形で一助になるであろうことを信じて、街頭に出ているのだよ」
 学生や各種団体のメンバーに加わって募金呼びかけをしていた老人は、連日の疲労のせいか、しばしビルのカゲに身を休ませながら、そう話していた。いまほど、国民の心がひとつになったことが、かつてあっただろうか。
 神仏にもすがりたい気持ちであるが、このたびの大震災からひと月後「ナーバイ」という伝統的祈願祭が宮古島でなされた。4月12日のことである。
 「ナーバイ」とは〔縄を張る〕の意。海と陸の境にワラでなった縄を張って一線を画し島にシガリ波<津波>が打ち寄せないよう祈願する祭祀である。この日、宮古島市城辺(ぐすくべ)・砂川の上比屋山(ウイピャーヤマ)周辺では、女性たちが円陣になり、手踊りをしながら海神を鎮め、五穀豊穣を祈った。

 今年のナーバイは、東日本大震災のひと月後の開催とあって、一段と想念を蜜にした。一方、男たちは上比屋山に立てた祈願小屋の前で悪霊払いの棒を持ち、船漕ぎを模した動作に合わせて神歌を謡った。ナーバイの発祥は1771年、八重山・宮古両諸島を襲った〔明和の大津波〕にあるとされる。ナーバイに参加した人たちは「粛々と伝統祭祀を行う中、今回は東日本の大震災を強く意識した。これを教訓として、今後も年に1度は防災に対する意識を持続していきたい」と話している。

 巷間に伝わる昔ばなしとともに、明和年間に八重山、宮古を襲った世にいう「明和の大津波」について記そう。
 昔。自然と人間が融合していたころの昔。
 漁で暮らしを立てていた石垣村に奇妙なことが起きた。海から女の歌声が聞こえる日が何日も続いたのである。
 「あれは、人間の歌声かッ。それとも海の魔物の声かッ」
 村の人たちは戦々恐々としながらも合議の結果、声のする沖合の岩礁周辺に魚網を張って、歌声の主を捕獲し、正体を見極めることにした。待つこと2日、3日。ついに歌声の主は網にかかった。見るとそれは、上半身は長い黒髪の若い女性だが、下半身は尾びれのついた魚だった。
 「おおッ。これはまぼろしの魚ザン<ジュゴンの方言名>ではないか。ザンの肉は不老長寿の薬と聞く。さばいて食そうではないか」
 衆議一決。ザンを陸地に引き上げようとしたとき、ザンは言った。
 「お待ちください。もし、命を助けてくださるならば今、海の底で起きつつある大きな異変を知らせましょう。この島が壊滅する一大事が動き始めているのです」
 島の一大事とは聞き捨てならない。海へ返すことを約束して、ザンの話を聞くことにした。
 「この島のはるか南の海の底が動き出し、やがてシガリ波がやってきます。刻限は明日の朝。すぐにオモト岳に避難してください」
 シガリ波と聞いては安穏としてはおれない。人びとはザンを解放するや、島中の鳴り物という鳴り物を打ち鳴らし、シガリ波の襲来を告げ、沖縄一高いオモト岳<海抜525・8㍍>に避難した。果たしてシガリ波は、ザンの予告通り島を襲ったが、ザンのおかげで多くの人の命が救われた。

 昔ばなしはそう語られるが、事態は生易しいものではなかった。
 明和8年<1771>。琉球は尚穆王<じょう ぼく=1739~1794>時代。
 4月24日午前8時ごろ。八重山、宮古両島をかつてない大津波が襲った。標高のほとんどない平地の珊瑚礁からなる島々は、3度に及ぶ津波に言葉通り飲み込まれた。震源地は、石垣島の南南東40㌔。規模はマグニチュード7.4。波高は、石垣島宮良牧中で85.4㍍。島の4カ所で東から西へ怒涛が横断。遭難者は、石垣島8439人。宮古島2543人。両諸島共に女、子どもの死者が多かった。そのため、八重山の人口は、100年後の明治初期まで減退が続き、津波前の人口に回復したのは148年後、つまり大正8年<1919>のことだったと記録にある。
 このことから今、われわれは何を学習、会得すべきか。考え続けていかなければならない。東日本はもちろん、日本国の国難の時はこれからだからである。




食材・正しい食した方

2011-05-01 00:30:00 | ノンジャンル
 5月5日を待ち切れない鯉のぼりたちが、公園や小学校の校庭、地域の河川、広場、個人の屋根の上の中空を泳いで薫風を誘っている。
 かつては、この時期になると農村に「鶏法度=とぅゐ はっとぅ」のフリー<布令>が出された。風が南にまわったころ、鶏の放し飼いを禁ずるフリーである。農家では「穀雨」の前後、畑がウリー<潤い>したこの時期、一斉に穀物の種を蒔く。中にはみどり葉を出し始めたモノもある。これらは、鶏にとって最高の馳走なわけで、喜び勇んで農地に入り若葉を腹いっぱいついばむ。この行為は農家にとっては、たまったものではない。そこで申し合わせて決めたのが「鶏法度」。この鶏害防止法は、遠く王府時代の後期に施工されていたと言う。このことは実施されると同時に離島をふくむ琉球中で採用されたそうな。鳥獣類との戦いは、古くから始まっていたということだろう。
 いきなり話は飛ぶが、現在のビニールハウス栽培は「鶏法度」にもヒントを得たのではなかろうか。
 われわれは、大地と海の恵みを受けて歴史を刻んできた。さらには、この海の幸山の幸に創意工夫を加えて食し、命を繋いできたとも言える。いやいや、大仰ことを言うつもりはない。〔食〕に関する古言を紹介したくて、こんな書き出しになっただけ。容赦。
 食材には、それぞれの料理法・食べ方があるものだが日常、口にしているモノの旨い調理法のひとつに、次のような古言、俗語がある。
 ※スクや頭<ちぶる>がから、マーミナや半殺し、ゴーヤーや丸殺し。
 *語意=スク<小魚名。和名アイゴの稚魚>。*マーミナ<豆菜。もやし>。ゴーヤ〈苦瓜〉。
     
       ゴーヤー 
 スクを食する場合は、尾っぽの方からではなく頭部から口に入れよ。スクの背ビレのトゲは鋭く、尾部から口に入れるとトゲが逆立ってノドに刺さりやすい。(スクチブルから)を心得よ。マーミナは90%は水分。したがって、十分な火は通さず「半殺し=はんぐるし」半煮の方が美味。マーミナとは逆にゴーヤーは、十分に炒める「丸殺し=まるぐるし」調理法をすすめているのだ。
 とは言っても、必ずそうしなければならない法はない。マーミナゴーヤーもナマのまま、スネー<和え物。スーネーとも言う>にすると旨く、酢の物・味噌和えはサッパリした食感が楽しめる。それを半殺し、丸殺しなぞと野蛮とも思える表現をしたのは、なにごともいささか誇大な物言いをする那覇っ子に違いない。

 ひと月もすると水揚げのシーズンを迎えるスクについて、いま少し記そう。
 スクは、毎年旧暦6月1日の大潮に乗って珊瑚礁域に押し寄せてくる。一帯が黒くなるほどだ。時期を違えずやってくるスク。漁村では、中潮から大潮にかかる日には、海浜に見張り小屋を設けたり、あたりを一望できる台地に見張り番人を常駐させて、スクの動向を監視する。いざ、沖合の波が黒く盛り上がるほどのスクの大群を発見すると、番人は「スクどぉーゐッ!スクどぉーゐッスクだぞぉーッ!スクが寄ってきたぞぉッ」と呼びまわって人びとに知らせ、スク網を張って捕獲する。時には、スク網だけでは間に合わず、バケツなど、とにかくスク獲りができるあらゆる容器を道具としてすくう。ただし、手掴みは厳禁。2~3cmの図体ながら、背や尾のトゲは外敵から身を守る武器だからヤバイ。水揚げすると、すぐに塩漬けされる。獲りたてのままでも結構イケるのだが、塩漬けは「スクがらす=辛塩」、つまり塩辛にして日持ちさせる。好きな人は〔スクがらすだけで、飯3杯はいける〕と言う。また、ナマの島豆腐の上にコーレーグス<高麗薬。唐がらし>を利かせたスクがらすを乗っけると泡盛のアテによい。
     
      島豆腐の上に乗せたスク 

 スクは、成長すると〔イェー〕と名を変える。これが和名アイゴだ。
 アイゴは、スヅキ目アイゴ科の総称。体は全体が丸みをおび口は小さく、ウサギの口に似ていることからラビットフィッシュとも呼ばれるそうな。腹びれの前後両端それぞれ1棘<きょく。とげ・針のこと>を備え、背びれに13~14棘、臀部のひれに7棘があって毒腺を有し、刺されるとひどく痛み、高熱を発することもある。太平洋・インド洋の熱帯域に広く分布し、沖縄では13種ほどが確認されている。多くは珊瑚礁域を群れなして回遊し、主に海底の岩礁に繁殖する藻類を食する。河川の下流に生息し磯釣り・岸釣りの釣り人を楽しませてくれるゴマアイゴは他のそれと区別して、川イェーカー>と呼称している。
 スクの成魚イェーは、一般的にマースニー<塩煮>にして食する。多少臭みがあって敬遠する向きもあるが、それは少数派。魚通に言わせると〔それが旨味〕と絶賛する。
 ともあれ食材は、それぞれの好みに合わせて食するに限る。マーミナゴーヤーも例外ではないが、スクだけは先人の食の慣習を尊重して〔チブルから〕食していただきたい。
 かつて、それを軽視したばかりに棘をノドに掛らせて苦悶した経験を持つ私が言うのだから、夢疑うことなかれ。

4月20日の文章で「鷲ん鳥節」が「鶯ん鳥」となっており、訂正してお詫び申し上げます。