旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

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2020-01-31 00:10:00 | ノンジャンル
浮世真ん中、おきなわ日々記は、2020年1月31日をもって終了させていただきます。
長い期間、応援、愛読いただきまして感謝申し上げます。

  上原直彦

詞歌の中の風景

2020-01-20 00:10:00 | ノンジャンル
 沖縄タイムス紙の投稿欄に「茶のみ話」とタイトルするコーナーがある。
 自分に関わる記事を転載するのは、いささか(手前味噌)に過ぎるが、同社編集局の許可を得て紹介することにする。

 {楽しみな琉歌百景}*比嘉典子(76)=沖縄市。

 令和元年10月20日から上原直彦氏の文、名嘉睦念氏の絵による連載「うたを描く・琉歌百景」が始まった。
 『誰が宿がやゆら 月ぬ夜ぬゆしが 弾くや三線ぬ 音ぬしゅらしゃ』。分かりやすい解説で楽しみが、またひとつ増えた。
 30年前、旧石川市に伊波一郎さんという方がいらっしゃった。新聞投稿を通じて知り合いになり、文通していた。手紙の中に「僕は三線のチンダミ(調弦)をする時は、声を出して「チャタン、チャタン、チャタン、チャタンクェーヌメー(北谷、北谷、北谷・北谷桑江ぬ前)と歌います」と書かれてあった・「チャメ!」とはおっしゃらなかった。
 人間生きていく上では、石橋をたたくまではなくとも、チンダミ(三線の調弦・ここでは助走)は必要である。伊波さんは校長を退職した後、「趣味で三線を作ってあるから家を訪ねていらっしゃい」と話されていたので、友人と石川まで行った。頂いた三線は今も大切に床の間に立てある。その頃から三線に興味が湧き、いつか習いたいと思っていた。
 ラジオの番組「民謡で今日拝なびら」には『琉歌百景』のコーナーがあり、時間になるとペンを用意して書き留めている。三線を習って6年目にもなり、琉歌、狂歌も投稿できるようになった。森羅万象皆師。生きてゆく上で無駄な物はひとつもない。
 76歳の私は、山学校したのを埋めるべく今、いろいろと学んでいる。毎月の第3日曜日が待ち遠しい。

 くどい蛇足になるが『うたを描く・琉歌百景』は、毎月第3日曜日に掲載。琉歌集や巷間、庶民の唇に乗った流行り唄の三八六を小生の琴線にふれたモノを選択して、その味わいを読者と共有したいとの発想から生まれた連載。決して「解説」なぞという代物ではないことを明記しておかなければならない。つまりは、上原流の拙文である。
 連載開始と同時に、こうして感想文を頂くとは「こいつぁ春から縁起がいいわぇ!」と、名嘉睦念氏と、密かに乾杯したことだが、浦添市の仲本美津子さん(82)は、小生にとって恐れ多い高名な詩人三木露風の「ふるさとの」を引用して「茶のみ話」に寄稿。たまたま三木露風のこの歌は、承知していて時折り口ずさんでいる一遍。小生の知り人には、それを承知している人はもう皆目と言っていいほどいない。けれども、仲本美津子さんの原稿に「同好の士」を得た思いである。

 {琉歌百景}*仲本美津子(82)=浦添市。


 『誰が宿がやゆら 月ぬ夜ぬゆしが 弾くや三線ぬ 音ぬしゅらさ
 本紙連載「琉歌百景」の「やさしくなれる時間」を読んだ。上原直彦氏の巧みな解説と名嘉睦念氏の版画に引かれ、何度も声を出して読み、味わった。
 月夜は人をやさしくしてくれるという上原氏の文を読み、六十数年前「鳩の浮き巣か」と歌われた小さな島で見た、青の風景と、優しかった島人の姿が思い出された。
 間借り先の部屋で、ランプの明かりを消し、板戸を開けた。青く降り注ぐ月明りに、黒く立ち並ぶ福木の影を眺めた。ゆったりと流れ来るひと節の島うたの笛の音に、人恋しく涙した。
 「ふるさとの小野の木立に 笛の音のうるむ月夜や 少女子は熱き心にそをば聞き涙流しき 十年へぬ同じ心に君泣くや母となりても」。
 三木露風作詞、斎藤佳三作曲の曲である。いまも手元にある1冊の学生歌集の中で出合った歌だ。叙情的な歌詞と8小節の小曲だが、美しく格調高い旋律は、歌い込むほどに郷愁をそそる。
 あの頃覚えた歌で、今もひそかに胸の内で温め持っている。妻となり母となり、ばあばとなりても、口ずさめば、あの頃と同じ心に涙する名曲である。
 「琉歌百景「」の第2回も、わが身にも覚えのある解説が楽しく、読み返し味わった。版画の美童に見とれながら・・・・。

 歌には不思議な力がある。
 ♪兎追いしかの山~小鮒釣りしかの川~夢はいまも巡りて~忘れがたきるふるさと~
 「ふるさと」作詞高野辰之・作曲岡野貞一。兎は追ったことはないが、小鮒(田魚・ターイユ)釣りはよくやった。何かの拍子に「ふるさと」を唇に乗せることがある。それがひとりの場合、決まって目をつぶる。幼い日をともにした「あの顔この顔」が浮かんでくる。通称「村小堀=むら ぐむゐ」と称したお堀が網膜をスクリーンとして「フナ釣り」のシーンがビデオテープのように再生される。それを求めて小生は「琉歌」から離れられないでいるのかもしれない。


自分史をつづる

2020-01-10 00:10:00 | ノンジャンル
 日々感じたこと。共感を得たいこと。経験談、面白ばなしエトセトラ。
 原稿用紙のます目を一字一字埋めていく。なめらかに筆がすすむ折りは、流行作家になったような(自己満足感)があって、誰かに読ませたくなる。
 逆に思いは多々あっても、なかなか筆がすすまない折りは、イライラが昂じて、罪もない原稿用紙を破り捨てる場合がある。自分の文章力のなさを棚に上げて・・・・。
 小生は職業柄、文字をあやつることが(仕事の一部)になっているが、これといった文章を仕上げたことは少ない。いつも(間に合わせ)のやっつけの(モノ書き)をしているからだろう。
 もっとも小生のいう文章は(放送原稿)で、失礼ながら、放送に関わりのない方には、どうでもいい事柄を書いているに過ぎないが・・・・。けれども、それが放送の善し悪しを決める要素のひとつであってみれば、手を抜くわけにはいかないのである。
 これといった文章を書いた場合、誰かに(読ませたい)と思うのは人情だろう。その手段として新聞の論壇、投稿欄は一般の人にとって重宝だろう。

 八重瀬町の幸地忍さん(75歳)は、県内の新聞に意見や提言を投稿するようになってから30年余り。採用された原稿を中心に収録した3冊目の著書『新・校外の曲がり角』を自費出版した。投稿は自分を見つめ直し、視野を広げる機会になると、この数年は小・中学生の孫にも奨励。3冊目は初めて孫たちの作品も掲載して(共著)にしている。
 沖縄タイムス社学芸部・粟国雄一郎記者の取材記事をもとに、そのいきさつを紹介したい。

 『県退職校長会の副会長も務めた元中学校教諭・幸地忍さんの新聞投稿のきっかけは、徳島県鳴門教育大学に学んでいた40歳の折り、高校野球・甲子園大会の常連だった故・蔦文也監督の講演会だった。
 思春期の高校生の精神をいかに鍛えるか、心技体の調和を説く、蔦氏の話に感銘を受け、沖縄タイムス紙に(その感動・感銘)のほどを投稿した。
 以来、なにげない日常の出来ごと、少年非行、基地、米軍人の犯罪などをテーマに現役時代から臆することなく書いてきた。「輝く未来ある子どもたちへ、より良い社会を引き継ぐのは大人の債務。池に石を落とすと水面に波紋が広がっていくように、少しづつ何かが広がればと願っている」としている。
 現役の教員時代も、学級・学年・学務主任、教頭、校長便りなど、立場に応じて生徒や家庭向けに文章を発信してきた。
 自分の書いた原稿が新聞に掲載される時の喜びは格別だという。
 投稿の不採用が続くと、さすがに「気がめいる」というが、掲載されるとあちこちから声が掛り、また元気が出る。令和元年12月5日に75歳の誕生日を迎えたばかり。地域のスポーツ大会への出席や老人会の活動などで忙しい毎日を送っているが「継続は力なり」と、また投稿への決意を新たにしている。
 同署は1冊1320円。問い合わせは著者。090-9527—1003へ。

 小生は幸地忍氏との面識はない。
 ないけれども、自分の日常を赤裸々に吐露し、新聞投稿することは、思いのほか(勇気)が要ることである。世の中は表があれば裏もある。賛成者が居れば反対者も居る。白があれば黒もある。富者があれば貧者もある。これほどさように(両極)をもって浮世の歯車は回っているように思う。そこのところを百も承知で、原稿を書き、投稿を続ける幸地忍氏の努力と勇気に心底、共鳴して、この項を書かせてもらった。
 3冊目が孫との(共著)としたところもいい。本は残る。
 「祖父としての孫たちへの遺産という個人的な思いもある」とする幸地忍氏の洒脱な思いが感じられるし、また「うちの祖父は立派な人」と、リスペクトするお孫さんたちの声も聞こえてくるようだ。
 小生にも6人の孫がいるが、何も遺せないこの爺を、どう評価しているのか?・・・・。恥ずかしいかやら、背中に冷たいモノが走るやら・・・・。

 ◇年ぬ寄てぃてぃやゐ 徒に居るな 一事どぅんすりば 為どぅなゆる
 《とぅしぬ ゆてぃてぃやゐ いたじらに WUるな ちゅくとぅどぅん すりば たみどぅなゆる

 1600年代「琉球の教育振興」に尽力し、「六諭衍義」を著し、庶民向けには「琉球いろは歌」を普及した程順則・名護親方寵文が「琉球いろは歌」の(と)の部に詠んだうたである。
 歌意=自分は齢を取った。もう何もできない。と諦めて徒に生きていてはならない。特別なことではなくても、いま、自分に成し得ることを誠意をもって、ちょっとでもやれば、それは自分のためにも、他人さまのためにも、何らかの役に立つ。
 人生を30年区切りで考えるならば、第1期は「学びの人生」。第2期は「創造の人生」。第3期は「ゆとり奉仕の人生」。これを理想とするそうな。
 小生も「何かひと事」をやりたいのだが、何をしていいやら皆目、当てがない。歳は十分持ち合わせているが、まだ第1期の「学びの人生」を歩めっ!ということか。


子年がやってきた

2020-01-01 00:10:00 | ノンジャンル
 十二支が始めに戻った。
 日本風には、*子(ね)*丑(うし)*寅(とら)*卯(う)*辰(たつ)*巳(み)*午(うま)*未(ひつじ)*申(さる)*酉(とり)*戌(いぬ)*亥(い)と漢字を当ててい、中国読みをすれば、
*子(し)*丑(ちゅう)*寅(いん)*卯(ぼう)*辰(しん)*巳(し)*午(ご)*未(び)*申(しん)*酉(ゆう)*戌(じゅう)*亥(がい)としているそうな。
 それをまだ、読み書きが一般的でなかった時代、庶民が覚えやすいようにと、*鼠、牛、虎、兎、龍、蛇、馬、未、猿、鶏、犬、猪にしたという。
 蛇足ながら、沖縄読みをすると、
 *にぃ・うし・とぅら・うー・たち・みー・んま・ふぃちじ・さる・とぅい・いん・ゐーと発音する。

 十二支は世界で使われているかというと、そうではなく仏教国、主にアジア圏の慣習のようだ。その国とは日本を始め中国、台湾、韓国、チベット、タイ、ベトナム、ロシア(一部)、モンゴル、ベラシールなどなどといわれるが、今日でも使用されているかどうか、興味深いところ・・・。
 成り立ちについては、古代インドで仏を祀る十二宮に仕える十二獣のことと伝えられる。
 西洋では、天文学の発達にともない「星座」を生れ年に当てたりしているのはおもしろい。

 ではなぜ、数いる獣の中で「子・ねずみ」が先頭なのか?
 これについては昔ばなしがある。

 昔々。人間も仲よく暮らしていたころの大昔。
 この世を支配する天帝から呼び出しがかかった。
 「今日より10日後の日の出までに天宮に集まるように」。
 それを知った牛は(自分は足が遅いから、早めに出かけなければならない)と、期限の5日前から歩みだし、天宮に向かった。鼠は鼠で(私は長距離に弱いから)と、これまた早めに出掛けた。心掛けのよい牛と鼠。道中で出逢った折り、牛が言った。
 「鼠さん、鼠さん。あなたの足では遠い天宮までは辛かろう。わたしの背中にお乗りなさい。どうせ行く先は同じなのだから」
 「そうですか。ご親切に。そうさせてもらいます」
 鼠は牛の角につかまり、ゆられながら天宮に向かった。他の獣たちも、それぞれの都合、脚力に合わせて遅刻しないよう出掛けることだろう。
 さて。
 天帝が定めた時刻になった。
 牛は「わたしが一番乗りだ」とゴールインしようとした時、ひょいと牛の背中から飛び降りた鼠、実に鼻の差で「一番乗り」を認められた。牛は2番目。さらに(一夜にして千里を走る)といわれる虎が3番目、4番目に到着したのは、これまた足に覚えのある兎。こうしてゴール順に12番目までが十二宮の守護を拝命することになったとサ。

 はたまた。
 鼠が十二支に入っているのに、どうして「猫」が入っていないのか?これにも深い事情がある。
 猫と鼠。大昔は家に居ついたモノ同士、実に仲よく暮らしていた。
 天帝からの呼び出し日時をつい聞きそびれた猫は鼠に訊いた。
 「鼠よ鼠。集合日はいつの何時だったか教えておくれっ」
 それに対して茶目っ気をだした鼠、一日遅れの刻限を教えた。別に他意はなかったのだが・・・。
 猫はそれを聞いて安心し、(まだまだ日にちもある。ゆっくりできるわいっ)と、たかをくくり、温かい竃の傍でぬくもり、十二分に居眠りを養った。そして、鼠に教えてもらった日時に天宮に出掛けた。ところが、期限は昨日のこと。遅刻なぞというものではない。他の動物たちには笑われるし、天帝からは大目玉をくらうし、散々な目にあった。
 「鼠奴っ!オレに一日遅れの制限を教えやがってっ!許せんっ!」と、怒り狂った猫は以来、鼠を終世の(敵)としたとサ。

 昔ばなしはこれくらいにして・・・・。
 小生は十二支を幾度回しただろうか。12に幾つ掛け算すればよいか?還暦を済まして結構、年数を経た。思ってみても正直、恐ろしい時間が経っている。もう、自分の年齢を数えるのはよそう・・・・。
 『正月や冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし』
 なぞと(わび・さび)にひたるか、それとも、
 『老いぬれば頭は禿げて眼はくぼみ 腰は曲がりて足はひょろひょろ』
 と言いつつも、世にはばかってみようかなぞと思いつつ、自分なりの子年を開幕した。


連載・うたを描く=琉歌百景

2019-12-20 00:10:00 | ノンジャンル
 「ヤッチー。琉歌を選定、もしくは詠んでください。版画で表現してみたいのです」。
 いつのころからか、ボクのことを「ヤッチー」と呼んでくれる画家・版画家名嘉睦念が言い出した。それはほんの雑談の折りだった。ものごとに乗り易い小生。
 「いいね、いいね」と、軽く同意したのがことの始まり。。半年も前のことになるか。小生は(軽く)だったが、彼は思いのほか(重く)とらえていて、そうそうに沖縄タイムス社編集局に持ち込み、連載を散りつけてきたのである。
 「琉歌をどう版画にするのか?」
 小生は小生で生来の(意地悪心)を疼かせて、内面描写の三八六を選び、数月分を書き、彼に渡した。そしてそれが具体化して、令和元年10月20日の連載開始となった。「瓢箪から駒」と言っては沖縄タイムス、名嘉睦念に対して失礼に当たるが、軽い気持ちでやらかした所業。けれども初めてみると、(なまはんかなことではない)ことに気づき、気合いを入れて取り組まなければならないと、考えを改めている。
 沖縄タイムス社及び名嘉睦念の了解を得て、掲載分を転載させていただくことにする。

 ※うたを描く『琉歌百景』。文・上原直彦。絵・名嘉睦念。その①。「やさしくなれる時間」。

 『誰が宿がやゆら 月ぬ夜ぬゆしが 弾くや三線ぬ 音ぬしゅらさ
 《たが やどぅがやゆら ちちぬゆぬゆしが ふぃくや さんしんぬ うとぅぬ しゅらさ

 月に誘われて散歩に出てみた。すると、どなたの住居か知らないが、三線の音が漏れ聞こえる。夜もすがら・・・・。つと立ち止まって耳を傾ける。吹く風よし。月の灯りよし。三線の音色よし。なんとも奥ゆかしく、その場を立ち退くことができなかった。
 漏れ聞こえる三線は一丁だったに違いない。複数丁ではにぎやかに過ぎる。では、奏でている歌・節は何か。古典音楽の「諸屯節=しゅどぅん」か、二揚りの「五節」か。島うたならば「下千鳥節」「なーくにー」「とぅばらーま」「伊良部とーがにー」などなどだろう。カチャーシー類では漏れ聞く人の歩調も速くなり「月に誘われて・・・」の情緒が薄くなるだろう。
 一般的に月を意識するのは「秋」とされるが、どうしてどうして、沖縄の月は四季を通して清かだ。
 ただ昨今は世の中が多種多様であるせいか「夜空を眺める」よりは「ウンチントゥー=うつむいて」していることのほうが多いような気がする。
 月夜は人をやさしくしてくれる。小生のようなガサツな男でも夜、ちょっと風を通そうとガラス戸を開ける。風とともに月明りが入ってこようものなら、部屋の電気やテレビなど光ものを消して1時間、2時間を夜空と付き合うことがある。過ごしてきた年月分というか「あの時この時」のことなぞを昨日のようによみがえらせながら、つと、涙ぐんだりする。その時の小生は客観的にみて真人間になっている。いとおしくなって自らを抱きしめたくなる。
 月を見上げて涙ぐむ老いの身の図は「絵」にはならないだろうが、そんな時間があってもよさそう・・・・なぞとひとり悦に入っている。

 ※うたを描く『琉歌百景』その②。「動かぬ絵画の雄弁さ」。

 『絵に描ちゃい置きば 面影やあしが 物言い楽しみぬねらん辛さ
 《ゐにかちゃゐ うきば うむかじや あしが むぬい たぬしみぬ ねらん ちらさ

 思いびとの似顔を描いて持っていれば、いつでも面影をしのぶことができる。一心同体感がある。けれども絵はしょせん絵。愛の言葉を交わすことはかなわない。表情も静止したまま・・・。会話の楽しみがない。それだけに恋しさ切なさは倍増すると詠んでいる。
 劇聖玉城朝薫の組踊「女物狂・一名人盗人」にも「覚書・人相書き」を読み上げる場面があるから、王府時代の士族社会の恋人たちの間では、互いに似顔絵をふところにしのばせ合うのがはやっていたやもしれない。
 昭和30年代に青春を過ごしたボクのころは、好きな人の写真をひそかに手に入れて手帳などにはさんで持ち歩いていたものだ。好きな女優のブロマイドを収集する遊びもはやっていたのも懐かしい。
 いまでは琉球舞踊界に名を刻んでいる女性、Kさんにはこんなエピソードがある。
 沖縄タイムス社主催の当時「芸術祭」と称していた「舞踊の部・新人賞の部」で「伊野波節」を踊った折り、紅型衣装の下のふところ深くに彼氏の写真をしのばせて踊った。同節の歌詞が「逢わん夜ぬ辛さ 他所に思みなちゃみ 恨みてぃん忍ぶ 恋ぬ慣れや」であってみれば、若いKさんの踊り心を一段と高揚、昇華させたに違いない。
 絵画については(〇)さへもまともに描けないボク。絵の描ける人を心底、リスペクトする。友人に画家が何人かいて、彼らからの仕入で絵画について能書きをたれることがある。ボクが絵画から感じ取ることができるのは「絵は口ほどにものを言う」。このことである。