いつだったか・・・・。遠い日の幼年のころ、おふくろに訊いたことがあった。
「ボクが赤ん坊のころ、カーチャンは子守唄を歌ってボクを寝かせたことがあったか?」
おふくろは、ちょっと眼を泳がせた後、「あったよ。殊にお前は『夕さんでぃ、泣ちぶさー(ゆさんでぃ、なちぶさー=夕暮れになると決まって泣く子)だったから、手こずったよ』と、さりげなく問いかわして、ボクを安心させてくれた。
実際はどうだったか?長じて考えたことだが「戦争中のこと。おそらく子守唄なぞ歌うほどの心の安寧は得られなかったのではなかったかと、思いを察するのである。
「子守唄」。
童唄とは区別しがたい。純粋に(幼児を寝かせる)ためのそれと、雇われた子守やー(クァムヤー)の遊び唄があるからだ。さらに伝承された唄の他に、子守やーが即興で口にしたそれが、今に残っているのがある。
「日本の一番長い日」などと称される8月15日を過ごしたせいか、八重山で歌われた共通語による「子守唄」を思い出した。
{愛の子守歌}
♪坊やの父様どこにいる ツィンダラホイ
あの海越えて南の小島におわします
ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな
八重山ならではの共通語による子守唄。と言うのも、廃藩置県後、大和世が進むにつれて、日常会話の上でも「大和風に慣れよう」と、いち早く「標準語励行」を奨励・実施したのも八重山だったと言われる。が、八重山方言を完全に封じ込めたのではない。それどころか並行して「結願=きつがん」「種取=たにとぅる」などなど、古来の年中行事、歌謡、民俗芸能をいまに継いで、いや、大和風に馴れると、自分たちのモノを失いがちだが、伝統に新しい命を吹き込んで(継承)していることは、八重山の民に(したたかさ)と感服する。昭和に入り、8年から9、10年にかけては、全国的に歌われる「新安里ゆんた」や「新みなと節」「八重山育ち」など、数多くの共通語による歌が生まれたのは、こうした背景があってのことだろう。「子守唄」に戻ろう。
♪坊やは男だ 泣かずにね 瞼に浮かず父様の面影夢みましょう
ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな
坊やの父さんが行った小島は南洋諸島のサイパンかテニアンかロタか・・・・。それは定かではないが、移民ではなく(出征)だったことは容易に読み取れる。戦死の公報があったのではないか・・・・。残された母は我が子に語りかける。
♪坊やは賢い泣かずにね ニコニコ父様のお帰る土産は何でしょう
ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな
♪坊やは良い子だ泣かずにね 青空高くヒラヒラのぼりの子守唄
ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな
♪坊やが大きくなったなら 島のあゆみの明るい男となりましょう
ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな
作詞・作曲は八重山石垣市大川出身の宮良政貴(みやら せいき=1907~1954)。
南の異郷に散った父の面影を夢に結びながら「大きくなったら島を興せる明るく立派な男になっておくれ!。父さまのように・・・・」と、幼子に語りかける(若いお母さん)の心情が痛く感じとれる。戦後、この母子はどう生きたのか・・・・。いまとなっては知る由もない。けれども、哀しみをこらえながらも(八重山の復興に尽くせる男になっておくれ)と、これからの自分の生き方と重ね合わせて願っていることから、明日に希望を持ち、懸命に生きてきたことは、強く察しがつく。
メロディーが歌謡曲風なのも、いまとなっては皮肉なようにも思えるが、決して(ナンセンスソング)とは、思っていただきたくない。他にも八重山には「遺族の涙」「伊舎堂隊の唄」「身替わりわ警備」など、同系の多数の歌がある。
♪思童しかち 今どぅ思みしゆる 昔我ん守てる 人ぬ情
《うみわらび しかち なまどぅ うみしゆる んかし わんむてる ふぃとぅぬ なさき》
『泣き虫だったであろう自分をなだめ、あやし、すかしてくれたのは、誰だったのだろうか。守姉だったのか、実の兄、姉だったのか、それとも母親だったのか。自分がいま、元気で暮らしているのは、その人のおかげ。自分が子育てをしてはじめて、この情を思い知る。人は己ひとりで生きてきたのではない』。
「立秋」が過ぎてしばらくなるが、太陽の勢いは一向に衰えない。長じて覚えた(子守唄)でも歌って涼を呼んでみるか。
「ボクが赤ん坊のころ、カーチャンは子守唄を歌ってボクを寝かせたことがあったか?」
おふくろは、ちょっと眼を泳がせた後、「あったよ。殊にお前は『夕さんでぃ、泣ちぶさー(ゆさんでぃ、なちぶさー=夕暮れになると決まって泣く子)だったから、手こずったよ』と、さりげなく問いかわして、ボクを安心させてくれた。
実際はどうだったか?長じて考えたことだが「戦争中のこと。おそらく子守唄なぞ歌うほどの心の安寧は得られなかったのではなかったかと、思いを察するのである。
「子守唄」。
童唄とは区別しがたい。純粋に(幼児を寝かせる)ためのそれと、雇われた子守やー(クァムヤー)の遊び唄があるからだ。さらに伝承された唄の他に、子守やーが即興で口にしたそれが、今に残っているのがある。
「日本の一番長い日」などと称される8月15日を過ごしたせいか、八重山で歌われた共通語による「子守唄」を思い出した。
{愛の子守歌}
♪坊やの父様どこにいる ツィンダラホイ
あの海越えて南の小島におわします
ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな
八重山ならではの共通語による子守唄。と言うのも、廃藩置県後、大和世が進むにつれて、日常会話の上でも「大和風に慣れよう」と、いち早く「標準語励行」を奨励・実施したのも八重山だったと言われる。が、八重山方言を完全に封じ込めたのではない。それどころか並行して「結願=きつがん」「種取=たにとぅる」などなど、古来の年中行事、歌謡、民俗芸能をいまに継いで、いや、大和風に馴れると、自分たちのモノを失いがちだが、伝統に新しい命を吹き込んで(継承)していることは、八重山の民に(したたかさ)と感服する。昭和に入り、8年から9、10年にかけては、全国的に歌われる「新安里ゆんた」や「新みなと節」「八重山育ち」など、数多くの共通語による歌が生まれたのは、こうした背景があってのことだろう。「子守唄」に戻ろう。
♪坊やは男だ 泣かずにね 瞼に浮かず父様の面影夢みましょう
ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな
坊やの父さんが行った小島は南洋諸島のサイパンかテニアンかロタか・・・・。それは定かではないが、移民ではなく(出征)だったことは容易に読み取れる。戦死の公報があったのではないか・・・・。残された母は我が子に語りかける。
♪坊やは賢い泣かずにね ニコニコ父様のお帰る土産は何でしょう
ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな
♪坊やは良い子だ泣かずにね 青空高くヒラヒラのぼりの子守唄
ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな
♪坊やが大きくなったなら 島のあゆみの明るい男となりましょう
ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな
作詞・作曲は八重山石垣市大川出身の宮良政貴(みやら せいき=1907~1954)。
南の異郷に散った父の面影を夢に結びながら「大きくなったら島を興せる明るく立派な男になっておくれ!。父さまのように・・・・」と、幼子に語りかける(若いお母さん)の心情が痛く感じとれる。戦後、この母子はどう生きたのか・・・・。いまとなっては知る由もない。けれども、哀しみをこらえながらも(八重山の復興に尽くせる男になっておくれ)と、これからの自分の生き方と重ね合わせて願っていることから、明日に希望を持ち、懸命に生きてきたことは、強く察しがつく。
メロディーが歌謡曲風なのも、いまとなっては皮肉なようにも思えるが、決して(ナンセンスソング)とは、思っていただきたくない。他にも八重山には「遺族の涙」「伊舎堂隊の唄」「身替わりわ警備」など、同系の多数の歌がある。
♪思童しかち 今どぅ思みしゆる 昔我ん守てる 人ぬ情
《うみわらび しかち なまどぅ うみしゆる んかし わんむてる ふぃとぅぬ なさき》
『泣き虫だったであろう自分をなだめ、あやし、すかしてくれたのは、誰だったのだろうか。守姉だったのか、実の兄、姉だったのか、それとも母親だったのか。自分がいま、元気で暮らしているのは、その人のおかげ。自分が子育てをしてはじめて、この情を思い知る。人は己ひとりで生きてきたのではない』。
「立秋」が過ぎてしばらくなるが、太陽の勢いは一向に衰えない。長じて覚えた(子守唄)でも歌って涼を呼んでみるか。