旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
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愛の子守唄

2019-08-20 00:11:00 | ノンジャンル
 いつだったか・・・・。遠い日の幼年のころ、おふくろに訊いたことがあった。
 「ボクが赤ん坊のころ、カーチャンは子守唄を歌ってボクを寝かせたことがあったか?」
 おふくろは、ちょっと眼を泳がせた後、「あったよ。殊にお前は『夕さんでぃ、泣ちぶさー(ゆさんでぃ、なちぶさー=夕暮れになると決まって泣く子)だったから、手こずったよ』と、さりげなく問いかわして、ボクを安心させてくれた。
 実際はどうだったか?長じて考えたことだが「戦争中のこと。おそらく子守唄なぞ歌うほどの心の安寧は得られなかったのではなかったかと、思いを察するのである。

 「子守唄」。
 童唄とは区別しがたい。純粋に(幼児を寝かせる)ためのそれと、雇われた子守やー(クァムヤー)の遊び唄があるからだ。さらに伝承された唄の他に、子守やーが即興で口にしたそれが、今に残っているのがある。

 「日本の一番長い日」などと称される8月15日を過ごしたせいか、八重山で歌われた共通語による「子守唄」を思い出した。

 {愛の子守歌}
 ♪坊やの父様どこにいる ツィンダラホイ
  あの海越えて南の小島におわします
  ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな

 八重山ならではの共通語による子守唄。と言うのも、廃藩置県後、大和世が進むにつれて、日常会話の上でも「大和風に慣れよう」と、いち早く「標準語励行」を奨励・実施したのも八重山だったと言われる。が、八重山方言を完全に封じ込めたのではない。それどころか並行して「結願=きつがん」「種取=たにとぅる」などなど、古来の年中行事、歌謡、民俗芸能をいまに継いで、いや、大和風に馴れると、自分たちのモノを失いがちだが、伝統に新しい命を吹き込んで(継承)していることは、八重山の民に(したたかさ)と感服する。昭和に入り、8年から9、10年にかけては、全国的に歌われる「新安里ゆんた」や「新みなと節」「八重山育ち」など、数多くの共通語による歌が生まれたのは、こうした背景があってのことだろう。「子守唄」に戻ろう。

 ♪坊やは男だ 泣かずにね 瞼に浮かず父様の面影夢みましょう
  ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな

 坊やの父さんが行った小島は南洋諸島のサイパンかテニアンかロタか・・・・。それは定かではないが、移民ではなく(出征)だったことは容易に読み取れる。戦死の公報があったのではないか・・・・。残された母は我が子に語りかける。

 ♪坊やは賢い泣かずにね ニコニコ父様のお帰る土産は何でしょう
  ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな


 ♪坊やは良い子だ泣かずにね 青空高くヒラヒラのぼりの子守唄
  ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな


 ♪坊やが大きくなったなら 島のあゆみの明るい男となりましょう
  ホイヤーホーイ 良い子だ 寝んねしな 寝んねーしーな


 作詞・作曲は八重山石垣市大川出身の宮良政貴(みやら せいき=1907~1954)。

 南の異郷に散った父の面影を夢に結びながら「大きくなったら島を興せる明るく立派な男になっておくれ!。父さまのように・・・・」と、幼子に語りかける(若いお母さん)の心情が痛く感じとれる。戦後、この母子はどう生きたのか・・・・。いまとなっては知る由もない。けれども、哀しみをこらえながらも(八重山の復興に尽くせる男になっておくれ)と、これからの自分の生き方と重ね合わせて願っていることから、明日に希望を持ち、懸命に生きてきたことは、強く察しがつく。
 メロディーが歌謡曲風なのも、いまとなっては皮肉なようにも思えるが、決して(ナンセンスソング)とは、思っていただきたくない。他にも八重山には「遺族の涙」「伊舎堂隊の唄」「身替わりわ警備」など、同系の多数の歌がある。

 ♪思童しかち 今どぅ思みしゆる 昔我ん守てる 人ぬ情
 《うみわらび しかち なまどぅ うみしゆる んかし わんむてる ふぃとぅぬ なさき

 『泣き虫だったであろう自分をなだめ、あやし、すかしてくれたのは、誰だったのだろうか。守姉だったのか、実の兄、姉だったのか、それとも母親だったのか。自分がいま、元気で暮らしているのは、その人のおかげ。自分が子育てをしてはじめて、この情を思い知る。人は己ひとりで生きてきたのではない』。

 「立秋」が過ぎてしばらくなるが、太陽の勢いは一向に衰えない。長じて覚えた(子守唄)でも歌って涼を呼んでみるか。


敗戦・サイパン数え唄

2019-08-10 00:10:00 | ノンジャンル
 『聖戦、平和を勝ち取るための戦争・・・・。(いい戦争)などという言葉を幾度聞いたことか。(いい戦争)があるはずがない。戦争は、はっきり云って殺し合いでしかない。沖縄人はそのことをよく知っている。(生き残るのも地獄、死ぬのも地獄)を経験したからね』。
 老人はうっすら涙で目を赤くしながら、言葉をつづける。
『ワシが家族と一緒にサイパンを渡ったのは5歳。直ぐにアメリカ軍の上陸戦に遭う。日本の南進国策で(移民)という形でかの地を選んだことだが、自ら戦火の中に飛び込んだようなものだ。この時期、太平洋戦争唯一の(地上戦を強いられた沖縄)との報道を耳にするが、サイパンの地上戦も凄まじかった。(いい戦争)なぞ、この地球上にあるはずがない・・・・』。

 サイパン地上戦。
 米軍に捕虜とされた人びとは、日本兵と民間人に分けられ、別々の収容所に入れられた。日本兵は一定の数に達すると、まとめてハワイに送られたが、沖縄人をふくむ民間人はサイパンに残されて(雑用)を強制されていた。
 民間人が最初に命じられたのは『戦場掃除』と称する日本兵の死体収集作業。
 大きな穴を掘り、先端がカギ状になった鉄棒で遺体を引きずり(穴に放り込む)というもの。日本軍が最後に突撃したマタンシャ海岸では、あまりにも死体が多かったため、米軍はブルドーザーを出動させ、無差別に(穴)に埋めた。

 捕虜収容所を歌った「サイパン数え唄」がある。
 言葉を選ばず(実感)のみでつづられた歌詞・・・・。いま歌っても聞いても、惨めさと悲しみがつめ込まれている。まさに『生きるも地獄、死ぬも地獄』が伝わってくる。

 {サイパン数え唄}
 ♪一つとサーノエー
  広く知られたサイパンも 今はメリケンの旗が立つ~
  情ないのよ あの旗は~

 ♪二つとサーノエー
  双親はなれてもサイパンの 今はメリケンの牧場で~
  その日その日をおくるのよ~

 ♪三つとサーノエー
  見れば見るほど涙散る 山の草木も弾のあと~
  罪なき草木に傷つけて~

 ♪四つとサーノエー
  四方山見れば敵の陣 一日一日陣地を固め~
  情けないのよ 敵の陣~

 ♪五つとサーノエー
  いつまで苦労と思うなよ やがて助ける船がくる~
  お待ちしましょう 皆さまよ~

 ♪六つとサーノエー
  無理な仕事をさせられて 強い身体も弱くなる~
  情ないのよ 無理仕事~

 ♪七つとサーノエー
  なんと私がいばっても 日給はただの三十五仙~
  情ないのよ 三十五仙~


 ♪八つとサーノエー
  夜勤は私は嫌ですよ 嫌と言わせこの夜勤~ 
  情ないのよ この夜勤~

 ♪九つとサーノエー
  これから先はわれわれは 助けられたり助けたり~
  同じ日本の人だもの~

 ♪十つとサーノエー
  とう坂のぼる日の丸は 国の光を輝かす~
  なんで日の丸忘らりょか~

 ♪十一つとサーノエー
  いつも来るくる日本軍 来る時期早いかまだ来ない~
  お待ちしましょう 皆さまよ~

 書き終えて・・・・。溜息。猛暑のせいだろうか・・・・。


数え唄

2019-08-01 00:10:00 | ノンジャンル
 歌謡の中には、一つ、二つと数を数えながら歌う「数え唄」がある。
 沖縄では(一つ、二つ、三つーーー九つ、十)までをテイーチ、ターチ、ミーチ、ユーチ、イチチ、ムーチ、ナナチ、ヤーチ、ククヌチ、トゥーと発音する。、そして、その数の頭の(読み音)に合った言葉を被せて、物語性を持たせたりして遊び唄にしている。
 ♪一つとや~ひと夜明ければお正月~
 のように「正月数え唄」、手毬遊びの折りの拍子付けにしている。
 その例は沖縄にもあって、ちゃんとした旋律を持つモノと、そうでないモノがある。
 次に記す「数え唄」は、沖縄各地の地名を当てている。()内は所在の市町村名。いわく。

 ♪ティーチ・手登根=てぃどぅくん(南城市佐敷)。
 ♪ターチ・棚原=たなばる(西原町)。
 ♪ミーチ・目取真=みどぅるま(南城市大里)。
 ♪ユーチ・与那原=ゆなばる(与那原町)。
 ♪イチチ・糸満=いちまん(糸満市)。
 ♪ムーチ・盛島=むりしま(在地不明)。
 ♪ナナチ・長浜=ながはま(読谷村)。
 ♪ヤーチ・山原=やんばる(沖縄本島北部地方の総称)。
 ♪ククヌチ・国頭=くんじゃん(国頭村=くにがみ)。
 ♪トゥー・渡嘉敷=とぅかしち(渡嘉敷村)。
 (渡嘉敷船から那覇旅登ぶたん!那覇ぬガジャンや 人喰えー強さに 梅ぬ花くぇんくぇん~)。那覇の西の離島渡嘉敷島から船旅をして那覇に上ったことだが、那覇の蚊は吸血力が強く、身体中、喰われて梅の花のように赤く腫れあがった。と囃したてる。
 童女たちは「手毬唄」で唱えながら、各地の地名を覚えたのだろう。

 戦前は戸数1800名ほどの現うるま市石川は、米軍が施設した捕虜収容地になったため、捕虜・寄留民が収容され、人口3万人に膨れあがった。その内、3000人余が毎日、軍作業員に駆り出されていた。
 「喰うためのみ生きていた」。
 石川捕虜収容地に身を置いた方々は異口同音にそう述懐する。そんな状況下、人びとの唇にのった「数え唄」に「石川小唄=一名敗戦数え唄」がある。昭和20年から21年にかけてのこと。自作自演をしたのは当時、市内で歯科医院を開業していた今帰仁村湧川出身・小那覇全孝氏。自らを(舞天・ぶうてん)と芸名し夜、灯りのついている家々を訪ね「命ぬ御祝儀さびら(戦火をくぐり抜け助かった)命のお祝いをしましょう」と、三線片手に歌い、勇気づけをした。暗黒の時代に、こうも明るく戯画的でいいのか?と思えるほどだ。

 {石川小唄・一名敗戦数え唄}
 ♪一つとせーえ~ ひふみよごろくなは通り いろはにほへとチリ横丁 碁盤十字のカヤ葺・テント町 これが沖縄一の市ではないかいな~
 ♪二つとせーえ~ 二人散歩も砂の上 靴の中にも砂が入る それもそうじゃないか 石川名物 砂と埃の町ではないかいな~
 ♪三つとせーえ~ 見渡すかぎり便所町~ ドラム缶の近代便所 エッサエッサと汲み出す特攻隊 あとは靖国参るじゃないかな~
 ♪四つとせーえ~ 夜の石川恋の町 あの辻この辻 ささやくは~ アイラブユー ユーラブミー ギブミーシガレットてな調子じゃないかいな~
 ♪五つとせーえ~ 何時来て見ても人の波~ 作業通いの娘さん 馴れぬハイヒールに おっと転んだ拍子に前歯が一本折れました~
 ♪六つとせーえ~ 昔さびしい石川も いまじゃ文化の花が咲く~ それもそうじゃないか 小那覇舞天々が控えているではないかいな~
 ♪七つとせーえ~ 何べん訊いても判らない あなたのお宅はどこでした~ それもそうじゃないか どいつもこいつも同じ規格のカヤ葺・テント葺きじゃないかいな~
 ♪八つとせーえ~ 痩せたお方はあんまりいない~ いないはずだよ缶詰太り 娘のクンダは太る一方 鏡水大根 素足で逃げるじゃないかいな~
 ♪九つとせーえ~ 恋と嫉妬の渦巻きに~ 明けて暮れるが石川市 それもそうじゃないか 女は男の四倍も五倍も ウヨウヨしてるじゃないかいな~
 ♪十とせーえ~ とんとん拍子に栄ゆく 住めば都よ 恋しなつかし三万市民~ 男も女も老いも若きも あなたもわたしも君も僕も ユーもミーも意志は変わらず 沖縄一の市にしようじゃないかいな~

 8月は敗戦の月。終戦時、7歳だったボク。「石川小唄」の舞台・石川にいたせいか、気分がすぐれない。蝉が辺りを鳴きすくめる「盛夏」のせいだろうか。