旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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清明のころ・花のころ

2016-04-20 00:10:00 | ノンジャンル
 寒風が北へ帰るころ、沖縄は手のひらをかえしたように気温が上がり、花の季節になった。山の端や中腹には、野生の百合が白い姿をあらわして、島中を清く明るくしている。
 清明祭。
 文字通り、辺りが(清く明るく)なったころの年中行事のひとつである。
 今年は4月4日に(清明の節)に入り、この月いっぱいの土曜日、日曜日は郊外の墓地は家族やその一門の姿でにぎわいを見せている。
 御清明(ウシーミー)、または単に(シーミー)と称する祖先供養のこの行事は、18世紀の中期、中国から伝来したもの。ちょうどそのころ、中国では1年の農事が始まるため、祖霊に加護を祈願したことに始まるという。
 一家の長が日取りをする。分家筋の都合をまとめての上、その日になると万難を排して墓前に参集すると、まず線香を焚き花や酒、菓子、果実をはじめ、ウサンミと称する特別料理を重箱に詰めて供える。
 ウサンミは(御三味)と書き、中身は*小てんぷら*こんにゃく*卵の黄身入りのカステラ蒲鉾*豚三枚肉*昆布巻き*揚げ豆腐*大根*牛蒡*田芋から揚げなど重箱2段重ね。他に白餅を縦5個、横3個計15個及びアンムチ(飴餅)という重箱4段重ねの豪華版。
 もっともそれは余程丁寧な一門の清明料理で、いまでは子どもたちが喜ぶ市販のチキン、ハンバーガー、ピザなどを持参するようになっている。
 清明祭には、ふたつの形式がある。
 一はカミウシーミー(神御清明)。ムートゥヤー(本家・宗家)に門中が集まり、サチヌユー(先の世・遠い先祖)ゆかりの地を巡拝し、一は、普通のシーミーで身近な祖霊を拝む。
 「何と形式的で面倒なっ」
 そう見る向きもあるが、現在では春の1日を墓前で歓談するという行事として、むしろその日を待ち兼ねるくらいだ。
 それというのも、日頃は疎遠になっている親類縁者が一堂に集まり、親しく挨拶を交わし、近況を語り合う絶好の機会と捉えているからだ。
 私なぞも若いころ、親戚とはいうものの(如何なる係類)なのか、定かではなかった人たちとの関係は、本にを前にして教わったものだ。また、自分たち一家の歴史や成り立ちを知るに絶好の機会でもあった。
 墓地は一門だけでなく、他家のそれも、声をかければ聞こえる、隣り合わせにあるから大人たちの会話もはずんだ。
 「隣の息子さんは、いい青年になったね」
 「分家のK子も年頃だし、どうだろうね、このふたり」
 なぞと縁組ばなしも飛び交う。
 実際にシーミーの場での世話好きのオジやオバの会話が現実化して、結婚に漕ぎつけた例を知っている。(天の引き合わせ)(御先祖による良縁)ということになり、両人もシーミーのたびに軽い挨拶をするうちに(憎からず)好意を感じていたと結婚後告白。いまでは一門の裾が広がり、シーミーも一層、和やかになっている。

 春の日。
 山野の新緑に白いアクセントをつけるのは(百合)。北半球の温帯に約100種、日本には約15種があるそうな。沖縄諸島が原産とされるのは(テッポウユリ・鉄砲百合)。花は純白の筒形で芳香をもち、花粉は黄色。開花期は3月下旬から4月いっぱいだが、球根を冷凍処理をすれば、切り花栽培ができ、年中見られる。宮古島ではこの方法で栽培し出荷しているが、殊に盛んなのは鹿児島県奄美大島郡沖永良部島。戦前から(島の産業)となり、大正時代にはアメリカに球根輸出がなされた。当時のことを三線にのせて歌った「永良部ゆりの花」は、沖縄の若い歌者が好んでレパートリーにしている。島では「ゆり祭り」が毎年催される。島の人口を上回る観光客が百合を楽しむ。
 けれども「テッポウユリ」の名称に異論を唱えた島びとがいた。言い分はこうだ。
 「学名だろうが和名だろうが、島の平和のシンボルである名花に(鉄砲)なぞと平和を破壊する兵器の名を被せてはもらいますまい!以降(エラブユリ)と呼んでいただきたい!」。
 この主張には賛成である。

 百合の後を追うように登場するのが「イジュの花=ンジュぬ花」。
 ツバキ科の常緑高木。高さは20センチに達する。沖縄本島中部の中城村から西へ直線で結ぶ嘉手納町以北の野山に多く自生している。それは土質に関係があるという。木は庭園、公園、街路樹にもなっているが、樹液に多少の毒性があるらしく、庭木としては敬遠する向きもある。材質は硬く家具や農具に適している。奄美大島、沖縄諸島、八重山諸島に生育する固有亜種。基本種はヒマラヤからマレーシアに分布。
 そのイジュの花が咲き揃い、野山が白い歯を見せて笑うかのように見えるころ、沖縄は梅雨入りする。雨に洗われた花が一段と鮮やかさを増し、梅雨の憂鬱を癒してくれるのも確かだ。
 花言葉風に言えば、イジュの花は(純真・美しい心・好ましい女性の容姿)というところか。古典音楽の端節(ふぁぶし)や島うたのそれにも多く詠み込まれている。
 シーミーを合図にして、沖縄花は太陽の輝きを促し、そして豊かな雨を呼び、長い夏へと季節は移る。



浜下り・サングァチー女の季節

2016-04-09 21:16:00 | ノンジャンル
 各種の花まつり、早々の海開き。県花のデイゴも深紅の花を咲かせて、沖縄は、すっかり春。いや、若夏の気配に包まれている。
 新暦4月9日は旧暦の3月3日にあたり各地で「浜下り・はまうり」行事がなされた。
 現在では、海浜や川辺への家族そろってのピクニック、潮干狩りが主になっているが、元来は女たちが海や川に出かけ渚の波、流れの真水で身を清め「女の健康」を祈願する行事であった。つまり「女の節句」。したがって主役は女性。男たちは家に残り、炊事洗濯はもちろん、子守りをする「女性解放の日」なのである。日ごろ関白亭主もこの日ばかりはカカァに天下をゆずる。
 沖縄本島ではこの日を「サングァチサンナチー」「サングァチー」「サングァチャー」「浜下り・はまうり」。宮古島では「サニツ」「シャニツ」、八重山では「サニジ」と称している。本土の「桃の節句」「ひな祭り」にあたるのだろうか。本土では草や紙で人形(ひとがた)を作り、それでもって女の子の身体をなでて邪気を乗り移らせて川や海に流す「流し雛」に各地に残っているようだ。
 沖縄では人形ではなく自分自身が海辺、川辺に出かけているところが本土とは異なる。川岸で身を清め、若草を踏んで遊ぶ中国の習慣が日本、沖縄に伝わり、それぞれの地域、風土に合った様式に変化したようだ。

 各地の「サングァチーの馳走」などを拾ってみよう。
 ◇首里。
 *近くの湧水池龍潭。崎樋川に出かけたというが定かではない。
 馳走は豪華だ。重箱にクーペータマグ(紅梅卵)、豚三枚肉、豆腐とキクラゲをすり鉢で摺り、団子にして揚げたウジラ豆腐。これは団子が鶉(うずらの卵)状だったことからの命名という。揚げ素麺、卵の黄身いりの蒲鉾(カシティラーカマブク)、魚の天麩羅、サングァチ・グァーシ(三月菓子)などなど。

 ◇那覇。
 *海が近いだけに浜下りは華やか。住吉海岸、崎樋川海岸、薬師堂海浜など。
 馳走は三月菓子、よもぎ餅、クーブマチ(昆布巻き)、花烏賊、天麩羅など。潮干狩りをしたり、白浜に筵を敷き、馳走を並べ、歌舞を楽しむ一方、借り切った屋形船を潮の流れにまかせ、歌舞三昧の1日を過ごす。その舟のことを通称流り舟(ナガリブーニー・ナガリブニ)といい、すれちがう他の舟の女たちと、鼓を打ち鳴らしながら華やかさを競うガーエーがなされた。自慢が過ぎて、時には悪口を投げ合ったが、それも恒例の口喧嘩で大ごとにはならない。
 また、村屋(地域の公民館)に女性だけが参集しての「三月遊び」が3日間催されたほか、劇団華やかなころは、劇団を借り切っての芝居見物を成し、役者衆もそれに応えた演目を組んだ。昭和40年代まではそれも見られたが、いまではその例を見ない。
 *国頭比地(ひぢ)や大宜味村。
 謝名城(じゃなぐすく)などでは、岸辺のサングァチマー(三月庭)と称する広場に人びとが集まり歌舞とともに、主に豚料理に舌鼓みを打つ。また、新春早々に生まれた幼児のお披露目をし、近年は学事奨励会を行っている。
 
 ◇沖縄中部。
 *うるま市勝連平安名では、幸地浜の三月毛(サングァチモウ・遊び庭)で、村の祭祀を司るノロ(祝女)や神職を中心に村びと揃って健康祈願をしたあと三月クェーナー(神歌)を斉唱。歌舞に参加したり、潮干狩りを楽しむ。

 ◇宮古・八重山
 *よもぎ餅を神仏に供え家内安全、無病息災を祈願した後、浜へ向かう。潮や白浜にふれることによって「身の浄化」を図った。
 宮古島では、海辺に行けない高齢者や病人、幼児のために砂や海水を持ち帰る慣わしがある。

 ◇うるま市平安座。
 *特記すべき儀式がある。
 この日、島のノロや住民ほとんどが集い、3日間かけて豊漁、海の安全を祈願。さらに海で亡くなった人びとを弔うことを忘れない。
 トゥーダぬイユー(銛の魚)の儀式は他所では見られない。
 「ちょうの浜」と呼ばれる地域内の広場で、漁具のひとつ銛(もり・トゥジャ)で突いたタマン(和名ハマフエフキ鯛)を持って踊る儀式だ。
 儀式の開始は女たちが円陣を作り、歌に合わせて踊るウスデーク(臼太鼓)があり、やがてノロが神歌をささげる。それに続いて小鼓の音とともにノロが立ちあがり、銛でタマンを突き刺し、それを高く掲げて踊る。それが終わると総出のカチャーシー
 儀式はさらに続く。干潮時を見計らい、旗頭を先頭に干潟を渡る。向かう先は島の東1キロの海中にあり、ナンザと呼ばれる巌礁。これはナンザモウイ(ナンザ詣)と言い、海の彼方ニライ・カナイの神に海の安全と豊漁を祈願する催事。数平方メートルかない巌礁の頂上で、男女の島代表が海に向かい酒や米、蛸等を供え豊漁祈願をする訳だが「女の行事」に、男が参加する異例の浜下りと言えそうだ。かくて水は温み、海は光、沖縄は一気に夏へ走る。


仰げば尊し わが師の恩

2016-04-01 00:10:00 | ノンジャンル
 書斎とは名ばかりの2階の部屋。3つのガラス窓をすべて開けて風を通し、煙草に火を点ける。
 辺りの雑木の枝に遊ぶ風がみどり色に見える。耳にはスーサー(ひよどり)の声が快い。500メートルほど離れた小学校の校舎や校庭に、子どもたちの姿は見えないが、新学期を迎える雰囲気がなんとなく感じられる。鼻歌を出している自分i気付く。
 ♪仰げば尊しわが師の恩~教えの庭にも早や幾歳~??
 そのあとの歌詞が出てこないのである。
 「仕方ないか。オレの小学校、中学校は半世紀プラス10年ほど前だものなぁ。昭和20年の9年間。テントや茅葺教室に裸足もしくは下駄履きで通い、ガリ版刷り代用教科書と米軍払い下げのタイプライター用紙、それも使用済みのそれを親父が紐で綴じたノート1冊。これもまた米軍提供の鉛筆と安全剃刀と称する(鉛筆削り)をHBT(草色の米軍野戦服)を加工した筆入れをカバンに納めて登校した。もちろん、カバンもHBT製。のちに筆入れはブリキ製にかわった。石油缶や大きめの缶詰の空缶を巧みに切り曲げて、日用品やランプなどを作る(ブリキ屋)が近くにいて繁盛していた。そこのオヤジは、確か(城田さん?)。加工工程が少年には珍しく、学校の行き帰り、その手仕事を飽きもせず、見学していたものだ。ボクの筆入れが布製からブリキ製になったのは城田さんと顔見知りになったある日。‟これをやろう”と、売れ残りか失敗作らしいモノをくれたからだ。小学校低学年まではそれを宝物にしていたっけ・・・」。
 ひとつ紫煙を吐いて、またぞろ鼻歌になる。
 ♪仰げば尊しわが師の恩~教えの庭にも早や幾歳~??
 やはりあとが出てこない・・・・。

 恩師。
 何人かの恩師を偲んでみるのだが、しばらく前まではあざやかだった(恩師の実像)が瞼の裏にさえぼやけてしまっている。さもありなん。その先生方は明治後半、大正、昭和、それも1桁を生年とする方々・・・・。ほとんどが、あの世に転勤なさっているのだから・・・・。ボクが恩知らずなのか、時の流れが残酷なのか。

 見出し「92歳の恩師の畑にひまわり」という新聞記事を見つけた。3月18日付沖縄タイムス紙だ。
 {名護市発}92歳の恩師の畑に、78歳の元教え子がヒマワリを咲かせた。
 「先生に見せたくて」「今までで1番のプレゼント」。
 名護市饒平名の屋我地小学校近く、約500平方メートルの畑で感謝の黄色い花が満開になっている。
 石川米子さん(92)は、上原俊彦さん(78)が屋我地中学校時代の恩師。現在は西原町在住で時折帰っては雑草のチガヤ(方言名マカヤ・真萱)が茂る畑をみてさびしい思いをしているという米子先生のことを知った。それを聞いた上原さんは一念発起。昨年11月、チガヤを撤去し、耕運機で畑を耕して約4キロの種をまいた。妻の英子さん(77)は丁寧に土をかぶせ、散水した。
 上原さんに呼び寄せられ、ヒマワリ畑を見た石川さん。「チガヤだらけの荒地に人々を喜ばせるようになった。ちゃんと手入れしないと花はきれいに咲かない」と感激した。
 屋我地小4年生14人も一緒に見学した。花城友芽さんは「私たちの花壇より花の色がとてもきれい」。松本世凪君は「全部きれいに咲いている」と笑顔。上原さんによると、見ごろは3月いっぱいという。(玉城学通信員)

 「貴方には恩師とは言われたくない!」
 そんな言葉が返ってきそうな先生がいる。高校2年のころだったか。英語担当の比嘉和子先生だ。
 生意気盛りで(えーカッコしー)が得意だったボクは、英語の授業中、和子先生の声なぞ耳に入れず、読んでもよく理解できない太宰治の「人間失格」を英語の教科書に挟んで(文学少年?)を決め込んでいた。それが発覚したのである。和子先生は、ボクの「人間失格」を取り上げて言った。
 「わたしの授業がそんなにつまらなかったら、教室を出て行きなさい!」
 ボクは反論を持たない。むしろ反抗を正当化。クラス中の視線を背中に受けながら教室を出、近くにあった旧城跡の松の下に寝ころび、オレの文学的才能はどうなるのだ!なぞと和子先生を恨みながら、流れる雲に己の行く末を託していた。後日、和子先生に呼び出され、太宰治は返してもらったが、その折のひと言をいまでも覚えている。
 「上原クン。いま少し素直になったほうがいいわよ。私のことは嫌いになっても、英語は嫌いにならないでね」。
 和子先生の目に光るものがあった。
 以来、和子先生に逢うことを得てないが、いまでも胸にツンとくる記憶だ。
 記憶はすばらしい。過去のことをひとつひとつ引き出して、過去が過去ではなくなる。

 煙草もすっかり灰になった。小学校のグランドには、いつの間にか黄色い声とパットノックの音が飛び交っている。野球の練習が始まったらしい。階下から食事を促す家人の声がする。開けた窓をそのまま風の通り道にして立ちあがり、またぞろ鼻歌。
 ♪仰げば尊しわが師の恩 教えの庭にも早や幾歳~思えば~?思えば~?
 やはりあとが続かない・・・・。どなたか教えてくれまいか。