寒風が北へ帰るころ、沖縄は手のひらをかえしたように気温が上がり、花の季節になった。山の端や中腹には、野生の百合が白い姿をあらわして、島中を清く明るくしている。
清明祭。
文字通り、辺りが(清く明るく)なったころの年中行事のひとつである。
今年は4月4日に(清明の節)に入り、この月いっぱいの土曜日、日曜日は郊外の墓地は家族やその一門の姿でにぎわいを見せている。
御清明(ウシーミー)、または単に(シーミー)と称する祖先供養のこの行事は、18世紀の中期、中国から伝来したもの。ちょうどそのころ、中国では1年の農事が始まるため、祖霊に加護を祈願したことに始まるという。
一家の長が日取りをする。分家筋の都合をまとめての上、その日になると万難を排して墓前に参集すると、まず線香を焚き花や酒、菓子、果実をはじめ、ウサンミと称する特別料理を重箱に詰めて供える。
ウサンミは(御三味)と書き、中身は*小てんぷら*こんにゃく*卵の黄身入りのカステラ蒲鉾*豚三枚肉*昆布巻き*揚げ豆腐*大根*牛蒡*田芋から揚げなど重箱2段重ね。他に白餅を縦5個、横3個計15個及びアンムチ(飴餅)という重箱4段重ねの豪華版。
もっともそれは余程丁寧な一門の清明料理で、いまでは子どもたちが喜ぶ市販のチキン、ハンバーガー、ピザなどを持参するようになっている。
清明祭には、ふたつの形式がある。
一はカミウシーミー(神御清明)。ムートゥヤー(本家・宗家)に門中が集まり、サチヌユー(先の世・遠い先祖)ゆかりの地を巡拝し、一は、普通のシーミーで身近な祖霊を拝む。
「何と形式的で面倒なっ」
そう見る向きもあるが、現在では春の1日を墓前で歓談するという行事として、むしろその日を待ち兼ねるくらいだ。
それというのも、日頃は疎遠になっている親類縁者が一堂に集まり、親しく挨拶を交わし、近況を語り合う絶好の機会と捉えているからだ。
私なぞも若いころ、親戚とはいうものの(如何なる係類)なのか、定かではなかった人たちとの関係は、本にを前にして教わったものだ。また、自分たち一家の歴史や成り立ちを知るに絶好の機会でもあった。
墓地は一門だけでなく、他家のそれも、声をかければ聞こえる、隣り合わせにあるから大人たちの会話もはずんだ。
「隣の息子さんは、いい青年になったね」
「分家のK子も年頃だし、どうだろうね、このふたり」
なぞと縁組ばなしも飛び交う。
実際にシーミーの場での世話好きのオジやオバの会話が現実化して、結婚に漕ぎつけた例を知っている。(天の引き合わせ)(御先祖による良縁)ということになり、両人もシーミーのたびに軽い挨拶をするうちに(憎からず)好意を感じていたと結婚後告白。いまでは一門の裾が広がり、シーミーも一層、和やかになっている。
春の日。
山野の新緑に白いアクセントをつけるのは(百合)。北半球の温帯に約100種、日本には約15種があるそうな。沖縄諸島が原産とされるのは(テッポウユリ・鉄砲百合)。花は純白の筒形で芳香をもち、花粉は黄色。開花期は3月下旬から4月いっぱいだが、球根を冷凍処理をすれば、切り花栽培ができ、年中見られる。宮古島ではこの方法で栽培し出荷しているが、殊に盛んなのは鹿児島県奄美大島郡沖永良部島。戦前から(島の産業)となり、大正時代にはアメリカに球根輸出がなされた。当時のことを三線にのせて歌った「永良部ゆりの花」は、沖縄の若い歌者が好んでレパートリーにしている。島では「ゆり祭り」が毎年催される。島の人口を上回る観光客が百合を楽しむ。
けれども「テッポウユリ」の名称に異論を唱えた島びとがいた。言い分はこうだ。
「学名だろうが和名だろうが、島の平和のシンボルである名花に(鉄砲)なぞと平和を破壊する兵器の名を被せてはもらいますまい!以降(エラブユリ)と呼んでいただきたい!」。
この主張には賛成である。
百合の後を追うように登場するのが「イジュの花=ンジュぬ花」。
ツバキ科の常緑高木。高さは20センチに達する。沖縄本島中部の中城村から西へ直線で結ぶ嘉手納町以北の野山に多く自生している。それは土質に関係があるという。木は庭園、公園、街路樹にもなっているが、樹液に多少の毒性があるらしく、庭木としては敬遠する向きもある。材質は硬く家具や農具に適している。奄美大島、沖縄諸島、八重山諸島に生育する固有亜種。基本種はヒマラヤからマレーシアに分布。
そのイジュの花が咲き揃い、野山が白い歯を見せて笑うかのように見えるころ、沖縄は梅雨入りする。雨に洗われた花が一段と鮮やかさを増し、梅雨の憂鬱を癒してくれるのも確かだ。
花言葉風に言えば、イジュの花は(純真・美しい心・好ましい女性の容姿)というところか。古典音楽の端節(ふぁぶし)や島うたのそれにも多く詠み込まれている。
シーミーを合図にして、沖縄花は太陽の輝きを促し、そして豊かな雨を呼び、長い夏へと季節は移る。
清明祭。
文字通り、辺りが(清く明るく)なったころの年中行事のひとつである。
今年は4月4日に(清明の節)に入り、この月いっぱいの土曜日、日曜日は郊外の墓地は家族やその一門の姿でにぎわいを見せている。
御清明(ウシーミー)、または単に(シーミー)と称する祖先供養のこの行事は、18世紀の中期、中国から伝来したもの。ちょうどそのころ、中国では1年の農事が始まるため、祖霊に加護を祈願したことに始まるという。
一家の長が日取りをする。分家筋の都合をまとめての上、その日になると万難を排して墓前に参集すると、まず線香を焚き花や酒、菓子、果実をはじめ、ウサンミと称する特別料理を重箱に詰めて供える。
ウサンミは(御三味)と書き、中身は*小てんぷら*こんにゃく*卵の黄身入りのカステラ蒲鉾*豚三枚肉*昆布巻き*揚げ豆腐*大根*牛蒡*田芋から揚げなど重箱2段重ね。他に白餅を縦5個、横3個計15個及びアンムチ(飴餅)という重箱4段重ねの豪華版。
もっともそれは余程丁寧な一門の清明料理で、いまでは子どもたちが喜ぶ市販のチキン、ハンバーガー、ピザなどを持参するようになっている。
清明祭には、ふたつの形式がある。
一はカミウシーミー(神御清明)。ムートゥヤー(本家・宗家)に門中が集まり、サチヌユー(先の世・遠い先祖)ゆかりの地を巡拝し、一は、普通のシーミーで身近な祖霊を拝む。
「何と形式的で面倒なっ」
そう見る向きもあるが、現在では春の1日を墓前で歓談するという行事として、むしろその日を待ち兼ねるくらいだ。
それというのも、日頃は疎遠になっている親類縁者が一堂に集まり、親しく挨拶を交わし、近況を語り合う絶好の機会と捉えているからだ。
私なぞも若いころ、親戚とはいうものの(如何なる係類)なのか、定かではなかった人たちとの関係は、本にを前にして教わったものだ。また、自分たち一家の歴史や成り立ちを知るに絶好の機会でもあった。
墓地は一門だけでなく、他家のそれも、声をかければ聞こえる、隣り合わせにあるから大人たちの会話もはずんだ。
「隣の息子さんは、いい青年になったね」
「分家のK子も年頃だし、どうだろうね、このふたり」
なぞと縁組ばなしも飛び交う。
実際にシーミーの場での世話好きのオジやオバの会話が現実化して、結婚に漕ぎつけた例を知っている。(天の引き合わせ)(御先祖による良縁)ということになり、両人もシーミーのたびに軽い挨拶をするうちに(憎からず)好意を感じていたと結婚後告白。いまでは一門の裾が広がり、シーミーも一層、和やかになっている。
春の日。
山野の新緑に白いアクセントをつけるのは(百合)。北半球の温帯に約100種、日本には約15種があるそうな。沖縄諸島が原産とされるのは(テッポウユリ・鉄砲百合)。花は純白の筒形で芳香をもち、花粉は黄色。開花期は3月下旬から4月いっぱいだが、球根を冷凍処理をすれば、切り花栽培ができ、年中見られる。宮古島ではこの方法で栽培し出荷しているが、殊に盛んなのは鹿児島県奄美大島郡沖永良部島。戦前から(島の産業)となり、大正時代にはアメリカに球根輸出がなされた。当時のことを三線にのせて歌った「永良部ゆりの花」は、沖縄の若い歌者が好んでレパートリーにしている。島では「ゆり祭り」が毎年催される。島の人口を上回る観光客が百合を楽しむ。
けれども「テッポウユリ」の名称に異論を唱えた島びとがいた。言い分はこうだ。
「学名だろうが和名だろうが、島の平和のシンボルである名花に(鉄砲)なぞと平和を破壊する兵器の名を被せてはもらいますまい!以降(エラブユリ)と呼んでいただきたい!」。
この主張には賛成である。
百合の後を追うように登場するのが「イジュの花=ンジュぬ花」。
ツバキ科の常緑高木。高さは20センチに達する。沖縄本島中部の中城村から西へ直線で結ぶ嘉手納町以北の野山に多く自生している。それは土質に関係があるという。木は庭園、公園、街路樹にもなっているが、樹液に多少の毒性があるらしく、庭木としては敬遠する向きもある。材質は硬く家具や農具に適している。奄美大島、沖縄諸島、八重山諸島に生育する固有亜種。基本種はヒマラヤからマレーシアに分布。
そのイジュの花が咲き揃い、野山が白い歯を見せて笑うかのように見えるころ、沖縄は梅雨入りする。雨に洗われた花が一段と鮮やかさを増し、梅雨の憂鬱を癒してくれるのも確かだ。
花言葉風に言えば、イジュの花は(純真・美しい心・好ましい女性の容姿)というところか。古典音楽の端節(ふぁぶし)や島うたのそれにも多く詠み込まれている。
シーミーを合図にして、沖縄花は太陽の輝きを促し、そして豊かな雨を呼び、長い夏へと季節は移る。