旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑰

2012-02-20 00:21:00 | ノンジャンル
 『沖縄が本土に復帰しない限り、日本の戦後は終わらない』
 戦後、歴代総理大臣の沖縄訪問は昭和40年〈1665〉8月19日のことだった。
 時の内閣総理大臣佐藤栄作は、中村梅吉文部大臣、鈴木善幸厚生大臣、橋本登美三郎内閣官房長官、安井謙総務長官らの閣僚。自民党幹事長田中角栄。特別顧問として沖縄・八重山出身大浜信泉早稲田大学総長を伴って沖縄入りし、3日間滞在した。
 『沖縄が本土に復帰しない限り、日本の戦後は終わらない』は、歓迎式における佐藤栄作のステートメントだ。
 これより先、昭和35年〈1960〉4月28日に発効された米国との対日講和条約は〔復帰は、基地存続・核付〕の内容。これに対抗すべく結成された「沖縄県祖国復帰協議会」は、佐藤総理の沖縄入りに対しても『祖国との実質的一本化』を直訴しようと、佐藤総理が宿泊した那覇市天久在・東急ホテル前にデモをかけ、座り込みの行動に出た。警護に当った警察隊との衝突が生じたのは言を待たない。そのため総理は、米軍のゲストハウスに避難。沖縄中が騒然となった。
 街角でも村落の辻でも人びとは、それぞれの立場で復帰を論じ合い、政治意識が高まった〔時〕であった。

 【琉球行政主席】
 ※屋良朝苗〈やら ちょうびょう〉。明治35年~平成9年=1902~1997=読谷村出身。*第5代行政主席
 昭和43年〈1968〉11月より唯一の公選行政主席として、昭和47年〈1972〉5月15日の日本復帰まで存在した。
      写真:ウィキペディアHPより

 昭和5年〈1930〉。現在の広島大学=広島高等師範学校を卒業。その後、沖縄県立女子師範学校、沖縄県立第一高等女学校、台南州立台南第二中学校、台北第一師範学校などの教壇に立った。
 戦後は、沖縄群島政府文教部長、沖縄教職員会会長などの要職に就く。昭和43年の行政主席に革新共同候補として出馬。祖国への早期復帰を訴えて、対立候補の西銘順治を制して当選を果たしている。
 在任中は、復帰を〔基地もない核もない沖縄〕を一貫として主張・推進。日米両政府の折衝を促進したが、成果はなかなか得られず、日常的にも苦渋に満ちた表情をする日が続き、誰言うともなく〔縦皺の屋良〕と称されるようになっていた。
 復帰後も戦後初の公選知事として、昭和51年〈1976〉まで在任。その年の知事選挙にも出馬を要請されたが、これを固辞。しかし、退任後も革新陣営のシンボル的存在にあり、後継者平良幸一を擁立して知事選挙を戦った。
 温厚実直の人柄は、多くの人びとに敬慕される。また、知事在任中、日米要人との会談や会議では、自ら熱心にメモをとり、そのメモや日誌は没後、郷里読谷村に寄贈され、複製は沖縄公文書館に納められて、順次公開されている。

 ※昭和46年〈1971〉
 ◇返還協定
昭和44年11月。日米首脳会議後の『本土並み・昭和47年返還』の共同声明に基づく沖縄返還協定には、沖縄人民が要求していた〔核抜き〕は、明記されていなかった。
 「県民無視の返還協定紛砕」「県民不在の返還協定紛砕・真の復帰の要求」をスローガンとしたゼネストは5月19日の場合、10万人規模。自治の確立をめざす県民意識は、国会に向けた大きなうねりとなった。しかし、沖縄返還協定は、6月17日午後9時10分。東京の首相官邸とワシントンの国防省を衛星通信を使って同時調印された。

 ※昭和47年
 ◇復帰記念メダル
 総理府は屋良朝苗主席宛、5月15日の復帰の日に、沖縄の小・中学校児童生徒約20万人に『復帰記念メダル』を配布するよう通知してきた。メダルは3.2センチの銅製。表は首里城の守礼門を中心に、周囲に海をあしらったデザイン。裏は中央に国旗・日の丸を描き、上辺に“復帰おめでとう”。下辺に“昭和47年5月15日”と刻み、国旗の下に“内閣”の文字。
  
   
 しかし、5月15日を「核付返還・屈辱の日」とした沖縄教職員組合は、児童生徒への配布に反対。各分会に非協力体制をとるよう指示した。当時の児童生徒は、小学校233校=12万9449名。中学校149校=7万1144名。宮古、八重山、本島北部の学校では校長を通じて配布されたが、那覇地区や中部地区では、現場の猛反対があり、約10万個が行き場を失って回収された。
 筆者は、その1個を有している。
 それは、配布当時入手したのではない。20年ほど前、毎年制作してきた復帰記念番組を放送した際、すでに成人していた女性にもらったものだ。彼女はこう語った。
 「小学校のころ、学校の夏休みキャンプのゲームで勝ったとき、賞品として先生から授与されたもの、それほどのモノとは知らなかった」
 現在でもこれら復帰記念メダルは、日本国総理府の“思いやり”とは裏腹に、県教育施設のそこいらに眠っているようだ。

    



沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑯

2012-02-10 00:00:00 | ノンジャンル
 ◆昭和26年〈1951〉
 ◇空襲時の心得を通達
 昭和25年6月25日。朝鮮戦争勃発。東洋一の米軍基地嘉手納飛行場からは、昼夜を問わず爆撃機が発着した。「沖縄への空襲の恐れがある」とした米軍は翌年1月5日、民政府のロスゲブ大佐名で[空襲時の心得]を各界に通達した。
 『空襲警報は、サイレンを1回1分間、3回鳴らす。解除は1回5分鳴らす』
 沖縄中に緊張が走ったが、幸い空襲は1度もなかった。

 【琉球政府行政主席】
 ※大田政作〈おおた せいさく〉。明治37年〈1904〉~平成10年〈1998〉出身地は国頭村。*第3代琉球政府主席
    写真:ウィキペディアHPより
 昭和3年〈1928〉早稲田大学法学部卒業。在学中に高等文官試験に合格。卒業後、長崎地方裁判所判事、帰郷して那覇地方裁判所判事。さらに台北地方法院検事局検事を歴任。膨湖庁長官を務めて終戦を迎えた。戦後は熊本県で弁護士を開業していたが、昭和32年〈1957〉、当時の主席当間重剛の要請で再び帰郷、副主席に就任した。
 昭和34年。当間主席の後を受けて[主席]に任命されるや、沖縄の保守勢力が結集して立党した「沖縄自由民主党」の総裁に選任された。在任中は、日本政府との協力関係を密接に保持しようと「日米琉懇談会」の設立を提唱した。しかし、時の米国政府キャラウェイ高等弁務官は沖縄の政治・経済界の独裁的に介入。世に言う[キャラウェイ旋風]が起き、沖縄自由民主党の足並みは混乱。遂に同党内の派閥抗争が激化、西銘順治ら反主流派の脱党をみるに至り、責任をとって昭和39年〈1964〉11月1日に辞職した。
 その後は、上京して弁護士を開業。そして昭和40年、第7回衆議院議員通常選挙に自由民主党公認で出馬したが落選。次いで昭和47年、日本復帰の年に行われた沖縄初の沖縄県知事選挙に打って出るも、現職行政主席だった屋良朝苗候補に敗れた。

 ◆高等弁務官。
 米国統治下の沖縄における現地最高責任者。
 アイゼンハワー米大統領は昭和32年〈1957〉6月5日、沖縄に関する新基本法として『琉球列島の管理に関する大統領行政命令』を公布。従来の民政副長官に代わる[高等弁務官制]を設けた。高等弁務官の権限は絶大で*琉球政府主席の任命権。*琉球上訴裁判所裁判官の任命権。*法令公布権。琉球政府の立法に対する修正権・拒否権。*琉球政府のすべての公務員に対する罷免権等々。権限、権力は絶対的だった。この高等弁務官は昭和47年〈1972〉5月15日の日本復帰まで続いた。ちなみに歴代高等弁務官は次の通り。
 (1)ゼイムス・E・ムーア中将。(2)ドナルド・P・ブース中将。(3)ポール・W・キャラウェイ中将。(4)アルバート・ワトソン中将。(5)フェルナンド・T・アンガー中将。(6)ゼイムス・B・ランパート中将。
 その3代目のキャラウェイ高等弁務官の時に[旋風]は起きた。
 当時の米国大統領ケネディーの新政策に示された日米協調路線に反対したキャラウェイ高等弁務官は、沖縄を切り離す政策を打ち出した。『離日政策』である。これを「キャラウェイ旋風」と称し、沖縄中が大地震のように揺れた。彼の独裁方策は政治のみでなく経済、金融、社会に及び、まさに[旋風]だった。

 ◆【琉球政府行政主席】
 ※松岡政保〈まつおか せいほ〉。明治30年~平成元年=1897~1989=。
    
       写真:ウィキペディアHPより
 金武町出身。*第4代琉球政府行政主席
 明治45年〈1912〉に渡米。大正13年〈1924〉インディアナ州トライステート大学卒業。昭和2年〈1927〉に帰郷。昭和11年〈1936〉、沖縄製糖に入社し、技師や工場長を務めた。
 戦後は、沖縄諮詢会委員や民政府工務部長を歴任。松岡建設、松岡配電を設立して、政財界に人脈を築いた。大田政作主席時代に始まった政局混迷を収拾するために昭和39年〈1964〉、主席に任命された。
 在任中、保守政党の統合を実現させる一方、ワトソン高等弁務官に掛け合い、行政主席[公選]の実現など、沖縄の自治権拡大に尽力した。歴代主席の中では唯一、アメリカ留学を経験していることから、アメリカ人との交渉には長けていた。趣味は三線作り。金武町の自宅には、自作の三線が何丁もあった。

 ◆昭和30年〈1955〉
 ◇由美子ちゃん事件
 9月4日朝8時過ぎ嘉手納村〈現・町〉の俗称ヤラシ浜原で幼女の死体が発見された。幼女は石川市〈現・うるま市〉の写真館経営、永山盛吉さんの次女由美子ちゃん6歳。無惨な殺人だった。逮捕された犯人は、在沖第22高射砲隊B中隊所属アイザック・J・ハート軍曹31歳。裁判は幼女誘拐、強姦、殺人の容疑で、現北谷町瑞慶覧基地内の軍法廷において公開で成された。判決は第1級殺人で有罪。ハート軍曹は米本国に送られ[死刑]を宣告されたことになっているが、放免されたという説もある。

お知らせ!!
 放送50年「民謡で今日拝なびら」inコザ
 日時:2012年2月23日(木)
    午後6時開場 午後6時30分開演
 料金:前売り券 2,000円  当日券 2,500円
 場所:沖縄市民会館大ホール
 問合せ先:(有)キャンパスレコード 電話:098-932-3801

   


沖縄=県令・知事・主席。そして知事 その⑮

2012-02-01 00:10:00 | ノンジャンル
 ◆昭和24年〈1949〉
 □琉球放送局開設。
 6月。具志川村〈現・うるま市〉栄野比スタジオでテスト放送を実施。翌年2月、米軍指令部の認可によってラジオ放送が始まった。コールサインはAKAR。しかし、地理的条件を勘案して昭和27年〈1952〉、スタジオを那覇市天妃の民政府放送課に移し、さらに首里城跡に移転した。
 放送局名は「ボイス・オブ・リュウキュウ」“琉球の声”としながらも米軍の野戦臨時局だった。局長には川平朝申〈かびら ちょうしん〉が選任され、職員も沖縄人が採用されたものの、放送内容には軍政府の検閲が入った。管理担当に就いたタール放送部情報課長は、沖縄を本土と切り放すことを意図して『放送は琉球語で成すのが好ましい』と局側に要求してきた。しかし、川平朝申局長は『琉球語は日本語の1地方語。それだけは科学や芸術などに関する表現は十分に出来ない』と主張。タール情報課長の要求を撤回させた。
 昭和28年〈1953〉。スタジオはすでに開校〈1950〉していた琉球大学構内・首里城跡の一角に新局社を建設・落成。2月1日に開局式が行われた。式典には、軍側からオグデン准将民政副長官、ルイス准将、沖縄におけるレッドパージ=共産主義者排斥・通称赤狩り=で名を馳せたリッフェンダーファICI副部長ら。民間からは比嘉秀平主席、胡屋朝賞琉球大学学長、志喜屋孝信沖縄民政府知事ほか、一般来賓500名が参列。式典は沖縄人初のアナウンサー川平朝清〈かびら ちょうせい〉が司会。
 川平朝清氏は後に川平清〈きよし〉と改名。昭和29年に開局する沖縄初の民間放送・琉球放送株式会社制作局長から、NHK国際局長を歴任後、現在は東京沖縄県人会会長の任にある。ちなみに、テレビや舞台で活躍している川平謙慈・川平慈英兄弟の父君。

 【臨時琉球中央政府行政主席】
 ※比嘉秀平〈ひが しゅうへい〉。明治34年~昭和31年=1901~1956=。
 読谷村大木に生まれた。琉球政府初代(任命)主席
   写真:ウィキペディアHPより

 沖縄県立第二中学校から早稲田大学に進学。英語を専攻。貧農の家に生まれ、しかも小学生のころ、サトウキビ圧搾機による事故で右腕を失っている。まさに苦学力行だった。早稲田大学を卒業して、高野山中学校の教壇に立った後、母校県立第二中学校教諭、同第三中学校教務主任を歴任し、多くの英才を育てた。
 戦後は志喜屋孝信知事を助けて、沖縄民政府翻訳課長、民政府官房長などを務めた。昭和25年6月。臨時琉球諮詢委員会の委員長に選出され、全琉球統合政府の設立に重要な役割を果たした。その実績が評価されて、昭和26年に琉球臨時中央政府主席、翌年に琉球政府初代行政主席に任命された。
 まもなく大きな政治問題になった米軍の新規基地増設のための強制土地接収など、いわゆる『軍用地問題』では、米軍と民間の板ばさみを余儀なくされて苦悶。民間の批判を受けつつ[土地問題・島ぐるみ闘争]の渦中で急死した。享年55歳。

 ◆昭和25年〈1950〉
 □「軍政府」を「民政府」に改称。
 米軍政府は、12月から名称を「琉球列島民政府」に改称。民政長官にマッカーサー元帥が就任。沖縄現地の事実上の最高権力者・在沖米軍司令官を「民政副長官とする」と発表した。それに伴い各群島政府も「琉球政府」に統一されるが、改称はされても行政内容は「軍政」だった。
 昭和25年8月1日。マッカーサー元帥は、沖縄基地問題協議のため、東京から嘉手納空軍基地に降り立ったが、滞在はわずか1時間半だった。

 【琉球政府行政主席】
 ※当間重剛〈とうま じゅうごう〉。明治28年~昭和46年=1895~1971=。那覇市若狭町生まれ。琉球政府第2代行政主席
  
   写真:ウィキペディアHPより

 大正2年〈1913〉、沖縄県立第一中学校を卒業後、旧制第三高等学校に進み、さらに京都帝国大学で法律を専攻した。戦前は、父当間重慎〈じゅうしん〉のあとを継いで那覇市長を務めた。戦後は一時、公職を追放されて糸満町〈現・市〉に蟄居していたが、その政治経験と信望により、裁判所判事に起用された。これらの実績は、昭和24年〈1949〉の機構改革に伴って任命された政治法務部長、ついで米国民政府布令第12号による琉球民裁判所制度が実施だれた際には、琉球上訴裁判所主席に起用された時代に証明されたと言われる。
 昭和28年〈1953〉11月。当時の那覇市長又吉康和〈またよし こうわ〉の急逝に伴う同市長選挙出馬して当選。その任期中、今度は比嘉秀平主席が急死。昭和31年〈1956〉11月、第2代行政主席に任命されている。軍用地問題で島ぐるみの反対運動が激化している中での就任。「自尊にして謙譲」を処世訓とした政治手腕を発揮した。また、多くの後継政治家を輩出させて、個人的には住民各界の信望があった人物。

お知らせ!!
 放送50年「民謡で今日拝なびら」inコザ
 日時:2012年2月23日(木)
    午後6時開場 午後6時30分開演
 料金:前売り券 2,000円  当日券 2,500円
 場所:沖縄市民会館大ホール
 問合せ先:(有)キャンパスレコード 電話:098-932-3801