旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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雑感・雨の季節

2019-05-20 00:10:00 | ノンジャンル
 木草が一応の大きさに達することを意味する『小満』は5月21日だ。
方言では「すーまん」といい、6月6日に入る『芒種=ぼうすう』とよみ合わせ読みして「小満・芒種=すーまん・ぼうすう」といい「梅雨の季節」としている。
 ちなみに沖縄語には「露=ちゆ」はあるが「梅雨」にあたる言葉は見当たらず、近年になって普通に「梅雨=ちゆ」と発音するようになっている。
 「芒種」とは「芒=ノギ=のある穀物の種を蒔くころ」のことだそうな。さらに「芒・ノギ」とは「イネ科の花を包む外花頴の先端にある針状の突起と辞書にある。
 
 ◇雨に関する慣用句。
 *上らん雨んちんあみあがらん あみんちんあみ)。
 どんなに長雨が続くと言っても、いずれは上がる。上がらない雨はない。
 「夜はいずれ明ける」「陽は沈んでも、また昇る」と同義語。
 「上らん雨んちんあみ」は、例えば不幸をかこっている人に対して「何時までも嘆き悲しんでも詮ないこと。しばらく辛抱すれば、きっといいことが巡ってくる」と、慰めの言葉として使う。

 *雨降ゐねぇー、端鶏ぬん 隠くぃーんあみふゐねぇー ふぁーどぅやーぬん くぁっくぃーん)。
 雨降りには、雑種の鶏でも雨宿りをする。
 まして人間。好んで雨に濡れることはない。濡れて歩くのは愚の骨頂としている。
 少年のころ、学校帰りなぞ、一刻も早く帰宅したいばっかりに、大雨の中を走ったことが幾度もあった。ずぶ濡れのボクを迎えたおふくろは、ボクの身体を拭きながら「雨の時は犬ころでも晴れるのをまつよっ。おまえは子犬かっ」と叱責。生姜湯を飲ませてくれた。身体の芯から温まった。

 ◇雨に関する気象用語。
 *雨=空気中の水蒸気が直径0、5ミリ以上の水滴になったもの。
 *小雨=傘なしで歩ける程度の雨。
 *大雨=大雨注意報発令基準(ところにより異なる)以上の雨量の雨。
 *豪雨=大雨注意報発令基準以上の雨。
 *集中豪雨=狭い範囲で、短い時間に以上に強く降る雨。
 *強い雨=雨の音で話し声が聞き取りづらいほどの雨。
 *にわか雨=晴天から降る雨。
 *やや強い雨=雨の音がよく聞こえるほどの雨。
 *弱い雨=地面が一面に濡れる程度の雨。

 ◇雨に関する琉歌。
 *雨ぬ降てぃ腫りてぃ 通ゐたる里や 刀自惚りがしちゃら 沙汰ん無らん
 《あみぬふてぃ はりてぃ かゆゐたるさとぅや とぅじぶりが しちゃら さたんねらん

 遊郭の芸妓が読んだ一種。
 歌意=雨が降っても晴天でも、毎日のように通ってきた彼氏。このところ影も形も見えないがどうしたのだろう。あんなに「好かんっ」と言っていた奥さんに惚れ直してアタシを忘れたのかしら。

 *今降ゐる雨や雲に宿みしょり 里が花ぬ島着ちゅる間や
 《なま ふゐるあみや くむにやどぅみしょり さとぅが はなぬしま ちちゅるゑだや

 歌意=勤めを終えていったんは帰宅した夫が、また出掛けるという。行く先は遊郭である。妻は黙って玄関先まで送り、傘を差し出し、天を仰いで言った。「いま至極降っている雨よ。しばらく雲に宿を借りていてはくれまいか。せめて、うちの人が(遊郭)に着く間までは・・・。
 妻の鏡というべきか。

 琉歌一首を二分にして詠む形式を分句という。馴染みになった遊郭の芸妓が上句をこう詠んだ。
 (芸妓)我身どぅ捨てぃみしぇみ 刀自どぅ捨てぃみしぇみ
 《わみどぅ してぃみしぇみ トゥジどぅ してぃみしぇみ

 歌意=いざとなったら、ワタシを捨てるのですか?それとも奥さんと別れてくれますか?
 すると色男は答えた。

 *刀自や雨降ゐぬ 傘どぅやゆる 
 《トゥジや あみふゐぬ かさどぅやゆる

 歌意=カミさんは雨をしのぐ傘みたいなもの。何でお前を捨てようぞ。何でお前と別れようぞ。
 男はその場その場のとりつくろいに長けている。
 かくて沖縄は「雨ぬ節入り」・・・・。
 

「歌劇・奥山の牡丹・上演」

2019-05-10 00:10:00 | ノンジャンル
 歌劇「奥山の牡丹」を観たのは昭和25、6年。小学校5、6年生のころだったろうか。
 場所は捕虜収容地のひとつ、石川市(現うるま市)にあった石川劇場。終戦間もなくのことだから露天劇場。少年は自ら好んで観に行ったのではない。当時の劇場の観客席は、ちゃんとした腰掛けがあるわけではない。地面にゴザや適当な敷物を敷いて観劇をする。それも劇場側が用意するのではなく、本土の(花見)の場所取り同様、観る者の先もの勝ちの(場所取り)によるものだった。その場所取りは、たいてい少年少女たちの役割だった。
 舞台の近くもなく遠くもない1等席で「おふくろや叔母たちに芝居を楽しんでもらおう」と、争って(場所取り)を時命にしたことを覚えている。そこで観た芝居のひとつが「歌劇・奥山の牡丹」。
 誰が演じたか役者名は記憶していないが、劇中の(歌)をいくつか聞き覚えたのは確かだ。
 歌劇「奥山の牡丹」の2景で女(メカケ)の色香に迷い、家庭を顧みない士族の父親の留守宅で交わす母子の場の曲節が八重山の(でんさ節)であることを知るのは、ずっと後年のことになるが、妙に物哀しく印象的で少年は意味も分からないまま、時折り口ずさんでいた。
 普通の台詞を各地に島うた・流行り唄に乗せて表現する形式の歌劇。「奥山の牡丹」の場合、どんな曲節が何曲ほど用いられているか?今になって興味を覚えて調べてみた。地謡のそれも含む。

 ◇1幕1景=首里安仁屋村・勢頭(賊民)部落の場。
 *地謡=仲里節。仲風節。謝敷節。
 *役者=あやぐ節。
 ◇2景=平良殿内の場と3景・小湾浜の場。
 *でんさ節。
 ◇4景=平良殿内の庭先の場。
 *地謡=うふんしゃり節。せんする節。揚作田節。謝敷節。
 *役者=口説。せんする節。
 ◇2幕1景=平良殿内座敷の場。
 *役者=古見の橋節。ガマク小節。
 ◇2景=普天間権現前の場。
 *地謡=せんする節。仲順節。
 *役者=しゅうらい節。
 ◇3景=奥山の1軒家の場。
 *地謡=二揚東江節。下出し述懐節。下千鳥節。
 *役者=仲順琉り節。下千鳥節。

 「歌劇」と銘打つだけに古来の曲節、各地の民謡に台詞を乗せて、地謡・演者一体となって構成する手法。現在のように作詞作曲をよくする者も少なかった時代。歌劇は島うたを流行らせ、島うたは歌劇を補い合ったものだと、いまさらながら感じ入らざるを得ない。

 歌劇は明治中期に発生し、大正時代に全盛をみる。その後も数多くの歌劇が創作されたが、必ずしも平坦な道を歩んできたのではない。
 1917年(大正6)=『歌劇上演禁止令』が出た。
 世は軍国主義一色の時代。
 「男女の色模様をテーマとする歌劇は時局がら、国民の戦意高揚を低下させ、良俗に反する」。理由はそれだった。警察は劇場内に(検番)を設け、戦意抑揚に違反してはいないか監視をした。劇団側は「ならば!」と、夫の出征中の家庭を守る妻の献身ぶりを描いた「銃後の妻」「乃木大将物語」などといった創作劇を舞台に掛けて、芝居興行を続けてきた経緯もある。

 ところで。
 歌劇「奥山の牡丹」は歌劇創りの名人と今に名を残す役者・伊良波尹吉の前後編の作品。はじめ、前編とされる芸題だけの出し物だったが、大好評につき急ぎ(後編)を創作、併せて上演したとも言われる。

 琉球歌劇保存会(会長吉田妙子)は、保存会結成30周年を迎える。
 来る6月30日には記念公演として国立劇場おきなわで「奥山の牡丹」を上演する。伝統ある歌劇だけに演劇界にも高齢の波は遠慮なく押し寄せ一時(存続の危機))にまで追い込まれたが、そこは役者連の踏ん張りでここまできた。若手育成に尽力してきた。演者の高齢化は各芸能界が抱える重大事だが、関係者の取り組みによって(消滅)の道をふさいでいる。
 今回の「奥山の牡丹」では主人公のひとりの若者を?楙觴多佑?蕕犬襪箸いΑ4鋿圓靴討いぁ

さらば平成・来たれ令和

2019-05-01 00:10:00 | ノンジャンル
 平成から令和へ。
 「その瞬間に立ち会っていたい」。特別な思い入れがあってのことではないが、4月30日から5月1日に日付がかわるラジオの時報音を待った。そして、この時のために買っておいた本の裏に「令和1年5月1日・直彦蔵書」と書いた。これが「令和」の二文字の書始めである。
 これから幾度となく付き合う「令和」の文字と思うと、なぜか身近に感じられて、素直になっている自分に気付いて、ひとりテレていた。

 新元号「令和」の成り立ちについて、おさらいをしてみる。
 ひと月前の4月1日。政府は臨時閣議を開き「平成」に代わる新元号を「令和」を決定した。4月30日に退位された平成天皇が改元政令に署名、公布。皇太子さまが新天皇に即位する5月1日午前0時に施行される。
 皇位継承前に新元号が公表されるのは初めてのこと。

 「令和」は「大化(645年)」から数えて248番目。
 改正に関しては、いろいろ法的手続きが必要で、1979年制定の元号法に基づく事例としては「平成」に続いて2例目となる。
 改元は天皇一代にひとつの元号とする「一世一元」制が採用された明治以降、天皇逝去に伴う皇位継承時に行われてきた。今回は退位特別法に基づき、逝去によらない改元となった。

 政府は「令和」の考案者を公表せず、総理大臣は決定過程に関する公文書を30年間は非公開とするとしている。「考案した人たちの名誉もあるので30年という時は必要」としているが、国家的決まりごとには、しばし秘匿しなければならないことが多々あるようだ。
 政府関係者によると、選定手続きに示した原案には、日中双方の古典を典拠とした案がそれぞれ複数あった。アルファベットの頭文字で表示した際の「明治、大正、昭和、平成」との混同を避けるため「M、T、S、H」が頭文字となる案を除いた。「令和」の頭文字はR。
 「令和」の典拠は、
 『初春令月、気淑風和、梅披鏡之粉、蘭薫珮後之香=初春の令月にして気淑(きよ)く風和らぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫らす』という万葉集の中の巻五・32首の序文の引用としている。
 平明な解釈をすれば「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められている」と安倍晋三首相は記者会見で述べている。

 ひごろ目にもかからず、使ったことのない漢字が列記されていて、解釈に戸惑う・・・・。が、それはボチボチ理解するとして、脳裏をかすめたのは琉歌1首。「松竹梅」と題する打ち組み踊りの梅の踊りに用いられる「東里節=あがりじゃとぅぶし」の文句。

 ♪梅でんし雪に詰みらりてぃ後どぅ 花ん匂い増しゅる浮世でむぬ
 《ンミでんし ゆちに ちみらりてぃ あとぅどぅ はなん にういましゅる うちゆでむぬ

 歌意=梅の花も長い冬の間は、雪の中で耐え忍んで後に、巡り来る春に美しい花を咲かせ、芳しい香りを放つのである。まして人間、苦難の時代を乗り越えてこそ、我が世の春を謳歌できるのである。
 「令和」と重ね合わすには多少、無理があるかも知れないが、この1首が脳裏をよぎるのは実感だ。
 
 ところで。
 宮古島には名前が全国唯一の「平成さん」がいた。
 宮古島市の根間平成さん(ねま へいせい・85歳)。
 平成さんは1933年(昭和8年)生れ。
 父の平昌(へいしょう)さんは、我が子に成功して欲しいとの願いを込めて「平成」と名付けたそうな。「平成さん」は、全国に3人いたそうだが、いまでは根間さん1人になった。
 小学校4年生の折り沖縄戦を体験。宮古島も戦禍に見まわれた。旧日本軍の輸送船は米軍のグラマン機の爆撃に遭って沈没。米軍艦からの艦砲射撃も受けた。上皇陛下とは同年。「昭和の時代も忘れない」と語る。
 昭和から平成に代わった年に退職。現在はキャベツやニンジンなどの栽培に精を出し「平成は災害が多かった。令和は平和一色であってほしい」と、新元号に期待を託している。

 ♪誠一ちぬ浮世さみ 何故でぃ云言葉ぬ合わなうちゅみ
 《まくとぅ ふぃとぅちぬ うちゆさみ ぬゆでぃ いくとぅばぬ あわん うちゅみ

 歌意=人間の世。誠実であることが平和へ繋がる方策である。誠意をもった『言葉』がかみ合わないわけはない。話し合いをもって「いい世の中」を築こう。
 『さらば平成・来たれ令和』。