琉球民謡・最後の歌姫大城美佐子芸道足掛60年記念ライブ「琉球の風と海と太陽」。
このビッグタイトルのライブが8月7日、東京赤坂ACTシアターであった。
「大城美佐子について書いてほしい」。主催者側の依頼と「芸道足掛け60年記念」という趣旨に遊び心をそそられて、パンフレット用の原稿を寄せた。会場へ行けなかった方のために許可を得て転載する。談笑あれ。
年齢順に上から大城美佐子(昭和11年)、山里ゆき(昭和12年)、瀬良垣苗子(昭和13年・故人)の3人は、女性歌者の先頭にあった。
琉球放送ラジオ、週一の公開録音番組「芸能バラエティー・ふるさとバンザイ」の準レギュラーとして彼女たちは、それぞれピンで出演。沖縄中をくまなく駆け巡っていた。
逢えば笑顔で会話する3人だが、時に揃って舞台に立つと、客に見せる笑顔とは裏腹に(ライバル意識)が目に表れて、殊に山里ゆき、瀬良垣苗子には、それが顕著だった。それがまた、表現力にムチを入れるのか、個性を十二分に発揮して番組のカロリーを上げた。
瀬良垣苗子は声量、山里ゆきは美貌と情感。大城美佐子はというと、あくまでも淡々と説得力のある唄いぶりが魅力。現在、一線で活躍している女性唄者は、多かれ少なかれ、彼女たちの影響を受けていると思われる。
大城美佐子。
昭和11年7月8日大阪府大正区北恩加島生まれ。両親がいかなる事情で大阪に渡ったのか、問いもしないし、彼女も語らないから、詳しいそこいらをボクは知らない。少女時代に帰郷して親の故郷、名護市久志(当時久志村)に育つが、大阪の水とよっぽど合っていたとみえて、青春時代はかの地を往来していた。妙なアクセントの大阪弁を、いまもって操るのはそのせいだろう。
ようやく沖縄に定住するようになったころ、大御所・知名定繁、風狂の歌者・嘉手苅林昌、松田永忠(いずれも故人)に見出され、昭和37年、知名定繁作詞作曲「片思い」でレコードレビュー。その後は嘉手苅林昌とのコンビによる情節、早弾き、遊び唄は絶品と称されて、今日に至っている。
長い付き合いにまかせてボクは拙著「交友録・島うたの小ぶしの中で=1995年初版」にこう書いている。題して「猛女・優女・歌女」。
「普天間の料亭〝白富士″に、いい女唄者がいる。聴きに行こう」。
読谷村長浜での松田永忠から声がかかった。
誘われるままに同行して逢ったのが大城美佐子だった。けれども、その夜の彼女は三線も取らず、ひと節も唄わず、妙な関西訛りでくだを巻き、あおるように酒を飲み続けるばかり。
「唄者というよりも、これは猛女、大した女傑だ!」
これがボクの初印象。
ところが、二度目に逢った折、松田永忠の他に嘉手苅林昌が一緒だった。
泡盛を前に三線を取った彼女、前回とは、人が変わったように、乗りに乗った。殊に嘉手苅との掛け合いの遊び唄は、ボクの脳みそを痺れさせた。大城美佐子に惚れた瞬間だ。もちろん、顔にではなく唄にである。以来、惚れたついでにボクは彼女のことを、沖縄訛りで(ミサー)と呼ぶようになっていく。琉球歌劇の抜粋「伊江島物語=原曲・奄美沖永良部民謡・あんちゃんめ小」、歌劇「報い」のひと節「楽しき朝・一名かながなぁとぅ」、小歌劇「かまやしな」の挿入歌「ふぃじ小節」などをプロデュース、マルフクレコードから出した。
話をもとに戻す。
知名定繁の本格的な指導を受け、45回転(ドーナツ盤)を出すに至って(ミサー)は(女嘉手苅林昌)の異名を取り、民謡界に確かな形で位置付いたのである。
情節、遊び唄、芝居唄・・・・。唄数の多さは驚異的で、これまた他の唄者の羨望・・・・を通り越して尊敬の念をひとり占めにしている。
けれども、けれども、根が自由人である。「引退事件?」が起きた。
1970年、突然「大城美佐子引退公演」が、嘉手納劇場で開催された。
知名定繁、嘉手苅林昌、そうそうたる唄者はじめ、演劇界からは大宜見小太郎(故人)、真喜志康忠(故人)ら御大連が友情出演。彼女の引退を惜しみながら、舞台はいやが上にも盛り上がった。
プログラムも半ばに差しかかった。いよいよ彼女の口から引退の弁が述べられる。観客が息を呑んで注目する舞台中央に、神妙な表情で登場したミサー。
「このたび、お奨めもあって引退することになりました。これまでの御贔屓ありがとうございました(中略)
これを機会に今後、ますます唄の道に精進したいと、いま心に強く誓いました。これからもよろしくお願いします」。
出演者はもちろん、観客もド肝を抜かれた。司会役で傍にいたボクなぞ、頭の中が空っぽになり、卒倒寸前だった。
頓着がない。大らかであると言えばそれまでだが、ミサーらしいと言えば、得心できないこともない。
後日、事件の真意を問うてみた。
「ウチは唄者だから、特別公演だろうが、引退公演だろうが、唄う場があればよかったのヨ」
そのしたたかさが好きで、ボクはミサーファンでいる。
TBSホールにおいでいただいた方々にご注意申し上げます。もし、彼女のトークタイムがあるならば、一語一句を聞きもらさず、何を言いたいのか、命がけで、善意に理解していただきたいのです。
これだけが心配でなりません。
大城美佐子は「これが最後の・・・・」と言ったかも知れないが、彼女のことだ。これから数度、記念ライブを持つだろう。乞うご期待。
このビッグタイトルのライブが8月7日、東京赤坂ACTシアターであった。
「大城美佐子について書いてほしい」。主催者側の依頼と「芸道足掛け60年記念」という趣旨に遊び心をそそられて、パンフレット用の原稿を寄せた。会場へ行けなかった方のために許可を得て転載する。談笑あれ。
年齢順に上から大城美佐子(昭和11年)、山里ゆき(昭和12年)、瀬良垣苗子(昭和13年・故人)の3人は、女性歌者の先頭にあった。
琉球放送ラジオ、週一の公開録音番組「芸能バラエティー・ふるさとバンザイ」の準レギュラーとして彼女たちは、それぞれピンで出演。沖縄中をくまなく駆け巡っていた。
逢えば笑顔で会話する3人だが、時に揃って舞台に立つと、客に見せる笑顔とは裏腹に(ライバル意識)が目に表れて、殊に山里ゆき、瀬良垣苗子には、それが顕著だった。それがまた、表現力にムチを入れるのか、個性を十二分に発揮して番組のカロリーを上げた。
瀬良垣苗子は声量、山里ゆきは美貌と情感。大城美佐子はというと、あくまでも淡々と説得力のある唄いぶりが魅力。現在、一線で活躍している女性唄者は、多かれ少なかれ、彼女たちの影響を受けていると思われる。
大城美佐子。
昭和11年7月8日大阪府大正区北恩加島生まれ。両親がいかなる事情で大阪に渡ったのか、問いもしないし、彼女も語らないから、詳しいそこいらをボクは知らない。少女時代に帰郷して親の故郷、名護市久志(当時久志村)に育つが、大阪の水とよっぽど合っていたとみえて、青春時代はかの地を往来していた。妙なアクセントの大阪弁を、いまもって操るのはそのせいだろう。
ようやく沖縄に定住するようになったころ、大御所・知名定繁、風狂の歌者・嘉手苅林昌、松田永忠(いずれも故人)に見出され、昭和37年、知名定繁作詞作曲「片思い」でレコードレビュー。その後は嘉手苅林昌とのコンビによる情節、早弾き、遊び唄は絶品と称されて、今日に至っている。
長い付き合いにまかせてボクは拙著「交友録・島うたの小ぶしの中で=1995年初版」にこう書いている。題して「猛女・優女・歌女」。
「普天間の料亭〝白富士″に、いい女唄者がいる。聴きに行こう」。
読谷村長浜での松田永忠から声がかかった。
誘われるままに同行して逢ったのが大城美佐子だった。けれども、その夜の彼女は三線も取らず、ひと節も唄わず、妙な関西訛りでくだを巻き、あおるように酒を飲み続けるばかり。
「唄者というよりも、これは猛女、大した女傑だ!」
これがボクの初印象。
ところが、二度目に逢った折、松田永忠の他に嘉手苅林昌が一緒だった。
泡盛を前に三線を取った彼女、前回とは、人が変わったように、乗りに乗った。殊に嘉手苅との掛け合いの遊び唄は、ボクの脳みそを痺れさせた。大城美佐子に惚れた瞬間だ。もちろん、顔にではなく唄にである。以来、惚れたついでにボクは彼女のことを、沖縄訛りで(ミサー)と呼ぶようになっていく。琉球歌劇の抜粋「伊江島物語=原曲・奄美沖永良部民謡・あんちゃんめ小」、歌劇「報い」のひと節「楽しき朝・一名かながなぁとぅ」、小歌劇「かまやしな」の挿入歌「ふぃじ小節」などをプロデュース、マルフクレコードから出した。
話をもとに戻す。
知名定繁の本格的な指導を受け、45回転(ドーナツ盤)を出すに至って(ミサー)は(女嘉手苅林昌)の異名を取り、民謡界に確かな形で位置付いたのである。
情節、遊び唄、芝居唄・・・・。唄数の多さは驚異的で、これまた他の唄者の羨望・・・・を通り越して尊敬の念をひとり占めにしている。
けれども、けれども、根が自由人である。「引退事件?」が起きた。
1970年、突然「大城美佐子引退公演」が、嘉手納劇場で開催された。
知名定繁、嘉手苅林昌、そうそうたる唄者はじめ、演劇界からは大宜見小太郎(故人)、真喜志康忠(故人)ら御大連が友情出演。彼女の引退を惜しみながら、舞台はいやが上にも盛り上がった。
プログラムも半ばに差しかかった。いよいよ彼女の口から引退の弁が述べられる。観客が息を呑んで注目する舞台中央に、神妙な表情で登場したミサー。
「このたび、お奨めもあって引退することになりました。これまでの御贔屓ありがとうございました(中略)
これを機会に今後、ますます唄の道に精進したいと、いま心に強く誓いました。これからもよろしくお願いします」。
出演者はもちろん、観客もド肝を抜かれた。司会役で傍にいたボクなぞ、頭の中が空っぽになり、卒倒寸前だった。
頓着がない。大らかであると言えばそれまでだが、ミサーらしいと言えば、得心できないこともない。
後日、事件の真意を問うてみた。
「ウチは唄者だから、特別公演だろうが、引退公演だろうが、唄う場があればよかったのヨ」
そのしたたかさが好きで、ボクはミサーファンでいる。
TBSホールにおいでいただいた方々にご注意申し上げます。もし、彼女のトークタイムがあるならば、一語一句を聞きもらさず、何を言いたいのか、命がけで、善意に理解していただきたいのです。
これだけが心配でなりません。
大城美佐子は「これが最後の・・・・」と言ったかも知れないが、彼女のことだ。これから数度、記念ライブを持つだろう。乞うご期待。