旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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君は君 我は我・大城美佐子

2016-08-20 00:10:00 | ノンジャンル
 琉球民謡・最後の歌姫大城美佐子芸道足掛60年記念ライブ「琉球の風と海と太陽」。
 このビッグタイトルのライブが8月7日、東京赤坂ACTシアターであった。
 「大城美佐子について書いてほしい」。主催者側の依頼と「芸道足掛け60年記念」という趣旨に遊び心をそそられて、パンフレット用の原稿を寄せた。会場へ行けなかった方のために許可を得て転載する。談笑あれ。

 年齢順に上から大城美佐子(昭和11年)、山里ゆき(昭和12年)、瀬良垣苗子(昭和13年・故人)の3人は、女性歌者の先頭にあった。
 琉球放送ラジオ、週一の公開録音番組「芸能バラエティー・ふるさとバンザイ」の準レギュラーとして彼女たちは、それぞれピンで出演。沖縄中をくまなく駆け巡っていた。
 逢えば笑顔で会話する3人だが、時に揃って舞台に立つと、客に見せる笑顔とは裏腹に(ライバル意識)が目に表れて、殊に山里ゆき、瀬良垣苗子には、それが顕著だった。それがまた、表現力にムチを入れるのか、個性を十二分に発揮して番組のカロリーを上げた。
 瀬良垣苗子は声量、山里ゆきは美貌と情感。大城美佐子はというと、あくまでも淡々と説得力のある唄いぶりが魅力。現在、一線で活躍している女性唄者は、多かれ少なかれ、彼女たちの影響を受けていると思われる。

 大城美佐子。
 昭和11年7月8日大阪府大正区北恩加島生まれ。両親がいかなる事情で大阪に渡ったのか、問いもしないし、彼女も語らないから、詳しいそこいらをボクは知らない。少女時代に帰郷して親の故郷、名護市久志(当時久志村)に育つが、大阪の水とよっぽど合っていたとみえて、青春時代はかの地を往来していた。妙なアクセントの大阪弁を、いまもって操るのはそのせいだろう。
 ようやく沖縄に定住するようになったころ、大御所・知名定繁、風狂の歌者・嘉手苅林昌、松田永忠(いずれも故人)に見出され、昭和37年、知名定繁作詞作曲「片思い」でレコードレビュー。その後は嘉手苅林昌とのコンビによる情節、早弾き、遊び唄は絶品と称されて、今日に至っている。
 長い付き合いにまかせてボクは拙著「交友録・島うたの小ぶしの中で=1995年初版」にこう書いている。題して「猛女・優女・歌女」。
 
 「普天間の料亭〝白富士″に、いい女唄者がいる。聴きに行こう」。
 読谷村長浜での松田永忠から声がかかった。
 誘われるままに同行して逢ったのが大城美佐子だった。けれども、その夜の彼女は三線も取らず、ひと節も唄わず、妙な関西訛りでくだを巻き、あおるように酒を飲み続けるばかり。
 「唄者というよりも、これは猛女、大した女傑だ!」
 これがボクの初印象。
 ところが、二度目に逢った折、松田永忠の他に嘉手苅林昌が一緒だった。
 泡盛を前に三線を取った彼女、前回とは、人が変わったように、乗りに乗った。殊に嘉手苅との掛け合いの遊び唄は、ボクの脳みそを痺れさせた。大城美佐子に惚れた瞬間だ。もちろん、顔にではなく唄にである。以来、惚れたついでにボクは彼女のことを、沖縄訛りで(ミサー)と呼ぶようになっていく。琉球歌劇の抜粋「伊江島物語=原曲・奄美沖永良部民謡・あんちゃんめ小」、歌劇「報い」のひと節「楽しき朝・一名かながなぁとぅ」、小歌劇「かまやしな」の挿入歌「ふぃじ小節」などをプロデュース、マルフクレコードから出した。
 話をもとに戻す。
 知名定繁の本格的な指導を受け、45回転(ドーナツ盤)を出すに至って(ミサー)は(女嘉手苅林昌)の異名を取り、民謡界に確かな形で位置付いたのである。
 情節、遊び唄、芝居唄・・・・。唄数の多さは驚異的で、これまた他の唄者の羨望・・・・を通り越して尊敬の念をひとり占めにしている。
 けれども、けれども、根が自由人である。「引退事件?」が起きた。

 1970年、突然「大城美佐子引退公演」が、嘉手納劇場で開催された。
 知名定繁、嘉手苅林昌、そうそうたる唄者はじめ、演劇界からは大宜見小太郎(故人)、真喜志康忠(故人)ら御大連が友情出演。彼女の引退を惜しみながら、舞台はいやが上にも盛り上がった。
 プログラムも半ばに差しかかった。いよいよ彼女の口から引退の弁が述べられる。観客が息を呑んで注目する舞台中央に、神妙な表情で登場したミサー。
 「このたび、お奨めもあって引退することになりました。これまでの御贔屓ありがとうございました(中略)
これを機会に今後、ますます唄の道に精進したいと、いま心に強く誓いました。これからもよろしくお願いします」。
 出演者はもちろん、観客もド肝を抜かれた。司会役で傍にいたボクなぞ、頭の中が空っぽになり、卒倒寸前だった。
 頓着がない。大らかであると言えばそれまでだが、ミサーらしいと言えば、得心できないこともない。
 後日、事件の真意を問うてみた。
 「ウチは唄者だから、特別公演だろうが、引退公演だろうが、唄う場があればよかったのヨ」
 そのしたたかさが好きで、ボクはミサーファンでいる。

 TBSホールにおいでいただいた方々にご注意申し上げます。もし、彼女のトークタイムがあるならば、一語一句を聞きもらさず、何を言いたいのか、命がけで、善意に理解していただきたいのです。
 これだけが心配でなりません。

 大城美佐子は「これが最後の・・・・」と言ったかも知れないが、彼女のことだ。これから数度、記念ライブを持つだろう。乞うご期待。
 


噂供養・永六輔さんのこと

2016-08-10 00:10:00 | ノンジャンル
 2度目に逢ったのは、東京上野の席亭「本牧亭」の楽屋だった。
 その日、風狂の歌者嘉手苅林昌独演会があり、準備万端仕込みを終え、客入れをする時間の楽屋に顔を見せた。
 「何か手伝うことは?」と永さん。「お手数をかけることはありません」とボク。すると彼は「せめて下足番でもしましょう」と、楽屋の座布団も温めず、そそくさと木戸に向かった。
 やがて木戸からは「いらっしゃいっ」の入場者案内の(永さん独特の)声と下足札を客に渡す様子がうかがえる。それだけで、飾り気のない人柄を実感した。おかげさまで満員。表戸を閉めるや今度は、場内売店のおばさんとともに「ラムネはいかが。金平糖、煎餅はいかが」を始めた。
 (この人はただ者ではない)。心を鷲掴みにされた瞬間だった。沖縄が日本に復帰して2年目の秋のことである。
 最初の出逢い。永六輔さんを引き逢わせてくれたのは、上司故稲福健蔵氏。
 「永六輔さんが来ている。お前は逢っていた方がいいだろう」と、夕食の席に置いてもらった。以来、ラジオ番組の制作を通して都度、接する機会を得た。
 琉球放送に入社してテレビ、ラジオ制作に携わってきたことだが、永さんのひと言でボクは(ラジオに専念する)ようになったと言える。
 「その地方のラジオを聞けば、その地方の文化がわかる」。
 この一言だ。ローカル放送は、ニュース以外は中央に向けてはならない。その地方の人びとのものでなければ意味がない。ボクは永さんのひと言ひと言をそのように理解して、今日まで(ラジオ人間)を通してきている。
 永さんが逝ってはじめて、そのことに気付いた。なにしろ、言葉を操る達人だった。
 永さん企画の番組や著書のタイトルをしてからが市井の心情を映し出している。ラジオ番組「誰かとどこかで」。誰かは特定の人ではなく、どこかも地域を特定していない。全国各地、人のいるところ、いないところを行脚して、人を選ばず、言葉を交わすことを楽しみ、その自然体を遠藤泰子女史との絶妙なトークでまとめた番組だったことは周知の通り。
 各地の刑務所での受刑者を対象とした講演をまとめた著書の表題はずばり「悪党諸君」。高齢化社会を扱った「大往生」。日常の諸々を綴った「六輔七転八倒」出逢いの人との会話で印象に残ったそれを書いた「無名人名語録」などなど。なにしろ、語呂合わせ、文字表現の妙は、まさに永六輔の独壇場「永六輔の世界」と言えよう。
 はじめて明かすが、RBCiラジオの「一言葉二言葉島言葉」も「ゆかる日まさる日さんしんの日」のタイトルも永六輔流語呂合わせにならったと言えないこともない。

 「永六輔のことは、ボクが1番知っている」。
 そう自認する人は、有名人無名人問わず、全国各地に多々いるだろう。そう、皆1番でいいのである。好むと好まざるとに関わらず、永六輔さんは、そう思わせる人なのだから、皆1番でいよう。永さんが好んで散策した那覇公設市場のおばさんは、訃報に接した数日後、通りすがりのボクを引き止めて、
 「六輔さん・・・・逝ったんだね。私とはここで、よく立ちばなしをしたのよ」と言って泣いていた。
 文化の話、放送の話、人の話・・・・。永さんに聞いた話は筆舌に尽くせない。

 夕陽が好きで全国のそれを見てまわった永さん。
 2016年7月7日の東京の夕陽に導かれて西方浄土に逝った。けれども永さんは、我々の噂供養の中に生き続ける。いつかどこかで‟1番仲間”に参集願って永六輔を語ろう。

 以上は、琉球新報社文化部米倉外昭記者の依頼を受けて同紙7月18日掲載の追悼文を許可を得て転載した。

 沖縄は旧盆のさなかである。
 旧暦の「七夕」から盆の期間に入る。各家々では先祖供養を厳かに執り行う。逝った人をしみじみと偲ぶ。
 「嘘か誠か」。確かめてもないし、確かめないほうが「永六輔の世界」らしいのだが、噂に聞けば小沢昭一、加藤武、秋山ちえ子さんら、親交のあったお仲間と沖縄で言う「ユーレー・結い・模合」をしていたそうな。金額は知らない。
 大抵の場合「模合」「頼母子講」なるものは、相互経済のための庶民の金融制度で、決められたお金を出し合い、順繰りにまとまった金を手にするのだが、永さんたちの場合(生きている間は、誰もとらない)という誓約が交わされていたという。永さんは取らずに逝った。メンバーはあと幾人残っているのだろうか。高額になるであろう積立金を手にするのは誰だろうか。手にしたとしても、その最後の人は虚しくてならないだろう。
 「まさかっ。いくら洒落っ気の強い人たちでも、そんなバカな模合はあるまい」。
 そう疑う一方、
 「彼らならやりかねない。いや、事実である」と決め込んでおく。
 生きている人間の頭上には、空という(上)がある。天国と言ってもいいだろうか。天国の上には何があるのだろうか。永さんは先に行っている作曲家中村八大、歌手坂本九トリオで、さらなる「上を向いて歩こう」を、もう踏み出しているに違いない。



旅に出た・永六輔さん

2016-08-01 00:10:00 | ノンジャンル
 人には3タイプがある。
 路傍に名もない花が咲いている。
 それに気づかず、目もくれず通り過ぎてしまう人。
 花に気付き、歩きながら見て通り過ぎて行く人。
 気付いて、通り過ぎても、引っ返して、いま1度見る人。

 永六輔さんは、路傍の花を確認した後、引き返して色や形をいま1度見る人だったように思える。永六輔作詞、中村八大作曲、デューク・エイセス唄「いい湯だな」にそれを感じる。のちにドリフターズが歌って誰もが歌い続けている国民的歌謡。もちろん、現地へ足を運んで書いた詩。それも通り一遍、1度っきりの(上州の湯)ではなかっただろう。1度目は何時だったかは知らないが、群馬県でつかった湯と出逢いの人と湯けむりの風情を幾度も心体で感じたくて群馬参りを繰り返したに違いない。再三のそれがなければ、あの1行1行は、筆の先に生きることはなかった・・・・と思う。

 おそらく永六輔さんの企画だろうが「にっぽんのうた」なるシリーズを東芝レコードから出している。1966年から1970年にかけてである。北は北海道を主題にし、名物のふかしたジャガイモをほほばるさまの「ホッファイホー」はじめ、宮城県「こけしの唄」。福島県「我等が庄助さん」、茨城県「筑波山麓合唱団」、静岡県「茶、茶、茶」、東京都「君の故郷は」、岐阜県「マンボ鵜」、京都府「女ひとり」、山口県「この橋を渡ったら」、徳島県「踊り疲れて」、長崎県「オランダ坂をのぼろう」、鹿児島県「燃えろ若者」。全国46都道府県、1県ももらしてはいない。全52曲。すべて永六輔、中村八大、デュークエイセスである。そして(沖縄)は、まだアメリカ統治下にある。それでも永六輔さんは「にっぽんのうた」に組み入れて「ここはどこだ」を書いている。
 ♪ここはどこだ いまはいつだ
  なみだは かわいたのか
  ここはどこだ いまはいつだ
  いくさは おわったか

  ここはどこだ きみはだれだ
 東京にいて書いたのではない。シリーズの締めに沖縄をおとづれ筆を走らせた。1970年。永六輔さんは36歳。はじめての沖縄の地だったようだ。

 ♪流された血を
  美しい波が洗っても
  僕達の島は
  それを忘れない
  散ったヒメ百合を忘れはしない
  君の足元で歌いつづける


 ここはどこだ きみはだれか なかまはいるか。
 日本の敗戦で日本国から切り離された沖縄で、戸惑ったのではない。「ここはどこだ」と、国家に抗議したのだ。六輔語録の中のひとつ「東京からは沖縄は見えないが、沖縄からは東京がよく見える」は、そのとき実感したのだろう。
 以来、永六輔さんは幾度沖縄に遊んだことか。
 これも沖縄という路傍の小さな花の色や形を確かめたくて、引き返し、繰り返しこの地を踏みにきたと理解している。

 2016年7月7日。天国の花が見たくなったのか、長い旅に出た。
 噂供養をかねてエピソードを二つ三つ。

 ◇個人的なことでは、めったに怒らなかった永さんを本気で怒らしてしまったことがある。
 RBCiラジオ主催「ゆかる日まさる日さんしんの日」の1コーナー対談「さんしん芸を語る」の生放送でのことだ。座談は永六輔、怪人・名人の歌者登川誠仁。仕切りはボク。出だしは永さんも、あの豪快な笑いを連発して永六輔節炸裂だったが、なにしろ、80%沖縄口で話す登川誠仁。仕切るボクもそれに合わす。そうなると永六輔さんは、登川・上原の会話に絡めない。何を話しているか察しるかして沈黙の間が続く。いい気になった登川・上原は、永さんの存在を忘れて「おきなわのうた」にのめり込んだ。この歌自慢に耐えられなかったのだろう。永さんはハンドマイクを取って、すくっと立ち、ステージ中央へ。そして言い歌った。
 「沖縄の歌だけがいいのではない!ボクが生まれ育った浅草にも、庶民が歌った、すばらしい歌がある!」
 朗々と(木遣り歌)を披露した。満場は沸きに沸いたのは言うまでもない。それを受けて永さんは、どうだ!とばかり登川・上原にいちべつをくれて、ボクはこれまで!と楽屋へ去った。残されたふたりは、殊にボクはどぎまぎした。それを救ってくれたのは登川誠仁のひと言。
 「人の自慢ばなしを聞けば、自分も自慢したくなるのは人情だ。島うた自慢をしたら、永さんとこの(島うた?自慢も聞くべきだった。永さんは本気で怒ったよ!お前、司会が下手だなぁ!)。

 ◇現在まで56年放送しているラジオ番組「民謡で今日拝なびら」を「東京で今日拝なびら」をTBSホールで公開放送した折り、永六輔さんに参加してもらった。開始前ボクは放送界でいう(掴みのための前説・開始前にやる前説明)のため、ボクがステージに出ようとすると、永さんが止めた。
 「ボクが沖縄へ行けばゲストで、紹介はキミがしてくれる。ここはボクの東京。キミはゲストだから、マエセツはボクがやる」
 止める間もあらばこそ、ステージに進み、同行した歌者の紹介から、司会のボクまで持ち上げてくれた。そのマエセツは本番よりも面白かった。気遣いの人なのである。ボクは学習する前に泣いた。
 永六輔さんは「遠くへ行きたい」なぞと自らの歌をうたいながら逝った。けれども「にっぽんのうた」を生んだ日本各地の(ごく近く)に生き続けるのである。路傍の名もない小さな花と語り合いながら・・・・。