旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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6月は鎮魂の月・宮森小学校ジェット機墜落事件

2018-06-20 00:10:00 | ノンジャンル
 6月の声とともに23日の沖縄戦全戦没者「慰霊の日」。そして30日に起きた石川市(現うるま市)宮森小学校・米軍ジェット機墜落事件を重ね合わせないわけにはいかない。
 1959年午前10時35分頃、飛行中の米軍ジェット機(F100型)が突然火を噴き、民家に墜落した後、そのまま宮森小学校の校舎に突っ込んだ。丁度、ミルク給食時間で子どもたちが教室内にいた。児童12名(1名は後遺症による)、近隣住民6名死亡。
 こう書くと単なる事件メモになるが、現場はまさに地獄。私も駆け出しの琉球新報社社会部記者として、午後1時前には現場にいた。生存した児童、近隣住民の阿鼻叫喚の地獄図のさまは、決して誇大表現ではない。さらなる詳細を知りたい方は、のちに組織されたNPO法人石川・宮森六三〇会編「石川・宮森ジェット機墜落事故資料・証言集・命の叫び」を一読願いたい。

 話は1年後に飛ぶ。
 当時の校長仲嶺盛文氏(故人)は、1年忌に寄せて、次のような追悼文を記している。

 「子らよ 安らかに眠れーみんないい子でしたー」

 去年のきょうでしたね。いまみたいに平和な学園にジェット機が落ちた。あの時のことはわすれません。ヨイ子たち、どうか安らかに眠ってください。かわいい子どもたち。あのおそろしいジェット機事件であなたたちが一瞬にしてこの世を去ってから1年たちました。
 この1年間、私にとって毎日毎日が苦しい日の連続でした。当初は、ただ元気を失ってウロウロするばかりでしたが、たくさんの方々にはげましをもらい、やっと勇気をとりもどして今日までがんばってきました。
 それでも、あなたたちのことはわすれません。学校で元気にお勉強していた頃のことを受持ちの伊波あや子先生、比嘉静先生、吉村佐代子先生とともに思い出します。
*喜屋武玲子ちゃん。
 ノートのつかいかたもよく、元気ないい子でした。かわいい声でいろいろ先生にはなしてくれました。
*上江州洋子ちゃん。
 図工が上手で写生展で最優秀賞をもらったことがありました。字もきれいだった。
*喜納常次ちゃん。
 思っていることはハキハキいういい子でした。図画も上手だったのをおぼえています。
*喜友名啓二ちゃん。
 無口でおとなしかったが、よくべんきょうしました。成績もよかった。
*久高徳子ちゃん。
 洋子ちゃんとは仲よしでしたね。よく人形の絵を描いていたのをいまもおぼえています。
*亀島郁子ちゃん。
 おとなしいけどやさしい素直な子でした。
*上間芳武ちゃん。
 いっしょにひまわりを植えるなど先生の手伝いをよくやりました。あなたが死んでもひまわりだけがのこりました。先生はいっしょうけんめい手入れをしましたよ。
*松田梅二ちゃん。
 あなたはいつもさびしそうでしたね。教室のすみっこで黙っていました。でも絵を描きだした、あなたに希望をもっていたのに・・・・。
*伊波正行君。
 伊波君は最上級生ね。足がわるいのにもまけず、いっしょうけんめいがんばっていました。
*照屋菊江さん。
 背の高いあなたはいつもうしろの方。グレーの地にうすいピンクのバラ模様のワンピースがよくにあっていました。
*久高明美さん。
 あなたはいつも何かを考えていましたね。作文も好きで妹たちのめんどうもよく見てあげ、よいおねえさんぶりを発揮していましたね。

 ----仲嶺盛文校長の手記は平明なことばで、好まず落命した子たちへの鎮魂のように思えるが、胸中には激しい抗議の(怒り)が感知できる。そして、その怒りは私も共有したい。
 現在、宮森小学校内には「仲よし地蔵の碑」が建立され、刻銘とともに逝った子らの魂をやさしく抱き込んでいる。が・・・・今日も沖縄の空には、遠慮なくジェット機のみならず、オスプレイなどが、防衛の名のもとに騒音をまき散らして飛んでいる。



本部町・副業節

2018-06-10 00:10:00 | ノンジャンル
 廃藩置県後、間切(まじり)だった本部は、市町村制度の施行により(村・そん)を名乗っていたが、昭和15年(1940)12月15日。町制を施行し(本部町・もとぶちょう)を成立させ、現在にいたる農業、漁業で栄えてきた沖縄県北部の要所である。
 便宜上、五十音順に(字名)を記してみる。
 *石川。*伊豆味(いずみ)。*伊野波(いのは)。*大堂(うふどう)。*浦崎。*大嘉陽(おおかよう)。*大浜。*嘉津宇(かつう)。*北里。*具志堅。*健堅(けんけん)。*崎本部。*謝花(じゃはな)。*新里。*瀬底。*谷茶(たんちゃ)。*渡久地(とぐち)。*東。*豊原。*並里。*野原(のばる)。*浜元。*備瀬。*古島。*辺名地(へなち)。*山川(やまがわ)。*山里。計27字。現在は合併、新名所などが誕生し、通称の字もある。

 その本部町全体を対象にして「経済的生活向上を図ろう」という、町奨励の「副業節」が生れた。作詞仲宗根善幸。当時の文化人のひとりと言われる。曲は、これまた当時の流行り唄「県道節」のそれ。
 大意は「時は新時代に向かっている。本業以外に副業を持ち、まずは暮らしの向上、経済力向上!」としている。
 歌詞を追って本部町の、沖縄の世相を感じ取ってみよう。

 「副業節」

 1.瀬底ムンジュルや 暑さ涼だますし 夜なび片暇に 情き込みてぃ
    ※アラ!副業的やらや(合いの手)。
  《しーくムンジュルや あちさ しだますし ゆなび かたひまに なさき くみてぃ

 歌意=字瀬底特産物の麦の茎で作るムンジュルーは日除け笠として、また、涼を呼ぶ。昼間の労働に加えて、夜の間も惜しまず(夜なべ)して作り、県下に出荷しよう。なんとも副業的だねー。

 2.鰹魚釣やい 節なすし男 ワタガラス漬きしぇー 刀自ぬ仕事
  《カチューいゆ ちやい フシなすし ゐきが ワタガラス ちきーしぇー トゥジぬ しぐとぅ

 歌意=鰹を釣り上げ、鰹節にするのは男(夫)の仕事。陸揚げされたばかりの鰹を捌いて内臓を取り出し、ワタガラス(腹辛ら塩・塩辛)にするのは女(女房)の仕事。

 3.伊豆味女童や 紺地カナ染みてぃ 沖縄紺絣 後ぬ世までぃん
  《いずみ みやらびや くんじカナすみてぃ うちなークンガスリ あとぅぬゆまでぃん

 歌意=伊豆味の女性は、家業のみかん栽培とともに糸を紡ぎ、紺染めにする。これは(副業)のみならず、琉球絣として後世に残る。 

 4.伊野波・並里に 伊豆味山国や 山ん切り拓らち みかん・タイナンプ
  《いぬふぁ・なんじゃとぅに いずみやまぐにや やまん ちりふぃらち ミカン・タイナンプ


 歌意=伊野波、並里、伊豆味は山野に囲まれている。その山野を開墾してミカン・パイナップルの一大産地にしよう。附=台湾を含む東南アジアから移入された横文字名パイナップルを耳にした通り(タイナンプ)と受取り方言化した。因みに八重まではパイナップルの実が見た目、阿檀の実に酷似しているところから(やまとぅアダンぬミー)と称する俗語がある。

 5.百姓畑戻ゐ はまてぃ草刈やい 牛馬ゆからてぃ 家庭や豊か
  《ひゃくしょう はるむどぅゐ はまてぃ くさかやい うし・ンマゆからてぃ チネーやゆたか

 歌意=農民は畑仕事の帰りといえども、手ぶらでは帰らず、飼っている牛馬のし飼料にする草を刈って帰ろう。その努力が暮らしを豊かにする。

 6.二千五百余ぬ 家数ウァー飼らてぃ 豚小屋ぬ改良 忘しりみそな
  《にせんごひゃくゆぬ やーかじ ウァーからてぃ ぶたごやぬ かいりょう わしりみそな

 歌意=二千五百余の本部村。各家庭で養豚をしよう。そのためには衛星第一。豚小屋の改良を随時、心掛けよう。

 7.うぬ他いるいるぬ 日々ぬ成業ぬ 暇ぬ片時ん 無駄にするな
  《うぬふか いるいるぬ ひびぬなるわじゃ ひまぬかたとぅちん むだにするな

 歌意=(ここまで述べた)ことの他、成業(なりわい)・本業の寸暇も無駄にせず、副業に精出そう。
 ※ウネー村ゆ興くさ~。と結んでいる

 今日言うアルバイト、パートタイマー、契約社員等は本業か?副業か?注目の「働き方法(案)」とともに考えてみよう。


芸は身を助ける・踊る自治会長

2018-06-01 00:10:00 | ノンジャンル
 「あなたの表芸は?」「あなたの裏芸・隠し芸は?」
 よく問われることだが、ボクには表芸も裏芸もない。したがって人さまに隠す芸なぞ端ッからあろうはずがない。強いていえば、フィージャー汁なら3杯はイケる!つまり無芸大食・大喰いが(芸)と・・・・言えるかどうか。
 20歳をすぎたころ(弾き語り)を目指し、無理してギターを購入。古賀政男メロディーや「禁じられた遊び」「アルハンブラの思い出」など、あちらモノにチャレンジしたことだが、コードやらが難しく「ギターはボクにむいてない」と、ギターとの相性に置き換えてチャレンジを放棄してしまった前科者である。
 言葉として「芸は身を滅ぼす」の方を採用したわけだが、一方には「芸は身を助ける」ともある。

 沖縄中部・東海岸に位置する中城村当間(とうま)の比嘉三雄会長(68歳)は、中城村福祉協議会が開設している高齢者の居場所・ふれあい事業の集会の舞台で、日本舞踊を披露して(踊る自治会長)の高名を馳せている。その0評判は近隣の自治会にも及び(お呼び)がかかるほどになった。
 ご本人は「自らの人生修行のつもりで、出来るだけご要望に応えるようにしている。が、ひと言で芸事というが、いざ、本気でやってみると、なかなか難しい」と語る。
 比嘉三雄さんが日本舞踊の習いごとを始めたのは、還暦祝いの際、同級生に芸名・一条紫舞貴を名乗る小橋川玲子さんが、あでやかな衣装に身を包み、しなやかな所作を披露したことに魅せられて一念発起、日舞の手ほどきを受けるようになった。
 比嘉さんはまた若いころジャズマンとして、各地のイベントの舞台やジャズクラブでのライブをこなしてきた自称セミプロの日々があった。
 自治会長に就いた8年前、字の集会の折り、先輩方から「音楽をやっていたから、芸事は得意だろう。何かやってくれ!」と再三の要望。しかしジャズでは、先輩方が受け入れてくれるかどうか・・・。畑違いの日本舞踊を修得しようと思い立ったが、日舞練場に足を向けるまで、6ヶ月の迷いの果ての決心だった。
 比嘉さんには幸い日本舞踊をよくする一条流の小橋川玲子という同級生がいて月1回、そして本番前には随時、稽古をつけてもらっているそうな。
 得意な演目は、槍と大盃、あるいは扇を持って舞う「黒田節」。男気を前面に押し出した「男一代」。他にもレパートリーは多彩。自前の衣装はあるものの、着付けが難しく、そこは小橋川師匠の手を借りている。
 また、昨年の一条流「舞貴の会」発表会では、唯一の男性出演者として参加、注目と拍手をひとり占めにしたという。師匠の評価はどうか。
 「さすが元ジャズマンだけに音楽的センスは抜群。その上、努力家。踊る自治会長の人気は上昇するばかり」と、同級生という贔屓目を抜きに太鼓判を押している。
 まさに「芸は身を助ける」を実践しているのには頭を下げる他はない。

 周囲を見渡してみる。
 琉球放送入社以来、経理畑40年。最終的には、取締役経理局長で現役を退いた親しい友人新嘉喜友功さん(73歳)。佐敷村馬天(現・南城市)生れは退職後、一念発起した。
 「幼少の頃から慈愛をそそいでくれた祖父の形見とも言うべき三線が2丁ある。これを活用しなければ、祖父の愛にそむくことになる」
 子は女だけ3人。長じて母になり、おかげで5人の子の爺にしてくれた。そろそろ(これからの自分)に向き合おうと、琉球古典音楽界の重鎮・琉球音楽野村流伝統音楽協会・前川朝文師範が主宰する三線教室に入門。週1回2時間の稽古をつけてもらって6年になる。
 「まさか自分が歌三線を!」と、いまでも信じ難いが、御前風5節(僕の場合4節)かぢゃでぃ風節、恩納節、中城はんた前節、(長伊平屋節を飛ばして)、特牛節。その合間に(飽きさせてはなるまい)という師匠の心配りで白瀬走川節、金武節、秋の踊り(別名・三輪口節)などはこなせるようになったという。
 「数字とばかり付き合っていた時は、自分と歌三線を結び付けることはできなかったが、いまでは(生甲斐)を覚えている」
 真顔で語る新嘉喜友功さん。もし、現役を退いた社友連がこのことを知ったら「へえ~。あの友功に歌三線の裏芸、いや、立派な表芸があったとは!」と、仰天するに違いない。

 されば!ボクもと声帯模写(いまはそうは言わないかっ)、歌まね、ものまねを仕込み酒の席の座で披露してみたことだが、まったくウケない。それもそのはずだ。岡晴夫の「鳴くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」を真似ても、場の連中とのゼネレーション・ギャップがあり過ぎて、岡晴夫、その人を知らないときている。東海林太郎の「国境の町」「名月赤城山」をやろうものなら、そっぽを向かれてしまう・・・・。かと言って、いま流行りの歌手、歌はこちとらが皆目知らないときている。
 どなたかボクに向いている(隠し芸・裏芸)を教調願えないだろうか。