旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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愛しのウチナーグチたち

2008-04-24 13:37:08 | ノンジャンル
★連載NO.337

 私事ながら。
 沖縄の2大新聞は、琉球新報紙と沖縄タイムス紙。その沖縄タイムス紙は、3月17日から朝刊1面下段に「ちゅくとぅば」と題するコラムを連載している。執筆者は15日毎に代わり、第1回目は沖縄方言普及協議会副会長小那覇全人氏、第2回目は芥川賞作家大城立裕氏。そして、どういうものか3番目の執筆が私に回ってきた。ただいま掲載中。4月30日まで。
 「ちゅくとぅば」とは「ひと言」のこと。日常使われている沖縄口、もう耳にすることも少なくなったそれらを記録してみようという企画と聞き及んでいる。この島に生まれ育って、共通語と沖縄語を半々に話していながら、あらためて沖縄方言の温もりを実感すると同時に、それが時代に継承されていない現実を見せつけられることになった。振り返るとそのことは、昭和47年〈1972〉5月15日の日本復帰を境に加速しているように思えてならない。
 ここへきて沖縄県も「方言の消滅は文化の危機」と捉え、毎年9月10日を「島くとぅばの日」に制定。県文化協会・市町村文化協会共催により「しまくとぅば語やびら大会」を開催し、今年は14回目を迎える。また、沖縄方言普及協議会の発足、各地には独自の沖縄口講座や教室もできて活動している。そこで、沖縄タイムス紙に15回掲載の勢いに乗って「浮世真ん中」も、毎月末を「沖縄口・ちゅくとぅばの日」と勝手に制定し、つれづれなるままに沖縄語の名詞、動詞、形容詞、歌言葉。そして、もはや島に溶け込んでいるオキナワンイングリッシュなどを拾い集めて記することにした。今週はその①

 ◇[ウチナーグチ]
 言葉は口で発することから「語」ではなく「口」としている。そして、沖縄方言全般をさす。また別には訛り、抑揚、そのサマをふくめて、地名の下に「クトゥバ」や「ムヌイー」「ムニー」を付けた言い方もある。
 まず、「クトゥバ」の例=ナァーファ クトゥバ〈那覇言葉〉。スイ クトゥバ〈首里言葉〉。以下、エーマ〈八重山〉。ナーク〈宮古〉。イチマン〈糸満〉。ナカガミ〈中頭。本島中部〉。ヤンバル〈山原。本島北部〉などなど。それも、1地域でも道ひとつを隔てただけでまるで、あるいは微妙な異なりがあり、話す人の出身地までが分かる。さらには別の言い方に「シマグチ=島口」があって、鹿児島県下の奄美大島でも沖縄の[ウチナーグチ]に当たる方言全般を「シマグチ」と称している。奄美大島は歴史的に琉球王国時代からの関係浅からず、共通する言葉は多い。もちろん、奄美大島でも島々によって異なりがあることは言うまでもない。それだからこそ国は全国的な[共通語]を選定する必要があったのである。
沖縄口の[ムヌイー]について。これも、物言いのサマをさしているが、実に多様。
 ◇ソー ムヌイー〈誠意ある真実的口調〉。ユクシ ムヌイー〈嘘ばなし〉。ナチ ムヌイー〈泣き語り〉。甘え言葉でもあるが、男は女のそれに弱い。ワラビ ムヌイー〈童物言い〉。図体は大きく成人だが小児的。逆に子どもが大人びた、おませな発言をするのは「ウフッチュ ムヌイー」である。
 ◇テーテー ムヌイー。
 発声が甘く、活舌がよくないこと。大人のそれは聞き取りにくくて困るが
言葉を覚え始めの幼児のテーテー ムヌイーは、なんともかわいい。
◇クサ ムヌイー。
直訳すると、臭い物言いざま。これは理路整然としているようでその実、あまりにも理屈っぽく説得力に欠ける。青年期の私がまさにそれ。いまでもその傾向にあるが、状況によっては周囲に敬遠される。要用心。
クサ ムヌイーよりは、パーフチ ムヌイー・パーフチ バナシの方がまだいい。パーの語源はホラ貝の音とされる。つまり、「ホラ吹き」「ホラばなし」。これは語り出しからそれと分かるぶん、ユーモアさえあって罪がない。嘘とは違う。私の得意とするところ。

 希薄になりつつある沖縄口に思いを馳せているうちに、1首の琉歌が脳裏をよぎる。
 ♪誠御汝なや恋神ぬしるし 散りてぃ行く花に情掛きてぃ
 〈まくとぅ うんじゅなや くいじんぬ しるし ちりてぃいく はなに なさき かきてぃ〉
 歌意=誠にもってあなた様は、恋を知り尽くした生き神様です。愛でるのは、いまを盛りの花とするのが常道ですが、あなた様は季節が過ぎて、もう萎み散り落ちる花に、情けを掛けることができる。恐れ入りました。
 「花」は、女性をさしている。ここで私は、散りなんとする「花」を「沖縄口」に置き換えることにする。消え行く愛しの沖縄口を、せめて持ち合わせているだけでも情けの糸に貫きとどめて置きたいと思うのである。
 待て!それこそ、クサ ムヌイーか。





次号は2008年5月1日発刊です!

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初出じー・新出じーの4月

2008-04-15 22:23:42 | ノンジャンル
★連載NO.336

    ♪仲よし小道は どこの道
     いつもとなりの ミヨちゃんと
     ランドセルしょって 元気よく
     おうたをうたって 通う道
 昭和22年〈1947〉。石川市〈現うるま市〉の城前小学校3年生上原直彦少年は、ほんとうに仲よしだったムッちゃん〈古堅睦子〉とコンビで「仲よし小道=作詞三苫やすし。作曲河村光陽。昭和14年発表」のお遊戯をしていた。終戦直後の食うや食わずの混乱期に学校、父兄はよくぞ学芸会を企画、開催したものだと、いまになって感嘆せざるを得ない。
 もちろん、ランドセルなどない。お遊戯の際は、先生か姉が米軍服のHBTか厚紙で作ったそれをしょっていたように記憶している。直彦のヒコちゃんも通学には、親父お手製のHBT肩掛けカバンに、帳面とエンピツとタマグァー〈ビー玉〉を10個ほど入れて出かけていた。帳面は、米軍の使用済みのタイプライター用紙を綴じただけの裏紙。いわゆる雑記帳。エンピツも軍払い下げや救援物資の配給品だった。

 時を経て2008年4月。
 県下では約17,000人の仲よしたちが小学校に入学した。入学祝いもそれぞれに行われただろうが、うるま市与那城・屋慶名の新小学1年生のいる家庭では「ハチ ンジー=初出じー」の祝宴を張った。語意は語感通り「初めて出る」。中学、高校、大学は対象外。新小学1年生に限られる。地元の人の話では、明治の教育制度実施とともになされた儀式だという。



 今年は4月8日。小学校の公的な入学式を終えた新1年生が帰宅した後の夕刻から「ハチ ンジー」は始まる。まずはその日、初めて袖を通した通学服の本人を中心に、ファーフジ〈祖父母〉をはじめ、家族が勢揃いして知人友人隣人らの来客を迎える。来客は「チョウメンデー=帳面代」と称する祝儀金を本人に渡した後、祝いの座につく。目の前には家人が朝から支度した赤飯、ちらし寿司、吸いもの、煮もの、揚げもの、生ものと、とかく馳走が並んでいる。泡盛、ビール等の飲みものも不足なく準備することを忘れてはいけない。舌鼓を打ちながら、ひとしきり子どもの成長ばなしを交わしたあとは、三絃を持ち出して祝儀歌「かじゃでぃ風」を弾き歌い踊り、大人の酒宴なる。新1年生にかこつけた大人の酒座ではない。子どもが小学校に上がるまでに成長したことを喜び、世話になった人びとへの感謝の酒宴[儀式]なのだ。
 地域の地名人は5,6軒の「ハチンジー」をこなすことになる。[帳面代だけでも、結構な物入り]と、口では云いながらも[これがフィレー=つき合い。交際]として、掛け持ちを喜んでいる。もちろん、チトゥ〈つと。返礼の手みやげ〉もあり、いまはお米券とお菓子が定番。ここにも、沖縄の生活共同体の観念をみることができる。
 ところで、お気づきか。
 「初出じー」にみられるように、沖縄の学校は「入る=入学」ではなく「出る」のである。共通語の「出る」は卒業をさしているが、沖縄社会での「出る」は就学の「出発」を意味している。
 別の表現に「アッチュン=歩く」がある。就学中は「学校アッチュン」「大学アッチュン」。就職すれば「会社アッチュン」「役所アッチュン」。海に働くは「海アッチュン」。その漁師は「海アッチャー=海を歩く人」というふうに、アッチュンの動詞に英語並みのerを付けて「人」にしている。ただし、沖縄口の歩くはウォークにとどまらず、行動する。働くの意味が濃い。
 また、職業、身分を表す言葉に「ソーン」がある。就いている、遣っているの意。身内や知人にそれなりの成功者がいる場合、教授、弁護士、社長、議員、芸術家などなどの下に「ソーン」をつけて、自慢げに話す。「巡査ソーン」「飲み屋ソーン」「はるさーソーン=畑。農業」などはいいが、ひところは「しばいソーン=芝居の役者」には一種の軽視がふくまれていた。かつての河原乞食的見方が働いていたのだろう。それもいまや役者をはじめ芸能者の社会的地位は、日増しに高くなっている。

 話を戻そう。
 うるま市与那城・屋慶名の「ハチンジー」と、内容はほぼ同じくするが、那覇には「ミーンジー=新出じー」がある。しかし、昨今は希薄になって成されていない。形を変えたのだろう。
 「ハチ・初」「ミー・新」同意的だ。旧正月の16日、「ジュウルクニチー」というあの世の人のための儀式をやるが、その1年のうちに逝った人のそれを「ミー ジュウルクニチー=新16日」という。本土のお宮参りにあたる儀式を「ハチアッチー=初歩き」と称し、男児は生後30日目、女児は31日目に親戚縁者筋への顔見せをする。100日祝いもその内で、いまは写真館での記念撮影と内祝いが普通になった。
 ともあれ、今年の4月。野も山も海も「ハチ」「ミー」につつまれて明るくなった。そして“仲よし小道は どこの道”を歌ってお遊戯をしたヒコちゃんもムッちゃんも、昨今は孫や親戚縁者の子弟の「初・新」を喜び合うのに忙しい。

次号は2008年4月24日発刊です!

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旅ゆかば・甲斐の国

2008-04-10 12:39:37 | ノンジャンル
★連載NO.335
  
「富士山には、月見草がよく似合う」
 太宰治になったような気分になる。
 山梨県・御坂山の西に位置し、標高1525メートル。甲府盆地と富士五湖を結ぶ旧鎌倉街道にある御坂峠。そこの峠の茶屋から見る富士山は、雄大に輝いていた。
「皆さんが、沖縄から南風を運んできたのですね。こんなにクッキリとした富士山の眺望は、珍しいですよ」
 ガイドは、しきりに感嘆する。
 3月21日から2泊3日。沖縄語の勉強会・芝居塾「ばん」の仲間10人は[武田信玄に逢いたい]思いをもってここまできた。
 石和温泉・ホテル八田に入る前、恵林寺に立ち寄った。
 恵林寺は、臨済宗妙心寺派の寺。元徳2年〈1330〉創建。夢窓疎石による開山、武田信玄の菩提所である。本堂脇の枝垂れ桜が迎えてくれた。ここまではいいが、恥ずかしながら、いや恥ずかしがることもないが、私は長年この寺社を「けいりんじ」と読み、覚えていた。現地に立って初めて「えりんじ」であることを知った。今度の旅の収穫がまずあった。朝8時、那覇空港を発ち、11時前には羽田着。貸切小型バスの1日は、さすがに疲労感が前身にある。
 「早めにホテル入りして温泉につかろう。ワイン風呂もあるそうな」
 仲間内に否はない。早速、石和の湯を楽しんだ後は夕食・宴会だ。古参歌者金城実、宮古の歌者仲宗根豊は、サンシンを持参している。しばしは、島うたや舞踊のライブの態。他の投宿客が顔をのぞかせる。沖縄芸能が珍しかったのだろう。
 ここでも出会いがあった。
 ホテル八田のフロント及び経理担当の青年の名前は佐久川隆二。沖縄県うるま市具志川出身22歳。就職して、まだ1年たらずとのことだが、旅先で同郷人に出合うのはなんとも嬉しい。旅の楽しさをいちだんと充実させてくれた。
 2日目。ツヤツヤお肌をなでながらの行楽。東日本最大級の木造建築・甲斐善光寺。武田信玄像の出迎えを受けて武田神社へ。ここでは、風林火山の旗のもと名参謀の名を天下にとどろかせた山本勘助を気取り、信玄とのツーショットを撮りまくった。

武田信玄像
次いで、標高1000メートルをロープウェイで登る昇仙峡パノラマ台へ。目前に南アルプスの連山と富士山が広がる。沖縄の山は、八重山石垣島の於茂登岳〈おもとだけ〉海抜525.8メートルが最高峰だけに、感動を覚えずにはいられない。その感動の中、パノラマ台の一角にある男根女陰を祀った祠を拝んで、心癒されたのは愛嬌だった。下山して、軒を並べる土産品店を見てまわる。[印傳・印伝・いんでん]の文字がやたら目に付いて気がかりだ。遠慮なく店の人に聞いてみた。
 「印伝は、シカのなめし皮。染色してウルシで模様をつけ、袋物などにする。古くはインド産のなめし革を用いていた。甲州印伝がもっとも有名です。印伝の名の由来ですか?印度伝来なので[印伝]なのです」
 またひとつ、賢くなった記念に、印伝の印鑑入れを買った。1480円。

印伝
3日目。河口湖に遊ぶ。相変わらす地元も喜ぶ上天気。富士山は絵葉書そのままだ。
街並みに入ると沿道に「ほうとう」の看板を数多く見ることになった。昼食は、甲州名物「ほうとう」を食することにした。専門店には、その由来を記した額が掲げられている。
[信玄ほうとうの由来]
「ほうとうは、中国・唐の時代。御汁の中に入れた麺を「不托」といい、これが語源になったと、事物実名録にある。また倭名抄には作り方として「麺を延べ揃えて切る」としている。枕草紙にも「はうたう まゐらせん しばしとどまれ」とあり、平安貴族も好んで食していたと思われる。その後、信玄公が戦時食として奨励した際、野菜を多く入れたのが甲州風として受け継がれている」
 カボチャを主に野菜とともに味噌煮込みされた、うどんの2倍以上はあろう麺が鍋ごと出てくる。春うららかな日とは言え、室内に入ると寒さがある。そこで、フウフウ息を吹きかけながら食する[ほうとう]は、セーターを脱ぎたくなるほど。外回りで冷えた身体を温めてくれるには十分だった。

ほうとう
 温まったところで午後は、富士山に洗われた湧水と昔ながらの家屋や水車小屋など、なにかと懐かしいたたずまいの忍野八海〈おしのはっかい〉を散策して、羽田に向かう。旅の終わりのバスの中は、名残惜しそうに見え隠れする富士山談義が尽きない。
「山梨の人は、山梨側から見る富士山が日本一と自慢している。そうだろう納得!」
 これに反論した女性がいる。
 梅雨どきに沖縄に来て、藍草苅りをしている染職、刺し子、人形作家の城間早苗女史だ。彼女は、沖縄入りのたびに会っている友人で今回のメンバーとも面識がある。われわれの山梨行きを知って、静岡県駿東郡清水町から参加した。山梨側から見る富士山が[日本一]の評価に意義を申し立てた。
「とんでもないッ!清水のわが家のトイレから眺める富士山が日本一よッ。水洗いだって富士山の水を使っているんだからッ」

富士山

 富士山。温泉。武田信玄。昇仙峡。印田。ほうとう。ワイン。信玄餅。そして出会い。
 沖縄とは異なる甲州文化にふれた3日間。
 “旅ゆかば・・・・”。さて、つぎはどこへ出かけようか。

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フィサ洗らゐん・裸足の変遷

2008-04-03 14:04:48 | ノンジャンル
★連載NO.334

 ある男子高校生。
 短い春休みの内にと、近くでひとり暮らしをしている女ファーフジ〈うぃなぐ。祖母〉の家をたずねた。昨年暮れ以来、手を入れていない小さな庭の立ち木を剪定し、草をむしり、とかくさっぱりと若夏を迎えてもらうためだ。
 春とは名のみ。風には冷たさが残っていたが、体を動かしていると、額に汗をにじませるには十分の日和だった。ひとしきり手足を動かして、フゥーっと息を吐いて腰をのばしたのを見計らったかのように、祖母の声を背後に聞いた。
「ヨシオ。ティー・フィサ洗らてぃ、汗入りれぇ=手足を洗って、ひと息いれなさい」
 言われるままに小休止。祖母得意の沖縄風お好み焼きフィラヤーチー〈平焼き〉に箸をつけた。[いつ食べてもおいしい味]である。皿の半分ほどを一気に食し、麦茶を飲んだところで孫は思った。
「手を洗うは分かるが、どうして祖母は足を洗ってと言ったのか。ちゃんと靴をはいていて汚れていないのに・・・」
「フィサ洗らゐん」。これは、いまでは言葉の綾、例えになった。

 古代、一般庶民の住居は半地下室風に建てられ、屋根はキチ組〈小丸太組み〉の上を竹茅でふき、やんばる竹を二重三重に編んだチニブを壁としていた。このような住居を穴屋〈アナヤー〉と言い、茅ぶきもしくは瓦ぶきの本格的木造家屋を貫木屋〈ヌチヂャー〉と称した。
 穴屋から、床を張った家屋になるのは近年のこと。ウェーキンチュ〈金持ち〉でないかぎり筵、畳などの敷物はなくカラ床〈板の間〉。履物もそうそう用いないカラビサー〈裸足〉の暮らしの中、外から帰っても足は、フクター〈ぼろ布〉でふいたり、はらったする程度で、手足を洗うのは日常的ではなかった。もちろん井戸端、村ガー〈村落の共同井戸〉、クムイ〈田畑近くに作られた小堀〉などで身を清めたことは言うまでもない。
 それも、明治時代になると「衛生思想の啓蒙」なる文字を都度、新聞紙上に見るようになり、裸足禁止令も出された。それでもこのことは、経済的理由もあって、すぐに改善されるにはいたっていない。
 国頭村史〈くにがみ〉にも、
「明治41年〈1908〉、国頭村青年会長に就任した鹿児島県人・国頭村尋常高等小学校長有馬猛の指導により裸足禁止、下駄履き励行を奨励した。裸足は、非衛生的であることを演説を通して啓蒙につとめたが、下駄履き運動すぐには実を結ばなかった」
 とある。本土では、明治34年ごろペストが発生。関係省庁はじめ警視庁も同年5月29日「裸足厳禁」を布令したと記録されている。当時の農漁村や東京の一般労働者は、ほとんどが裸足だったという。

 沖縄には、ずばり「裸足禁令の唄」と称する流行り唄がある。内容はこうだ。
「紀元二千六百一年一月一日、裸足禁止令が出た。那覇の街中を裸足で歩くと罰せられる。守礼の邦の県民が裸足であっては恥。ムヌクーヤー〈物乞い〉と見なされ、犬に吠えつかれるぞ。隣組の組長さんよ、このことを組の人たちに周知徹底させて、文化沖縄之名を高めようではないか」
 風俗改良運動のいわゆるキャンペーンソングとして作られたひと節。これは「時代・金城実・戦中戦後をうたう」と題したキャンパスレコード昭和56年発行のLP盤及びCD(キャンパスレコード復刻シリーズ)に収録されている。
 これらの背景があってあと、履物が普及するにいたって「フィサ洗ゐん」は、実際の行動のほかに「小休止」を意味するようになった。

 いささか私事になるが昭和20年、つまり終戦の年の小学校1年生の私たちは皆、裸足だった。3,4年生になって下駄にありつき、靴といえばアジア救済連盟〈Licensed Agencies for Relief of Asia。略称ララ〉。通称ララ物資・ララの贈り物を初めて履いた。ララは、第2次大戦の被害を受けたアジア諸国民の救済を目的にキリスト教会世界奉仕団、アメリカフレンド教会奉仕団、ローマカトリック教会など10団体が昭和21年1月に結成した連盟である。
 そのころわが家でも、母や姉たちが石油ランプの明かりを頼みに、HBT〈Herringdone Biouse and Trousers。杉板模様織りの略。米軍専用軍服〉を利用して、花など簡単な刺繍をした下駄の緒作りの内職をする日々がつづいていた。

 いま。
 あえて裸足教育をしている保育園もあると聞くが、件の高校生はファーフジ孝行をしながら「フィサ洗らゐん」の言葉、その使い方を知って春休みを締め括り、新学期を迎えることになる。


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