旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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鬼のくれたミシゲー物語

2010-12-20 00:20:00 | ノンジャンル
 そのころ、私の周辺には絵本なるものがなかった。
 昭和19年<1944>10月10日の那覇大空襲のあと、那覇市山下町のわが家の裏手の台地に陣取っていた日本陸軍高射砲部隊の動きは、緊張度が極限に達していた。米軍の沖縄総攻撃を現実のものと読み取っていたようだ。
 年が明けて3月初旬。実家に踏み止まっていたわが一家も、ついに本島中北部への避難行をせざるを得なかった。行く先の民家のお世話になり、自然壕に身を潜め、山中の谷間に仮寝。その間、大人たちは夜影に紛れて人里に下り、食料をあがなう日々が続いた。
 昭和20年4月1日。米軍は大量の武器弾薬を装備して沖縄上陸。沖縄人は、ただただ阿鼻叫喚、右往左往するのが命を守る唯一の行動だった。同年5月・6月には、沖縄は米軍によって完全に占領されていたが、南部の1部地域には牛島満中将<1887・7・31~1945・6・23=鹿児島県高麗町出身>をはじめとする日本軍が最後の抵抗をしていた。しかし、それも6月23日には完全に鎮圧され、日本本土の盾になった沖縄上陸線は終結した。
 小学校、中学校をともにした西銘生雄クン一家が疎開先の大分県から引き揚げてきたのは昭和24年頃だった。学校はいち早く開校したものの教科書もままならない小学校の日々だったが、生雄クンのところには疎開先から持ち帰った、たいそう月遅れの少年少女雑誌や挿絵入りの小説「ロビンソン・クルーソーの冒険」などがあった。毎日のように彼の家に入り浸り、10数冊しかないそれらを幾度読み直したことか。同じ文章、同じ漫画、同じ挿絵。それでも飽くことはなかった。それどころか小松崎滋というペン画家を知ったのも、これら“本”のおかげである。なぜ、西銘生雄の家には“本”があるのに、わが家にはないのか。直彦少年は父親に問いかけたことがある。
 「わが家にも本は相当量あったが、戦火が焼きつくしてしまった。生雄クンの父は建築設計士、母親は教職にあったから本を大切にしていて持ち帰ったのだろうよ」
 父はそう答えてくれた。

 【鬼のくれたミシゲー物語】

 昔々ある村の若者サンダーは毎日、山に入って木を切って薪に束ね、市場に出して暮らしを立てていた。今日もサンダーは昼飯用に煮芋2個を芭蕉の葉に包んで腰に下げ、山仕事に励んでいたが、何かの拍子に芭蕉の葉がほどけて、芋はコロコロと近くのガマ<洞穴>に転げ落ちてしまった。すぐにサンダーがガマに入ってみると、なんとそこにいたのは赤面の鬼。赤鬼は言った。
 「ワシはお前に害するものではない。毎日のお前の働きぶりに感心していたのじゃ。褒美をやろう。朝夕の食事には何合もの米が要るだろうが、お前に重宝なミシゲーをやろうわい。たった3粒の米をハガマ<炊飯用の釜・羽釜>で炊き、このミシゲーで裏打ちしてみろ。3粒の米はハガマいっぱいになるぞよ」
 ミシゲーはショモジのこと。大昔は、貝殻<ケーは貝>を竹の先に固定して飯をよそっていたところから〔飯貝・ミシゲー〕の名称が付き、これに対してお汁・汁もの用のオタマをナビゲー<鍋貝>あるいはシルゲー<汁貝>と言う。
 さて。不思議なミシゲーを持ち帰ってからのサンダーの家族は、たった3粒の米でおいしいご飯を毎日食べられるようになった。
 ミシゲーを手に入れたいきさつを聞いた隣家のマチャーおっちゃん。日ごろは惰眠をむさぼるフユーナムン<なまけ者>のくせに〔よしッ!オレもッ〕と、サンダーにならって芋3個を持って件の山のガマの前に行き、わざと芋を落とした。しかし、芋はなかなか転がらない。短気なマチャーは、無理やりに芋をガマの中に蹴り入れてそのあとを追ってみると、果たしてそこには赤鬼がいた。
 「鬼よッ。オレにもあの不思議なミシゲーをくれッ」
 すると、鬼の返事はこうだった。
 「何をぬかすかッ。ワシは鬼は鬼でも仏の使いだ。サンダーは親に孝行を尽くす上に、昼夜を問わずよく働く。その善行に仏様もいたく感じ入り、褒美を下さったのだ。それに引きかえお前はどうだ。図体は大きくても働くことを知らず朝寝に昼寝。親を働かせてのうのうと生きている。お前なぞ牛になって田畑で鋤を引き、重荷を背負って生きるがいい。そうすれば、親もちっとは楽になるだろう」
 マチャーは立ち所に牛にされて、モーモー鳴きながら村に帰ったという話。

 この昔ばなしは、大分県だったか熊本県か・・・・。とかく九州の昔ばなし集で読んだ記憶がある。何らかの交流があって沖縄に伝えられた話のように思えるが、そこいらは煎じ詰めてたださず、それぞれが「わが郷土の昔ばなし」として共有し得るのが、昔語りのいいところではないのか。

 さて。寅年が行く。読者諸賢、いい卯年をお迎え下さい。


昔ばなし・太良の化けもの退治

2010-12-10 08:37:00 | ノンジャンル
 各地で子どもたちへの〔詠み聞かせ〕が盛んである。殊に児童を持つ母親たちが、地域に伝わる伝説や昔ばなしを採取して詠み聞かせたり、戦争記録を基地問題と絡めて語り、平和の尊さを伝えている。
 私なぞの少年のころは、屋敷内に日陰をつくるためにわざわざ植え育てた年数を経て九年母の木<くねんぼのき。在来のミカンの木。方言=くにぶんぎー>の下にユーバン<夕飯>の後に集まると、きまって話上手のオジさんやオバさんがやってきて、世間ばなしとともに昔ばなしをしてくれたものだ。時にそれは、大人の即興の作りばなしだったこともある。
 そのころのことを思い出して、私が聞いた昔ばなしを紹介しよう。ただし、これは沖縄古来の昔ばなしなのか、本土の地方のそれを沖縄風に脚色したものか定かではないが、そこいらは気にせず楽しんでいただきたい。

 【太良の化けもの退治】<太良=タラー。庶民の男子の代表的名前>
 昔々、恩納間切谷茶村<うんなまじり たんちゃむら>生れの若者太良は、王府首里の士族の下男奉公をしていた。
 ある日。親元からの緊急の便りが届いた。〔父親が重病を患い、明日をも知れぬ命。すぐに帰れ〕というもの。太良は主人に事情を伝え、快諾を得た上に見舞金までいただいて、谷茶村に向かった。首里を出て浦添間切に入り、宜野湾間切伊佐村を通過。さらに北谷間切嘉手納村を早足で過ぎ、読谷山間切喜名村に着いたころは、すっかり日は暮れている。
 このまま歩を進めると、その先は昼でもなお暗くフェーレー<追はぎ>や化けものが出る名うての難所多幸山<たこうやま>。フェーレーはともかく、多幸山に古くから棲む山猪<やましし>は、人間に化けて通行人を喰い殺すという。
 「危険は承知。それよりも親の死に目に会えないのは何よりの親不孝。意地をだして多幸山超えをしよう」
 決心して足を速めたことだが、多幸山の中腹にさしかかった時、太良の懸念は的中してしまった。現れ出たのは噂の山猪の化けもの。太良は運命と観念したものの、山猪に声をかけた。
 「命乞いはしない。父親の臨終に立ち会わせてほしい。それを果たしたら、すぐここに戻ってくる。それからオレの命を取っても遅くはあるまい」
 「ほほう。面白いことを言う奴だ。よしッ!時をやろう。ただし、約束を違えるとお前ばかりでなく、村中のものを皆殺しにする!よいかッ」
 山猪はさらに言った。
 「風変わりな奴だが、ひとつ聞いてみよう。お前がこの世で1番嫌いなものは何じゃ」
 太良はちょっと考えたのちに答えた。
 「銭金だ。われわれ百姓は銭金ゆえに年中、苦労しているからだ。では聞くが、山猪のお前が1番嫌いなものは何か」
 「んっ?ワシが嫌いなものはコーレーグス<高麗薬・唐辛子>とナマソーガー<生ショウガ>じゃ。これに触れると体中の毛が抜け落ちる」
 こうしたやりとりの後、太良は解放されて実家に帰ることができたのだった。確かに父親は重病だった。しかし、そこは親子。息子の顔を見た安堵感からか、病気は日を置かずによくなり、床払いをするに至った。
 さて。太良が果たさなければならないのは山猪の化けものとの約束。太良もまた日を置かず多幸山に向かったが、ある計略を胸にしていた。約束の場所に着いた太良は、待ち受けていた山猪を見つけるやいなや、隠し持っていたコーレーグスナマソーガーを山猪の顔と言わず手足と言わず、胴体いっぱいになすりつけた。
 「やいッ!化けもの!多幸山超えをする旅人に悪さする奴めッ!思い知ったか!」
 するとどうだろう。山猪の体毛が見る見る内に抜け落ちていく。しかし、化けものも負けてはいない。
 「やりやがったなッ!お前こそこれを喰らえッ」
 と、今までに旅人から奪い取った大枚の銭金すべてを太良に投げつけ、悲鳴をあげて山奥に逃げて行き、2度と旅人の前に姿を見せることはなかった。
 太良は、化けものが投げつけた大枚の銭金を拾い集めて実家に持ち帰り、その銭金で田畑を買い、一生懸命働いたおかげで5年もすると恩納間切1番の分限者になった。そして太良の家は後々「谷茶ウェーキー=分限者」と称されるようになったという話。
 かつては、地方の金持ちには、その地名と本人の苗字を合わせ読みをして尊称としていた。例=浦添市城間の金持ち名嘉家は「ぐしくま なか」・北谷村瑞慶覧の仲宗根家は「じきらん なかずに」・うるま市勝連南風原の外間家は「ふぇーばる ふかま」と呼ばれ、その高名は今日まで語り継がれている。殊にフェーバルフカマの嫁カマドーは、有り余る銭金<硬貨>を着物の袖に縫いつけ、歩むたびに硬貨の擦れ合う音がしたという。
 いささか個人的願望になるが、那覇市垣花の上原家。垣花上原「かちぬはな うぃーばる」と沙汰されたいが・・・・。儚い夢のまた夢。


愛煙・節煙・禁煙・休煙

2010-12-01 00:10:00 | ノンジャンル
 『インドネシアでは、2歳や4歳の幼児がたばこを吸う映像が相次いでインターネットで流れ議論を呼びましたが、今度は1歳と8ヵ月の男の子が喫煙していることが分かりました。地元のメディアによりますと、喫煙していることがわかったのは、スマトラ島に住むルノちゃんです。ルノちゃんは1歳2ヵ月のころからたばこを吸い始め、今では1日半箱のペースで吸うようになりました。たばこを吸うようになったきっかけは分かっていませんが、34歳の父親は「たばこがないと泣き出す。病院に連れて行きたいが、費用が高いと聞いた」と困惑しています。一方、たばこを吸っている映像がインターネットで流れて、国際的な批判を呼んだ2歳と4歳の男の子は、病院で治療を受けるなどして禁煙に成功しました。インドネシアでは、煙草が主な産業のひとつで「たばこ大国」として知られています。政府の統計によりますと、5歳から9歳の子どもの喫煙人口の割合が2004年には、およそ3%に上がりました』
 これは共同通信放送ニュースが、ジャカルタ発として9月13日伝えた話題である。
 世界的に煙草の生産は、その国の経済と深く関係しているが幼児・児童の健康と教育面には、悪影響を見せているようだ。

写真:オキナワグラフより転写
 
 私は何歳から煙草に火をつけただろうか。まず1服つけてふり返ってみる。
 意外に遅い。昭和33年〈1958〉。19歳のみぎり。初めはラッキーストライク・キャメル・ピース。これらは両切りの煙草。やがてフィルター付に魅せられてバイスロイをポケットに入れていた。さらに沖縄でも煙草会社がつぎつぎと新製品を発売し[島内産愛用運動]が展開されるに至ってピンク・うるまを吸い、はたまた国産のハイライト・マイルドセブンに鞍替えした後、現在のキャビンウルトラマイルドに落ち着くまで、実に50余年の遍歴をしている。
 2010年9月まで300円だったキャビンは、愛煙家に何も相談もなく410円に値上げされて2ヵ月が過ぎた。それでも、ため息とともに紫煙を吐き出している私は、時代に逆行しているのだろうか。
 「時代に取り残されてもいい。この1箱とは一生つき合っていこう」
 そう決意をして新たにし、手にした煙草の箱を見ると表には『喫煙はあなたにとって脳卒中の危険性を高めます。疫学的な統計によると、喫煙者は脳卒中により死亡する危険性が非喫煙者に比べて、1.7倍高くなります』(詳細については、厚生労働省のホームページをご参照ください)の文字が見え、裏にはひときわ文字が大きくなり『人により程度は異なりますが、ニコチンにより喫煙への依存が生じます』と記されている。[日本国の厚生労働省は、ここまで私の健康に気を遣ってくれるのか]と感涙する反面、[煙草をやめろッ!さもなくば死ぬぞッ]と、脅迫されているようにも受け取れる。
 ちなみに私の喫煙量は、9月までは1日40本。アルコールが入ると60本から70本だったのが、10月の値上げ以降は25本から30本にするよう[努力]をしている。日本国民として、多少は時流に従うのも義務ではないかと思い至ったからである。

 琉歌を1首。
 “煙草吹ち馴りてぃ 酒ん飲み馴りてぃ 姉小懐に 手入り馴りてぃ
 〈たばく ふちなりてぃ さきん ぬみなりてぃ アバぐぁ ふちゅくるに てぃ いりなりてぃ

昔の狂歌だから主人公は14.5歳ころの少年だろう。
 歌意=まずは、親の目を盗んでの喫煙が習慣性になり、そのうち酒を覚えた。そこまでは周囲の奨励もあってすっかり大人気分になり、つぎのネーチャンのふところに手を差し入れる所業は、自ら会得するようになった。
 少年から青年に成長していく過程には煙草・酒・懐と1歩1歩、着実に行進しなければならない[花道]があるようだ。
        写真:オキナワグラフ転写
 
 今日的喫煙事情を考えてみるに理由はともあれ、すっぱりとやめる禁煙。経済的観点からの節煙。両者が実行できるかどうか様子を見る休煙。この3つの選択技がある。
 いまの私には[すっぱりと禁煙]をする勇気はない。公共の場や会社などでは、もう堂々と紫煙を楽しむことはできなくなったにしても、人目をはばかりコソコソ吸うのは不本意この上ない。[禁煙]とされる場所では、すっぱり禁煙。そうでないところでは、犯罪者のように逃げ隠れせず正々堂々、胸を張って[愛煙家の誇りを示す]をモットーにしている。したがって[節煙]くらいはできるだろう。しかし、様子見の[休煙]は、優柔不断過ぎて、私の煙草哲学に反する。また、実行する気もないし考えに入れたくもない。
 ただひとつ。前記の琉歌の下の句“姉小懐に手入り馴りてぃ”の現実が目の前にあり、その女性から[おやめになったら]と、やんわり声を掛けられたならば[休煙]できるかも知れない。
 とまあ、年甲斐もなく楽しい想像を巡らせながら、また1本に火をつけて筆を置く。