旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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さんしんの日・誕生日

2007-02-22 10:13:58 | ノンジャンル
★連載 NO.277

 「さんしんの日は、ほんとうに佳かる日勝る日です。3月4日は、ボクの初孫怜也の誕生日」
 小鼻をふくらませ、目を細めているのは宮古・あゝぐ歌者仲宗根豊。
 公的記念日、世界・日本の諸行事、沖縄の年中行事の日が誕生日の方は、なぜか誇らしげにそれを披瀝する。また、沖縄の歌者知名定男の次女河野るり子の子尊<たける>も3月4日に誕生。仲宗根豊、知名定男が口を揃えて発する言葉は、
 「さすがボクの孫。好んで(さんしんの日)を選んでこの世に登場してくれた」
 このことである。
 他人には、まったく関係なくても(歌者)である彼らには、大いに自慢したいことにちがいない。歌者の孫が(さんしん)かかわり。因縁を覚える。
 これも因縁だろうと思えてならないのは、琉球古典音楽の大家幸地亀千代師の誕生日が3月4日である。


銅像:幸地亀千代

 幸地亀千代<こうち かめちよ>
 明治29年<1896>、北谷間切嘉手納村水釜<ちゃたん まじり かでなむら みずがま>に生まれている。御存命ならば今年111才。
 もともとこの地は、庶民芸能・村遊びなどが盛んな土地柄。幸地亀千代師も幼少のころから、歌三絃は身近にあった。17才になって(本格的修業)を決意。勢理客宗徳<じっちゃく そうとく>に手ほどきを受けた後、瑞慶覧朝蒲<ずけらん ちょうほ>に師事。昭和25年<1950>、師範免許を取得している。
 それ以前、昭和21年9月。米軍・琉球民政府文化部は、沖縄の芸能家50名ほどに資格証明書を交付「民衆慰安」を目的に各地を巡業させている。役者、舞踊家、音楽家は公務員扱いである。松劇団<団長島袋光裕>、竹劇団<団長平良良勝>、梅劇団<団長伊良波伊吉>。いわゆる3劇団時代であるが、幸地亀千代師は松劇団に所属。鉢嶺喜次、比嘉正義、親泊興照、親泊元清、伊波キヨ、嘉手川初子らと共に、石川市<現うるま市石川>を中心に中部地区を巡業。幸地亀千代師の担当はもちろん歌劇、舞踊、組踊の地謡<ぢーうてー>。
 因みに、竹劇団は、羽地村田井等<現名護市羽地>を中心に北部地区、梅劇団は知念村<現南城市知念>をベースに南部地区で興行を打っていた。
 その後、3劇団は民政府の管理を解かれ、自由興行時代に入るが、幸地亀千代師は古典音楽に専念。昭和36年<1961>「組踊工工四」、翌年「舞踊工工四」を出版。ハワイ、北米にも遠征して、琉球音楽の普及に尽力。昭和38年<1963>、野村流音楽協会・第6代目会長に就任した。
 その頃に私は、幸地亀千代師に出会うことになる。琉球放送に入りたてで、先輩プロデューサーのアシスタントとして、幸地亀千代、屋嘉宗勝、平良雄一師ら大家の演奏の録音現場にいた。中でも、谷田嘉子、金城美枝子舞踊家姉妹を起用した組踊「手水ぬ縁・てぃみじぬ ゐん=作・平敷屋朝敏」の収録は、玉城盛義、宮城能造師らが共演。地謡は幸地亀千代師であった。それがきっかけになりその後、幸地亀千代師のレコーディングや舞台公演に再三関わることを得た。

 3月4日。嘉手納町水釜の幸地家には、幸地亀千代門下会の会員が集い「師を偲ぶ演奏会」を開催する。会員は現在の琉球古典音楽界をリードする師範クラスが中心。幸地亀千代師が、いかに伝統継承に尽力したかをうかがい知ることができる。昭和44年<1969>9月25日没。享年73才だった。

 
誕生会余聞。
 沖縄芸能史研究家崎間麗進氏の誕生日は大正10年<1921>5月5日。
 「日本中が祝ってくれる。子や孫に恵まれた今、殊に孫たちに(おめでとう)を言ってもらえるのが嬉しい」
 と、好々爺は「こどもの日」をよろこぶ。
 また、いささか私的に過ぎるが私の兄上原直政の誕生日は、昭和3年<1928>4月29日。昭和天皇と日を同じくしていることを意味ありげにしていたが、その天皇誕生日も(平成)と年号が改まって「みどりの日」になり、それも5月4日に移行。4月29日は、今年から「昭和の日」になった。兄直政の心境と感想を聞いてみなければならない。
 さらに姉仲里春子のそれは5月3日憲法記念日。因みに私は、昭和13年<1938>10月23日。ごくごく平凡な日。

次号は2007年3月1日発刊です!

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よみがえる名唱・金武良仁集

2007-02-15 11:00:08 | ノンジャンル
★連載 NO.276

 いまひとつ、貴重なCDが世に出る。
 琉球古典音楽安富祖流師範金武良仁集19曲。昭和9年<1920>と昭和11年<1922>、大阪・東京で収録。日本コロンビアレコードから出版された蓄音機盤である。しかも、昭和11年の収録3ヵ月後の9月1日、金武良仁師は64才の生涯を閉じているのだ。このことだけでも、この度のCD出版は「金武良仁・遺声」として、貴重極まりない。
 企画・有限会社キャンパス。同社は30余年、民謡を中心にCD制作を成し、沖縄の音楽シーンをリードしてきている。社長備瀬善勝とは、50年来の古なじみ。そのよしみもあって、このCDにライナーノーツを寄せることになった。


      §「名人の呼吸が聴こえる」

 時は大正末期から昭和の初め。所は首里儀保の金武良仁家。
 辺りは、すっかり墨色。庭の琉球松や孟宗竹には、夕まぐれの風の名残が、琴の音のように鳴っている。戸や障子を開け放った一番座に正座した良仁師は、愛用の南風原型の三線を弾き始める。
 ♪わが身ちでぃんちどぅ 与所ぬ知ゆる 無理するな浮世 情ばかい
 好んで歌う「仲間節」である。枯淡の歌声は、高く低く朗々と辺りをつつむ・・・・・

 RBCiラジオ。昭和29年の創立以来の番組「ふるさとの古典」<当初は、ふるさの唄>の解説を担当した教育者・芸能研究家故與那覇政牛氏、野村流古典音楽松村統絃会師範故宮城嗣周氏のお話を通して、近世の名人金武良仁師の「ありし日の一日」を想像すること再三である。
 與那覇、宮城両氏が語る金武良仁師像。
「研究熱心なのは言うを待たない。歌は魂で歌うものであることを実践、証明した方。歌道に対する姿勢は毅然。表現にも、それがよく表れている」
 名人とうたわれる人物には、さまざまなエピソードがあるが、金武良仁師のそれらに接する度ごとに心が躍り、不遜にも憧憬を覚える私であった。
 こうした憧憬の高まりが導入となって私は、番組の担当者となり、現在は沖縄芸能史研究家崎間麗進氏とともに「ふるさとの古典」を放送している。
 昭和40年頃まで、島うたは次々と45回転・33回転のレコードになったが、古典音楽はスタジオに声楽家を招いてのテープ収録・放送が主だった。戦前の音材はすべて蓄音機盤。CD化なぞ夢のまた夢と思われた。
 かつての蓄音機盤は、片面の収録が4分弱に制限されるため、端節はよしとして大節はどうしても前奏・間奏や繰り返し部分を割愛せざるを得なかった。このことはいかにも残念だが、時を越えて名人金武良仁師の名唱をクリアに聴く感動に比べれば(割愛)は問題ではない。
 私たちはいま、とてつもない財産を身近にすることができた。このCDは、その道の方々のみならず、愛好家個々の(家宝)となろう。
 風景は変貌したかも知れないが、首里儀保には、金武良仁師の呼吸を思わせる風が今日も吹いている。<放送人・上原直彦>

 収録曲目=かじゃでぃ風。本花風。散山。仲間節。述懐。遊び子持節。仲村渠節。ぢゃんな節。首里節。諸屯。暁節。茶屋節。下出し述懐。今風。東江節。十七八節。特牛節。
 曲の配列が必ずしも「工工四」通りではないのは、録音をした順にプレスしたものと思われる。


 金武良仁師は、明治6年<1873>5月4日、首里儀保村<現那覇市>の上流家庭金武殿内<ちん どぅんち>に生まれた。5月4日は陰暦で言えば、沖縄の「こどもの日」にあたるユッカヌヒー。しかも師は幼少の頃、父良常に買ってもらったヰーリムン<おもちゃ>の三線に心惹かれ「音楽の道」を志したという。また、長じるにしたがって輝きを増したその容姿は「金武ぬ御前小=うめーぐぁ。貴公子」と愛称される粋人であったそうな。
 琉球音楽が、ようやく日本の民族音楽として認知された頃の音源のCD化。平成19年3月末「金武良仁集」を聴くことができる。


次号は2007年2月22日発刊です!

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あなたの愛唱歌は何ですか

2007-02-08 10:35:33 | ノンジャンル
★連載 NO.275

 「こんな結果が出ました」
 伊志嶺笑里さん<26才>は、宮古・伊良部の出身。オクラホマ大学卒業。現在は、専門学校・那覇日経ビジネス工学院英米語留学科講師である。日ごろ「オクラホマ」の愛称でつき合っている。
 「オクラホマの教室の生徒たちに、沖縄のうたとして、無作為に脳裏に浮かぶ歌を3つ挙げてもらってはくれまいか」
 特別な調査意識ではなく、ごく普通の会話での思いつきで依頼したのは、ひと月ほど前のことだった。18才から20才。沖縄の若者16名の(沖縄のうた)はこう出た。
①安里屋ゆんた。②てぃんさぐぬ花。③ハイサイおじさん。以下、じんじん。ちょーんちょーん節。芭蕉布。赤田首里殿内<あかたすんどぅんち>。うるわしの琉球。なりやまあやぐ。ミルクムナリ。島唄。風のどなん。島人ぬ宝。十九の春。黄金の花。豊年の唄。いっちくたっちく。かじゃでぃ風。芋ぬ時代などなど。
 「安里屋ゆんた」がトップなのは、昭和8年<1933>、星克<ほし かつ>によって、共通語の歌詞が付けられて以来、県民愛唱歌的に歌われているし、現在でも、本土のテレビ局の沖縄レポートのBGMの定番になっているからだろう。覚えやすいのも確か。
 ミルクムナリ・島唄・風のどなん・島人の宝・芭蕉布・ハイサイおじさん等は、ここ40年来、ラジオ、テレビ、そしてCD時代に入ってヒットしたもの。
 興味を覚えるのは「いっちくたっちく」「赤田首里殿内」「じんじん」など、昔からの童うた、遊びうたが、英米語を学ぶ若者たちの唇に乗っているということだ。その背景には、家庭環境が見え隠れする。おそらく「オクラホマ教室」の16名には、父母や祖父母との生活があって、子守歌代わりに聞いて育ったのではなかろうか。
 では、彼らの父母や祖父母は、どんな(沖縄のうた)を歌っていたのだろう。
 昭和47年<1972>。沖縄の日本復帰を前に「あなたが愛唱する島うたは?」と、50名ほどにアンケートを取ったことがある。年齢は40代、50代と高かったが、てぃんさぐぬ花、浜千鳥節、汗水節、かじゃでぃ風、安里屋ゆんた、エイサーうた等々が上位を占めていた。流行り歌よりも教訓歌、望郷歌、祝い歌、祭り歌の色が濃いのは、いかにも沖縄的と言えないこともない。

 私の少年時代はどうだったか。
 那覇市垣花に生まれ、昭和20年<1945>終戦の年に小学校1年生の私の体の中には(さんしんによる沖縄うた)は、ひとつもなかった。巡回映画が、やがて常打ちになったころ、映画館の屋根の上の拡声器<スピーカー>が、呼び込みのために流す蓄音機盤の美空ひばり、市川歌丸、東海林太郎、岡晴夫、田畑義夫らの歌。そして、美しき天然、碧きドナウの流れ、かっこうワルツなどが(音楽)のすべてであった。学校にはオルガンさえない。もちろん、音楽の本は望むべくもない。いや、教科書は教師のみが辛うじて所持していた時代である。
 歌とは、まったく無縁だったかというと、そうでもない。近所にはギターをよくする大宜見の兄さん、マンドリンの名手西銘のおじさんがいて「湯の町エレジー」「青い山脈」を弾いてくれたし、替え歌などを教えてくれた。
 日本帝国陸軍の消灯ラッパのメロディーは、
 ♪新兵さんは かわいそうだね~ 寝てまた泣くのかね~
 になり、同じく進軍ラッパは沖縄口で教わった。
 ♪我っ達ぁオトーや 馬ぬ糞拾るやー あんしがやー 上等兵やんどー~
(うちのお父さんは(軍隊では)馬の糞拾いらしい。しかしッ!上等兵だぞッ)
国体も何も分からないまま、何故か胸を張って歌っていた。

 「いまの小学校1年生の教科書には、どんな歌が採用されているのか」
 ふと思い立ち、取り寄せて開いてみた。

* みっきぃ まうすマーチ。*せいじゃのこうしん。*けんけん ぱ。*ぶん ぶん ぶん。*おちば。*はる なつ あき ふゆ。*こいぬのマーチ。*しろくまジェンカ。*かえるのルンバ。他。

なにしろ小学校1年生。漢字は用いてないがマーチ、ジェンカ、ルンバなどの片仮名には、平仮名のルビがふってあり、漢字は教科書の最後にある「国家」のみで「こっか」のルビ。
 (きみがよはちよにやちよにさざれいしのいわおとなりてこけのむすまで)
 1年生たち。いまは歌詞の理解のないまま教わるが、長じて、
 (君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで)であることを知ることになる。皆して歌う・・・・だろうか。

 余談。
 「かじゃでぃ風」は、王朝時代から今日まで歌い踊られている。これほどのヒット曲もあるまい。その大ヒット曲をRBCiラジオの時報をリードにして、沖縄中で歌ってみようというのが「第15回・ゆかる日まさる日さんしんの日」である。その日は3月4日。

次号は2007年2月15日発刊です!

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春を告げるポスター・さんしんの日

2007-02-01 11:22:39 | ノンジャンル
★連載 NO.274

 琉球放送iラジオ主催・第15回「ゆかる日まさる日さんしんの日」のポスターが貼り出されている。
 毎年3月4日。午前11時50分に生放送開始。正午の時報を1回目として、沖縄中のさんしん<三絃・三線>が祝い歌「かじゃでぃ風」を奏でる。つまり、午後9時までの9時間10分の生放送。読谷村立文化センター鳳ホールを主会場に県内各地はもちろん、沖縄県人の多いハワイ、ロサンゼルス、ブラジル等。東京、神奈川、長野、北海道など、番組に相呼応する人びとの声、演奏を中継して構成する1大イベントなのだ。すでに東京や名古屋からの入場希望者の問い合わせ、整理券確保の申し入れがある。今回は、実施日が日曜日とあって、沖縄観光を兼ねての来県者が多くなりそうだ。

 ポスターといえば、昭和4年<1929>。沖縄の泡盛業界は、本土進出を図る手始めとしてポスターを作製。東京、大阪へ1万8000石を出荷している。
 琉球泡盛のモデルになったのは、当時の銀幕女優田中絹代。しかし、本人の了解を得たものではない。田中絹代主演映画のポスターを切り抜き、いかにも本人が泡盛をお勧めしているように合成した写真であった。著作権侵害、盗作として(問題が起きはしないか)と懸念する向きも当然であったが、
 「盗作騒ぎが起きたら起きたときのこと。それはそれで話題になって、いい宣伝だ」
 と強行。酒造業界は過当競争が激しく、倒産が相次いでいた当時のこと、田中絹代ポスターは、その巻き返しの一策であった。沖縄県酒造組合連合会は、田中絹代に泡盛の運命を託したのだ。さいわいにして(そう言っていいかどうか)何の騒ぎも起きず東京、大阪の酒屋や駅前などに貼られたという。
 これに味をしめたわけではなかろうが、その後も雑誌に載っていたヌード写真を拝借。南国沖縄をイメージする芭蕉の葉かげで泡盛壺を持ち、ニッコリ微笑むモデルを立たせ、いかにもオリジナルデザインを装ったポスターを出している。ヌードとは言っても、昨今のように(一糸まとわず)のそれではなく、二の腕や肩肌を出した程度だったことは、昭和初期の時代背景からおして容易に推察できる。
 因みに、沖縄における酒類の価格は、昭和3年=清酒2リットル入り5円。昭和6年=ビール大・633ミリリットル25銭。昭和11年=ビール大45銭。泡盛=1合・180ミリリットル3銭と、記録にある。
 ポスター効果があったのか、泡盛業界も上昇気流に乗り、昭和10年には組合積立金54万円に達する(沖縄県1の金持ち組合)になったという逸話まである。いずれにしても、ポスターのモデルになった(させられた)田中絹代さんや一肌脱いでくれたヌード嬢には、深く感謝しなければなるまい。

 話は「ゆかる日まさる日さんしんの日」に戻る。
 15回目の節目にあたる今年のポスターは、琉球放送の傍系会社RBCビジョンの美術担当者名嘉一のデザインである。
 平成4年<1992>。第1回目のポスターは親友與那覇朝大画伯が描いてくれた。
 「音楽関係者や愛好家は、もちろん、さんしんで参加する。絵描きのワシは、ポスターで参加しよう」
 企画を意気に感じて墨痕あざやか、さんしんの天<上部>をほとんどひと筆書きに近い図柄と、
 ♪歌とぅ三絃ぬ昔始まいや 犬子音揚りぬ神ぬ御作
 (うたとぅ さんしんぬ んかし はじまいや いんくにあがりぬ かみぬみさく)
 と、琉歌を添えてある。
 琉球音楽の始祖であり、音楽職の最高位「音揚り神」と尊称される赤犬子<あかいんこ・あかんくーとも言う>の遺跡が、主会場となる読谷村にあるのも「さんしんの日」との因縁を覚える。
 與那覇朝大兄には、その後もポスターを描いてもらってきたが現在、療養中のため、若い名嘉一に受け継いでもらっている。

 余談。
 ごっつい左手が、さんしんを握っているデザインの第4回目のポスター原画は、朝大兄の厚意で私が保有している。そして、その原画は、私の携帯電話の画像にしてある。與那覇朝大兄の健康が回復して創作活動を開始、「さんしんの日」のポスターを手がけてくれるまでは、彼の作品と一緒にいたいのである。
 また、着信音はRBCiラジオの同僚でバイオリンをよくする知念茜嬢に採譜してもらった「かじゃでぃ風」。
 ともかくも、多くの人たちと関わりを持ちながら「ゆかる日まさる日さんしんの日」は春をつれて、もう目の前に来ている。


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