旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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歌三線が聴こえる・関東

2014-08-20 00:10:00 | ノンジャンル
 20年前の若者は、身のまわり品と父ゆずりの三線を携えて船に乗った。そして、船を汽車に替えてさらに進んだ。行き先は神奈川県川崎市である。
 「もう60年近く前ですよ。本土に渡るのは初めて。右も左も分からないどころか、上も下も知らない。船に乗ったことを後悔し、沖縄の島影が遠くにかすむころ、勇気を出して海に飛び込み、泳いで帰ろうかと思った。本気で(まだ間に合う!)と思った。汽車に乗っても帰心はおさまらない。ものごころついてから長時間泣いたのは、後にも先にもあのときだけ・・・・。涙が渇いて決心がついた。よしっ!ここまで来たからには後へは引けないっ!大和人に負けてなるものか。沖縄人の意地を見せてやろう。本土では、まだ沖縄人に差別感があったからね・・・」。
 この人物。古馴染みの男。名渡山兼一(などやま けんいち)昭和14年生。泳いでも帰りたかった故郷は本部町伊豆味である。カツオと蜜柑の産地だ。
 「いわゆる本土への集団就職の形で川崎入りし、就いたのは京浜工業地帯の開発工事現場の肉体労働。国は主要都市の開発を急いでいたところで、仕事は日に夜を繋ぐ突貫工事で正直きつかった。それを慰め励ましてくれたのは、携帯していた三線一丁。はじめは周囲の大和人にうるさがられたが、音楽とはいいもので、いつの間にか仕事帰りの慰労に聴きにくる同僚もい、同郷の者もいて、定例の歌三線会が自然発生した。これが発展して、いまの名渡山絃友会になった」。
 名渡山兼一は、ねばりの経験を活かして、やがて「名渡山工業」を興して社長になった。その後は(泣きに泣いた)かつての乗り物を飛行機に代えて沖縄を往来。島うたは前川朝昭に、古典音楽を玉城宗吉師に師事して両方とも師範免許を取得したのである。社長業のかたわら本格的な組織作りを成し、これが現在の「野村流音楽協会関東支部」の母体になった。

 野村流音楽協会。
 琉球古典音楽(宮廷音楽)野村流の普及発展を目的とする三線音楽の団体。
 成り立ちは大正時代にさかのぼる。
 大正13年〈1924〉10月。野村流の始祖・野村安趙(あんちょう=1805年6月2日~1871年7月2日)の高弟桑江良真の流れをくむ門弟たちによって那覇市久米町のメソジスト教会において結成された。初代会長は伊差川世瑞。副会長池宮喜輝。音楽部71名。舞踊部20名。計91名で発足している。毎年、春と秋に総会と演奏会を開催。教授免許、師範免許交付。組踊の地謡養成を成したほか、種々の演奏活動を推進して古典音楽会をリードしてきた。
 現在に至るまでには組織内では分派などがあって平坦な道ではなかったが、その勢力は衰えを知らず、県内外は云うに及ばずブラジル、アルゼンチン、北米、ハワイ、ヨーロッパにまで及んでいる。
 さて。
 名渡山兼一が属する野村流音楽協会関東支部は今年、創立45周年を迎え6月15日、神奈川県川崎市教育文化会館で式典及び演奏会を催した。その折、同本部は名渡山兼一に対して、長年の功績と労苦を讃えて表彰状と感謝状を授与している。
 ここからは、いささか内輪ばなしになるが。古馴染みの受賞を歓び、拙い琉歌を詠み送った。

 ♪誠名渡山や綾船ぬ船頭 歌三味ゆ舵に走るが美らさ
 〈まくとぅ などぅやまや あやふにぬ しんどぅ うたしゃみむ かじに はるがちゅらさ
 
 名渡山よ。誠にお主は琉球音楽を乗せた美しい綾船の船頭だ(ふるさとを遠く離れた地)において、歌や三線を舵としてよくぞ綾船を走らせてきた。船頭の雄姿は実に美しい。
 これを受け取った古馴染みの弁はこうだ。
 「褒み過げーあいびらに。恥かさいびーんどぉー
 〈褒め過ぎではありませんか。恥ずかしいですよ〉。
 名渡山は沖縄弁、しかも本部訛りで返事をよこした。なにしろ大和生活50余年、共通語を操れないわけではないが、多少照れたり、本音を語る際は島言葉になるのだ。と云うことは、このたびの受賞は心底嬉しかったに違いない。後日、お中元と称してナシと桃を送ってくれた。礼?のつもりだろうが、朗報に接して即興で詠んだ拙歌でナシや桃をゲットしたこちらのほうが(恥ずかしかった)が、特別な味わいをもって食した。
 
 琉球音楽会は島袋正雄(野村流音楽協会)照喜名朝一(琉球古典音楽安冨祖流絃声会)城間徳太郎(琉球古典音楽保存会)西江着春(琉球古典音楽絃声会)と人間国宝・保持者を出していて隆盛を極めている。
 野村流の他にも古い歴史を持つ湛水流があるのは周知の通りである。各流を総合すると、その人口は海外を含めて・・・推定すらかなわないが(十数万)と云われている。

 毎週土曜日。名渡山兼一の自宅では「琉球古典・民謡研究絃友会」定例の稽古がなされている。これも開設40年は越えただろう。会員は、沖縄弁も自由には操れない県出身者の子弟や三線音楽に魅せられた他府県人が神奈川県内は云うに及ばず、東京、埼玉、千葉。そして時には新潟、宮城からも三線携帯でやってくる。
 半世紀も前、名渡山兼一が(泣きながら)携えて行った1丁の三線は、人と人の心をひとつに紡いで、今日も喜怒哀楽を共鳴させている。
 快なり!沖縄!歌三線!



納涼・月や昔から・・・・

2014-08-10 00:10:00 | ノンジャンル
 背後霊。心霊スポット。幽霊・・・・。
 夏のテレビは幽界を特集して、茶の間に涼風を届けてくれる。レポーターには、人気少女タレントを起用して「ギャーギャー」「キャーキャー」の絶叫を演出して画面効果を高める。{夏だけのバラエティー番組}ととらえれば、相変わらずのお笑いものよりは、面白くないこともない。
 信じようと信じまいと、いや、われわれの少年のころは、まるまる信じて聞いた(幽霊ばなし)をしよう。

 昔むかし。
 首里のはずれに住む下級武士神山里之子は、界隈でもその美貌を噂される思鶴(うみちる)と結婚して、人も羨む歳月をすごしていた。ところが、好事魔多しとやら、夫はちょっとした夏風邪が意外に長引き、床についたまま、翌年の夏を迎えるありさま。妻真鶴の懸命な看護は愛の深さを他人にも感じさせるものがあったが、縁者筋では(夫は長くは持つまい)のささやきも聞こえる。
 そのことを病人は、鋭い感覚で予知する・・・・。夫は妻を枕頭に読んで、声力もなく云った。
 「思鶴。苦労かけるなぁ。拙者はもう、来年の桜をみることは出来まい。いや、年を越せるかどうか・・・。お前との日々を過ごせたのだから、いい一生だった。ただひとつ心残りなのは、お前のその美貌。拙者が死んだあと、ほかの男たちが黙っているわけがない。再婚すのであろう。このことだけが無念!お前を愛しているだけに無念・・・・。」。
 妻は答えた。
 「何をおっしゃいます。二夫にまみえる私ではありません。それよりも、早く病に勝ち、元の暮らしをふたりで取り戻しましょう」。
 こうした会話が再三持ち出されるにいたって、思鶴は決心した。そして実行した。美貌が心痛の基ならばと、夫の目の前で剃刀を持ち、眉間から鼻筋にかけて切りつけたのである。夫は泣いた{それほどの愛情だったのか!すまない!すまない}と泣いた。
 するとどうだろう。妻の真情が天に通じたか!夫に(生きる力)を蘇えらせて、みるみる快方に向かい、年の内には床を払うまでになり、春からは公務につくまでになった。
 ところが、桜の咲くころになって夫の心に変化が生じた。
 「思鶴の愛で一命を取り留めたことは確かだ。しかし、あの傷ついた顔はどうだ。過日の美貌のかけらもない。それどころか夜、枕を並べているとき、ふと寝顔をみるとゾッとする。化け物だっ!」。
 心に巣くった嫌悪感は日に日に濃くなる。公務からの帰宅が遅くなる。遂には、那覇の辻遊郭の遊女とねんごろになり、帰宅しない日数が多くなった。それでも思鶴は献身を惜しまなかった。しかし、夫の気持ちは離れていく一方だ。
 そこへ遊女の入れ知恵。
 「いっそ、毒をもってなきものにしよう。あとは二人の天下よっ」。
 毒をもる。夫の頭にも(よぎらない)ことではなく、遊女の色香に後押しされて、妻殺しをしてのけた。世間には醜い顔に悩んで(自ら命を絶った)ことにした。遊女の言葉通り(ふたりの天下)になった。
 それから桜が散り、夏になり、お盆を迎えるころの真夜中になると、神山里之子の耳に歌を唱える声が届くようになった。決まった時刻に毎夜である。

 ●月や昔から変わるくとぅなく無さみ 変わてぃ行くむぬや人ぬ心
 〈チチやンカシから かわるくとぅねさみ かわてぃいくむぬや フィトゥぬククル

 「月は昔から変わることない。変わって行くのは、人の心・・・・」。
 月夜には月明かりに溶け込むような透き通った声。闇夜には闇を払うような唱え・・・・。神山には誰の声か分かった。あまりにも身勝手な己の所業が悔やまれる。が、遅い。
 「思鶴!許してくれ!拙者が悪かった!許してくれ!!」。
 神山里之子は、七月エイサーが華やぐ夜、遊女を手にかけ、自らも命を絶ったのであった。

 この話は近年になって舞台化された。
 芝居と云えば、公演華やかしころ「納涼特別公演」と銘打って「逆立ち幽霊」「深夜の叫び」「沖縄版・四谷怪談」などなどが人気を呼んだ。
真境名由康作「伊江島ハンドー小」も、男に純愛を裏切られた女の怨念物語である。歌劇構成されていて幽霊もの・怪談劇というよりも、男に薄情された女ハンドー小に対する同情が見どころになって、今でも悲歌劇・女の命を掛けた純愛物語として人びとの感涙を絞っている。

 読書諸賢は、幽霊を見たことがあるか。心霊写真を持っているか。背後霊に憑かれたことはないか。心霊スポットに行ったことはないか。
 わが老妻は幽霊ではなくUFOを見たという。しかも庭の真上に見たという。
 「はるか上空を飛行するオスプレイがヘリコプターだろう」
 「いいえっ!それなら毎日のことだから判別できる。音もなく、橙色の光が右往左往していたのだから、UFOに違いない。どうしよう!」
 どうしよう!と云われてもどうしようもない。
 「そこまで云うならきっとUFOだろう。こんど見かけたらオレにも知らせてくれ」。
 そう頼んで一件を落着させている。
 とかく、夏の夜には摩訶不思議はなしが似合う。末尾にこう云っておこう。
 「お盆明けの夜遊びは控えよう。成仏できないでいる霊が徘徊している。お盆明けの遊泳は慎もう。死霊が足を引っ張る」。



七夕・お盆。沖縄の夜

2014-08-01 00:10:00 | ノンジャンル
 梅雨明けと同時に大地を焦がす太陽。
 旧暦6月を「真六月=まるくぐぁち」といい、暑さにまだ馴れていない身体には目ークラガン(めまい)するほどの酷暑。
 月が替わって旧暦7月。ひと月の間に体は暑さに順応して、いやいや、(暑い!暑い!を連呼しても涼しくなるわけでもないし)と諦めたかして、眉間にシワを寄せながらも(暑い!)とは云わなくなった。しかし、実際には「七夕ティーダ=太陽」と称して、1年のうちでもっとも(暑い!)がしばらく続く。
 8月2日は旧暦七夕。そして8月8日は旧暦7月13日で旧盆の入り。先祖霊を迎える「御迎え=ウンケー」9日「中ぬ日=ナカヌヒー=中日」10日は先祖霊を黄泉の国へ御送りする「御送ゐ=ウークヰ」。沖縄人はこの3日間をいかにも先祖が目の前に存在するかのようにもてなし、過ごすのである。

 七夕のあり方は他府県とは異なる。
 単なる星祭りではない。人びとはその日のうちにそれぞれのお墓に赴き「お墓を清めにきたこと」「旧盆が近いことを告げ、周辺を掃き清める。近代的な墓苑ではなく、代々変わらない郊外の墓所は夏草におおわれ、刈り取るのに汗で全身を濡らすが心は爽やかである。作業が終わると持参した御茶湯(ウチャトー)と花を供えて唱える。
 「13日は盆の入り。子、孫揃ってお待ちしています。御取い持ち(うとぅいむちさってぃ、うたびみそぉーり(おもてなしされていただけますように)」。「あもてなしをします」ではなく「おもてなしをさせていただく・接待をさせていただく」と云うところなぞ、先祖崇拝を信仰とする沖縄人の奥床しい精神文化を感受することができる。また各家庭では普段、取り扱いを禁じられている仏壇・仏具を清めるのも、七夕の大事な作業のひとつ。
 星祭りをまったくしないでもない。
 中国から本土をへて入ってきた星祭り。王府時代、歴代王は自ら先祖霊を祀る首里円覚寺や那覇泊の崇元寺を参拝したあと、大美御殿(ウーミうどぅん)にお供の者を集めて、おそらく(冷し)と思われるが、素麺をふるまい、宵の星空を眺めたとか。ここでも星祭りよりも先祖供養が優先されている。

 星祭りの琉歌もないではない。
 ◇一年に一夜 天ぬ川渡る 星ぬ如とぅ互げに 契りさびら
 〈ふぃとぅとぅしに ちゅゆる あまぬかぁわたる ふしぬぐとぅ たげに ちじり さびら

 歌意=1年に一夜だけ天の川を渡って逢い、愛を確かめ合うというふたつの星のように、わたしもあなたも天の川よりも深い契を結びおこう。

 そして盆入り。
 御盆(ウブン)という云い方もあったようだが、「シチグァチ=七月」と沖縄本島では呼称している。古くはシューロー(祖霊)ソーロー(精霊)とも云い、先祖神を家庭に招いて、その年の豊作をたまわったことに対する感謝と翌年の豊作祈願をする農耕行事なのである。その年に収穫した農作物を主にお供えする理由はそこにある。それもこれも先祖神の守護があってのこと。祈願したら感謝すのは当然のこと。感謝を忘却すると二度と祈願は叶わない。

 余談。
 去年の旧盆の祈り、仏壇のお供え物の中にマンゴーやフライドチキンがあるのを見て小学生の孫に問われた。
 「ご先祖様の時代にもマンゴーやフライドチキンはあったの?」。
 爺は答えた。
 「昔はなかっただろうネ。でも、ご先祖様が皆の健康を見守って下さり、よく働いたおかげで、いまはマンゴーもフライドチキンも食することができる。お口に合うかどうか、どうぞお召し上がりくださいと、お供えするわけサ。お線香を上げてそうすすめてごらん。きっと、歓んでお箸をつけて下さるヨ」。
 「ふ~ん・・・・」
 孫は、にわかには解釈仕難い納得の仕方だった。

 古い慣用句に、
 「七月、正月すんでぃる 唐ん大和ん歩ちゅる=シチグァチ、ソーグァチすんでぃる トゥんヤマトゥん あっちゅる」がある。
 毎年毎年、農業漁業はもちろん、時には渡航の危険を承知の上で、遠い遠い中国や大和に渡り働くのは何のためか。お盆や正月を不足なく成すためである。
 それほど沖縄人にとっては正月、殊にお盆は重きを置いた行事なのだ。
 この考え方は現在でも濃厚で、県外に住まいをし、働く人、あるいは嫁いだ人も、お盆には万難を排して里帰りをする。先祖敬い、親孝行の観念がそこにはある。一族が勢ぞろいする楽しみのひとつ。
 お盆がすむと、今度は旧暦の8月15日を待つ。月見もさることながら各地でそれぞれの豊年祭、村遊び、村踊りがあるからだ。この時期にも帰省者は多い。わざわざ村芝居やエイサーに出演する人も少なくない。こうして猛暑ながらも、人と人が親しく交わる行事があるからこそ、猛暑、酷暑も(なんのそのッ!)心豊かに乗り越えられるのだ沖縄人は。
 遅い日没のころ、窓を開けるとエイサーの歌三線や太鼓の音が風に乗って我が家にも届く。半裸の身体に快い。そのエイサーや村踊りのサウンドが遠のくころ、夜はどこからか時折、涼風が肌をなでる。暦も8月7日は「立秋」を告げる。まあまあ、そうせかないで太陽の輝きを楽しみながら、9月8日の旧暦十五夜を待とう。