旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

ホームソング・走え!ゴンゴン

2007-04-26 13:19:29 | ノンジャンル
★連載 NO.285

 ♪走え!ゴンゴン 走ろうか 走え!ゴンゴン 走ろうよ
  雲の上まで 行きたいな キララお日さま 逢えるだろう
  走ってちょっと 疲れたら 雲のソファに ひとやすみ

 「ビギンの比嘉栄昇が来社している。逢ってほしい」
 RBCTV報道局次長兼映像部長大盛伸次に声をかけられたのは、昨年12月25日・クリスマス当日だった。
 ラジオ・テレビにゲスト出演する(ビギン)とは挨拶を交わす程度で、向き合っての会話はまるでなかった。その日は比嘉栄昇ひとり。対面するやいなや彼は、少年のような瞳を輝かせて切り出した。
 「ボクも幼いころから、たくさんの歌を聞いて育ってきた。いま、歌う立場になって思うことは、子どもたちが喜んで歌えるうたを作って、一緒に歌いたいということ。歌詞を書いてくれませんか。ホームソングです」
 同席した大盛伸次の言によれば、ビギンからの提唱があり、RBCスタッフが加わって(ホームソングプロジェクト)を立ち上げた。2007年4月から2008年3月まで、毎月1曲(新しい歌)を放送したいと言う。コンセプトは「大人が本気で作る、子どもたちへのうた」
 30分ほど雑談を交わすうちに、前後のことも考えず、作詞を引き受けている自分がいた。生まれてこの方、1度も剃ったことがないような黒く濃い眉。10才のウーマクワラバー<やんちゃ坊主>が、そのまま大人になったような眼。親の愛情をひとりじめしたであろう、ふっくらと紅潮した顔のその日の比嘉栄昇に魅せられたからだろう。作曲は、沖縄のロックミュージックシーンをリードするジョージ紫と聞いて、大いに興味を覚えたのも確かだ。

 ♪走え!ゴンゴン 走ろうか 走え!ゴンゴン 走ろうよ
  青々海を 走りたい 三段跳びも 出来るだろう
  覗いてみたい 海の底 お魚さんと 話したい

 昭和29年<1954>10月1日。琉球放送創立当時から、ラジオ番組には「ホームソング」の時間があった。それは、昭和40年ごろまで続く。制作は大阪・朝日放送ラジオ。そのころは、まだネットラインはなく、テープを購入して放送していたが、本土と切り離された(沖縄)で聞く「ホームソング」は、歌謡曲とは異なり(温かい)鮮度をもって、沖縄人の心に染みた。
 作詞泉 悦子・作曲米山正夫・うた中野洋子「気象台のアンテナ」。作詞・作曲三木鶏郎・うた河合坊茶「かぐや姫」。作詞西沢 爽・作曲福田蘭童・うた森繁久弥「しゅてん童子」などなど。
 そして、昭和34年<1959>10月1日、私は琉球放送入社。やがてディレクターになるが、入社前(好んで)聞いていた「ホームソング」を担当するようになった。作詞宮川哲夫・作曲吉田 正・うたフランク永井「公園の手品師」。作詞石浜恒夫・作曲大野正雄・うたフランク永井「こいさんのラブ・コール」などを紹介した。
 しかし、昭和40年に入ってからだったか、朝日放送は「ホームソング」の制作を打ち切った。スポンサー・ヤマハ楽器との契約が終了したのが、その理由と聞かされた。
(惜しい!いかにももったいない!)
 琉球放送ラジオスタッフは、沖縄の作曲家普久原恒男、三田信一、照屋林助ら。作詞家吉田安一、有村 けん、あさ・ひろし<普久原朝弘>らと語らって「自前のホームソングを作る」ことにしたのだ。「芭蕉布」「ふるさとの雨」「ゆうなの花」「銀の櫛」「ばらさんぴん」などがそれである。だが、それもラジオ番組のネット化、番組のワイド化、営業的な条件、要素が重なって制作打ち切りを余儀なくされたのだった。
 あれから、30数年の時を経て今年、ホームソングは(復活)いや、映像を伴って、新しい(誕生)をみたのである。

 ところで。
 「走え!」は「走る」だが「ゴンゴン」とは何か。方言生活の薄い若い人たちに問われることしきりである。「ゴンゴン」は「走る」にかかる擬態語。
 擬態語=ものの状態・動き・変化や身振りなどの感じを、言語音で写したことば。擬態語が多いことは日本語の特徴である<日本語大辞典>
 作詞森山良子・作詞BEGIN・うた夏川りみ「涙そうそう」の「そうそう」
も擬態語のひとつ。全国それぞれの地方に方言独特のそれがあるように、沖縄語にも擬態語は実に多々。

 さてさて。
 作詞上原直彦・作曲ジョージ紫・うた比嘉栄昇と子供たち「走え!ゴンゴン」は、4月30日までの放送。5月の「ホームソング」は作詞玉城千春<Kiroro>・作曲ローリー「ゆんたく はんたく」が収録済で出番を待っている。
 余談。
 「走え!ゴンゴン」の作詞作業は、自惚れ抜きにスンナリいった。小学校6年生、3年生に加えて下は2才。5人の孫が外を飛び回っている様が、そのまま言葉になった。
 爺になってみるのも、オツなものだ。



 ♪走れ!ゴンゴン 走ろうか 走え!ゴンゴン 走ろうよ
  そよそよそよの 風の中 母さんみたいに やさしくて
  風になったら 気持ちいい 明日の夢が 見えるだろう



次号は2007年5月3日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com


二枚目・ハンサム・ナイスガイ・イケメン

2007-04-19 10:03:14 | ノンジャンル
★連載 NO.284

 春4月。
 桃原 永<とうばる はるか。22才>。久田友也<くだ ともや。22才>。池田龍丙<いけだ りゅうへい。24才>は、琉球放送局今年度の新入社員である。配属部署はまだ決まっていないが、桃原=営業・制作。久田=報道。池田=技術と、それぞれの志望がある。挨拶まわりで、いささか緊張気味。それをほどいてやろうと初対面の彼らに声をかけた。
 「揃って二枚目だネ」
 意味は通じたらしいが、納得顔ではない。二枚目という言葉に実感がないようだ。
 (二枚目は、もう死語になったのだろうか。イケメンにすればよかった)と、反省したことではある。
 歌舞伎など芝居の看板、番付で二番目に位置付けされることから、美男子役を二枚目と言い、転じて好男子、やさ男を指すようになった。三枚目は喜劇役者。いまでも、ひょうきん者を指す言葉として、私は使っている。劇場の表に掲げる役者名や飾り看板の一枚目は、もちろん座長・大御所。大看板あるいは、一枚看板と言い、最も優れた役者のことだが、これもいまではその世界の代表格、実力者を表す言葉になっている。



 映画全盛になって登場した(二枚目)は、何と言っても長谷川一夫だろう。デビュー名林 長二郎。現在、60才後半から70才以上の方なら、まず彼の名前をあげるにちがいない。まったくの余談だが、風狂の歌者故嘉手苅林昌<かでかる りんしょう。大正9年生>は戦時中、沖縄人の名前は(読みにくい、書きにくい、呼びにくい)として、大和人の仲間に入れてもらえなかった。そこで嘉手苅林昌は、童名ジルー<次郎>を「林昌」と組み合わせたうえに、大二枚目林 長二郎にあやかって「林 昌次郎=はやし しょうじろう」を名乗って、大和人に変身した。
 さらに余談。明治37年生の私の母親に「日本一の二枚目は?」と問えば即座に「上原 謙」と答えていた。理由「同じ上原姓!」これであった。

 沖縄芝居の二枚目は、誰もが平安山英太郎<へんざん えいたろう>を筆頭に置く。
 明治38年<1905>6月8日、那覇市東村<現・町>出身の平安山英太郎は、14才にして劇団・潮会<うしおかい。座長真境名由康・まじきな ゆうこう>に入会。昭和7年<1932>、珊瑚座に参加するや(二枚目)として活躍。歌劇「薬師堂」「仲里節由来記」、自作の「仏桑華・あかばなぁ」の主役を演じて、人気を不動のものにした。
 戦後も「巴劇団」を結成、座長となり、数々の名舞台を披露。昭和54年<1979>4月14日、73才で没しているが、芝居通の間では(ヘンザンぐとぅどぅある=平安山優みたいだ)が、美男子の代名詞になっている。

 昭和13年<1938>生まれの私にものごころがつき、好きなスターを選びだせた昭和20年後半から35、6年ごろの「二枚目」は鶴田浩二。映画「ハワイの夜」「弥太郎笠」などなど、憧れをもって見ていた。

 江戸時代。
 見るからにそれらしい若衆を「いい男」と言い、その上、女性にモテそうな艶っぽい男を「いろ男」と呼称したようだが、芝居や映画が大衆娯楽になるにつれ、それらは「二枚目」になった。
 しかし、昭和30年代に入るや石原裕次郎の登場によって「ナイス ガイ」「タフ ガイ」が二枚目に取って代わる。もっとも、これらは和製英語に近く、殊に「ナイスガイ」は、英語ではむしろ反語として使われ「いやな奴」をも意味するそうな。見た目よりも個性の時代に入ったのであるが、それらもこのごろは死語になりつつあり、いまや木村拓哉を代表として「イケメン」時代だ。

 RBCiラジオ情報センター担当であり、3月4日「ゆかる日まさる日さんしんの日」のスタッフ森根尚美<38才>の「二枚目」は、鬼平犯科帳の中村吉右衛門。徐 弘美<41才>のそれは、三浦友和。
 長谷川一夫。上原 謙。平安山英太郎。鶴田浩二。石原裕次郎。中村吉右衛門。三浦友和。木村拓哉・・・・。
 いい男。いろ男。二枚目。ハンサム。ナイスガイ。タフガイ。イケメン。
 男の美称も時代とともに変遷していく。
 「オレは、いずれに位置するのだろうかネ」
 森根尚美、徐 弘美に問うてみた。ふたりは顔を見合わせて、
 「・・・・・  ・・・・・」
 丁度、そこへ電話が入って話は断ち切れになった。
 ふたりの(・・・・・  ・・・・・)の沈黙は、何だったのだろう。

次号は2007年4月26日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com


デイゴの花咲く候

2007-04-12 12:04:17 | ノンジャンル
★連載 No.283

 デイゴの枝先に、赤い色を見るこができる季節になった。
 「さあ、そろそろアイツがやってくるぞッ」
 そう予感したとたん、時を違わず4月1日、南方海上に今年の台風1号が生まれた。デイゴと台風は、相性がいいらしい。
 デイゴの呼称。
 沖縄本島=でぃぐ。もしくは、でぃーぐ。宮古=どぅふきー。八重山=ようら。もしくは、あかようら。奄美大島=でぃご。漢字では「梯梧」。また、木偏に筆と書いて「デイゴ」と読む文字も、沖縄関係の書物には見える。デイゴは、花の莟が筆の先に似ていることから創り出された沖縄独自の漢字のようだ。さらに、講談社発行「日本語大辞典」には、「梯姑」とある。
 インド原産のデイゴは、マメ科の落葉高木。高さ15、6メートルに達する。幹は太く、枝には多数の鋭いトゲ。花は燃えるような紅で長さ25センチほど。4月、5月ごろが盛りで、真っ青の天に映えて咲く。街路樹のほか、公園の集落の周辺に植えられているが、材質は意外に柔らかく、琉球漆器・獅子舞の頭の素地に適し、キクラゲ栽培としても利用されている。容易に繁殖させることができるため、沖縄本島の中、南部では、造林がなされている。
 いかにも、亜熱帯沖縄らしい樹木であることから、昭和42年<1967>、県花に指定。サンダンカ・オオゴチョウとともに、沖縄三大名花のひとつだ。

 歌にも多く詠み込まれてきた。
 ♪赤ユラぬ花や 二、三月どぅ咲ちゅる ばがけらぬ花や 何時ん盛り
 ∮デイゴの花は(旧暦)二、三月にならないと咲かないが、我ら若者の(青春
  の花)は、四季を問わず真紅に咲いている。
 八重山石垣島に伝わる「桃里節=とぅざとぅ節」の一節。

 ♪デイゴの花咲くころは 真っ赤な日陰で子守歌 花かんざしの沖縄育ち
 ∮黒島英章作詞作曲「沖縄育ち」
 ♪でいごパッと咲く あの花かげで 島の乙女が出て招く・・・・
 ∮ハワイの県人、比嘉盛勇作詞、宮城英吉作曲「でいご音頭」
 ♪黄金の花空にみち 風さわやかに白雲呼ぶ ふるさとの野に春の訪れ 赤ゆらの花
 ∮作詞大浜信光、作曲宮良長包「赤ゆらの花」
 ♪ディグぬ花でんし 節待ちどぅ咲ちゅる 我身ん節待ちょてぃ 咲ちゅる嬉りさ
 ∮知名定繁作詞作曲「でぃぐぬ花」
 しかし、この歌は(デイゴ)そのものの歌ではなく、敗戦によってすべてを
失った沖縄人に向かって、
 「デイゴの花も、寒い冬<時代>には咲かない。やがて、きっと咲くであろう春風を受け、初夏の(咲く季節)を迎えて咲くのだ。それまで、生きる希望を失わないでいよう」と、メッセージした歌である。

 いささか私事に過ぎるが、日本復帰がなって本土との交流が緩和された昭和50年<1975>ごろ、東京の某レコード会社から、作詞の依頼があった。
 「復帰を機に、沖縄を情緒的かつ情熱的に歌い上げる演歌」ということであった。デイゴをテーマに書いた。
 ♪青葉が散って 花が咲く デイゴは燃える 恋の花・・・・
 たしか、そのような書き出しであった。が、この歌詞は(没)になった。
 理由「青葉が散って 花が咲く???。そんなの・・・・ある?」
 担当プロデューサーの疑問であった。
 しかし、デイゴは青葉のころ莟はつけるが、青葉のエキスを吸って真紅になるのか、葉をすっかり落とした枝いっぱいに花を咲かせるものなのだ。その辺が大和人のプロデューサーには、理解しにくかったらしい。もっとも、そのまま世に出たにしても、人びとの唇には乗らなかったであろう。一般的植物の常識を破った♪青葉が散って 花が咲く・・・では、全国的にはなりにくかろう。

 デイゴが通常よりも、数多く花をつける年は「農作物は不作」とする俗信がある。台風の発生数、異常気象と関わりがあるかどうか、確信は持てないが、今年はどうだろう。
 3月下旬、各地で海びらきがあった。デイゴも咲き、台風も生まれた。いよいよ、沖縄らしい長い太陽の季節に入る。


次号は2007年4月19日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com


猫たちの季節

2007-04-05 11:03:06 | ノンジャンル
★連載 No.283

 ∮戀猫のいくつも飛べり月の溝   白楢

 ∮月滿ちて又缺けそめぬ猫の戀   虚子

 「猫の戀」「戀猫」は、俳句の春の季語。
 昨夜も、わが家のそこいらで切羽詰まった声を出して、猫が恋をしていた。それが30分ほどつづいたかと思いきや、恋は成就しなかったのか、またぞろ切なく呼び合う。
 (うるさいッ)というよりも、眠れないまま月が日付をまたぐまで付き合っていると、こちらまで妙な気持ちになり、おかげで睡眠不足をかこうハメになった。しかし、戀猫たちの合体を見た人は少ない。それを見ると、悪いことが起きるとされている。
 春である。
 飼い猫は、もともと野性であった。それを飼い馴らし、交配をくり返して、さまざまな品種が世界中に広まったようだ。八重山・西表島に棲息するイリオモテヤマネコは、世界のヤマネコ類のうちでも、最も原始的な体形・性質をもっているという。
 猫に関する俗語も多く、沖縄でも神の使いとされる一方(化ける)と信じられている。
 死骸を葬る際には、木の枝に吊るす風習がある。そうすると猫は(七生たたる)こともなく、成仏するそうな。少年のころ、そう、昭和20年代後半までは、集落から離れたところに立つ松の木の枝に、首吊りのさまで猫の干からびた死骸が、風にさらされているのをよく見かけたものだ。近頃は、ちゃんと処理されているらしい。

 私自身は、1度も猫を飼ったことはない。
 猜疑的でどうにも私を信じてくれなさそうなのだ。しかも、あの忍び足が気になる。いま先まで、そばにいるのを確認していても、ちょっと横を向いて、目をもとに戻したときには、もうそこには影も形もなくなっている。まさに(忍びのモノ)。それに、ときどき、人間を監視する。そばにいて見張るならまだしも、一定の距離をおき、しかも四つ足を立てたまま、ジッとこちらを窺っている。何故か(悪いこと)をしたような気にさせられてしまう。

 いい「猫ばなし」もある。
 RBCiラジオのパーソナリティー稲嶺香織の家族の一員になっている猫がいる。
 夏目漱石の猫は(名前はまだない)が、稲嶺家の猫は「マーヤ」という立派な名前がある。猫のことを沖縄口では「マヤー」と言い、命名はそれに由来する。
 マーヤは、左前足が付け根からない。交通事故に遭ったのだ。
 6年前の夏。早朝番組にむけて出勤途中の車中にあった稲嶺香織。いつも通る宜野湾市大山58号の路肩に叩きつけられ、打ち捨てられている猫に気づいた。車にはねられたことは一目瞭然。スタジオ入りを急ぐあまり、その場を通り越したものの、彼女はすぐに引き返し、猫を抱きあげた。生後2ヵ月ほどの子猫。左前足は完全に切断され、血まみれの瀕死の状態。彼女は、すぐに近くの犬猫病院に連れ込んで、救命を懇願した。
 放送後、病院に戻り、一命を取りとめたことを知り、ホッとした。引き取ったのは言うまでもない。漱石の猫同様(どこで生まれたのか、とんと見当もつかない)子猫である。生活圏から離れた国道での遭遇。いまだ飼い猫だったのか分からない。
 「そんなことはどうでもいい。いま元気にわが家の一員に、いや、夫よりも主らしく振る舞っているのだから」
 稲嶺香織は、にこやかにそう話している。そして、3本足のマーヤは、もともとそうだったと納得しているらしく、前右足をちょっと顔の下に寄せてバランスをとり、なんの不自由もなく暮らしている。



 猫に関する言葉は多い。
◇ 猫に鰹節。◇猫に紙袋<前が見えず、後ろにさがることから、後退・あとずさりをすること>。◇猫の額。◇猫は3年の恩を3日で忘れる。◇猫を被る。などなど。
 マイナスイメージの言葉が多いようだが、マーヤの手前、いい沖縄の俗語を記しておこう。
◇ 心労や、猫ん殺すん<しんろうや マヤーん くるすん>
「猫に七生あり」。何度でも生まれかわってくることから、執念深さを言い当てているが、その猫でさえ(心労)が重なると、命を縮める。まして人間、心を砕いてばかりでは生きられない。時には、憂さを晴らす(ゆとり)が肝要と説いている。
 ストレス<心労>は、万病の基とも受け取れる。昔びとは、そのことに気づいていたのだろう。

 時は春。
 今夜も(恋猫)の語らいを聞くことになる。

  ∮戀猫の夜毎泥置く小縁かな   あふひ

次号は2007年4月12日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com