辺りは雨の匂いに満ち満ちている。
梅雨の真っただ中。雨の節(あみぬしち)では、雨とも仲よく付き合うより他に過ごしようはあるまい。
6月。この月は沖縄にとって(特別の日)といえよう。
昭和20年(1945)6月23日、日米戦争の沖縄地上戦が終結した月だからだ。69年前も気象は時を違わず(雨の節)。ただ、雨の匂いにはならず、まだ消えない硝煙の臭いが鼻をついていた。
戦後27年を沖縄だけが異民族アメリカに支配され、日本復帰を果たして47年経ったいまでも、沖縄人は(昭和20年)を失念していない。歴史的、政治的沖縄戦記は、専門家におまかせするとして、今回は一般人の(昭和20年)を風俗的にめくってみよう。
戦火がようやくおさまりつつあった10月30日。
金武村(現・町)屋嘉、羽地村(名護市)、石川市を経て現在うるま市の美里村石川など、鉄条網に囲まれた捕虜収容所から、それぞれの出身地への帰還を許可された避難民は、ひとりひとりが生きていることを歓喜し、祝賀会を催した。
米軍配給のジャム、リンゴ、ナシなどを発酵させて造った即席の酒をコカ・コーラの瓶を半分に切ったコップで飲み、コンビーフやソーセージなどを米軍用・鉄製のメスキット(食器)に盛って食し、通称6斤缶の空缶を共鳴盤(チーガ)に、パラシュート布を重ねて張り、建築資材や野戦用ベッドの骨を棹とし、細い電線を絃にした、世に言うカンカラー三線を弾いて歌い、踊ってヌチぬ祝儀(命の祝儀)をした。しかし、中には、
「天皇の民が、敗戦を恥じず酒食、絃歌に打ち興ずるとは何事か!」
と、祝賀会会場に乱入する硬派もいた。
避難民収容地のひとつだった石川市(現・うるま市)は戦前、美里村の1字で、戸数350。人口1800ほどの農村だった。そこへ避難民が加わって人口は一気に3万人を超え、3千人余が嘉手納基地を主に近隣の米軍キャンプに就業した。いわゆる(軍作業)である。
沖縄本島のほぼ中心に位置するところから、米軍政府はこの地に政治、経済の主要機関を設置。かつての閑村は俄然「沖縄一」の都市になった。
この地に鬼才が現れた。
小那覇全孝氏である。北谷村嘉手納(現・嘉手納町)出身の歯科医師。もちろん、いち早く開業していたが、軍政府文化部芸能課長に任じられ「芸能による沖縄復興」に尽力した。話芸・漫談・即興ぶりを得意として、時には各家庭を回り笑いで人びとを慰問した。芸名小那覇舞天(うなふぁ ぶうてん)。
この小那覇舞天が大和の数え唄をアレンジした曲に自作の歌詞を付けて自ら歌った「石川小唄」は、多くの人に笑いを通して(生きる)を与えた。のちに「石川数え唄」と称して舞天なきあとは照屋林助、登川誠仁が歌い継いで、現在でもラジオから流れる。うたの文句はこうだ。
{石川小唄}
♪一つとせえ~え ひふみよごろくなな通り いろはにほへとちり横丁 基盤十字の茅葺テント町 これが沖縄一のマチではないかいな
♪二つとせえ~え 二人散歩も砂の上 靴の中にも砂が入る それもそじゃないか石川名物 砂とほこりの町ではないかいな
♪三つとせえ~え 見渡すかぎり便所町 ドラム缶の近代便所 エッサエッサと汲み出す特攻隊 あとは靖国参るじゃないかいな
♪四つとせえ~え 夜の石川恋の町 あの辻この辻ささやくは アイラブー ユーラブミー ギブミーシガレットてな調子じゃないかいな
♪五つとせえ~え 何時来てみても人の波 作業通いの娘さん 馴れぬハイヒールに おっと転んだ拍子に前歯が1本折れました
♪六つとせえ~え 昔寂しい石川もいまじゃ文化の花が咲く それもそじゃないか 小那覇舞天が控えているじゃないかいな
♪七つとせえ~え 何べん聞いてもわからない あなたのお宅は何処でした? それもそじゃないか どいつもこいつも同じ規格の茅葺テント葺じゃないかいな
♪八つとせえ~え 痩せたお方はあんまり居ない いないはずだよ 缶詰太り 娘のクンダは太る一方 鏡水大根 素足で逃げるじゃないかな
♪九つとせえ~え 恋と嫉妬の渦巻きに 明けて暮れるが石川市 それもそじゃないか 女は男の四倍も五倍もウヨウヨしてるじゃないかいな
♪十つとせえ~え トントン拍子に栄え行く 住めば都よ恋しいなつかしい 三方市民男も女も 老いも若きも貴方もわたしも 君も僕もユーもミーも 石川!石川 意志は変わらず沖縄一の町にしようじゃないかいな
戦前、中学野球に興じた若者たちも戦地から復員。これまた米軍払い下げの野球用具や、足りない分は手製のそれを用いてゲームを楽しんだ。ダイヤモンドやバッターボックスの白線をメリケン粉(小麦粉)でひいた。しかし、メリケン粉は米軍の配給する主用食料品。
「米軍に知れると配給停止の恐れあり!」として、早々に禁止された。
悲喜こもごも。悲喜劇の中にあった昭和20年の日々。経巡って69年目の今日がある。硝煙の臭いは消えたが・・・・いや、基地拡大、集団的自衛権など(キナ臭さ)を濃くし、もうすぐ「慰霊の日」を迎えることになる。6月23日には梅雨も明けていよう。
梅雨の真っただ中。雨の節(あみぬしち)では、雨とも仲よく付き合うより他に過ごしようはあるまい。
6月。この月は沖縄にとって(特別の日)といえよう。
昭和20年(1945)6月23日、日米戦争の沖縄地上戦が終結した月だからだ。69年前も気象は時を違わず(雨の節)。ただ、雨の匂いにはならず、まだ消えない硝煙の臭いが鼻をついていた。
戦後27年を沖縄だけが異民族アメリカに支配され、日本復帰を果たして47年経ったいまでも、沖縄人は(昭和20年)を失念していない。歴史的、政治的沖縄戦記は、専門家におまかせするとして、今回は一般人の(昭和20年)を風俗的にめくってみよう。
戦火がようやくおさまりつつあった10月30日。
金武村(現・町)屋嘉、羽地村(名護市)、石川市を経て現在うるま市の美里村石川など、鉄条網に囲まれた捕虜収容所から、それぞれの出身地への帰還を許可された避難民は、ひとりひとりが生きていることを歓喜し、祝賀会を催した。
米軍配給のジャム、リンゴ、ナシなどを発酵させて造った即席の酒をコカ・コーラの瓶を半分に切ったコップで飲み、コンビーフやソーセージなどを米軍用・鉄製のメスキット(食器)に盛って食し、通称6斤缶の空缶を共鳴盤(チーガ)に、パラシュート布を重ねて張り、建築資材や野戦用ベッドの骨を棹とし、細い電線を絃にした、世に言うカンカラー三線を弾いて歌い、踊ってヌチぬ祝儀(命の祝儀)をした。しかし、中には、
「天皇の民が、敗戦を恥じず酒食、絃歌に打ち興ずるとは何事か!」
と、祝賀会会場に乱入する硬派もいた。
避難民収容地のひとつだった石川市(現・うるま市)は戦前、美里村の1字で、戸数350。人口1800ほどの農村だった。そこへ避難民が加わって人口は一気に3万人を超え、3千人余が嘉手納基地を主に近隣の米軍キャンプに就業した。いわゆる(軍作業)である。
沖縄本島のほぼ中心に位置するところから、米軍政府はこの地に政治、経済の主要機関を設置。かつての閑村は俄然「沖縄一」の都市になった。
この地に鬼才が現れた。
小那覇全孝氏である。北谷村嘉手納(現・嘉手納町)出身の歯科医師。もちろん、いち早く開業していたが、軍政府文化部芸能課長に任じられ「芸能による沖縄復興」に尽力した。話芸・漫談・即興ぶりを得意として、時には各家庭を回り笑いで人びとを慰問した。芸名小那覇舞天(うなふぁ ぶうてん)。
この小那覇舞天が大和の数え唄をアレンジした曲に自作の歌詞を付けて自ら歌った「石川小唄」は、多くの人に笑いを通して(生きる)を与えた。のちに「石川数え唄」と称して舞天なきあとは照屋林助、登川誠仁が歌い継いで、現在でもラジオから流れる。うたの文句はこうだ。
{石川小唄}
♪一つとせえ~え ひふみよごろくなな通り いろはにほへとちり横丁 基盤十字の茅葺テント町 これが沖縄一のマチではないかいな
♪二つとせえ~え 二人散歩も砂の上 靴の中にも砂が入る それもそじゃないか石川名物 砂とほこりの町ではないかいな
♪三つとせえ~え 見渡すかぎり便所町 ドラム缶の近代便所 エッサエッサと汲み出す特攻隊 あとは靖国参るじゃないかいな
♪四つとせえ~え 夜の石川恋の町 あの辻この辻ささやくは アイラブー ユーラブミー ギブミーシガレットてな調子じゃないかいな
♪五つとせえ~え 何時来てみても人の波 作業通いの娘さん 馴れぬハイヒールに おっと転んだ拍子に前歯が1本折れました
♪六つとせえ~え 昔寂しい石川もいまじゃ文化の花が咲く それもそじゃないか 小那覇舞天が控えているじゃないかいな
♪七つとせえ~え 何べん聞いてもわからない あなたのお宅は何処でした? それもそじゃないか どいつもこいつも同じ規格の茅葺テント葺じゃないかいな
♪八つとせえ~え 痩せたお方はあんまり居ない いないはずだよ 缶詰太り 娘のクンダは太る一方 鏡水大根 素足で逃げるじゃないかな
♪九つとせえ~え 恋と嫉妬の渦巻きに 明けて暮れるが石川市 それもそじゃないか 女は男の四倍も五倍もウヨウヨしてるじゃないかいな
♪十つとせえ~え トントン拍子に栄え行く 住めば都よ恋しいなつかしい 三方市民男も女も 老いも若きも貴方もわたしも 君も僕もユーもミーも 石川!石川 意志は変わらず沖縄一の町にしようじゃないかいな
戦前、中学野球に興じた若者たちも戦地から復員。これまた米軍払い下げの野球用具や、足りない分は手製のそれを用いてゲームを楽しんだ。ダイヤモンドやバッターボックスの白線をメリケン粉(小麦粉)でひいた。しかし、メリケン粉は米軍の配給する主用食料品。
「米軍に知れると配給停止の恐れあり!」として、早々に禁止された。
悲喜こもごも。悲喜劇の中にあった昭和20年の日々。経巡って69年目の今日がある。硝煙の臭いは消えたが・・・・いや、基地拡大、集団的自衛権など(キナ臭さ)を濃くし、もうすぐ「慰霊の日」を迎えることになる。6月23日には梅雨も明けていよう。