旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

琉歌・昔・読み聞かせ

2011-07-20 00:15:00 | ノンジャンル
 琉歌を1首。
 “親ぬ聞かすたる昔物語 今や孫前なち語るいそさ
 <うやぬ ちかすたる んかし むぬがたい なまや マグめなち かたる いそさ

 語彙=いそさいしょしゃ>。嬉しい。心うきうきするさま。
 歌意=自分が幼いころ、父や母が語り聞かせてくれた沖縄の昔ばなし。いまは、かの頃の自分ほどに成長した孫に語り聞かせる。あゝ、なんと嬉しいことか。
 かつての夏の夜は、家の縁側や庭の九年母木<くにぶんぎー。くぬぶんぎー。ミカンの木>の下で涼を呼びながら、両親のみならず祖父母、兄姉。時には隣家の年上の者が虚々実々を綾なして、昔ばなしをしてくれたものだ。
 昔ばなしのよさは、たとえ荒唐無稽の筋立てであっても、聞く子どもたち自身が豊かな想像を織り込んで、内容を膨らませることができるところにある。昔ばなし集に納められたそれも、語る人は多少のアドリブを加えて話す。これは、決して著作権侵害?にはならないだろう。アドリブは、目の前で聞き耳を立てている子どもの理解を高める効果があると言えよう。一括して「子ども」とは言っても年齢差があり、それよりも何よりも彼らの住んでいる地域も考慮しなければならない。したがって、その地域の文化や言葉のニュアンスに添って語ったほうが分かり易いのも事実。全国的に共有している「おとぎ話」などが、地方によって微妙な異なりのストーリー展開になっている例が少なくない。
   
 学校や地域でいま、盛んになされている子どもたちへの「読み聞かせ」を続けている友人のS女史の話を聞こう。
 「“子どもたちへ”と言う大義名分があるせいか、読み聞かせる私たちのほうがついつい力が入って“子どもたちへ”ではなく“自分自身”の音読になってしまう場合がある。表現力の拙さに気づいて、途中から口調を修正することもしばしば。せっかくの読み聞かせも話のテーマやポイントが伝わらなければ、一方通行になりかねませんからね。読む本は同じでも年齢、地域、人数等々を掌握して“読み聞かせ”ていくつもりです」。
 しかり!読み聞かせには、子どもが受けとめられる生きた話し振りが不可欠ということではないのか。
 私も時折ではあるが、親兄弟から聞いた昔ばなしを孫を相手に語ることがある。けれども、相手が小学校1年生と2年生。爺はついつい己の幼年期の追憶にハマっているのに気づく。そうなるとチビたちは、モソモソのアクションが始まり、ついにはそっぽを向いてしまう。爺の話を聞く耳を持たなくなってしまうのだ。爺は我に返り、孫が食いついてくる話し振りに切り替えるようにはしているのだが・・・・。子どもはまた、話の途中でも大人が戸惑うような鋭い質問をしてくる。
 「昔ばなし“昔”ってナニ?」「昔っていつ?」。
 これには昔から大人は悩まされてきた。私も近々「昔ってナニ?」と脅迫されるのだろうから、爺の権威保持のため、いまのうちに理論武装をしておこう。唯一の頼りは辞典である。

 ※むかし〔昔〕①遠い過去。いまからずっと前。②過ぎ去った年月を数えることば。
なるほど。「昔ってナニ?」には、これで立ち向かうことにしよう。しかし「過去ってナニ?」「年月ってナニ?」と問われたらなんとしようか。しばらくは、辞典のお世話にならなければならない。
 余談。実に余談になるが、辞典の〔むかし〕のおかげで、いままで知らなかった慣用句を仕入れることができた。
 ※昔は剣、今は菜刀<むかしはつるぎ、いまはながたな>。
 むかしは剣だったものが、いまでは菜刀に使われているの意。古くなったものは重んぜ
られない。
 まあ、私の場合。刃物に例えてみても生れてこの方、人さまに向ける剣も才覚も持ち合わせていず、この年まで“なまくら”を通してきているから、この慣用句は気にすることもない。
 ※昔は昔 今は今
 昔はどうであろうとも、今は昔とは違う。「昔はこうだったから今も昔に習うべきだ」という論は成り立たないということ。
・・・。これは、個人的に心得ておこう。

 はてさて。調子に乗ったか!琉歌~読み聞かせ~昔・・・・。話の脱線がはなはだしくなってしまった。容赦。ただ、子どもたちへ“伝えておきたい”諸々を行動するには、まず大人である自分がよくよく学習しなければならないことを再認識して、琉歌で締めくくろう。

 “年ぬ数読でぃどぅ大人ふしゃすたる 童しぬ真肝何時んあらな
  <とぅしぬかじ ゆでぃどぅ うとぅな ふしゃすたる わらびしぬ まちむ いちん あらな

 *語彙=うとぅなふしゃ<子どもが>早く大人になりたいと願望すること。*童しぬ真肝=子どもの純粋な心。「童しぬ」の「し」は強意語。「真」は美称。尊称。
歌意=(もういくつ寝るとお正月)と、自分の年を数えて“大人になりたい”と願望していたころの純心さを大人になった今でも、持ち合わせていたい。

    
  

停電・鼻の下は口ッ!

2011-07-10 00:21:00 | ノンジャンル
  「はてな?あの1冊はどこに納めたかな」
 SF作家星新一のショートショート集である。遠い時間の向こうに納めっぱなしの1冊を、今ごろ読みたくなったのは、友人の親子ばなしがきっかけになった。
 「いいえね。7月2日、小学校4年生の娘の誕生会を家でやりましてね」。
 それなりの夕食を早々にすませて、いよいよバースデーケーキ入刀の段になり、10本の赤青黄色のロウソクに点火する。部屋中の灯りという灯りを全部消し、隣家からもれる灯りはカーテンを引いて遮断。部屋の中は10本のそれで十分だ。いや、ロウソクに頭を寄せた子ども2人と、妻の嬉々とした6つの瞳の輝きで明るかった。バースデーソングを合唱して、ケーキにナイフを入れた。
 「妻が消した電気を点けようと立った時に、僕は“待ったっ”を掛けたのですよ。『どうだい。ロウソク1本だけを灯して、その中で食べようよケーキは』。僕の提案を子どもは面白がって受け入れましてね。ヨーロッパのクリスマスは、テーブルの上のキャンドル1本を家族が囲み、その火芯に寄せる気持ちを祈りとして、静かに祝うのだそうですよ。ひとつの灯りが家族の絆のかなめになっているのですね。僕はそれを真似したのですよ。確かに何時もとは異なり、そこには暖かいものが感じられました。でも、当たり前のように、明るい家で暮らしている子どもは“暗い状況”を長く保つことはできない。『パパ!もう電気を点けようよ。何をどう食べていいか見えないよ。ケーキの味も分からない』。子どものしびれが切れたところで、電気のスイッチオン!。カーテンも開けて、僕の演出による余興の幕は降ろされました」。
       

 友人の家庭のいいひとコマが、私に星新一の短編を思い出させたのである。タイトルは失念したが、物語の舞台は発展を続けるアメリカはニューヨーク(だったと記憶)する。これも定かではないが、昭和30年<1955>ごろ、彼が想定した近未来の話。
 近未来のアメリカは、先進国のトップに立ち、殊にニューヨークの人びとは科学万能を謳歌していた。各家庭の設備はオール電化。スイッチひとつで室内温度は春夏秋冬を思いのまま楽しむことができた。外へ出ても歩く労力を省く〔動く舗道〕が完備されている程だ。ある一家。さすがにペットまでは人造というわけにはいかず、猿を1匹飼ってかわいがって、言葉通り〔この世のパラダイス〕をごく普通に享受していたが、異変はその年の真冬に起きた。地球創世以来、初めてという大寒波の襲来。山も河も植物も動物も、野外にいる生き物すべてを凍死させる未曾有の寒波。しかし、電気エネルギーに加護された室内生活には、ほとんど影響はなかった。家人は、テレビニュースで大寒波の状況を見ながら〔春になれば何とかなるサ〕と高を括っていたが、(何ともならない)事態が起きたのである。停電だ。電力は所詮、人間が造り出したもの。ニューヨークを中心にアメリカ全土の発電機能が停止してしまった。電気エネルギーにどっぷり依存していた人びとは、極度な寒波に対して、あまりにも無防備に過ぎた。待っていたのは凍死・・・・。件の一家も例外ではなかった。けれども、生き残ったものがいた。ペットの猿である。猿は生来体全体を包んでいる体毛のおかげで極寒に耐え、人間が期待していた〔温かい春〕を迎えることができたのだった。
       

 星新一の本名は星親一<1926~1997>。東京府東京市本郷区曙町<現・東京都文京区本駒込>に生れた。享年71歳。本名の「親一」は「親切第一」をモットーとした父星一<ほし はじめ>の命名。弟協一は「協力第一」によるものだそうな。また、東京市の発足は1889年。東京都を名乗るのは、第2次世界大戦中の1943年・昭和18年という記録を見つけた。

 友人の子どもの誕生会に端を発し〔最後に生き残ったのは猿〕を思い出した上に、星新一のエピソードと、東京都がかつて東京府だったことを知り得た。とは言うものの、探しに探した星新一作品集は、いまだ見つからずにいる。
 さて。
 またぞろ終戦直後ばなしになる。昭和23年ごろ、捕虜収容地だった石川市<現・うるま市>の家庭照明は、米軍の野戦用ガスランプやロウソクか、旧来の石油ランプ、あるいは工業用のカーバイトが主だった。そこへ、有志の計らいで小型発電機が設置され2、3時間の点灯制限付で電気が点いた。光量はいまに比べれば心許ないものだった。その上、停電しきりだった。しかし、黄色く点る裸電球は、まさに「終戦の証」「平和の光」だったに違いない。そんなある晩、親父が手作りしたベニア板製の食卓で夕食をとっていると、幾度かか弱く点滅した裸電球はスーッとはかなく消えた。毎度のことで家人は慌てることを知らず、騒ぐことしらず、闇の中で沈黙を守っている。おふくろが、常備しているシチタンユー<石炭油>ランプをさぐり当てる音だけが聞こえた。タシチャーンム<芋の煮っころがし>をお箸の先に突き刺し、いままさに口に運ぼうとしていた10歳の直彦少年は叫んだ。
 「早くランプ点けてよッ。口に入れられないよッ」
 すると、闇の中から親父のドスの利いた声がした。
 「暗くても、鼻の下は口だッ。騒がず放り込めッ!」
 その親父も逝って61年になるが「鼻の下は口ッ」のひと言は、いまもってわが家に名言として語り継がれている。

       
   

つなげていくもの・少女時代

2011-07-01 02:42:00 | ノンジャンル
 「戦華遊び=いくさ はなあしび」。
 いつごろから言われるようになったか定かではないが、少なくとも戦後の慣用語ではない。明治以降、日本は中国大陸を中心に戦争を繰り返してきた。国民は長年、戦争と向き合っているうちに、この慣用句を生み出したと思われる。
 つまり、人間は戦争ばかりを続けていると、そのことに慣れ麻痺して、戦争を華やかな〔遊び〕感覚でとらえてしまうと指摘している。

6月23日は、沖縄における日米地上戦が終結したとされる日。沖縄県はこの日を「慰霊の日」とし、毎年各地で慰霊祭が執行されている。今年も沖縄県平和祈念資料館は、児童生徒が「戦争と平和」を考え、平和を尊ぶ心を育てることを目的に作文、詩を公募。慰霊の日に公表している。第21回「県内児童・生徒の平和メッセージ」の中から、小学校高学年の部で最優秀賞に選ばれた作文を紹介しよう。

* 「つながていくもの」  
     糸満市兼城小学校6年 宮川司おん

 「あの時のおばあちゃと同じ年になったんだね」と書き始められた。おばあちゃんからの一通の手紙。その内容は、私とちょうど同じ年に、おばあちゃんが経験した沖縄戦での話でした。
 今から六十六年前、戦争がはげしくなってくるとお年よりや女性、子供達を沖縄からひなんさせる事になったそうです。その時、おばあちゃんも対馬丸という船で、そかいといって家族からはなれ九州のほうへいく事になっていました。しかし、船に乗る順番を後回しにされた事で命を救われたのです。乗るはずだった対馬丸がちんぼつしてしまったのです。そのちんぼつで、たくさんの子供達も死んでしまったそうです。
 別の船で宮崎へ学童そかいしたおばあちゃんは、その体験を手紙に書いていました。
 こわい戦争の中、家族とはなれ知らない土地ですごした時の事。いもや麦ごはんなどの食事でも足りなくて、木の実を取って食べたり、きれいな雪の上にすててあるみかんの皮も食べたりした事。子供達を勇気づけるため音楽の先生が教えてくれた歌の事。
 手紙を読んだ後もそかい船の事や戦争の終わった後の事などたくさんの話をしてくれました。
 もし、あの時おばあちゃんが対馬丸に乗っていたらお母さんも生れてこなかった事になります。そうなると私達兄弟四人も、今ここにいないのです。
 「戦争って、なんてこわいんだろう」
 おばあちゃんの話を思い出すたびに、いつも考えてしまいます。家や自然、命あるものすべて失ってしまうからです。今ある命だけではなく、これから先にたん生するはずの命までもうばってしまうのです。すべての物をうばう戦争の中で生き残り、そして私達の命がつながってきた事はものすごく大きな意味をもつ事だと思います。ですが、悲しい事に事件や事故そしていじめがあったり、自分の命を自分で終わりにしてしまったり、いろんな事で命が途中で消える事があります。自分の周りの人達の命がどうやってここまでつながってきたのか考えてみると、命の重さがわかってくるのではないでしょうか。
 私達は、生れてきてお父さんやお母さん、おじいちゃんにおばあちゃん。たくさんの人に愛されて、ここまで大きく育ってきました。一人で育ってきたんじゃない事、手や心にその愛のあたたかさを感じてきた事を忘れずに、自分の受けたやさしさを他の人にもあげる思いやりの心が大切だとおもいます。
 おばあちゃんが私にこう言いました。
 「人間は、戦争によってたくさんの人の命をうばって自分たちを不幸にした。でも、生きていくために支えあい助け合ってきたのも人間。人の命をうばう戦争が沖縄であった事をたくさんの人達が忘れずにいれば、もう二度と悲しい出来事はおこらなくなるよ」。
 私たちは今ここにいて、つながってきた命の意味や出来事、重さをきちんと感じているかと言えば、正直今の私にはむつかしくてまだわからないのですが、つながってきたこの命を意味あるものにするためにはどうしたらいいのか、これからたくさんの人と語り合いながら考えていこうと思います。そして今、私が感じている「平和」という幸せが、すべての人に感じてもらえるよう平和をつなげていきたいです。「原文のまま」
 
   
 宮川司おん<しおん>さんは女の子。『司おん』とは(変わった名前だな)と一瞬、思ったことだが、彼女の「つなげていくもの」を読み終えて、この名前にも両親の「つなげていくもの」の想いが込められての命名に違いないと、確信に近い心情が湧いてきた。

 「慰霊の日」。沖縄戦全戦没者追悼式典には、菅直人総理大臣も列席。関係担当者が書いたであろう通り一遍のメッセージ(私にはそう聞こえた)を読み上げて早々に帰京。
  
 二転三転四転する米軍基地問題。ここへきて政府は、アメリカとの協議の結果「辺野古地区にV字型滑走路を新設する」ことを沖縄県民の頭越しに「合意した」と発表した。またぞろ国は、沖縄を「戦華遊び」の場にするつもりだ。宮川司おんさんは小学生でも〔平和〕を日本中に、世界中につなげて行こうと決心し努力を誓っている。しかし、国の〔つなげていくもの〕は「戦華遊び」しかないのか。