旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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組踊・300年

2019-04-20 00:10:00 | ノンジャンル
 「組踊」という劇構成の宮廷芸能が初めて上演されてから今年は、300年目にあたる。
 組踊関係団体は、行政を巻き込んで記念事業に向けて、すでに始動している。組踊が初上演をみたのは、1719年・旧暦9月9日「重陽の節句」。場所は首里城の御庭(うなぁ)。演目は「二童敵討=にどう てぃちうち」。
 自らの復讐をかねて、組踊について記してみる。

 ◇『組踊』
 三線音楽と所作、舞踊、韻律をふんだ独特の唱(となえ・とぅねー・台詞)を組み合わせた琉球独特の戯曲。名称もここにある。さらには和語を交えた8・8調の唱え。そのことからも琉球国と日本国の政治、経済、文化の交流の成り立ちがうかがえる。
 
 ◇『発生』
 冊封使(中国。日本からの公的使者)を歓待するため、踊奉行に任じられた玉城朝薫(たまぐすく ちょうくん)が創作。1719年・尚敬王代(しょうけい)に来琉した薩摩からの使者の歓待式典に初披露された。玉城朝薫、35歳の折りの仕事。自らが演じたかどうかは定かではないが、今風に言えばシナリオライター、プロデューサー、ディレクターを務めたのは確かのようだ。
 それまでに玉城朝薫は3度薩摩へ、2度江戸へ赴いていて、滞在中、能、狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎など大和芸能を見学し、その様式や演出法などを身につけた。そのことが組踊創作に繋がったとみられる。
 1719年「重陽の節句」には『二童敵討』と『執心鐘入=しゅうしんかねいり』が披露されたという。
 玉城朝薫はつづけて羽衣伝説に材をとった『銘刈子=みかる しー』『女物狂=おんなものぐるい』、大蛇伝説を基に親孝行物語『孝行の巻=こうこうのまき』を書いて、これを「組踊・朝薫5番」と称して高く評価されている。

 ◇300年前に上演された『二童敵討』
 {あらずじ}
 勝蓮城阿摩和利(あまわり・古くは、あまおへ)に討たれた中城城主護佐丸(ぐさまる)の遺児鶴松(ちるまち)と亀千代(かみじゅう)は母に暇乞いをして、敵討ちのため勝連に向かう。
 阿摩和利は家臣とともに野遊びをしているところであった。鶴松、亀千代兄弟は旅芸人を装い阿摩和利に「取り入りられたのを幸い、彼に近づき所望されるまま芸を披露。ついで酒の酌をして酔わせる。兄弟の本意を知らない阿摩和利は、兄弟に褒美として大扇と太刀を与える。その隙をみて兄弟は持参の太刀をふるい父護佐丸の仇を討ち果たす。
 劇中、登場人物の心理描写をする音曲は「すき節」「仲村渠節=なかんかり」「散山節=さんやま」「伊野波節=ぬふぁ」「池ん当節=いちんとぅ」「蝶節=はべら」「やりくぬしー節」が各場面を盛り上げる。

 各演者の演技はもちろんのこと、組踊のもうひとつの魅力は地謡の歌三線。名人上手が担当する公演の際は、地謡連の名だけで客入りが異なったといわれる。組踊通に言わすれば「組踊は見るものではなく聴くものだ」と言い切り、組踊見物への誘いことばも「組踊、見じが=組踊を見に行こう」ではなく「組踊、聴ちが=組踊を聴きに行こう」であったという。

 ◇『執心鐘入』
 {あらすじ}
 中城若松(なかぐしく わかまち)という美少年が公用で首里王府に登る途中、日暮れになり、山家の1軒に宿を乞う。その家ははからずも若松の美少年ぶりに恋慕していた、一人住まいの女の宿。女は好機とばかり若松に言い寄るが、若松はこれを拒否。若松は逃げる。女は後を追う。若松は首里近く在の末吉(しーし)の寺に逃げ込み、座主(住職)に助けを乞う。一方の女は恋慕・激情のあまり「鬼女」になり、なおも若松を求める。座主の計らいで若松は釣鐘の中に隠れる仕儀となったが、女はその釣鐘にまとわりつくほどの執心ぶり。けれども女の想いは届かず、座主の法力により退散せざるを得なかった。
 ここでも音曲は「金武節=ちん」「干瀬節=ふぃし」「七尺節=ふぃししゃく」「散山節」である。また、座主が子坊主を従えて鬼女と化した女を退散させる場では、笛と太鼓を効果的に使い、緊迫感を醸し出している。劇中、1番の見どころ聴きどころといえよう。

 組踊初演から300年。
 宮廷芸能は各地方の豊年祭、村祭りなどでも演じられ、いまでは大衆化したと言ってもいいだろう。関係者は地方の組踊の採集にも積極的に取り組んでいる。また、立役、地謡連の養成にも力を尽くしている。殊に若い継承者が目立って多くなったのは、組踊の明日を明るくしている。今年は組踊の舞台が多くなるだろう。いい機会を逃す手はない。
 「組踊、見じが行かな=くみWUどぅゐ んーじがいかな」。
 「組踊、聴ちが行かな=くみWUどぅゐ ちちがいかな」。


人名漢字の周辺

2019-04-10 00:10:00 | ノンジャンル
 父に召集令状が届いたのは昭和15年2月だった。
 母は初めての子を身ごもり9カ月。産着や何やらを歓びとともに準備していた。そこへ召集令状である。しかし父は「お国のために!」を最優先して、出産以上に喜び勇んで出征した。
 時を待たず生まれたのは男の子。名前を付けなければならない。父の名は『照屋林栄(りんえい)』。この子にも照屋家一門の名乗(なのり・なぬゐ)『林・りん』の一字を付けなければならない。が、父は出征中。「林」の名乗の下には、どのような漢字を選択すべきか、そこまでは考えていなかった。
 「大本営の発表によれば、この戦争は日本の勝利でまもなく終わる。父が無事復員したら、下の一字を選んでもらう」と、この子は「林」のみで「りん」と呼ぶことにしていた。けれども、父は南方方面の戦線で戦死。我が子の顔も見ず、それどころか名乗の下に付ける漢字さへ付けずじまい・・・・。我が子は「照屋林(りん)」を生涯通すことになった。

 ひとつの例として照屋一門の(名乗)を芸能家故照屋林助氏にとれば、林助の父は林山(りんざん)、弟は林孝(りんこう)、長男は林堅(りんけん)、次男は林次郎(りんじろう)であり、一門には林栄、林盛、林市、林勝、林五郎などなどがいる。
 私の場合、慶応3年生まれの祖父直行(なおゆき)を筆頭に父直實(なおざね)、長男直勝、直繁、直喜、直政、直彦。叔父が直治、従兄弟が直徹。私の長男が直衛。そして甥っ子たちに直人、直哉、直孝、直文、直貴らがいる。

 名乗とは関係ないが、日本国の戸籍法によれば、人名漢字なるものがあって、名前に用いてよい漢字とそうでない漢字がある。
 漢字の文字数の正確な数は定かでないそうだが、推定10万字を超えるといわれる。その中で2017年9月24日時点、子どもに付けれれる漢字は2999字。常用漢字2136字、人名漢字863字あるそうな。
 1993年、我が子に「悪魔」という名前を付けて届けたが、受理されなかった事例があった。その組み合わせが、子どもの福祉を害するものと判断されたのである。
 琉球の「琉」も人名には適さない「字」のひとつだった。けれどもいまは認められている。その経緯はこうだ。
 戸籍法が定める「常用平易な文字」に(琉)は含まれず、人名使用が認められていなかったが1997年12月3日、使えるようになった。現在は全国でも男の子に人気の上位の漢字として広く使われている。
 明治安田生命によると、2018年も「琉」が男の漢字で25位にランクインしている。
 復帰前の沖縄は、名前の使用文字に制限のない旧戸籍法が適用されていた。しかし、1953年琉球政府が本土の新戸籍法を準用。1972年には復帰に伴い本土の新戸籍法に切り替えられ、「琉」の文字が使用できなくなった。
 ところが、1997年に息子の名前として「琉」を望んだ、当時、那覇市在住の両親が、出生届を受理しなかった那覇市の処分を不服として那覇家庭裁判所に申し立て、これがきっかけとなって、県内外で見直しを求める世論が巻き起こり、法務省による戸籍法施行規則改正につながった。
 父親は息子にこの漢字を付けることによって、自信をもって伸び伸びと生きてほしい思いがあったという。
 えこひいきに過ぎるかも知れないが、私の周辺にも「琉」を用いた若者がいる。琉介。琉羽(りゅうは)、琉美(りゅうび)、琉太郎などなど・・・・。

 自分のルーツを重んじることが信仰的にすらなっている、沖縄社会ならではの(名乗文化)なのかも知れないが、外国にその例がないでもないようだ。
 ペルーに生まれ育って、いまは沖縄で「島うた」をよくしているルーシーは、本名を「ナガミネ・アカミネ・ルーシー」と称する。父方の姓が長嶺、母方が赤嶺だからだ。
 また、民謡界の怪人松田弘一一家も簡素に(名乗)を大切にしている。
彼の父親は生粋の北谷町(ちゃたん)の生れで、古典音楽は師範資格保持者でマラソンをよくした。名を松田弘。
長男が生まれて、自分の(弘)に(一)を加えて「ひろかず」と名付けた。それまではよくある命名。親の願望通り弘一は歌三線の道を歩んでいる父親自慢の息子である。次男が生まれた。弘二(ひろじ)とした。現在はギタリストとして活躍。三男が生まれた。弘三(ひろぞう))と名付けた。これまたベーシスト。弘のあとに一、二、三・・・・。見事な手抜き。いやいや、見事な命名と感動するより外はない。
 「平成」が改まって「令和」になる。元号に因んだ名前が自然に生まれることだろう。名前負けしないで、健全に育ってほしいと願うことばかりである。


慣用句いろいろ

2019-04-01 00:10:00 | ノンジャンル
 鴨長明(かものちょうめい=1155~1216)。鎌倉時代前期の歌人。名を(ながあきら)とも称するそうな。鴨長明持ち出したからと言って、知ったかぶりをするつもりは毛頭ない。また、できない。彼の詠歌のひとつに出会って大和の慣用句と沖縄のそれを、見比べてみようと思い立った。
 ‟剃りたきは心の中の乱れ髪 つむりの髪はとにもかくにも”
 初老にして仏門に入った長明らしく「頭を丸めて仏門に入ったからと言って、すぐに悟りを開けるものではない。形式よりは精神が優先。『つむり(頭)を剃るよりも心を剃れ』としている。
 なるほど。頭を丸めれば、それだけで悟り切った僧侶になれるかというとそうでもない。姿形よりも心を磨くことを第一としている。
 沖縄にも同義の諺がある。 
 『カーギ呉らやか たまし呉り=かーぎ くぃらゆか たまし くぃり
 これである。
 親は子どもに容姿、器量のよさを与えるよりも、まず、善悪の判別のつくタマシ(心・感性)を与えよ。
 まさに「頭剃るより心を剃れ」「衣を染めるより心を染めよ」。

 「見えない鶯よりも庭先の雀」というのはどうか。
 藪の中にいて姿が見えない鶯よりも、何時でも姿を見ることができる雀に親しみを覚える。沖縄風に言えば、
 「見いらんウグヰシやかねぇー、庭さちぬクラーどぅ ンゾーさる
 クラーは雀のこと。クラーは昔から米蔵の周辺で遊び、蔵の(クラ)に沖縄方言の特長である長音・引音(-)をつけて「クラー」もしくは「クラーグァー」と親しみを込めて呼んでいる。
 「明日の1両より今日の1分金」に共通しているだろうか。「明日の百より今日の五十」もある。
 “明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは”で、当てにならない明日よりも現実を重視することを奨めている。「明日は明日の風が吹く」と、のほほんとしているわけにもいかない。そこで、
 “この秋は雨か嵐か知らねども 今日の勤めの田草取るなり”と、明日に備える心得を強調することも忘れてはいない。「今日食めー明日やー如何ぁすが=ちゅう かめー あちゃーや ちゃーすが? 明日はどうするか?」と困窮の極めを言い当てた慣用句もある。

 「なぞなぞ・クイズ」のことを「ジンブン勝負=すーぶ」。または「物明かしぇー」という。ジンブンは「知恵」、勝負はこの場合「比べ」。つまりは「知恵比べ」となる。「物明かしぇー」は、モノの正体を明らかにすること。
 では出題。
 「あっても苦労、なくても苦労は何~んだ?」
 ・・・・・。答え=「金と子ども」。
 子どもは産まないと「ひとりでも産んでおけばよかった」と思う反面、親が理想とする子に育つかどうかの苦労がある。金銭もしかり。なければその苦労は計り知れない。逆にあり過ぎると、それをどう扱いきるか苦労・・・・だそうな。(独白=有り余ったことがないので、その苦労は皆目知らない。至極、さっぱりしたものだ)。
 言葉は汚いが「銭ぬ無ん沙汰や 馬ぬ糞心=ジンぬねんサタや ンマぬクスぐくる=金がないということは、何の役にも立たない馬糞の心境。ジンブンひとつ巡らず、この苦労はしたたか経験済み・・・・。同じ苦労ならば、子も金もあっての苦労を存分にしてみたい・・・・。

 とりとめもなく、もうひとつの慣用句。
 「内面菩薩、外面夜叉」。
 ♪卯の花の匂う垣根にホトトギス早も来鳴きて 忍び音もらす夏は来ぬ~。
学校唱歌で覚え、昨日今日も歌っているホトトギス。実物は見たことがないが、姿形はきれいだそうな。鳴き声もすばらしいという。なのになのに!ホトトギスは、あのグロテスクなトカゲを平気で、いや、好んで食するという。
 “あの声でトカゲ喰うかホトトギス”
 人間の本性、性格は見かけで判断できない。虫も殺さないような顔をしているが、付き合ってみれば不人情だったという例は周辺に少なくない。沖縄風に言えば、
 「上辺美らーが 内根性=うぁーび じゅらーが うちくんじょう」となる。
 上辺・見た目には善人だが、実は喰わせ者だという訳だ。

 慣用句、諺には肯定しなければならないことが多く、また逆に否定的角度から言い切った言葉がある。いずれを良しとするかは、その時々のその人なりにまかせることになるだろう。ボクの周辺では「あちら立てればこちら立たず」の事柄が多いが、ボクとしては
 “あちら立てればこなたが立たず 両方立てれば身が持たず”でいたい。いや、自惚れ!自惚れ!