★連載NO.307
沖縄芝居の様式のひとつに「歌劇」がある。
琉球王府の庇護のもと、士族の中で継承された宮廷音楽<古典音楽>、舞踊、組踊は、中国との親善交流、薩摩との政治的関係を円滑にする重要な文化的役割を果たしていた。
しかし、明治政府成立に伴い琉球国は一時、全国並みに「藩制」を強いられた後、明治12年<1879>4月4日、藩を廃し県を置く。つまり、廃藩置県によって「沖縄県」の誕生となった。この世替りで撤廃されたのが身分制度。王府には、音楽座・踊座が置かれ、芸能をよくする人たちは保護・優遇されていたのだが、身分制度廃止は芸能者たちの実生活を圧迫した。そこで彼らは首里城下や那覇に下って、身につけた芸能をもって暮らしを立てることになる。沖縄芝居の始まりだ。
宮廷内の大広間などで演じられた音楽、舞踊、組踊は、小屋掛けした舞台において(有料公演)されたのであるが、ひとつ問題が目の前にあった。
琉球国をひっくり返した世替り。身分的に自由を得た庶民には、見慣れない(ゆったりと優雅に)上流士族のために演じられてきた演目は、いまひとつ肌に合わない。方向転換せざるを得なかった芸能者たちは、辻遊郭で好まれた流行り歌や各地の民謡に振付けた雑踊を創造することで活路を見出した。芸能に対して庶民は、芸術性よりも娯楽性を求めた。このことは、いまも変わってはいない。
余談=四方、どこからでも観ることができる村祭りなどの芸能に対して「劇場」という空間。しかも、舞台と客席が向かい合って観る形式は、観客側から舞台は、額縁にさも似たり。これを俗に「額縁芝居」と称して親しんだ明治20年代。当時の人たちにとって額縁芝居は、新形式の芸能鑑賞だったにちがいない。
大衆芸能へと方向変換して人気を得た芝居は、いまひとつの様式を生む。歌劇である。
物語性を前面に打ち出し、台詞を在来の民謡に乗せて唱え、所作と踊りを組み合わせる形式。これが大いに受けた。もちろん、宮廷でなされた「組踊」を参考にしているが、組踊の専門的音曲に比べて、歌劇に用いられるそれは、観客にとって1、2度は耳にし、唇に乗せた民謡がほとんど。このことは、舞台と客席を一体化させるに十分な要素だったのだ。
最初の歌劇は、玉城盛政<政重の兄>作「あば小ヘイ=意訳・お姉さんチョイト!」「りんちゃーバーチー=意訳・悋気女房」の小品喜歌劇。明治期は、舞踊劇風に受け止められていたこれらの演目は、やがて劇作者の出現によって多くの作品を世に出すが「歌劇」という呼称は、大正初期に定着したといわれる。
歌劇には、どんな民謡が用いられているのか。名作として、いまなお上演される作品の中から拾ってみよう。
※泊阿嘉=<とぅまい あーかー>。作=我如古弥栄・役者。明治43年(1910)。沖縄座初演
①あかちち節。②しゅうらー節。③あば小ヘイ。④伊計離り節。⑤仲風。⑥いさヘイヨー。⑦道ぬ島節。⑧しょんがね節。⑨かりき節。⑩伊集ぬガマク小節。⑪仲順節。⑫茶売い節。⑬宇地泊節。⑭述懐。⑮子持節。
※薬師堂=<やくしどう>。作=伊良波伊吉・役者。明治42年(1909)。中座初演。
①越ぬ端節。②三月遊びの唄。③川平節。④唐船どーい。⑤仲風。⑥道ぬ島節。⑦あさばな節。⑧金武節。⑨だんく節。⑩述懐。⑪がまく小節。⑫よんすら節。⑬赤田門節。⑭でんさ節。めでたい節。
※奥山ぬ牡丹=<うくやまぬ ぶたん>。作=伊良波伊吉。大正3年(1914)。中座初演。
①仲里節。②仲風。③あやぐ。④謝敷節。⑤でんさ節。⑥うふんしゃり節。⑦せんする節。⑧揚作田節。⑨古見の浦節。⑩がまく小節。⑪しゅうらい節。⑫仲順節。⑬下千鳥。⑭東江節。⑮述懐。⑯下述懐。
※伊江島ハンドー小=作―真境名由康・役者。大正13年(1929)。大正劇場初演。
①仲村渠節。②永良部あっちゃめー。③ハンドー小節。④ちゅっきゃり節。⑤新千鳥節。⑥新トゥタンガニ。⑦しょんがね節。⑧ヨイヨイ節。⑨うしうし節。⑩島尻千鳥節。⑪崎山節。⑫新仲座兄節。⑬道ぬ島節。⑭小浜節。⑮がまく小節。⑯とばるま。⑰スーリー東節。⑱さあさあ節。
この4作品に使用されている歌は、沖縄本島の歌謡にとどまらず、八重山はじめ奄美大島にまで及んでいる。台詞としての歌詞は書けても、作曲をよくするものは少ない。そこで、古典曲や民謡を多用したようだが、もし、演劇人が各地の(民謡)に目を向けなかったら、殊に宮古・八重山、奄美大島の民謡を今日に繋げることができたかどうか。すなわち、琉球弧の俗謡、流行り唄は、歌劇と共に継承されてきたと言える。
いま、沖縄音楽が注目されている。
作詞、作曲家も多々。これらが芝居関係者と志を一つにすることができたならば、新しい沖縄歌劇を創造することは困難ではない。いや、その日はそう遠い所にはない。
写真:宮城勉さん
次号は2007年10月4日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com
沖縄芝居の様式のひとつに「歌劇」がある。
琉球王府の庇護のもと、士族の中で継承された宮廷音楽<古典音楽>、舞踊、組踊は、中国との親善交流、薩摩との政治的関係を円滑にする重要な文化的役割を果たしていた。
しかし、明治政府成立に伴い琉球国は一時、全国並みに「藩制」を強いられた後、明治12年<1879>4月4日、藩を廃し県を置く。つまり、廃藩置県によって「沖縄県」の誕生となった。この世替りで撤廃されたのが身分制度。王府には、音楽座・踊座が置かれ、芸能をよくする人たちは保護・優遇されていたのだが、身分制度廃止は芸能者たちの実生活を圧迫した。そこで彼らは首里城下や那覇に下って、身につけた芸能をもって暮らしを立てることになる。沖縄芝居の始まりだ。
宮廷内の大広間などで演じられた音楽、舞踊、組踊は、小屋掛けした舞台において(有料公演)されたのであるが、ひとつ問題が目の前にあった。
琉球国をひっくり返した世替り。身分的に自由を得た庶民には、見慣れない(ゆったりと優雅に)上流士族のために演じられてきた演目は、いまひとつ肌に合わない。方向転換せざるを得なかった芸能者たちは、辻遊郭で好まれた流行り歌や各地の民謡に振付けた雑踊を創造することで活路を見出した。芸能に対して庶民は、芸術性よりも娯楽性を求めた。このことは、いまも変わってはいない。
余談=四方、どこからでも観ることができる村祭りなどの芸能に対して「劇場」という空間。しかも、舞台と客席が向かい合って観る形式は、観客側から舞台は、額縁にさも似たり。これを俗に「額縁芝居」と称して親しんだ明治20年代。当時の人たちにとって額縁芝居は、新形式の芸能鑑賞だったにちがいない。
大衆芸能へと方向変換して人気を得た芝居は、いまひとつの様式を生む。歌劇である。
物語性を前面に打ち出し、台詞を在来の民謡に乗せて唱え、所作と踊りを組み合わせる形式。これが大いに受けた。もちろん、宮廷でなされた「組踊」を参考にしているが、組踊の専門的音曲に比べて、歌劇に用いられるそれは、観客にとって1、2度は耳にし、唇に乗せた民謡がほとんど。このことは、舞台と客席を一体化させるに十分な要素だったのだ。
最初の歌劇は、玉城盛政<政重の兄>作「あば小ヘイ=意訳・お姉さんチョイト!」「りんちゃーバーチー=意訳・悋気女房」の小品喜歌劇。明治期は、舞踊劇風に受け止められていたこれらの演目は、やがて劇作者の出現によって多くの作品を世に出すが「歌劇」という呼称は、大正初期に定着したといわれる。
歌劇には、どんな民謡が用いられているのか。名作として、いまなお上演される作品の中から拾ってみよう。
※泊阿嘉=<とぅまい あーかー>。作=我如古弥栄・役者。明治43年(1910)。沖縄座初演
①あかちち節。②しゅうらー節。③あば小ヘイ。④伊計離り節。⑤仲風。⑥いさヘイヨー。⑦道ぬ島節。⑧しょんがね節。⑨かりき節。⑩伊集ぬガマク小節。⑪仲順節。⑫茶売い節。⑬宇地泊節。⑭述懐。⑮子持節。
※薬師堂=<やくしどう>。作=伊良波伊吉・役者。明治42年(1909)。中座初演。
①越ぬ端節。②三月遊びの唄。③川平節。④唐船どーい。⑤仲風。⑥道ぬ島節。⑦あさばな節。⑧金武節。⑨だんく節。⑩述懐。⑪がまく小節。⑫よんすら節。⑬赤田門節。⑭でんさ節。めでたい節。
※奥山ぬ牡丹=<うくやまぬ ぶたん>。作=伊良波伊吉。大正3年(1914)。中座初演。
①仲里節。②仲風。③あやぐ。④謝敷節。⑤でんさ節。⑥うふんしゃり節。⑦せんする節。⑧揚作田節。⑨古見の浦節。⑩がまく小節。⑪しゅうらい節。⑫仲順節。⑬下千鳥。⑭東江節。⑮述懐。⑯下述懐。
※伊江島ハンドー小=作―真境名由康・役者。大正13年(1929)。大正劇場初演。
①仲村渠節。②永良部あっちゃめー。③ハンドー小節。④ちゅっきゃり節。⑤新千鳥節。⑥新トゥタンガニ。⑦しょんがね節。⑧ヨイヨイ節。⑨うしうし節。⑩島尻千鳥節。⑪崎山節。⑫新仲座兄節。⑬道ぬ島節。⑭小浜節。⑮がまく小節。⑯とばるま。⑰スーリー東節。⑱さあさあ節。
この4作品に使用されている歌は、沖縄本島の歌謡にとどまらず、八重山はじめ奄美大島にまで及んでいる。台詞としての歌詞は書けても、作曲をよくするものは少ない。そこで、古典曲や民謡を多用したようだが、もし、演劇人が各地の(民謡)に目を向けなかったら、殊に宮古・八重山、奄美大島の民謡を今日に繋げることができたかどうか。すなわち、琉球弧の俗謡、流行り唄は、歌劇と共に継承されてきたと言える。
いま、沖縄音楽が注目されている。
作詞、作曲家も多々。これらが芝居関係者と志を一つにすることができたならば、新しい沖縄歌劇を創造することは困難ではない。いや、その日はそう遠い所にはない。
写真:宮城勉さん
次号は2007年10月4日発刊です!
上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com