旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

17年の長きに渡り、ネット上で連載された
旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』のアーカイブサイトです!

歌劇と民謡

2007-09-25 21:56:00 | ノンジャンル
★連載NO.307

 沖縄芝居の様式のひとつに「歌劇」がある。
 琉球王府の庇護のもと、士族の中で継承された宮廷音楽<古典音楽>、舞踊、組踊は、中国との親善交流、薩摩との政治的関係を円滑にする重要な文化的役割を果たしていた。
 しかし、明治政府成立に伴い琉球国は一時、全国並みに「藩制」を強いられた後、明治12年<1879>4月4日、藩を廃し県を置く。つまり、廃藩置県によって「沖縄県」の誕生となった。この世替りで撤廃されたのが身分制度。王府には、音楽座・踊座が置かれ、芸能をよくする人たちは保護・優遇されていたのだが、身分制度廃止は芸能者たちの実生活を圧迫した。そこで彼らは首里城下や那覇に下って、身につけた芸能をもって暮らしを立てることになる。沖縄芝居の始まりだ。
 宮廷内の大広間などで演じられた音楽、舞踊、組踊は、小屋掛けした舞台において(有料公演)されたのであるが、ひとつ問題が目の前にあった。
 琉球国をひっくり返した世替り。身分的に自由を得た庶民には、見慣れない(ゆったりと優雅に)上流士族のために演じられてきた演目は、いまひとつ肌に合わない。方向転換せざるを得なかった芸能者たちは、辻遊郭で好まれた流行り歌や各地の民謡に振付けた雑踊を創造することで活路を見出した。芸能に対して庶民は、芸術性よりも娯楽性を求めた。このことは、いまも変わってはいない。
 余談=四方、どこからでも観ることができる村祭りなどの芸能に対して「劇場」という空間。しかも、舞台と客席が向かい合って観る形式は、観客側から舞台は、額縁にさも似たり。これを俗に「額縁芝居」と称して親しんだ明治20年代。当時の人たちにとって額縁芝居は、新形式の芸能鑑賞だったにちがいない。

 大衆芸能へと方向変換して人気を得た芝居は、いまひとつの様式を生む。歌劇である。
 物語性を前面に打ち出し、台詞を在来の民謡に乗せて唱え、所作と踊りを組み合わせる形式。これが大いに受けた。もちろん、宮廷でなされた「組踊」を参考にしているが、組踊の専門的音曲に比べて、歌劇に用いられるそれは、観客にとって1、2度は耳にし、唇に乗せた民謡がほとんど。このことは、舞台と客席を一体化させるに十分な要素だったのだ。

 最初の歌劇は、玉城盛政<政重の兄>作「あば小ヘイ=意訳・お姉さんチョイト!」「りんちゃーバーチー=意訳・悋気女房」の小品喜歌劇。明治期は、舞踊劇風に受け止められていたこれらの演目は、やがて劇作者の出現によって多くの作品を世に出すが「歌劇」という呼称は、大正初期に定着したといわれる。

 歌劇には、どんな民謡が用いられているのか。名作として、いまなお上演される作品の中から拾ってみよう。
 ※泊阿嘉=<とぅまい あーかー>。作=我如古弥栄・役者。明治43年(1910)。沖縄座初演
 ①あかちち節。②しゅうらー節。③あば小ヘイ。④伊計離り節。⑤仲風。⑥いさヘイヨー。⑦道ぬ島節。⑧しょんがね節。⑨かりき節。⑩伊集ぬガマク小節。⑪仲順節。⑫茶売い節。⑬宇地泊節。⑭述懐。⑮子持節。

 ※薬師堂=<やくしどう>。作=伊良波伊吉・役者。明治42年(1909)。中座初演。
 ①越ぬ端節。②三月遊びの唄。③川平節。④唐船どーい。⑤仲風。⑥道ぬ島節。⑦あさばな節。⑧金武節。⑨だんく節。⑩述懐。⑪がまく小節。⑫よんすら節。⑬赤田門節。⑭でんさ節。めでたい節。

 ※奥山ぬ牡丹=<うくやまぬ ぶたん>。作=伊良波伊吉。大正3年(1914)。中座初演。
①仲里節。②仲風。③あやぐ。④謝敷節。⑤でんさ節。⑥うふんしゃり節。⑦せんする節。⑧揚作田節。⑨古見の浦節。⑩がまく小節。⑪しゅうらい節。⑫仲順節。⑬下千鳥。⑭東江節。⑮述懐。⑯下述懐。

 ※伊江島ハンドー小=作―真境名由康・役者。大正13年(1929)。大正劇場初演。
 ①仲村渠節。②永良部あっちゃめー。③ハンドー小節。④ちゅっきゃり節。⑤新千鳥節。⑥新トゥタンガニ。⑦しょんがね節。⑧ヨイヨイ節。⑨うしうし節。⑩島尻千鳥節。⑪崎山節。⑫新仲座兄節。⑬道ぬ島節。⑭小浜節。⑮がまく小節。⑯とばるま。⑰スーリー東節。⑱さあさあ節。

 この4作品に使用されている歌は、沖縄本島の歌謡にとどまらず、八重山はじめ奄美大島にまで及んでいる。台詞としての歌詞は書けても、作曲をよくするものは少ない。そこで、古典曲や民謡を多用したようだが、もし、演劇人が各地の(民謡)に目を向けなかったら、殊に宮古・八重山、奄美大島の民謡を今日に繋げることができたかどうか。すなわち、琉球弧の俗謡、流行り唄は、歌劇と共に継承されてきたと言える。
 いま、沖縄音楽が注目されている。
 作詞、作曲家も多々。これらが芝居関係者と志を一つにすることができたならば、新しい沖縄歌劇を創造することは困難ではない。いや、その日はそう遠い所にはない。


写真:宮城勉さん

次号は2007年10月4日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com



カシチー・フチャギ・夏から秋へ

2007-09-20 12:57:13 | ノンジャンル
★連載NO.306

 ♪待ちかにてぃ居たる七月んしまち なまた八月ぬ十五夜待たな
 歌意=年中行事の中でも、正月とともに最大行事であるシチグァチ<お  
    盆>。大地のミドリが芽吹くころから心待ちにしていた先祖供養
    を無事すませた。あとはひと月後の十五夜を待とう。
 月の動きと流れとともに農業、漁業を成してきた沖縄人らしい琉歌である。

「暑さ寒さも彼岸まで」
 長い太陽の季節を過ごしてきた沖縄人にとって、ホッとする言葉であ
るが、陰暦はまだ8月半ば。残暑はいまなお厳しい。
 今年の彼岸入りは9月20日。そして、その日は「8月カシチー」である。
 カシチーとは、強飯。こわめし。おこわのこと。糯米<もちごめ>を蒸したり、炊いたりした飯。小豆を混ぜて炊いた飯。いわゆる「赤飯で祝儀に用いる」と辞書にあるが、沖縄の8月カシチーは、大和のそれとは趣旨を異にする(神事)である。
 赤マーミー<小豆>や粟を混ぜて炊き込んだ赤カシチーを、この世のすべてを司る火ぬ神<ふぃぬかん>とブチダン<仏壇>に供えて、無病息災を祈願する。陰暦6月にも、カシチー行事はある。6月カシチー<るくぐぁち>の場合は、赤マーミーや粟は用いず、糯米のみで作る白カシチー<しる>で、やはり火ぬ神と仏壇に供え、その年の豊作を祈願する。つまり、6月カシチーは「豊作祈願」、8月カシチーは「無病息災祈願と厄払い」なのだ。カシチーには、マブイ<魂>を健全ならしめる力があるとしている。
 陰暦7、8月は、台風や干ばつが多く、そこから発生する(病)などは、悪霊の成せる業と考えた昔びとは、カシチーをもって厄を払ったのである。そのため、8月カシチーと連動して「シバ差し」も行われる。
 ゲーン<すすき>と桑の枝葉を束にしたものを「シバ」と言い、ゲーンを根に近い茎から切り取り、葉を結んだ「サン」とともに、屋敷の4隅をはじめ門口<じょうぐち>、雨垂ゐ<あまだゐ。軒>、チンガー<井戸>などに差す。ところによっては、壺に差して家の正面の縁側に置く。
 ゲーンは、稲に似ているばかりでなく、生命力がある上に、葉は剣<つるぎ>の如く、皮膚を切るほどだ。その威力からして、悪霊を寄せ付けない神具としている。サンの名残りは今につづき、口にするモノをお隣にお裾分けしたり、遠方へ持っていくときには、ゲーンでなくても、庭に生えている雑草の葉を結び、器の上やモノにそえて持っていく風習は生きている。(このモノには、ヤナムン<悪霊>はつきようがありません。安心して召し上がれ)のメッセージなのである。
 桑はまた昔々、カンナイ<雷>が多く発生する夏、桑の木の下に隠れて落雷の難を避けたという故事に習い、シバに加えている。余談ながら、いまでも古老たちは、雷が頭上を走ると、どこにいても「クァーギぬ下でーびる」と唱える。自分は「桑の木の下にいる。ここには落ちて下さいますなッ」と合掌して唱える。沖縄の自然現象は、人びとの願いに応えてくれる。ありがたいことだ。

シバサシ

 こうして、あたりが浄められたところで、待望の十五夜を迎える。
 今年は新暦9月25日が満月だ。新暦のみを頼りにし、東京と向き合って暮らしている沖縄人も、この日ばかりは月をめでる。ただし大抵の場合、ネオンの海辺でのそれに終始していて、私もすでに2件、勧誘を受けている。
 丁寧な家庭ではフチャギを作り、これも火ぬ神や仏壇に供えて健康を祝い、月と語る。
 フチャギは、片手に握ったほどの縦長の餅。まんべんなく赤マーミーを付けるのが他の餅と異なる。餅にする米はもちろん、赤マーミーにも繁殖力と生命力があるとして、殊に子どもたちに勧めて食べさせる。
 十五夜は、夏祭りのフィナーレと言えよう。各地域ごとに、お盆がすむと同時に十五夜遊び、村踊り、村遊びが仕込まれ、それぞれ伝統の芸能、綱引き、獅子舞などが月下で演じられる。中城村伊集の打花鼓<ターファークー>、各地に残る南の島<フェーぬシマ>、沖縄市泡瀬・宜野座村の京太郎<チョンダラー>、今帰仁村の路次楽<ルジガク>、八重山の結願祭<キツガン>などなどが、島を彩るのもこのころだ。


胡蝶の舞

 かくて、天と地の神々を相手にして華やかに賑やかに、そして厳かに事々が行われて、沖縄の時間は夏から秋へと移り行く。
 さらには、陰暦9月15日を(後ぬ十五夜。あとぅぬ じゅうぐや)と言い、これがまた実に美しい。今年は新暦10月15日。大和では、前日が(霜降)と言うのに。


種子取祭

次号は2007年9月27日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com



宮里千里・シマ豆腐に見たもの

2007-09-13 15:24:40 | ノンジャンル
★連載NO.305

 「ガチぬどぅクァッチーや、すくとぅやぁ」
古馴染の宮里千里に、彼の労作「シマ豆腐紀行=遥かなる(おきなわ豆腐)ロード」を手渡されたとき、そう答えた。彼曰く。
 「単なるガチマイの発想ですよ」
 そこで「ガチマイであるからこそ、馳走にありつけるのだよ」と、執筆の労をねぎらったのである。
 ガチマイに、漢字を当てると「餓鬼前」になろう。飢え地獄に落ちたものが、食にガツガツするように、生きながら食に貪欲な人をさす言葉。軽くは「ガチマヤー」とも言う。
 宮里千里は、那覇市の総務部長。彼は何に対してガチ・餓鬼・ガチマイ・ガチマヤーかというと(豆腐ガチ)なのである。シシ<肉>に目のない人は「シシガチ」。頭の中を(女性)で満たしている者は「うぃなぐガチ」という。いずれ何にせよ、飢餓道を貫ける人物は(しあわせ)と心得なければなるまい。

 宮里千里著「シマ豆腐紀行」の表紙写真は、共通の友人カメラマン国吉和夫撮影の箱豆腐。そして、はしがきを0<ゼロ>皿目=くさむにー・沖縄豆腐文化論=とし、くさむにー<屁理屈。知ったかぶり>と謙遜しながらも8ページも書き、目次へとつなげている。ここでも「目次」を「お品書き」しているのも彼らしい。
 第一章・南米おきなわ豆腐紀行・1皿目<項目>は15皿に及ぶ。ハワイにはじまり南米に飛ぶ。第二章・100%、おきなわ豆腐びけーん・16皿目の那覇マチの豆腐。与儀の豆腐は30皿目。第三章・大豆腐圏としてのアジアは、43皿目で括る。第四章・わたしはトーファーになりたい。これが52皿目。あとがきがこれまた(シマ豆腐のおかわり)といった、247ページにわたる軽妙洒脱、痛快無比の筆が走っている。
 この1冊にある豆腐は「シマ豆腐紀行」を表題とし(遥かなるおきなわ豆腐)ロード」を副題にしてある通り、著者自ら県内はもちろん、国内、南米、アメリカ、アジア諸国を踏破しての(豆腐たち)なのである。
 宮里千里の(千里眼)は、豆腐の向こうに何を見たのか。
 沖縄や日本の食文化にとどまず、豆腐を通して現代社会に鋭く・やんわり・風刺を効かせて切り込んでいる。

 この1冊に触発されて(豆腐裏ばなし)を書き足してみることにする。
 もちろん、いまどきのカーキー<賭け>ではないが、遊びの賭け事にも豆腐は登場している。たとえば、青年たちがふた手に分かれてシマ<沖縄相撲>を取るとする。勝ち組への褒賞は何にするか。
 「豆腐1箱に酒一升=とうふ ちゅはくに さき いっす」
 これを負け組は差し出さなければならない。1箱は6丁分だから、勝ち組だけでは多すぎる。そこで、上座は勝ち組が陣取り、負け組は(差し出した)酒1升を注ぎ回り、自分たちもご相伴あずかるのである。
 また、遊び歌「多幸山」のハヤシに、
 ♪くまから くっぺー 我ぁ刀自どぉーやー くまどぅん 触ぁぅらは 豆腐1箱に酒1升
 とある。
 1日の労働を終えた若者たちが集まってする毛遊び<もう あしび。野遊び>。サンシンを弾き、歌を乗せて夕刻から夜半にいたる(遊び)は、実に自由と開放の天地である。ここでも、賭けは成される。ふた手に分かれての歌勝負<うた すーぶ>だ。勝ち組は、負け組が同伴してきた女童<なーらび。若い女性>を、毛遊びが終わるまで、そばにはべらせることができるのだ。
 歌勝負に負けたひとりの若者。ルールに従って、愛する彼女を差し出して曰く。
 「彼女は、もうすぐオレの妻になる女だ。彼女の身体の(ここから。ここまで)は、オレのものだ。そばにはべらせるのは、歌勝負に負けたのだから仕方ない。しかしッ!手を握る、肩を抱くはよしとして、彼女の大事なトコロを触ったそのときは、豆腐1箱と酒1升を取るぞッ!」
 と、前もって念押しをしている。その禁を侵すとどうなるか。自由と解放は崩壊。血の雨が降る修羅場と化するのは必定である。

 宮里千里の「豆腐の世界」に戻る。
 第四章「わたしはトーファーになりたい」の「トーファー」は、無類の豆腐好きをさしている。テーファー<ジョーク。しゃれ。冗談>好きの人を「テーファー」と称するのと同様である。
 宮里千里が特別、トーファーなのではない。沖縄人は皆、トーファーだ。私自身、並居るトーファーの中でも、トップクラスにランキングされるトーファーであることを声高らかに宣言しておく。



*同書は、2007年8月30日第一刷発行。
発行所:(有)ボーダーインク  電話:098-835-2777


次号は2007年9月20日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com

月のころ・星のころ

2007-09-06 13:13:18 | ノンジャンル
★連載NO.304

 まだまだ日中の気温が30度を切ることはない。それどころか「寒の戻り」の逆「戻ゐ太陽=むどぅゐ てぃーだ」は、これからだろう。
 しかし、昔から伝えられるように旧盆の念仏歌舞・エイサーの賑わいが遠のくにつれ、夜は心なしかシダカジ<涼風>を感じるようになった。

 ♪夏や走川に涼風ぬ立ちゅし むしか水上や秋やあらに
 <なちぬはいかわに しだかじぬたちゅし むしかみなかみや あちやあらに>
 歌意=夏。山の端を流れる川の岸辺を通る。汗をひとふきして、ふと、川面に目をやると、吹いてくる川風が気のせいか清々しい。もしかすると川上には、今年の秋が生まれているのかも知れない。
 沖縄の夏と秋の間<はざま>を見極めるのは難しい。せいぜい、我が世の夏を誇らしげに鳴いている夏蝉が、声色を変えて秋蝉のそれになった時、夏の終わりを実感するのだ。
 したがって、この琉歌を引き出したのは、60回以上の夏を経験してきた私自身が暑さにうんざりして、シダカジの候を待ちかねているせいだろう。
 因みに、蝉の呼称はサンサナー。ジージャーが一般的。古語には「あさは。あささー」があり、シミ<蝉>も琉歌に多く用いられている。沖縄には「18種の蝉がいる」と聞いて、この島で生まれ育った私としたことが、いまごろになって驚いている。

 一方。夜空が楽しめる時候を迎えた。
 「名月を取って呉れろと泣く子かな」
 この(泣く子)は、子だろうか孫だろうか。それとも守姉の背の子だろうか。最近は、己の年齢に合わせて「孫」と解釈している。
 この情景を「月」ではなく「星」に置きかえた俗語がある。
 「子・孫ねぇ 星んむてぃ呉ゐん=くぁ・んまがねぇ ふしん むてぃ くぃゐん」
 夕涼みに出たおり、月や星を(とってくれろッ!)と、子や孫にせがまれると親や祖父母は、バサナイ<芭蕉実。バナナ>やクニブ<九年母。シマミカン>など、果実をもぐように星でももぎ取ってくれるとしている。情愛を言い当てた俗語だ。

 ある年の夏。
 まだ片言しか持たない孫に(月を取って呉れろッ)とせがまれた祖父。ターレー<盥・たらい>を庭に持ち出して水を張り、その水鏡に月を写して言った。
 「ほれ、ごらん。この月は、お前だけの月だよ」
 いつ、どこで、どこの、どなたがやったのか定かではないが、幼いころからよく聞かされた話である。

 月と親しいのは(子ども)だけではない。
 ♪夕汲みゆすりば月ん汲み移ち わが宿ぬ苞になるが嬉りさ
 <うすくみゆ すりば ちちん くみうちゅさ わがやどぅぬ チトゥになるが うりさ>
 歌意=水桶に汐を汲み移したら、月影までついてきた。これは、わが家へのいい苞<つと>、いいみやげ。なんと嬉しいことか。
 豆腐造りには欠かせないニガリとしての汐を汲みに行くのは、たいてい娘たち。昼間の汐の騒ぎもおさまった夕刻、娘たちは三々五々連れ立って、近くの海へ汐汲みに行く。新しい汐が生まれる早朝の場合もあったが、夕刻の仕事のひとつにしていたようだ。海水は以外に重く、運搬は重労働だったが(月をみやげ)に持ちかえって、弟や妹に見せてやりたかったのだろう。昔の暮らしぶりが(写った)1首である。
 つと[苴・苞] ①わらなどで包んだ物。わらづと。②みやげにする土地の物産。③家に持ち帰る土産。家づと。(日本語大辞典=講談社)
 沖縄でも、祝座などからの持ち帰り物は「チトゥ」。旅先からのそれは「ナージムン。みやげ物」と使い分けられている。

 夜空と語らいができる今日このごろ。
 ♪照り清らさあてぃん咲ち美らあてぃん 誰とぅ眺みゆが月ん花ん
 歌意=清らに照っても、美しく咲いても、誰と眺めようこの月この花。

 月見は一人でするものではなかろう。傷心ならいざ知らず・・・・・。とは言うものの、いまもって誰からの誘いもない私・・・・。

次号は2007年9月13日発刊です!

上原直彦さん宛てのメールはこちら⇒ltd@campus-r.com