旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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目指すは人間国宝=上原少年の夢

2018-02-20 00:00:00 | ノンジャンル
 第26回「ゆかる日まさる日さんしんの日」の案内パンフレットにこう書き入稿した。
 {始めの一歩末の千里}

 「名乗るほどのものではありません。姓名を伏させて頂きます。願望と目標にしていた、さんしんの日の表舞台に立つことができます」。あの日・・・・。
 差出人を仮にYさんとしておこう。 
 Yさんは成人になった平成5年(1993)3月4日。興味半分で第1回「ゆかる日まさる日さんしんの日」の主会場・那覇市のくもじパレット劇場を覗いていた。(その日)は、そのことである。
 「さんしん日って何をどうやるのか」。冷やかし程度のつもりが、昼4時から夜の9時まで座席を温めることになった。いや、私の腰が座席に根を張っていた。(三線とは何か)。意識の片隅にもなかったことだが、これほどの共有性を持ち、私を包み込んでやまないのは何故か。よし!自分も三線の輪の中に入れるよう努力してみよう。
 一大決心したYさんはツテを頼って古典音楽研究所に入門し、琉球音楽に触れた。(いつの日か自分も『さんしんの日』の舞台に立とう)。
 この一念が稽古の後押しをしてくれた。その間に琉球古典音楽コンクリートの新人賞、優秀賞、最優秀賞を受賞。昨年、教師資格を得るに至った。そして今年、師匠の命により『さんしんの日』の(かぢゃでぃ風節)の合唱の一人に加わることになった。
 Yさんの現在の座右の銘は「始めの一歩、末の千里」。
 26年前に「一歩」を踏み出し、千里先を見据えているYさん。いま、何里辺りを歩んでいるのだろうか。
 どんなお人か。逢って一献やりたい気持ち半分。いやいや『さんしんの日』が30回目を実施するころ(初対面)行こうか。春が来るのを胸ふるわせて待つ乙女ごころの心境でいる私ではある。
 歌三線の道は長く広く深く遠い。まさに「始めの一歩、末の千里」。

 長年人間をやっていると、個人的には出逢いより別れが多くなるが、『さんしんの日』は、新し出逢いもある。

 「若衆芸能祭で県知事賞を受賞しました」。
 額縁入りの賞状を誇らしく差し出したのは宜野湾市はごろも小学校6年生上原快天(てん)君(11歳)。
 琉球新報社、沖縄芸能連盟主催・第1回「おきなわ伝統芸能・若衆芸能祭」の音楽部門で県知事賞を得た上原快天君は堂々と宜野湾市長佐喜眞淳氏を市長室に訪問して受賞の報告をした。
 佐喜眞市長の「おめでとう」の祝福に快天君は、
 「いっぱい練習を重ねて、将来は人間国宝になりたい」と力強く、きっぱりと返礼。これを受けて市長は「快天君の受賞は、宜野湾市としての誇りであり、市の長としても鼻が高い」と、彼の将来に期待を寄せた。
 快天君は、小学校2年生の折り、親戚の方から三線を教えてもらったことをきっかけに精進してきた。当初は歌詞の意味さえ分からなかったが(好き)でここまできたそうな。快天君が通うはごろも小学校校長仲村宗男氏も「伝統芸能を継承する希望の星の出現」と、快挙を手放しで祝福。「周囲の方に感謝し、さらに大きく成長することを願っている」との声しきり。

 上原快天君の三線歴。
 琉球古典音楽野村流音楽協会・琉球古典音楽湛水流保存会山内昌也研究所所属。稽古は同流山内貴子教師につけてもらっている。野村流音楽協会の審査会では3年生(8歳)で奨励賞銅賞、4年生で銀賞、5年生金賞を受賞。これだけではない。
 湛水流保存会の普及審査では、3年生で新人賞、4年生で優秀賞、5年生で最高賞を受賞。これは史上初の最年少受賞記録という。
 歌った節曲がいい。
 舞台で歌った節曲は「本散山節=さんやまぶし」

 ♪近さ頼るがきてぃ 油断どぅんするな 梅ぬ葉や花ぬ 匂いや知らん
ちかさ たるがきてぃ ゆだんどぅんするな ンミぬファや はなぬ にWUいや しらん

 歌意=恵まれた環境をアテにして油断をしてはならない。梅の葉は同じ枝にありながら、花が咲く頃は散り落ちて、花の香りさえ知らない。人間もまたしかり。身近な人を大切にして、気を緩めることなく生きよう。
 「さんしん日」は島びとのさまざまな人間模様を綾なしながらやってくる。名乗らないYさん。未来の人間国宝・上原快天君。そして初出演の新人、馴染みのベテラン陣が顔を揃える。あなたはどこで誰と、三線の音が連れてくる春を実感するのだろうか。


イーラー・ガニ・さんしん

2018-02-10 00:10:00 | ノンジャンル
 人は音や見るものに反応する。それは個人差があろうが、とかく敏感に反応する。
 私の場合、それは何か。三線(さんしん)の音。文字を見ても、つい注目してしまう。一種の職業病と言えなくもない。報道人に憧れてその道を選択したのは新聞であり、放送であった。新聞社を経て、ラジオの世界に飛び込んでから、もう半世紀を超えた。
 琉球新報社在籍2年。琉球放送に移籍。丁度、琉球放送がテレビ放送を開始した1959年10月1日のこと。全国でも数少ないラジオ・テレビ兼営の同局。まずは目指す報道に身を置いたが、それも束の間「ラジオ制作部員を命ずる」の辞令1枚でラジオ番組、それもおきんわ芸能担当を命じられ今日に至っている。もっとも、ラジオをやりながら週1本のテレビのバラエティー番組のディレクターを7年経験してはいるが・・・・。
 それ以来、ラジオの沖縄芸能を担当するとなれば、毎日(さんしんの音)を聴くようになる。それが骨身に沁みて、今では、時、所を問わず(さんしんの音)に敏感に反応するようになってしまった。

 過日。
 芸能とは遠くはなれた生物に関する学術的記事に(サンシン)の文字を出会い、すぐに反応。興味を深くした。「イーラーサンシン」。それがどう繋がるのか。(イーラーは海月・水母・くらげの沖縄方言の総称)。記事はこう伝えている。

 琉球大学熱帯生物圏研究センターは、琉球列島で新種のクラゲを発見した。新種のクラゲは「コモチカギノテクラゲモドキ」属の仲間で、新種の発見は118年ぶりという。
 新種クラゲを発見した同海底研究施設のボスドク研究員、戸篠研究員は「触手が三線を弾く指の形にも見えるので、コモチカギノテクラゲのあとに(サンシン)を加えて正式に学術名として学会に発表するという。
 新種「コモチカギノテクラゲ・サンシン」は、傘の直径が約5ミリの小型種。傘は透明で口や触手がオレンジ色や蛍光色。夜行性で砂浜や藻場など岸近くに生息。
 戸篠研究員らは1999年から2003年にかけて宜野湾マリーナ、慶良間列島の阿嘉島、八重山石垣のフサギビーチで採取された標本から新種の可能性があると推測。2014年から2017年に改めて約50個体を名護市屋我地港から採集、DNA分析やクラゲになる前のポリプの状態などを観察して新種と確認した。
 仲間であるコモチカギノテクラゲは九州から東北までほぼ日本全域に生息。触手の先端がカギのようになっているが、新種の触手や数や生殖巣の形などに違いがあるという。
 生物学、いや、学術的な事柄に接すると頭痛を誘発する私だが、新種のイーラーに(サンシン)の名がついたことに、いたく感動を覚えるのは、3月4日の「ゆかる日まさる日さんしんの日」が控えているせいだろうか。
 その「さんしんの日」。今年、第26回を迎えて、読谷村立文化センター鳳ホールをメイン会場に9時間15分の公開生放送を実施する。

 生物と三線。八重山西表には「やぐじゃーま節」がある。(やぐじゃーま)は、蟹の1種の呼称。首里王府の圧政に苦労した島びとを蟹の生態に擬人化して歌われている。いわく。
 西表島古見(こみ)村のウサイ浜に棲むヤクジャーマ蟹は、ツメを上下に振り、古典曲「作田節=ちくてんぶし」を弾いているようだ。そのヤクジャーマ蟹の周辺には、蟹の1種シラカチャがいて、ヤクジャーマにならって連れ弾きしている。
 ここまでは島の長閑な風景だが、あとは深刻。漁師が登場するが、それは権力者・役人の擬人化。蟹は島びとを指している。
 力のないヤグジャーマシラカチャよりも強いガサミ蟹に生まれ、強い子を産みたい。若夏になれば水温み、強い漁師(役人)が漁火をかざして、われわれ弱い蟹を獲りに来る。右から左からも漁火をパチパチと飛び散らしながらやって来る。捕えられたらどうなる!ツメをプチュル・パダラ(擬音)をもぎ折られる。この悲惨な運命をどう変えればいいのか。何を頼りにこの身の安全を図ればいいのか。ともかく、マングローブ群を成す植物・ヒルギの陰に隠れよう。
 三線はこの島で生きる人たちの生きざまを克明に見聞きしてきたと言えよう。
 
 ♪楽や苦しみん 誰が知ゆが浮世 三筋三線どぅ 頼いさらみ
 《らくや くるしみん たがしゆが うちゆ みすじ さんしんどぅ たゆいさらみ

 歌意=楽や苦しみをこの浮世で誰が知ろう。三筋の糸をかけた三線のみが私の心の拠り所・・・。

 カンヒザクラは咲き、ソーミナー(めじろ)は「おらが春」を謳歌しているが、外は寒があたりを包んでいる。けれども、もう少しの辛抱。3月4日「さんしんの日」の歌三線が春を連れてやってくる。


ふたつの歌会・そして、さんしの日

2018-02-01 00:10:00 | ノンジャンル
 大相撲で言えば、立行司の軍配はかえり、甲高い「待ったなし!」の声。
 RBCiラジオ主催・第26回「ゆかる日まさる日さんしんの日」は、来月3月4日、読谷村立鳳ホールをメイン会場に午前11時45分から午後9時まで9時間15分生放送される。
 民謡界を見渡せば今年度も数々の民謡リサイタルが催された。その中から「ふたつの歌会」に寄せた(または寄せる)拙文を記して、沖縄の民謡界事情を汲み取って頂こう。

 {歌の向こうに・人生=伊波智恵子}

 「しっかりと艶やかに、そして涼やかに。いいですね智恵子さんの表現は。和みます」。

 そう言われてボクは「ありがとうございます」の返礼しか持たない。
 身内に対する他所さまの褒め言葉。面映ゆく返礼のそれが続かず、口ごもってしまい、テレ笑いするばかり。
 それでいて(嬉しさ)が胸に湧くのも確かではある。
 「声の出る内に歌会をやりたい」
 6月の初めごろ、久しく前から温めていたらしい公演のパンフレットに寄せ書きを依頼されたことだが、身内であってみれば甘口を労することも、と言って辛口を呈するのもためらわれる。
 歌者はもちろん、諸々の表現者の評価を受ける側の感性にゆだねられる。
 「分のぉ世間ぬどぅ持たする=ぶのぉ しきんぬどぅ むたする
 その人の職能、才能、実績評価は世間の人びとが持たせてくれることはよく言ったものだ。
 智恵子の場合。姉3人とともに歌い出してもう何年経たのだろうか。少女期は親の言う通り、姉たちについて行けばよかったのだろうが、やがて(それでいいのだろうか)というひとりの女性歌者としての自己への思惑が頭をもたげ、苦悩もあったにちがいない。けれども、スタッフに恵まれ、歌人生から大きくスライスすることもなく、それどころか普久原メロディーに出逢い、他の歌者が羨望する表現者のひとりになったのは(世間が知る)ところ。CD出版、舞台、テレビ出演も好調にこなしているのは、これまた(世間の知る)ところ。
 それでいて「声が出るうちに歌会をやりたい!」。これなのである。
 ある歌者から耳にしたのだが、歌い続けてはいても、公演形式のそれからしばし遠退くと(世間さまに忘れられたのでは?)と不安になるそうな。歌者とはそうした生業らしい。
 これまで歌ってきたのも彼女の人生。これから歌い続けて行くのも智恵子、これまた貴女の人生。喜怒哀楽を噛みしめながら、終わりのない人生を歩むがいい。しっとりと、艶やかに、そして涼やかに歩むがいい。
 (平成29年9月15日。場所=沖縄市民会館大ホールにて公演)。

 3月18日(日)。午後2時・同7時。国立劇場おきなわ大ホールでは、八重山歌者「大工哲弘・苗子歌会。響ましょうら」が催される。

 {かなしゃ・大哲会}

 「50年唄ってきたとは言え、哲弘の唄はカミさん苗子の唄で持っているようなものだ」
 親し過ぎて、そのくせ(島うた)とは、直接は関わっていない彼の悪友連は、苗子を持ち上げるようになった。歌唱力を評しているにのではない。妻女苗子の存在の絶大さを羨望をもって評しているのである。
 そのことは、今回の公演の表題にもはっきり見える
 「響ましょうら・やいまうた」までは普通だが副表題「大工哲弘・苗子うた会」に読み取ることができるのではないか。
 これまでの「うた会」では、あくまでも(哲弘)の名しか記されてなかったが、ここへきて(哲弘)と同格並列で(苗子)の名が鮮やかに、どっしりと光っている。これを見て古馴染みたちは‟伊勢は津で持つ、津は伊勢で持つ~”ではないが、自分たちにない(夫婦婦随)を実感しての羨望が悪友連に‟哲弘は苗子で持つ~”と悪態をたれさせているのだろう。また、そのことは歌者大工哲弘の人格、品格を高揚させている・・・・ように思える。
 さらにまた、その人格、品格は八重山歌謡に魅せられた人たちの信頼を得て(大哲会)に繋がったのだろう。大工哲弘夫妻を慕って入会した、いわゆる同志は県内に留まらず教室数、北海道6室、東京3、大阪6、岐阜県、広島県、岡山県、福岡県に及ぶ。国会議員選挙でも比例区なら悠々当選するのではないか。
 過日。哲弘夫婦は「八重山へ行ってきました」と報告してくれた。(何しに?)。それはあえて訊かない。とにかく(行った、帰った)のだ。
 思うに、生り島八重山と聞けばそれだけで心が体が反応し、行動してしまう夫婦。私的には(故郷の温もり)を補給してくるのだろう。その(温もり)を忘却しない限り「大哲会」、いや、夫婦の八重山歌謡は一生ものだろう。
 件の古馴染みたちは、仲よし夫婦に亀裂を入れようと、日夜仕掛けてみるのだが、当人たちはにっこり笑って受け流すばかり。この人間臭さは抜けきらない。それがまた「大哲会」の持続力になるのだろう。
 んっ?古馴染みたちの声が聞える。
 (褒め過ぎっ!褒め過ぎっ)。

 恒例行事のようにインフルエンザが徘徊している。恒例なのは 「さんしんの日」。「風邪は引かずに、三線を弾こう」。