「八重山へ行ってきました。八重山の人たちは、今日という日を生きていました」。
確かそんなナレーションで始まるラジオ番組「八重山紀行」取材のため、初めて石垣島の土を踏んだ。50年ばかり前の夏だった。
24時間の船旅。船上から見る石垣島は伊波南哲作詞、大浜津呂作曲「八重山育ち」の歌い出し♪八重の潮路に囲まれて みどりの島々歌の島 鳩間中森はり登り クバの葉陰で ヤレ八重山育ち~♪
その通りの印象だった。
南の潮路を渡ってくれた那覇丸からハシケに乗り移り、石垣港に上陸すると、真夏の太陽と青空に届けとばかり、真っすぐに伸びた竜舌蘭(リュウゼツラン)がボクを迎えてくれた。予約しておいた港近くの木造平屋の「根本旅館」に旅装を解く。
「島に着いたら、まずソバを食せよ」
石垣出身の宮良賢和ディレクターの奨めにしたがい、旅館のおばさんが推薦する(店名は忘却したが)、老舗らしいソバ屋に入った。コシは、ちょっと柔らかめだったが、それでもノド通りのよいソバ。名物の八重山蒲鉾が5切ればかりにソーキブニ(豚のあぶらの骨付き肉)が2つ。ネギに紅ショウガがのった大どんぶりの塩味は、食べ盛りの青年の胃袋を満たすに十分だった。
滞在3日間。
八重山の芸能を通して、八重山を紹介する「八重山紀行」。島びとのインタビューをするうちに、祭りの横笛名人大工善三郎さんに出逢った。ボクが担いで行った携帯用手動録音機・通称デンスケが珍しいらしく、そこいらをウロウロしている色の黒い、目がきらきらした少年がいた。それが、大工善三郎さんの長男哲弘。
こうも長い付き合いになるとは思わなかった。成人して、本格的な歌者の道を歩むようになって哲弘は那覇に単身移り住む。わが家や安いおでん屋で、お互い夢を肴に酒も飲んだ。父善三郎さんも酒豪だった。血は争えず、哲弘の酒の覚えは、歌よりも早く優秀だった。
時は流れて・・・・。スナックでカラオケを歌う。哲弘が選曲したのは千昌夫の「望郷酒場」。
♪オヤジみたいなョ 酒飲みなどにョ ならぬつもりが なっていた~
見れば哲弘の目が濡れている。
「おふくろには何時も、酒飲みになってはダメ!と釘をさされてきた。歌は山里勇吉師に師事したが、酒はヒコさんが師匠。望郷酒場を歌うたびに、早逝した父善三郎を思い出す」のだそうな。
歌謡曲のたった1行の歌詞に涙を重ねる男。ボクは好きだ。
それがきっかけだったかどうか、これまた失念しているが、上原直彦作詞、照屋林賢作曲、大工哲弘唄「望郷哀歌」をCD化したのは1993年のことだ。
♪八重山離れ 星月流れ 恋し恋しの生り島想い 達者でいてか オモトの影で ミンサーほどいた かぬしゃーま
♪しくしく泣いて ションカネ歌い ひとりさまよい トゥバラマ歌い ツンダラサーの囃子もつまる 島うた一筋 島想い
「おふくろの顔を見に実家へ行ってきた。押し入れにしまったのかで、耳はちょいと遠くなっていたが、息災にしていた」。
定番の八重山蒲鉾を土産にわが家を訪ねてくれた大工哲弘。しばし雑談のあと、いつになく膝をただして切り出した。
「先人の三線譜(工工四)は別にして、これまで三線譜がなかったユンタ、ジラバや時代の流行り唄など180節に工工四という息を吹き込んでみた。加えて、初めて八重山歌謡に接する三線愛好者の参考となればと、自ら歌い(CD付き工工四)を出します」。
「それは大仕事だったね。4年前にも工工四は出したよね」
「不思議なもので、4年前はあれで完璧としたが、いま、ページをめくってみると、表記や歌詞に手抜かりがあるのに気づいた。1度気づくと、それが喉に刺さった小魚の骨のようで心地よくない。そこで小骨を抜き取り、さっぱりしたかった」。
これが出版主旨。歌唱力のみならず、文章でも何でも(その道)を歩んでいると、ほんの4,5年前は完璧とした実力も、現時点では稚拙であることに汗顔する。けれども、それを反省し、訂正に踏み切ることには勇気が要る。大工哲弘は68歳にして、それを実行した。
彼の三線の歩みからしてそうだ。
八重山という芸能風土の中、幼少にしてそれを体感して、親しんできたが、1966年、八重山農林高校在学中、郷土芸能クラブを創部。これが大工哲弘の(この道)への本格的1歩となったと言ってよかろう。
以来「山崎ぬ「あぶじゃーま節=RBC45回転レコード」。次いで「とぅばらーま」と題する14節を収録したLPを出し、1981年、第1回「大工哲弘・やいまうた会〝ゆんたしょうら″」公演を皮切りにラジオ、テレビ、DVD、CDを巻き込んで稼働。今日にいたっているが・・・・。
「10年単位で自分の歌を聴いてみると〝何と下手であることか″に気付いて赤面する。にもかかわらず〝愛おしさ″を覚える。余所見せず、ここまで来たということでしょうか」。
その通りと思われる。
今回のCD附き工工四の出版もその通過点だろう。大工哲弘の歌三線の表現行為も記録作業も(これから)(いまこそ)ということになる。
彼より10余年先に生まれ、交誼したおかげで(偉そうなこと)が言える歓び、自惚れと知りつつも快なり。ボクもこの工工四を基に、八重山歌謡の勉強を仕直そう。
彼の実家土産の蒲鉾が、その日はことのほか美味だった。
確かそんなナレーションで始まるラジオ番組「八重山紀行」取材のため、初めて石垣島の土を踏んだ。50年ばかり前の夏だった。
24時間の船旅。船上から見る石垣島は伊波南哲作詞、大浜津呂作曲「八重山育ち」の歌い出し♪八重の潮路に囲まれて みどりの島々歌の島 鳩間中森はり登り クバの葉陰で ヤレ八重山育ち~♪
その通りの印象だった。
南の潮路を渡ってくれた那覇丸からハシケに乗り移り、石垣港に上陸すると、真夏の太陽と青空に届けとばかり、真っすぐに伸びた竜舌蘭(リュウゼツラン)がボクを迎えてくれた。予約しておいた港近くの木造平屋の「根本旅館」に旅装を解く。
「島に着いたら、まずソバを食せよ」
石垣出身の宮良賢和ディレクターの奨めにしたがい、旅館のおばさんが推薦する(店名は忘却したが)、老舗らしいソバ屋に入った。コシは、ちょっと柔らかめだったが、それでもノド通りのよいソバ。名物の八重山蒲鉾が5切ればかりにソーキブニ(豚のあぶらの骨付き肉)が2つ。ネギに紅ショウガがのった大どんぶりの塩味は、食べ盛りの青年の胃袋を満たすに十分だった。
滞在3日間。
八重山の芸能を通して、八重山を紹介する「八重山紀行」。島びとのインタビューをするうちに、祭りの横笛名人大工善三郎さんに出逢った。ボクが担いで行った携帯用手動録音機・通称デンスケが珍しいらしく、そこいらをウロウロしている色の黒い、目がきらきらした少年がいた。それが、大工善三郎さんの長男哲弘。
こうも長い付き合いになるとは思わなかった。成人して、本格的な歌者の道を歩むようになって哲弘は那覇に単身移り住む。わが家や安いおでん屋で、お互い夢を肴に酒も飲んだ。父善三郎さんも酒豪だった。血は争えず、哲弘の酒の覚えは、歌よりも早く優秀だった。
時は流れて・・・・。スナックでカラオケを歌う。哲弘が選曲したのは千昌夫の「望郷酒場」。
♪オヤジみたいなョ 酒飲みなどにョ ならぬつもりが なっていた~
見れば哲弘の目が濡れている。
「おふくろには何時も、酒飲みになってはダメ!と釘をさされてきた。歌は山里勇吉師に師事したが、酒はヒコさんが師匠。望郷酒場を歌うたびに、早逝した父善三郎を思い出す」のだそうな。
歌謡曲のたった1行の歌詞に涙を重ねる男。ボクは好きだ。
それがきっかけだったかどうか、これまた失念しているが、上原直彦作詞、照屋林賢作曲、大工哲弘唄「望郷哀歌」をCD化したのは1993年のことだ。
♪八重山離れ 星月流れ 恋し恋しの生り島想い 達者でいてか オモトの影で ミンサーほどいた かぬしゃーま
♪しくしく泣いて ションカネ歌い ひとりさまよい トゥバラマ歌い ツンダラサーの囃子もつまる 島うた一筋 島想い
「おふくろの顔を見に実家へ行ってきた。押し入れにしまったのかで、耳はちょいと遠くなっていたが、息災にしていた」。
定番の八重山蒲鉾を土産にわが家を訪ねてくれた大工哲弘。しばし雑談のあと、いつになく膝をただして切り出した。
「先人の三線譜(工工四)は別にして、これまで三線譜がなかったユンタ、ジラバや時代の流行り唄など180節に工工四という息を吹き込んでみた。加えて、初めて八重山歌謡に接する三線愛好者の参考となればと、自ら歌い(CD付き工工四)を出します」。
「それは大仕事だったね。4年前にも工工四は出したよね」
「不思議なもので、4年前はあれで完璧としたが、いま、ページをめくってみると、表記や歌詞に手抜かりがあるのに気づいた。1度気づくと、それが喉に刺さった小魚の骨のようで心地よくない。そこで小骨を抜き取り、さっぱりしたかった」。
これが出版主旨。歌唱力のみならず、文章でも何でも(その道)を歩んでいると、ほんの4,5年前は完璧とした実力も、現時点では稚拙であることに汗顔する。けれども、それを反省し、訂正に踏み切ることには勇気が要る。大工哲弘は68歳にして、それを実行した。
彼の三線の歩みからしてそうだ。
八重山という芸能風土の中、幼少にしてそれを体感して、親しんできたが、1966年、八重山農林高校在学中、郷土芸能クラブを創部。これが大工哲弘の(この道)への本格的1歩となったと言ってよかろう。
以来「山崎ぬ「あぶじゃーま節=RBC45回転レコード」。次いで「とぅばらーま」と題する14節を収録したLPを出し、1981年、第1回「大工哲弘・やいまうた会〝ゆんたしょうら″」公演を皮切りにラジオ、テレビ、DVD、CDを巻き込んで稼働。今日にいたっているが・・・・。
「10年単位で自分の歌を聴いてみると〝何と下手であることか″に気付いて赤面する。にもかかわらず〝愛おしさ″を覚える。余所見せず、ここまで来たということでしょうか」。
その通りと思われる。
今回のCD附き工工四の出版もその通過点だろう。大工哲弘の歌三線の表現行為も記録作業も(これから)(いまこそ)ということになる。
彼より10余年先に生まれ、交誼したおかげで(偉そうなこと)が言える歓び、自惚れと知りつつも快なり。ボクもこの工工四を基に、八重山歌謡の勉強を仕直そう。
彼の実家土産の蒲鉾が、その日はことのほか美味だった。