旬刊・上原直彦 「浮世真ん中」の内『おきなわ日々記』」アーカイブ版

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八重山の歌・大工ぶし

2016-09-20 00:10:00 | ノンジャンル
 「八重山へ行ってきました。八重山の人たちは、今日という日を生きていました」。
 確かそんなナレーションで始まるラジオ番組「八重山紀行」取材のため、初めて石垣島の土を踏んだ。50年ばかり前の夏だった。
 24時間の船旅。船上から見る石垣島は伊波南哲作詞、大浜津呂作曲「八重山育ち」の歌い出し♪八重の潮路に囲まれて みどりの島々歌の島 鳩間中森はり登り クバの葉陰で ヤレ八重山育ち~♪
その通りの印象だった。
 南の潮路を渡ってくれた那覇丸からハシケに乗り移り、石垣港に上陸すると、真夏の太陽と青空に届けとばかり、真っすぐに伸びた竜舌蘭(リュウゼツラン)がボクを迎えてくれた。予約しておいた港近くの木造平屋の「根本旅館」に旅装を解く。
 「島に着いたら、まずソバを食せよ」
 石垣出身の宮良賢和ディレクターの奨めにしたがい、旅館のおばさんが推薦する(店名は忘却したが)、老舗らしいソバ屋に入った。コシは、ちょっと柔らかめだったが、それでもノド通りのよいソバ。名物の八重山蒲鉾が5切ればかりにソーキブニ(豚のあぶらの骨付き肉)が2つ。ネギに紅ショウガがのった大どんぶりの塩味は、食べ盛りの青年の胃袋を満たすに十分だった。
 滞在3日間。
 八重山の芸能を通して、八重山を紹介する「八重山紀行」。島びとのインタビューをするうちに、祭りの横笛名人大工善三郎さんに出逢った。ボクが担いで行った携帯用手動録音機・通称デンスケが珍しいらしく、そこいらをウロウロしている色の黒い、目がきらきらした少年がいた。それが、大工善三郎さんの長男哲弘。

 こうも長い付き合いになるとは思わなかった。成人して、本格的な歌者の道を歩むようになって哲弘は那覇に単身移り住む。わが家や安いおでん屋で、お互い夢を肴に酒も飲んだ。父善三郎さんも酒豪だった。血は争えず、哲弘の酒の覚えは、歌よりも早く優秀だった。
 時は流れて・・・・。スナックでカラオケを歌う。哲弘が選曲したのは千昌夫の「望郷酒場」。
 ♪オヤジみたいなョ 酒飲みなどにョ ならぬつもりが なっていた~
 見れば哲弘の目が濡れている。
 「おふくろには何時も、酒飲みになってはダメ!と釘をさされてきた。歌は山里勇吉師に師事したが、酒はヒコさんが師匠。望郷酒場を歌うたびに、早逝した父善三郎を思い出す」のだそうな。
 歌謡曲のたった1行の歌詞に涙を重ねる男。ボクは好きだ。
 それがきっかけだったかどうか、これまた失念しているが、上原直彦作詞、照屋林賢作曲、大工哲弘唄「望郷哀歌」をCD化したのは1993年のことだ。

 ♪八重山離れ 星月流れ 恋し恋しの生り島想い 達者でいてか オモトの影で ミンサーほどいた かぬしゃーま
 ♪しくしく泣いて ションカネ歌い ひとりさまよい トゥバラマ歌い ツンダラサーの囃子もつまる 島うた一筋 島想い

 「おふくろの顔を見に実家へ行ってきた。押し入れにしまったのかで、耳はちょいと遠くなっていたが、息災にしていた」。
 定番の八重山蒲鉾を土産にわが家を訪ねてくれた大工哲弘。しばし雑談のあと、いつになく膝をただして切り出した。
 「先人の三線譜(工工四)は別にして、これまで三線譜がなかったユンタ、ジラバや時代の流行り唄など180節に工工四という息を吹き込んでみた。加えて、初めて八重山歌謡に接する三線愛好者の参考となればと、自ら歌い(CD付き工工四)を出します」。
 「それは大仕事だったね。4年前にも工工四は出したよね」
 「不思議なもので、4年前はあれで完璧としたが、いま、ページをめくってみると、表記や歌詞に手抜かりがあるのに気づいた。1度気づくと、それが喉に刺さった小魚の骨のようで心地よくない。そこで小骨を抜き取り、さっぱりしたかった」。
 これが出版主旨。歌唱力のみならず、文章でも何でも(その道)を歩んでいると、ほんの4,5年前は完璧とした実力も、現時点では稚拙であることに汗顔する。けれども、それを反省し、訂正に踏み切ることには勇気が要る。大工哲弘は68歳にして、それを実行した。
 彼の三線の歩みからしてそうだ。
 八重山という芸能風土の中、幼少にしてそれを体感して、親しんできたが、1966年、八重山農林高校在学中、郷土芸能クラブを創部。これが大工哲弘の(この道)への本格的1歩となったと言ってよかろう。
 以来「山崎ぬ「あぶじゃーま節=RBC45回転レコード」。次いで「とぅばらーま」と題する14節を収録したLPを出し、1981年、第1回「大工哲弘・やいまうた会〝ゆんたしょうら″」公演を皮切りにラジオ、テレビ、DVD、CDを巻き込んで稼働。今日にいたっているが・・・・。
 「10年単位で自分の歌を聴いてみると〝何と下手であることか″に気付いて赤面する。にもかかわらず〝愛おしさ″を覚える。余所見せず、ここまで来たということでしょうか」。
 その通りと思われる。
 今回のCD附き工工四の出版もその通過点だろう。大工哲弘の歌三線の表現行為も記録作業も(これから)(いまこそ)ということになる。
 彼より10余年先に生まれ、交誼したおかげで(偉そうなこと)が言える歓び、自惚れと知りつつも快なり。ボクもこの工工四を基に、八重山歌謡の勉強を仕直そう。
 彼の実家土産の蒲鉾が、その日はことのほか美味だった。


老いのあとさき

2016-09-10 00:10:00 | ノンジャンル
 「人の一生は、重荷を背負って、遠き道を行くが如し」
 「その道は平坦なのか。坂道なのか。オレの70余年は登り坂だけで、下り坂がない。いやいや、楽をしたのではないよ。何かに追われるように、上へ上へ逃げているようなものだ。上以外逃げ場がない」
 「いつも息切れ気味の人生か。上まで行ったら、さらに逃げ場はない。あとは下り坂を行くだけだが・・・・」
 「足腰が下りについて行けるかどうか・・・・。10年前までは気にもしなかったが、近頃は朝目覚めると、ああ、今日も生きていたなぞと、溜息ともつかない息を吐くことがある」
 「沖縄の老いの諺に〝50から年々弱る。60からは月々弱る。70からは日々弱る″というのがあるが、いや、実感だね」
 語り合う両人に暗さはない。ただ淡々と来し方行きし方を世間ばなしにしているようだ。
 〝老いぬれば頭は禿げて目はくぼみ 腰は曲がりて 足はひょろひょろ″の狂歌を楽しんでいるようにも見てとれる。

 高齢化社会。
 街に出てみても、老人介護・リハビリルーム等々の文字がやたらに目につく。それだけならまだしも、表通り裏通り杖をついている人、老人用に売り出されたという小型カートを引いた人が多いこと。筆者もそのひとりだが・・・・。

 日本人の寿命は過去最高になったそうな。
 2015年の日本人の平均寿命は女性87.05歳、男性80.79歳で、いずれも過去最高を更新したことが、2016年7月27日、厚生労働省が公表した簡易生命表で分かった。女性は2014年まで3年連続で長寿世界1位だったが、2015年は香港(87.32歳)に次ぎ世界2位となった。男性は前年の3位から4位に下がった。
 2014年に比べ女性は0.22歳、男性は0.29歳延びた。男女差は前年より0.07歳縮まり6.26歳だった。
 厚生労働省は「治療や薬の進歩で主要な死因である癌などの死亡状況が改善され、病気になっても、長生きできる人が増えた。今後も男女の需要が延びることが期待される」としている。
 女性は1984年に80歳、2002年に85歳を突破。1985年から2010年まで26年連続で世界1位、しかし、2011年の東日本大震災の影響で香港に次ぐ2位になったが、2012年からは1位が続いていた。
 主な国・地域の平均寿命をみると、女性3位以下はスペイン(85.58歳)、韓国(85.5歳)、スイス(85.2歳)の順。男性のトップが香港(81.24歳)で、アイスランド、スイス(いずれも81.0歳)が続き、日本が4位だった。

 「オリンピックも日本は金銀銅のメダルラッシュだったが、治療や薬の進歩で死亡状況が改善されての平均寿命世界4位というのは、妙な気持だね。薬漬けの〝延命″のようで・・・・」
 「それは考え過ぎだよ。医学は延命を追及しているのだから。薬漬けの寿命なぞと人前で本気でいうと〝老人のひがみ″と言われるのがオチ。下手すると〝いやな老人″に分類されるよ。老いは病気ではないのだから、生きてやれ!生きてみようぜ。金メダルを獲ってやろうよ」。

 高齢化社会と人口は無関係ではない。2015年の国勢調査のデータをみてみよう。
 2015年10月1日時点の外国人を含む沖縄県の総人口は143万4138人。前回10年前の調査から4万1320人増え、人口増加率は全国で最も高い3.0%だった。増加率で沖縄県が全国トップになるのは初めて。ただ沖縄県も1980年以降、増加率は鈍化しているそうな。
 現在、世帯数55万9744世帯。1世帯当たりの人員は2.56人。
 県内市町村別では、41市町村中24市町村で人口が増加し、17市町村が減少。中南部に集中し、離島は減少傾向にある。人口増加が最も高かったのは与那原町で12.9%。マリンタウン地区の開発が要因。次いで自衛隊の配備に伴う関連工事のため、八重山の与那原町が11.2%。南上原の発展が著しい中城村が10.0%。久米島町8.9%。南大東村が7.8%と続き、離島町村が並んだ。

 「15歳以上25歳までの人口より65歳以上の人口が上だそうだね。オレたちにとっては、このデータの方が気になるね。オレの親父も93歳まで生きたが、8年間は寝たきり。介護が大変でね。長生きの現実はかなしい」
 「親の長寿を祝うトーカチ(斗搔き祝・米寿)があちこちであった。ある御仁は〝親孝行というよりも、やらないと世間体が悪いから・・・・。第一、本には、痴呆症でなにも理解できないでいる。本音とも照れ隠しともとれることを言っていた」
 「うーん・・・・。それは、それぞれの考え方だ。が・・・・ちょいと切ないね」。
 今年の「敬老の日」は、9月19日である。



貫禄・歌者・徳原清文の世界

2016-09-01 00:10:00 | ノンジャンル
 エイサーの歌三線、太鼓の音が遠退くころ、天は心持ち高くなり、吹く風にも一瞬〝涼″を感じるのが例年の夏だが、今年はどうもそうはいかず、熱中症なる言葉が日常会話についてまわっている。
 「ご機嫌伺いにきました」
 歌者徳原清文夫婦が、マンゴーゼリーセットを携えてやってきた。どうやら、重要要件があるらしい。アイスコーヒーを飲みながらしばし歓談する。

 徳原清文との出逢いは何時だっただろうか。
 彼が名人・故登川誠仁師の三線箱持ちをやっていたころから、その逸材ぶりは、周囲の注目を集めていたが、本格的な付き合いは琉球放送恒例の生放送「RBCラジオ祭り」からだから、40年近くになる。
 いまもってツルんでいる歌者松田弘一ともども、ラジオカーをフル稼働させて、沖縄本島北端・国頭村辺戸岬から南端糸満市喜屋武岬まで、その間村々里々に歌い継がれた‟島うた″を2日間にわたって、発祥地から中継するという歌道中。
 恩納村のリゾートホテルに1泊、さらに南下して喜屋武岬をまわって最後は話の三重城で「花風」を謡い、番組を締めた。
 「お疲れさん」の一杯は、場所をコザの歓楽街中の街に移してサロン「街の灯」でグラスを重ねた。面々は徳原清文、松田弘一、私の三人。疲労か達成感かで細い目をさらに細くした徳原清文、いきなり立ち上がって言った。
 「上原サン!〝サン付け”では他人行事だから、これからは〝兄貴”と呼んでいいですか!」
 当時の中の町は、その筋の方々が闊歩していて、大きな声の〝兄貴!″は、ちょっと憚りがある。しかも清文、弘一両人とも、流行りのパンチパーマときている。他の客の耳にも〝兄貴″が届いたらしく、一斉に私を見る。
 「兄貴でも何でもいい!場所柄を考えてくれっ!」
 狼狽この上もなかった。


 その〝兄貴″もいまでは、兄貴を称する方言〝ヤッチー″に昇格している。
 マンゴーゼリーの要件はとはこうだ。
 「ヤッチー。10月8日、沖縄市民会館で『徳原清文の世界・饒辺やからうた会』を催します。この道50年になりました。パンフレットに1文を寄せてほしい」。
 快諾した。次のような拙文を寄せることになる。
 「50年ゆう歌三線。ニリらに清文」
 50年も歌三線三昧。飽きないかね清文と訊いた。
 「ニリらにんち御汝ぉ、我ぁ業ぁウリどぅやいびるむんぬ。ニリれー如何ぁさびーが!」
 飽きるなんてアナタ。僕の生業歌三線。飽きたらどうしますか!ときた。
 愚にもつかないことを訊いたものだと、我ながらあきれた。なにしろ相手は不動の歌者である。

 いまも残す童顔の清文は30代に入って髭を蓄えはじめた。
 「何うぬ思いーぬあてぃぬフィジが?=何の思い入れがあっての髭かね?」
 返事はこうだ。
 「生まれつき目が細くて童顔の印象を持たれる。このことは20代になっても、ワラビジラー(わらべ顔)は解消できず、人知れずハンディキャップを感じていた。いつまでもそれでは(饒辺男)として、いかにも癪!そこで、見た目だけでも貫禄をつけようと決心して髭を伸ばした。長く生やしていると、僕の顔になくてはならない部位になった。それがいまでは(清文マーク)になっていて、松田弘一、波田間武男、松田末吉と組んだユニット(ザ・フェーレー)のキャラクターにまで昇格している。それよりなにより、のっぺりした顔より、髭のあるあなたが好き!と、刀自(トゥジ・女房)の照子が言う。まさに髭効果ですよ」。
 細い目をさらに細め、胸を張って貫禄を示す。

 貫禄とは何か。辞典にはこうある。
 貫禄=身に備わっている威厳。堂々とした風格。
 はじめは、童顔追い出し目的で髭に頼った意識的貫禄付けも、歌者50年の実績が裏付けになって、辞典通りの(貫禄)が備わっているのは、異存のないところである。
 もちろん人は、ミーファ(見た目、容貌、服飾)だけでは貫禄はつかない。その人のその道における研鑽、行動、実績が評価されたとき、おのずとして身につき、人さまにリスペクトされる。そのことによって付くのが貫禄。世間が付けてくれるのが貫禄。

 徳原清文。
 先達を敬い、先輩後輩と親睦し、弟子を根気よく育成して世に送り出し、何よりも妻子を愛し、さらに歩む歌の道。実に身についた「堂々たる風格」である。彼はいまの心境をこう詠んでいる。

 ❝五十年歌てぃ 繋じちゃる節や 共に我が島ぬ 宝さびら❞

 歌意=歌い続けて50年。先人から今に繋いできた島うたの節々。沖縄人共有の宝にしましょう。
 昭和24年(1949)8月10日。与那城村(現うるま市)饒辺生れ。貫禄67歳である。